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 第十七章 校長室の攻防

 翌日は火曜日だ。すずめの鳴き声で目が覚めた。下半身がやけに気持ちいい。気がつくと先生がおれの上で腰をふっていた。

「先生。なにをやってるわけ?」

「わたし伊沢くんが大好きなんです」

 おれはあいかわらず先生が理解できなかった。

「はあ? それとこれとどういう関係が?」

「大好きな男の子がとなりで直立してたらですね。わたしの女としての情動がこうすべきだと主張いたしました。そこでこんな羽目になってるわけでございますよ。あしからず」

「でも早くしないと遅刻するよ?」

「そうですね。早く終わってください」

「じゃそろそろ終わりにするよ。いい?」

 先生が首を横にふった。

「やん! 遅刻したいですぅ。いま同点で九回裏のツーアウト満塁ですよ。ヒットを打たないでください。空ぶり三振してください」

「なんだいそりゃ?」

「延長戦にはいれます。延長戦は十二回までです。サヨナラはゆるしません。わたしタイガースびいきです」

「おいおい先生。延長戦を十二回までやってたらまた昼になるぞ? そりゃだめだよ。おれヒットを打って終わらせる」

「いやーん! サヨナラ禁止ぃ! サヨナラ負けはいやですぅ! これから十回十一回十二回と手に汗をにぎる攻防がつづくんですよぉ! ハラハラドキドキですぅ! 一点はいればその回で終わるかもしれないんですよぉ! 緊張につぐ緊張ですぅ! きっと気持ちいいですよぉ!」

「だーめ。学校に行かなくちゃ。うおおっ! 四番マサト打ちました! みごとな三遊間の流し打ち! 劇的です! 感動的な幕切れ! 首位ジャイアンツここでもサヨナラ勝ちをおさめました! 宿敵タイガースは二位転落! 首位とのゲーム差は一です!」

「嘘でーす! ただ早いだけじゃないですかぁ! 伊沢ソーローまさとぉ!」

「なんだとぉ! 可愛いピチピチ真鯛みさえ!」

「えへへ。『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』からずいぶんな昇格ですね。好きですよ伊沢くん」

 先生がおれの鼻の頭を指ではじいた。

 先生が余韻を楽しみつつ服を着た。ルンルンでおれのネクタイをととえた。

 階下におりるとおふくろがおれたちふたりにバターを塗った食パンをさしだした。

「ほらほら。トーストを持ってさっさと学校にお行き。ゲーム差が一ならまだひっくり返せるよ。最終決戦は九月さね」

 先生がおふくろからパンを受け取った。

「あら? またのぞいてらしたんですか?」

「のぞいてないさ。あんな大声をだしゃ聞こうと思わなくても耳にはいるよ。朝からなにをやってんだろうね。このふたりは」

「いえ。セントラルリーグの首位攻防戦ですよ。エッチなことをしてたわけではありません。野球の話に熱がこもっただけです」

「よく言うねえこの子は。こらマサト。延長戦にはいったら客がおこるよ」

 おれは頭を回転させた。

「最終電車に乗り遅れるから?」

 おふくろがニヤッと笑った。

「いいや。食卓が片づかない」

「あんたがおこる客かい! やっぱりのぞいてたんじゃないかぁ! 観客になるのはいいかげんにやめろよおふくろ!」

「だってさ。そのままほっといたら遅刻するじゃないか。延長戦に持ちこんだら戸をあけるつもりだったんだよ。そもそも朝からデーゲームを開催してるんじゃないわさ。まったくもぉ。あさってから夏休みなんだからね。デーゲームは夏休みにはいってからにしな」

 先生が靴をはきながらニコッと笑った。

「ダブルヘッダーですね。お義母さま話せます」

「嘘をお言い。あんたたちダブルじゃないだろ。いつもトリプルヘッダーのくせしてさ」

「数えてらしたんですか?」

「あんたらに誰がお茶を運んでるんだい? 合間を見はかってあげてるんだけどね? ミサエが家事を手伝わないならまっ最中に戸をあけるよ?」

「やーん。それは困りますぅ。わたしマサトくんの上が好きなんですぅ。まっ最中にあけられたらマジヤバいですぅ」

「ミサエ。高校生言葉がうつってるよ」

 先生がトロトロの笑顔をキリッと引きしめた。そろそろ出勤モードらしい。

「しかたがありません。わたし高校教師ですから」

「二十六歳だものね。ま。気をつけて行っといで。なにが起きても気を落とすんじゃないよ」

 おれは先生と手をつないで登校した。最初はお互いに知らん顔をしようと話し合った。だがむだだと判明した。おれが結婚式場から先生をうばった事件は全国ニュースで流された。高校生が花嫁をうばうだけなら全国ニュースにはならなかったはずだ。若頭の越前が悪い。あいつが拳銃をふりまわしたせいで某放送局までが放映した。

『本日午後二時すぎ某県のホテルで暴力団による発砲事件が発生しました。わが放送局の調べによりますと高校生の三人組が花嫁を強奪した件に関連しているようです』

 実際のところ越前は発砲してない。発砲したのは最初に銃を取り出そうとした幹部だ。警察がきたとき天井に向けて威嚇射撃をしたそうだ。撃たなければたいした罪にならないだろうにバカなやつだ。

 某放送局は暴力団の発砲事件という看板をかかげながらメインを花嫁の脱出劇に置いた。幹部の発砲シーンは放送されなかった。おれたちと黒服が闘う場面とおれが先生をお姫さまだっこしたシーンを流しやがった。おれにキスをする先生の顔をアップでだ。ホテルの監視カメラの映像を買い取ったらしく上からの視点だった。その他の放送局はおれたちが教会に乗りこむ前からの一部始終だ。某放送局はおれの顔にモザイクをかけていた。だが民放は黒の一本線だった。おかげで知っている人が見れば誰が見てもおれだ。おれのスマホは同級生からのメールが殺到してパンクした。

 第一報のときおれは先生とエッチ中だったので見なかった。見たのは月曜の午後十一時だ。風呂をあがって先生とあしたどうするかを話し合っていたときだった。インターネットで話題になっていたのは知っていた。だがテレビで放送するとは思わなかった。そんな大事件だと考えなかったせいだ。ヤクザをたたきのめしたが連中はめんつがあるからケガをしたとて表沙汰にしないだろう。そう思っていた。まさかおれたちが先生を取り返しているあいだに発砲したバカがいたとは思わなかった。

 学校に着くと誰もがおれと先生をジロジロと見た。声をかけてくる者はいなかった。しかしみんなが事件を知っているのはまちがいなかった。

 ふだんどおりだったのはハルアキとスズネだ。先生と連れ立つおれをハルアキがわきに引いた。

「おいマサト。先生の写真を撮ったか?」

 おれはうなずいた。

「おおともさ」

 スズネがおれたちに割りこんだ。

「ふふふ。あたしたち今度は動画よ。マサトそれ見せてあげるからヌいてね。そこの年増より若いあたしがいいに決まってるわ。さっさとその女を捨ててあたしにもどりなさいよ。いつでも大歓迎だからね」

 聞き耳を立てていた先生がムカッとひたいに血管を浮かせた。

「伊沢くんはわたしのです! スズネさんにはあげません! 見てください! わたしたち婚約したんですよ!」

 先生が左手をスズネに突きだした。

「まあ! なによそれ! 婚約指輪? いいわ別に。結婚はまだ先だもんねえ。マサトが十八歳になるまでになにがあるかわからないもの。ひひひひひ。ねえマサト。あたしの熱演を見て考え直してね」

 スズネがおれにDVDをくれた。先生がスズネに歯をむきだした。

「わたしたちのほうが熱烈です。スズネさんになんか負けません。わたしたちのも録画して見せてあげます。自分がいかにお尻の青い小娘か実感なさい。わたし負けませんからね」

「あたしだって負けないわ。あんたあんまり張り切ると腰を痛めるわよ。年寄りだものね。くふふふふ」

 おれは先生とスズネのあいだに割ってはいった。先生はスズネにお礼を言うと言っていた。でもまるでその雰囲気ではなかった。先生とスズネはよほど相性が悪いらしい。

「おいおい。ふたりともやめろよ。そんなので勝ち負けを争ってどうすんだ? 決着がつくわけがないぞ?」

 そのおれをハルアキが横に引きずった。

「止めるなよマサト」

「なんで?」

「あのさ。おまえと先生を話題にするだろ? するとスズネががんばってくれるわけよ。おれそれうれしいの。何度も求めてくれるんだぜ? エロいポーズもしてくれるしさ。動画まで撮らせてくれるんだ。スズネが先生にライバル心を燃やしてくれるとおれが幸せなの」

「なるほど。じゃしばらくようすを見ようか?」

「そうしてくれよ。おれもうスズネにメロメロなんだ。スズネが先生に嫉妬するとおれに泣きついてくれてさ。そのまま持ちこめるわけよ。おれが愛してるって言ってもなかなか準備オーケーにならねえのにな」

「そういやスズネのぐあいはどうだった?」

 ハルアキの顔が曇った。

「それ訊かねえでくれる」

「どうして?」

「おれ無我夢中でさ。気持ちよかったとしかわかんねえ。あんなの説明できねえよ」

「おまえもか。おれもだよ」

「だろ? おれ親父を見直したよ。おれがエロ小説を書けば五文字で終わっちまう。『最高だった』で終了だ。よくあんな行為を三百ページも書くよな。尊敬しちゃったよおれ。いままでただのエロおやじだと思ってた。だけどそうでもなかったみてえ」

 おれは肩をすくめた。

「たしかにそうだな。まあがんばれよハルアキ」

「もちろんだ! おまえもなマサト!」

「ああ」

 ハルアキとスズネはバスケ部の先輩と後輩につかまった。日曜の事件の顛末が聞きたい。みんなそんな顔ばかりだった。

 おれは先生の手を引いて階段をのぼった。職員室の前で先生とわかれた。

 おれは苗塚のあだ名を変えてやろうとたくらんでいた。『男が萎えるソプラノ苗塚』を『男を立てるオルガン奏者苗塚』へとだ。だがその必要はなかった。すでに苗塚の株はストップ高だった。

 あの結婚式で花嫁がわの参列者は紘州パパひとりだ。しかし花婿がわは大人数だった。花婿に反感を抱いている者がかなりいたらしい。その全員が録画のタスキをつないで乱闘の一部始終を投稿していた。カメラのアングルがいろいろだからひとりやふたりではなかった。ホテルがわの撮影者も最初から最後まで録画をつづけた。苗塚はその映像すべてに適切な音楽を提供した。全部をつなげるとまさに連続大活劇を見ている臨場感だった。

 おれと先生が見たときそれぞれの動画が百万回を越えて再生されていた。苗塚がオルガンを一心不乱に弾く横顔も映っていた。男を萎えさせるいつもの苗塚と貌がちがった。一流の音楽家の顔だった。横顔でサングラスをしていたためかキツネ顔が気にならなかった。ソプラノで歌わずピアノだけを弾いてりゃかっこいい。それがおれたち県立高校生全員の共通した感想だった。おれが音楽室に行くと苗塚は生徒たちに取りかこまれて事件の解説を求められていた。

 午前の授業が終わるまでは平穏だった。とうぜんと言うべきか。昼休みにおれたちは校長室に呼びだされた。おれ。先生。スズネ。ハルアキ。苗塚。その五人だ。

 おれと先生と苗塚は校長室にはいった。スズネとハルアキは部室に行っていて遅れるみたいだった。

 陸丸校長と蘭野教頭が苦い顔でおれたちをむかえた。校長がさっそく口を切った。

「困ったことをしてくれましたね伊沢くん雲財寺先生」

 陸丸校長の手には写真がにぎられていた。先生をお姫さまだっこしてキスをかわすおれと先生の写真だった。おれと先生は『はあ』とうなだれて頭をさげた。次に先生がおれをかばうために一歩前にでた。

「申しわけありません校長先生。すべてわたしの責任です」

 教頭の蘭野がわめいた。

「伊沢は退学だ! 雲財寺くんは辞職しろ! そうですな校長?」

 蘭野が意地のわるい目で先生をねめつけた。自分のものにならないなら追い出そう。そんな恨みのこもったまなざしだった。おれはくちびるをかんだ。蘭野が先生に迫ったあのとき録画さえしておけば追い出されるのは蘭野だったのにとだ。

 おれと先生は返す言葉がなかった。音楽教師の苗塚もくやしそうに奥歯をかんだ。

 校長がふふふと笑った。

「全国放送された事実ですからね。くつがえしようがないでしょう」

 おれは前に立つ先生を押しのけた。

「校長! それまちがってるぜ! おれが先生のくちびるを無理やりうばったんだ! おれが退学になるのはもっともだよ! でも先生に罪はない! 先生が学校を辞める必要はないはずだ! 男のおれが女の先生に力づくでキスをしたんだからな! 先生は抵抗できなかったんだ! 女だからな!」

 校長が先生を見た。ふうむと考えこむ顔だった。校長の陸丸大地子は女尊男卑主義者だ。男と女が事件を起こせば男が絶対に悪いと断罪する。おれはそこにつけこもうと思ったわけだ。

 先生がおれをかばおうと動きかけた。だがおれは先生を前に出さなかった。おれの退学はまず確定だ。先生がおれをかばえば先生も辞職に追いこまれる。ふたりそろって追い出されるよりおれひとりがいい。先生がどれだけおれをかばっても決定的証拠は校長の手にある。くつがえるはずがない。

 おれはおふくろの言葉を思い出した。出がけにおふくろはこう言った。『なにが起きても気を落とすんじゃないよ』と。こういう事態を予測していたのだろう。

 校長が思案のすえに口をひらいた。

「ふむ。そうかもしれません。伊沢くんあなたが無理やり雲財寺先生の口を吸ったのですね?」

「ああ。そうさ。動転してる先生の口をおれがうばったんだ。先生に罪はない」

 先生が口をはさもうとした。おれは先生の靴を踏みつけた。黙ってろと。先生が痛いという顔でおれをにらんだ。おれはもっと怖い顔でにらみ返した。逆らえば別れると。先生が口をギュッと引き結んだ。哀しそうな顔だった。おれの胸も重く沈んだ。だが先生に口をはさませるわけにはいかなかった。おれは男だ。先生を養う甲斐性がない以上せめて先生を守りたい。

 校長が考えこんだ。どうすべきかと悩む顔だった。

 そこに勢いよく戸がひらいた。おれはハルアキとスズネだと思った。だがちがった。はいってきたのは派手な服装の若い女だった。手にマイクをにぎっていた。女の背後にはテレビカメラを肩に背負った男だ。

「こんちゃー! 『毎朝読みましょう新聞』の吉枕蕗子よしまくらふきこでーす! 本日は系列局『毎朝読みましょうテレビ』の取材でやってまいりましたぁ!」

 はあ? とおれたち全員がその闖入者を見た。

 校長が吉枕を怒鳴りつけた。

「なんですかあなたは! 花嫁強奪事件の取材はいっさいお断りしたはずです! 帰りなさい! 図々しい!」

 吉枕が口をとがらせた。

「なに言ってんスか。先週予約したイギリスの科学雑誌の件ですよ。教頭センセが許可をくれたじゃないスか。雲財寺先生の『時間とはなにか』を証明した論文の掲載が本決まりになった件ス。雲財寺先生。おめでとうございます。あの論文に穴がなければ今年度のノーベル物理学賞は雲財寺先生で決まりですね」

 校長の陸丸大地子がけげんな顔をした。

「ノーベル物理学賞?」

「そうっスよ。『時間』がなにかを証明したんスからとうぜんっしょ? 雲財寺先生は数学の最高賞を取った数学者として有名っス。でも物理学の博士号も持ってるんスよ。知らなかったんスか? お父さんの紘州教授も高名な物理学者っスからね。お母さんのアリスさんはかつて優秀な生物学者だったんスよ。アルコール依存症のせいで隠棲したそうスけどね。んなわけで雲財寺先生。ノーベル物理学賞受賞まちがいなしの感想をどうぞ」

 吉枕が先生にマイクを向けた。カメラマンが先生にアップで迫った。

「えっ。感想ですか? いえ。あれはひまつぶしに解いただけです。誰の役にも立たない机上の空論ですよ? 『時間』がなにかわかっても利用はできません。実用的ではないですよ? 人類の役に立つとは思えません。ですからノーベル賞はもらえないでしょう」

「そんなことはないっスよ。純粋理論でノーベル賞をもらった学者はいっぱいいます。素粒子論なんてあたしたちの生活にはまったく関係ないっス。ノーベル物理学賞は実生活に関係しない対象が受賞するのが普通じゃないっスか? まあいいっス。質問を変えますね。雲財寺先生は先ごろ結婚をされたんですか?」

 先生が笑顔で大きくうなずいた。

「ええ。日曜日に結婚しました」

 吉枕が一瞬だけけげんな翳を顔に横切らせた。しかしほんの一瞬だった。吉枕はすぐ元のにこやかな表情で先生に質問をつづけた。その部分からテレビで放送されるのだろう。吉枕の口調が堅苦しくなった。

「それはおめでとうございます。ではいま新婚ホヤホヤですね? 新婚生活は楽しいですか?」

「はい。もちろんです」

 先生は満面の笑顔をカメラに見せた。結婚式場に乱入したおれを見た瞬間の顔だった。先生がおれ以外にその顔を向けるのははじめてにちがいない。

 おれは首をかしげながらこの問答を聞いた。先生の結婚はおれが阻止したはずではなかったか? そんな疑問だった。紘州パパも先生の結婚は破談にしたと言っていた。なのになぜ?

 吉枕がおれの肩に手を乗せた。

「ああ。伊沢くん。きみ先生の教え子なんだよね。ノーベル賞受賞者とその教え子っていうツーショットを撮りたいから先生の横に立ってくれる?」

 吉枕がおれを先生の横に立たせた。カメラマンにおれと先生を撮らせながら質問をくりだした。

「ねえ雲財寺先生。こちらの伊沢マサトくんと先生のご関係は?」

 先生が頬を桜色に染めておれに抱きついた。

「わたしの可愛い旦那さまです!」

 うわあっ! とおれは声をあげた。だいなしだあ! とだ。さっきの先生の受け答えはそういう意味だったのか。そうおれは悟った。でももうおそい。

 校長と蘭野が顔を見合わせた。蘭野が先生を指さした。

「やっぱり伊沢と関係しとったんじゃないか! 雲財寺くんきみには辞めてもらうしかないぞ! 『淫らな異性交遊は理由の如何にかかわらず退学に処す』と校則にうたってあるんだ! 伊沢は退学で雲財寺くんは解雇だな! そうですよね校長!」

 校長が返事をする前に先生のひたいに青すじが浮いた。

「ええ! けっこうです! こんな学校もういたくありません! わたしの可愛い伊沢くんと肉体関係を持ってなにが悪いと言うのです! そうですよ! わたしと伊沢くんはこういう関係です!」

 先生がおれを正面から抱いた。おれの口に口をつけた。先生の舌がおれの舌を求めた。おれは口の中でモガモガとしゃべった。『先生ここは学校だよ。しかもテレビの録画中だ』と。でも先生の舌はとまらなかった。おれはあきらめた。先生を抱き返して先生の舌に応えた。『どうせ退学だ。お姫さまだっこのキスが全国放送さ。いまさらひとつ増えたところでいっしょだぜ』とだ。

 吉枕がこぶしを突きあげた。歓声を校長室に響かせた。

「うわーおっ! すっごーい! あたし今年のスクープ大賞いただきかも! ノーベル賞受賞者が高校生の愛人とカメラの前で熱烈なくちづけ! 結婚式場から強奪された花嫁伝説は真実だった! 世紀の愛ここに実る! 禁断の愛はふたりを学校から追い出すか! 悲劇の愛の結末やいかに! これこそドラマよ! やったぁ! 視聴率アップまちがいなし!」

 その場にいる全員がおれたちふたりをじっと見た。おれは恥ずかしかった。でも先生はとろとろだった。まあいいかと思った。おれは先生が幸せならそれでいい。

 教頭の蘭野が怒鳴りはじめた。

「ゆるせーん! 神聖なる教育の場をなんと心得とるんだ! ふしだらだ! みっともない! 公序良俗に反する! さっさとふたりとも学校を辞めろ! そうですよね校長!」

 そこに戸があいた。スズネとハルアキだった。スズネが蘭野に人さし指を突きつけた。

「いいえ! 学校を辞めるのは蘭野教頭! あんたよ!」

 なんでだ? とおれは先生から口を離した。

 蘭野もそう思ったらしい。

「どうして私が辞めるんだね? そもそもおまえたちふたりも停学か退学だぞ? おまえらは自分がなにをやったかわかっとるのか? 結婚式場をむちゃくちゃにしたんだぞ? 一万発のバクチクとネズミ花火が駆けまわったあの結婚式場はしばらく使えん。火薬類取締法違反か威力業務妨害でおまえらは全員逮捕されるぞ? 威力業務妨害罪は三年以下の懲役または五十万円以下の罰金だ。もうすぐ警察がおまえたちを逮捕にくるはずだぞ」

 ハルアキがひるんだ。しかしスズネはひるまなかった。

「ええ。あたしたちは逮捕されて当然でしょうね。でもあたしたちは自分のしたことの責任は取るわ。蘭野! あんたも自分のしたことの責任を取りなさい!」

「責任? なんのだ?」

「あんたは雲財寺先生に妻になれと迫った。先生がことわると力づくで先生を犯そうとした。強姦未遂罪よ」

「ふふん。証拠がなかろう。証拠のない罪は逮捕対象にならんのだ。よく憶えとけ小娘」

 校長の陸丸が蘭野に加勢した。

「そうですよ紀尾井さん。証拠もないのに人を犯罪者呼ばわりしてはいけません。蘭野教頭は立派な人です。強姦なんて真似をするはずがありません。蘭野教頭は教育者ですよ。教育者が犯罪に手を染めるはずはありません。わが校の教育者は立派な人ばかりです」

 スズネがせせら笑った。

「よく言うわね。その立派な教育者を辞めさせようとしたくせにさ。でもね校長。証拠はあるのよ」

 蘭野が目をむいた。

「嘘だ! 証拠なんかあるはずがない! あのとき校内には私と雲財寺くんのふたりしかいなかった! なのにどうして証拠がある!」

「ここにあるわ」

 スズネがポケットからプリントアウトした写真を取りだした。写真は電車の中の光景だった。

 蘭野がふふふと笑いはじめた。

「なんだそれは? 私が電車で雲財寺くんを犯そうとしたのかね? そんなバカな!」

 スズネがヒヒヒと嘲笑を響かせた。

「いいえぇ。そうじゃございませんわ教頭センセ。これはね。雲財寺先生とは関係ないの」

 蘭野が眉をひそめた。

「関係ない? 私が雲財寺くんを犯そうとした証拠だろ? それが関係ないとはどういうことだ?」

「雲財寺先生を犯そうとした証拠じゃないのよ。これはね。あんたが電車で痴漢をした証拠なの。よく見てごらんなさい。あんたはこのOLさんのスカートに手をいれてるでしょ? すでに動画も投稿サイトに送っといたわ。いまごろインターネットで話題になってるんじゃないかしら? 蘭野! 女シャーロックホームズのスズネちゃんをなめるんじゃない! 名探偵はすべてお見通しだ!」

 蘭野の顔が青ざめた。身に憶えがあるらしい。

 そこへ部屋の外から大声がかかった。

「警察だ! 逮捕状を用意してきたぞ! もう逃げられん! 観念しろ!」

 私服を着たおっさんを先頭に五人の男たちが踏みこんできた。

 おれたち全員が硬直した。

 先頭のおっさんが先生に目をとめた。逮捕状を手にかかげて前に押しだしている男だった。主任刑事らしい。

 おれは先生が逮捕されると思った。結婚式場を荒らした威力業務妨害罪でだ。おれは主任刑事の行く手をさえぎった。 

「すみません! おれです! おれが犯人です!」

 先生がうしろからおれを押しのけた。

「いえ! わたしが首謀者です! 伊沢くんは無実です! 逮捕するならわたしを逮捕してください!」

 逮捕状をかざした主任刑事につづいたふたりがおれと先生の身体をがっしりと抱きとめた。先生は全身をふるわせた。鳥肌が立ったらしい。

 おれは拘束されながらわめいた。

「先生は無実だ! 犯人はおれだぞ! 逮捕するのはおれだけにしろ!」

 逮捕状を手にした主任刑事が怒鳴った。

「うるさい! 静かにしろガキ!」

 おれの口を封じた主任刑事が時計を見ながら手錠を取り出した。逮捕前の儀式らしく厳粛に宣言した。逮捕状に目を走らせながらだ。

「裁判所の命により本日午後一時三分おまえを逮捕する。申しひらきがあるなら言ってみろ」

 うげえとおれは思った。申しひらきなんてあるはずがない。結婚式場をむちゃくちゃにしたのは事実だ。おれはおとなしく両手をさしだした。

「申しひらきなんてありません」

 主任刑事がおれに顔を向けた。

「よろしい。自分がなんの罪だかわかっとるな。言ってみろ」

 主任刑事がおれをにらんだ。いかめしい顔だった。自白しないとこっぴどい目にあわせるぞ。そう言っているみたいに見えた。

「はい。結婚式場を荒らしたのはおれです。でもおれが主犯なんです。先生もスズネもハルアキもおれにおどされただけです。逮捕はおれだけにしてください」

 前に出ようとした先生をスズネとハルアキがとめた。スズネは先生の口を手でふたしてよけいなことを言わないように封じた。

 主任刑事がおれをうながした。

「それだけか? ほかには?」

「えっ? ほかに?」

 おれは首をかしげた。ほかに警察のお世話になることをやっただろうか?

「ヤクザをやっつけました。傷害罪ですね。あっ。不治井福一郎にもサッカーボールを当てました」

「それから?」

「はい? それから? それだけだと思います」

 主任刑事が肩をすくめた。

「それだけなら俺の邪魔をするな。俺はおまえにかまっとるひまなどない」

「ええっ? なんですかそりゃ? おれを逮捕にきたんでしょ?」

「バカな。なんで被害届けも出てない結婚式場荒しを逮捕せにゃならん」

 おれは首をひねった。

「じゃその逮捕状は?」

「これはこいつのだ」

 主任刑事が教頭の蘭野の眼前に逮捕状を突きつけた。蘭野が目を見ひらいた。

「えっ? 私の?」

「そうだ。蘭野安盛四十五歳だな? 痴漢被害の届けが提出された。言いわけは通用せんぞ。ごていねいに動画つきだ。県の迷惑行為防止条例違反でおまえを逮捕する。弁護士を呼びたければ呼べ。被害届は五件だ。そのいずれもに動画がつけてあった。どこかの正義の味方がおまえの犯行の一部始終を録画したようだぞ。おとなしく罪を認めることだな」

 主任刑事が蘭野に手錠をかけた。おれと先生をつかまえていた刑事がおれたちから手を放した。

 蘭野を引いて部屋をでる主任刑事におれは問いを投げた。

「刑事さん。どうしてさっきおれを逮捕にきたみたいなふりをしたのさ? 蘭野が目的だったんでしょう? おれへのいやがらせかい?」

 主任刑事が足をとめた。

「うしろ暗いところがあるやつは警察に過剰反応を示す。警察官を見て逃げるやつがいれば俺は追いかける。逮捕すると言われて手をさしだすやつがいればそいつは犯罪者だ。どんな罪を犯したかを自白させる。いま追ってる事件と無関係であろうと犯罪者を見つければ逮捕する。それが警察官として当然の義務だ。ちがうかね?」

「なるほど。じゃおれが万引き犯なら逮捕した?」

「あたりまえだ。プレジデントホテルや不治井福一郎が被害届をだせば逮捕にきてやる。首を洗って待ってるがいい」

 おれは肩をすくめた。そういうことだったんだと。

「じゃもうひとつ。なぜ最初に先生を見たのさ?」

「おいおまえ。自分たちがいま最も話題の人だと知らんのか? 俺はテレビで見た有名人をながめただけだ。おまえだってそうするだろう? アイドルとすれちがえばつい見るだろうが?」

「たしかにね。なんだ。そんな理由だったんだ」

 おれはホッとした。

 刑事の一行が部屋を出ると吉枕が叫んだ。

「県立高校の教頭が痴漢の常習犯で逮捕! 同校校長が犯罪者の教頭をかばって事件のもみ消しをはかる! くふふ! これもまた効くぅ! 最高よぉ! あたし今年のスクープ大賞かくじつね!」

 おれはカメラのレンズに手をあてた。

「吉枕さん。ひとつだけ取り消してください」

「ん? なにを?」

「校長先生の件です。校長はたしかに小心者だ。でも悪いことをしたわけじゃない」

 吉枕が不思議顔でおれを見た。

「あなたを退学にしようとしたのよ? どうしてかばうの?」

「かばう? かばうわけじゃありません。『淫らな異性交遊は退学』と校則に明記されてます。校長は校則どおりにしようと考えただけです。教頭に加勢したときも『証拠がないのに人を犯罪者呼ばわりしてはいけない』と言ったにすぎない。たしょう問題のある物言いではありましたがね」

「ねえ伊沢くん。あたしはいまのやりとりをみんな撮影したわ。視聴者にそれを見てもらえば誰か悪いかはっきりわかるはずよ。校長はあきらかに教頭の肩を持った。校長は犯罪者の味方をしたのよ? ここで校長をたたいて辞めさせればきみと雲財寺先生は学校を辞めなくてすむ。きみのためにならないことは言いません。いまのやりとりをテレビで放映させなさい。悪いのは校長であってきみと雲財寺先生ではない。きみ『淫らな異性交遊は退学』と言ったわ。でもきみと雲財寺先生は同じ指輪が左手に光ってる。それは婚約指輪よね? つまり結婚を前提としたおつき合いだわ。『淫らな異性交遊』ではなく『正式な異性交遊』よ。法律的にも有効だわ。だから退学にするのはおかしい。ちがうかしら?」

 うっとおれはつまった。理屈ではそうだ。

「おれさ。校長はきらいだよ。でもおれ校長が非難の矢おもてに立たされて辞めさせられるほどひどいことをしたとは思えない。校長の部分だけカットしてやってよ吉枕さん。でないと肖像権をたてに先生の部分も放送をさしとめるぞ」

 ふふんと吉枕が鼻で笑った。

「ひとつ忠告してあげるわ伊沢くん。水に落ちた狂犬病の犬に手をさしのべればかまれるだけよ。世の中は善人ばかりとかぎらないの。自分の身を守るのみの人に情けをかけても裏切られるのがオチね。水に落ちた狂犬病の犬は救いようがないの。たたくかそのまま溺れさせないとだめ。狂犬病の犬はたたけるときにたたいとかないと後悔するわよ」

 おれはすこし考えた。吉枕の指摘は正しそうだ。

「でもさおれ『更生もさせない。言いわけも許さない。ただ規則に沿って処罰する』そんな単純なことなかれ主義がきらいなんだ。おれがここで校長を断罪すりゃ校長と同じじゃないか。おれは溺れる犬に手をさしのべたいんだよ。それでかまれりゃその犬が狂犬病だったとあきらめるだけさ。最初から溺れる犬を見捨てるのは趣味じゃない。さしのべるべき手はさしのべたい。セクハラや痴漢をした教頭を助けようとは思わないよ。蘭野は犯罪者だ。でも陸丸校長は犯罪行為をしたわけじゃない。更生可能じゃないの? 更生しないとしても辞職に追いこむほどの罪じゃない。そう思う」

 今度は吉枕が考えた。

「なるほど。言い分はわかりました。後悔しないことを祈ってますわ。肖像権をたてに取られると悲しいですからね。ではあたしはこれで。さあ帰るわよ」

 カメラマンに声をかけて吉枕が部屋をでた。はやてのように現われてはやてのように去って行く。そんな言葉がおれの脳裏をよぎった。

 部屋に残ったのは六人だ。校長。おれ。先生。スズネ。ハルアキ。苗塚。その全員がお互いの顔をうかがいながら次にどうすべきかを決めかねた。

 最も悩んだのは校長だろう。おれと先生を辞めさせると吉枕があれを放送するかもしれない。かといってこれだけ大騒ぎになった事件だ。なんの処分もしないと教育委員会から突きあげられる。生徒や教師の処罰は校長の権限だ。処罰しなければしないで教育委員会が問題視する。

 校長が取りあえず苗塚に顔を向けた。

「苗塚先生。教師のアルバイトは禁止です。わかってますよね?」

 苗塚がうなだれた。

「はあ。知ってます」

「では苗塚先生はあしたから一ヶ月間の停職です。しばらく登校しなくてよろしい。わかりましたね」

 苗塚が暗算をする顔で考えた。

「あの。校長。それでいいんですか?」

「仕方がありません。そう内規で定められてますからね。でももうアルバイトはしないこと。いいですね」

「はい」

 苗塚がホッとした顔をおれたちに向けた。あしたは終業式だ。あさってから夏休みだった。つまり苗塚の停職は実質あした一日だ。

 校長が机の引き出しをさぐった。校長は鉛筆を取りだすとカッターナイフで削りはじめた。校長の処断を待っていたおれたちは顔を見合わせた。校長はわき目もふらずに鉛筆をけずった。まるでおれたちのことを忘れたかのようだ。

 おれは校長に声をかけた。

「校長。おれたちはどうなるんです?」

 校長が顔をあげた。

「なんの話です? そもそもあなたたちはなんで校長室にいるんです? 用がなければさっさと出ていきなさい。今週は午前中だけの短縮授業ですよ。補習のない人は帰宅しなさい。あしたの終業式に遅刻はゆるしません。いいですね」

 校長がまた顔をうつ伏せて鉛筆をけずりはじめた。

 スズネがおれのうしろから声をだした。

「きったねー。なかったことにしようってのね? なんて大人は卑怯なの? 『あたしはなにも知りませんでした。聞いてません』って言うつもりでしょ? 校長先生それって卑劣じゃない?」

 校長はぴくりともスズネを見なかった。

 おれはスズネとハルアキと先生を部屋から押しだした。苗塚がふふふと笑いながらついてきた。たしかに校長は卑劣かもしれない。しかしだ。処分もできない認めもできないでは黙る以外にないのかもしれない。どんな答えを返そうとおこる大学教授もいる。答えのない問いに答えを求めるのは若者だけだ。大人はずるい。だがこの社会はその大人たちがささえている。校長としてはあれが最大の妥協かもしれなかった。

 校長室をでたおれたちを全校生徒がむかえた。苗塚を心配してやってきた沼泥に苗塚が抱きついた。おれは沼泥の顔を観察した。愛なのか打算なのか読み取れなかった。しかし教頭がいなくなったわけだ。沼泥に教頭昇格の目がでたのはまちがいない。教頭になればいよいよ苗塚を捨てないだろう。苗塚が幸福になるのは確実だと思えた。それに苗塚はさらに女にみがきがかかってきた。あの乱戦に適切な音楽をそのつどあてはめたことで自信がついたようだ。いいほうにいいほうに転んでいるらしい。『男が萎えるソプラノ苗塚』は『男が勃つ熟女苗塚』に変身したようだ。

 おれと先生に同級生たちが『どうなったんだよ?』とか『辞めないよな?』とか訊いてきた。先生が涙をこぼしながらおれの肩を抱いた。

「わたしたち辞めません!」

 その宣言に歓声が沸きあがった。

 わあっ! とだ。

 先生が泣き笑いでみんなに手をふった。

 おれは先生のその笑顔がうれしかった。氷の美少女はいよいよ返上みたいだ。


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