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 第十四章 家に帰ろう

 おれは公園の出口で足をとめた。

「ごめん先生」

「なにがです?」

「おれ先生が紘州パパとしてる妄想でヌいちゃった。学校のトイレでさ。おれ最低だ」

「まあ! たしかにひどいです。それだと伊沢くんが人間失格じゃないですか」

「めんぼくない。あのときはさ。先生と紘州パパが本当の親子だと思わなかったんだ。てっきり先生の歳の離れたパトロンだと」

 先生があきれ顔でおれを見た。

「変態だ変態だとは思ってましたけど本物ですねえ。そういうので昂奮するんですか?」

「おれは先生で昂奮しただけだ! 紘州パパで昂奮したわけじゃなーい!」

 先生が苦い笑いを浮かべた。

「わたしそこまでは言ってません。どんなわたしでも昂奮するんですか?」

 おれはちょっと考えた。

「そうかも。とにかく先生だったらいい。どんな先生でもいいぞ。でもおれだけの先生が一番いい。紘州パパとそういう関係だと思ったときは死ぬかと思った。胃の中のものをぜんぶぶちまけるしさ。欲望もおさまらないんだ。あんな気持ちのわるい思いをしたのは初めてだよ」

「ああ。あのときですか。パパがわたしに結婚話を持ってきた翌日ですね。わたしも本当に伊沢くんが病気だと思いましたよ。まっ青な顔色をしてましたものね。あれ病気じゃなかったんですね?」

「いや。病気と言えば病気だろ。恋わずらいだ」

「わたしにとってはうれしい病気ですね。そういえば伊沢くん。さっきママとキスをしてふくらませてましたね? ママとしたいんですか?」

「ああ。あれはさ。先生を思い出したんだ。最初の夜に先生とキスをしただろ。あのとき先生は酒を飲んでた。さっきのママさんも飲んでた。ママさんの口は先生と同じ味と匂いだったんだ。むせ返る酒の匂いもおんなじだったしさ。先生とキスをしたあとでしたのを思い出したらああなったんだ」

「まあ! うれしいです! わたしで昂奮したわけですね!」

 先生がおれに抱きついた。おれは首をかしげた。よくわからなかった。ひょっとするとママさんでも昂奮したかもしれない。先生にふられたらママさんとつき合いたいと思ったほどだ。でもそれはママさんが先生に似ていたからかもしれない。

 先生がおれから身体を離した。二歳くらいの女の子を連れた若い夫婦がおれたちの横を通りすぎた。

 おれはまたひとつ引っかかった点を思い出した。

「そういやさ先生。実家に帰りたくないって言ってたろ? あれはどうして? 紘州パパと先生は仲がいいみたいに見えたよ?」

「仲はいいですよ。でもわたしパパとあまり顔は合わせたくないのです」

「なんで?」

「パパが鋭いせいです。わたしのかくしたいことをみんな言い当てるんですよ。こないだも『スズネさんが伊沢くんを好きなのを知ってて伊沢くんを食ったろう』と指摘されました。わたしパパは好きです。でもわたしにとって都合の悪い人なんです。本当のことしか言いませんから」

「図星されまくりなんだ?」

「ええ。伊沢くんに図星されるのは大好きです。だけどパパに図星されるとつらいんです」

「それはどうして?」

「伊沢くんとはそのあとであまえられるからだと思います。パパは図星しっぱなしなんですもの」

「一刀両断なわけ?」

「はい。そんな感じですね。融通がきかないと言うか頑固と言うか。厳格なんです。正論なんですけどね」

「ああ。校長の陸丸大地子みたいな感じ?」

「ええ。あんな感じです。『法律で決まってるからしちゃだめ』って感じですよ。お堅い人なんです」

「なるほど。アリスママはそういうところがいやだったみたいだね」

「そうなんですか? わたしママはパパ以上にわからない人なんですよ。気まぐれですしね。他人をからかってばかりで本当のことはほとんど言わない人なんです。なにを考えてるかわかりません」

 おれは苦笑した。おれにはアリスママより先生が理解できない。アリスママとおれは似ているようだ。波長が合うと言うか。スズネやハルアキと同じ同志愛を覚える。

「ところでさ。アリスママってどこの国の人なの?」

「イギリス人です。没落貴族の娘だそうです」

 おれはびっくりした。

「貴族!」

「はい。でも貴族といっても庶民より貧乏です。称号だけですからね。いまは名誉職の給料でほそぼそと田舎で暮らしてます」

「ふうん。あのさ先生。おれ先生にプロポーズしたよね? おれは結婚できない歳なのに『いますぐ結婚しよう』と言ったわけだ。それっておれが先生をからかってると思ったの?」

「ええ。すくなくとも本気で言ってない。そう思いました。だって結婚できない歳なのに『結婚しよう』と言われてもわたしは『はい』と答えられません。『だめ』だし『無理』としか言えません」

「なるほど。そういうことだったんだ。おれ結婚をことわられたから『先生はおれをセフレとしか見てない』と思ってたよ」

「そんなわけないでしょう。わたしは最初から伊沢くんの妻のつもりでしたよ。伊沢くんに処女をもらっていただいてからずっとです」

「でもおれのプロポーズは即答でことわったじゃないかよ?」

「結婚は無理ですもの。まさか法律を知らないとは思ってませんでした」

「じゃおれのプロポーズをどう思ってたわけ?」

「ただの固定観念だと思いました」

「固定観念?」

「ええ。ああいうことをしたら結婚をしなくてはいけない。そう思いこんでると」

「それっておれが子どもだから?」

「はい。子どもっぽい思いこみだと。だって伊沢くんはずっとスズネさんが好きでしたからね。わたしを好きではないがしたから責任を取って結婚を申しこんでるとです」

「そんなことない!」

「いいえ。そんなことあります。だってわたしまだ伊沢くんに『好き』とも『愛してる』とも言ってもらってません」

「それは先生もだろ? おれも言ってもらった記憶はないぞ?」

「そうですね。わたしたちまだどちらも『好き』とも『愛してる』とも言ってません。言ってください。言ってくれるまでわたし伊沢くんと行きません」

「先生が言えばいいじゃないか。先生が年上だろ? なんで言わないんだよ?」

「ノーコメントです。伊沢くんが言うまでわたしはがまんします」

「おれが言うまで?」

「はい。男のかたから言ってもらうのが夢なんです。早く言ってください」

 そういえばとおれは思い出した。アリスママもそんなことを言っていた。大人になると好きな人に好きと言えないと。アリスママはおれに訊いた。『好きな人に好きと言った?』と。あれはこういう意味だったのか。

「わかったよ。好きだ。愛してる。おれは先生がだーい好きだ!」

「ほんと? 本当にですか?」

「ああ。まちがいない」

「スズネさんよりも好きですか?」

 おれは眉を寄せた。

「スズネ?」

「ええ。伊沢くんはいつからわたしが好きなんです? ずっとスズネさんが好きだったでしょう?」

 そういえばとおれは考えた。いつから先生が好きなんだろ? おれは幼稚園からスズネが好きだったのにだ。

「先生はいつからおれが好きだよ?」

「伊沢くんはわたしのテストで初めて零点を取った生徒です。使命感に燃えました」

「使命感に燃えておれを食っちゃったの? それって方向をまちがってない?」

「ごめんなさい。本当はひと目惚れです。伊沢くんが『うざいんじゃみさえ』って言ったでしょう? あのときわたし胸がズキンと痛みました。わたしはこのとおりの女です。いやがらせやいじめもされました。ひどいことを言われ慣れてもいます。ですからいまさらなにを言われてももう感じません。平気な顔ができるんです。なのにですよ。伊沢くんに『うざいんじゃ』って言われたとき胸がひどく痛みました。伊沢くん以外の人に言われても痛まなかったのにです」

「それどういうこと?」

「伊沢くんには『うざいんじゃ』と言われたくない。そういうことです。伊沢くんにだけです。伊沢くんに『うざい』と言われて傷ついたわたしがいました。誰からなにを言われてもわたしは傷つかなかったんです。なのに伊沢くんに言われて傷つきました。伊沢くんはわたしのことをわかってくれる。あの瞬間にそう思いました」

「じゃさ。先生はいまおれが好き? おれを愛してくれる?」

「わたしにはお酒と数学しかないと思ってました。でもいまは伊沢くんが大好きです。お酒より数学より伊沢くんが好きです。わたしはずっと伊沢くんが好きですよ。伊沢くんだけが大好きです。愛してます!」

「おれもだよ先生! 愛してる! 大好きだ!」

 おれは先生を抱きしめた。あたりに人影がないのを見はからってだ。おれの腕の中から先生がおれを見あげた。

「わたし伊沢くんにきらわれたら生きてられません。わたしをきらわないでください」

 通行人が見えて先生が身体を離した。

 おれは思い出して眉を寄せた。

「そのわりにはおれの頭をポンポンたたいたよな? あんなことをして好かれると思ったわけ?」

「したかったんです。わたし伊沢くんにふれたかったんです」

「じゃ頭をたたかないでほかのところをさわればよかったのに」

 先生が口をとがらせた。

「わたしに痴女になれと? 学校で伊沢くんにキスをねだれと? それわたしにはできません。したいのはやまやまですけど」

「したいんだ? 先生も変態じゃないの?」

「やーん。わたしは変態じゃありません。普通ですよ普通。どこにでもいるごくごく平凡な女です」

「うそ? 先生が平凡ならほかの女は泥人形だぞ? あんた自分じゃ気づいてないかもしれないけど非凡もいいとこだぜ?」

「そ? そうなのですか?」

「すくなくともおれはそう思う。なにせ二十六歳になって化粧をしない女だ。そんな女は日本にもういない。ぜったい変。むちゃくちゃ変。とにかく変」

「そこまでくり返すことはないじゃないですか。ひどいです。泣きますよわたし」

「あ。いや。泣かないで先生。つい調子に乗っちゃった。ごめん」

「ゆるさないもん! あっ。いまのはなしにしてください。わたしもついむきになりました。わたしほかの人は全員苦手です。でも伊沢くんだけは近寄れる気がしました。伊沢くんの頬をはさんだときがあったでしょう? あのときわたし自分でも驚きました。わたしでも男の人にさわれるんだとです。あれでわたし確信したんです。伊沢くんならわたしをわかってくれるかもしれませんとです。いえ。きっとわかってくれる。そう思いました。信じたかったんです」

「おれそんなに先生のことをわかってないよ。おれがいちばんわかんないのが先生だ」

「そうなんですか? わたしちょっと悲しいです」

 おれはなにか先生のことでわかっていることがないかと考えた。ひとつ思い浮かんだ。

「先生さ。いつから避妊薬を飲んでるの?」

 先生がきょとんとした。

「はい? 避妊薬ですか? そうですね。十八歳のときから飲んでますよ。かれこれ八年飲みつづけてますね」

「そのあいだに彼氏はいた?」

「いいえ。ひとりも」

「彼氏もいないのに避妊薬を飲んでたわけ?」

「ええ。いつかわたしにも彼氏ができる。そのときのためにと飲んでました。役には立たなかったんですけどね」 

「それってさ先生。避妊薬を飲んでたのは恋人ができた用心じゃないんだろ? 恋人ができないと思ったから飲んでた。そうだよね?」

 先生がおれの指摘に考えこんだ。 

「かもしれません。でもなんでそんな推測を?」

「先生が世間の女とはちがうからさ。自分でもそれを知ってる。化粧をしない女は普通じゃないよ。けど世間の女と同じだと思いたかった。それで避妊薬を飲んだ。自分が女だと忘れないためにね」

「自分が女だと忘れないために?」

「そう。先生は自分に恋人ができるとは思ってなかった。男にさわれないんじゃ恋人はできない。そうだろ? でもそれを認めたくなかった。だから自分を女として確認するために避妊薬を飲んでた。ちがうかな?」

 先生がまた考えこんだ。

「そのとおりみたいです。わたしいつか男のかたとそういう関係になれる。だから準備をしてるんだと自分に言い聞かせてきました。普通に恋人ができて結婚をして子どもを作る。そういう日がくると。本当にそんな関係になると思っていれば避妊薬は必要ありません。わたしはその人の子どもが産みたいですもの。伊沢くんと関係を持ってわたしもうたがいは持ちました。なんのために避妊薬を飲みつづけてたのかとね。いま指摘されて答えがわかりました。わたしはきっと人並みな女でありたかったんです。避妊をしなければならない女と自分で思いたかったわけです。彼氏がいていま妊娠すると困るどこにでもいる女とです。わたしには彼氏もいないし恋すらしたことがありません。それを認めたくなかったのでしょう。だから避妊薬で自分を支えてた。そう思います」

「避妊薬は先生にとっての精神安定剤だったんだね?」

 先生がうなずいた。

「ええ。わたしが女であるために不可欠な薬でした。避妊薬を飲んでるかぎりわたしは女でした。避妊薬を飲むときだけわたしは女でいられたんです。わたしが女だと確認できるのは避妊薬だけでした」

「化粧もしない。彼氏もいない。だものね。おれ先生が薬をやめたのに気づいてたよ。先生おれと関係を持ったあとすこしのあいだ避妊薬を飲まなかったでしょ?」

「どうしてわかったんです?」

「身体の反応がちがうんだってさ。インターネットに書かれてた。妊娠する身体の特徴が解説されてたんだ。先生はそれにあてはまっててさ。おれ避妊具を買おうか買うまいか悩んだんだ。でも先生が妊娠を望むならそれもいいかなってね。おれ十六歳で結婚できるとばかり思ってたからさ。先生が妊娠したら結婚しようって決めてたんだ」

「そうでしたか。わたしは一度も伊沢くんから『好き』とも『愛してる』とも言ってもらいませんでした。男って好きでもない女ともできるわけです。伊沢くんはわたしをスズネさんの代用にしてるだけだと思いました」

「それで一度飲むのをやめた避妊薬をまた?」

「はい。伊沢くんみたいな子どもは欲しかったんです。でもわたしには自信がありませんでした。わたしひとりで子どもを育てる自信がです。それと避妊薬はわたしの精神安定剤です。わたしはひとりになると薬なしではいられなかったんです。お酒の量も増えました」

「バカだなあ。なんでおれに打ち明けてくれないんだよ? おれどんなことだってしてやったのにさ。空を飛べって言われたら絶対に飛んでみせたぜ」

「女はバカな生き物です。バカさを責めないでください」

「そうなの?」

「ええ。伊沢くん」

 先生がおれをじっと見た。

「なに?」

「やっぱりわたしのことをよくわかってるじゃないですか!」

 先生がおれに抱きついた。くちづけを求めた。おれは周囲を見回した。人影はなかった。おれは先生に熱いくちづけを贈った。

 通行人がやってきておれは先生と口を離した。訊いてみたいことがまた浮かんだ。

「先生はおれがスズネを好きだって知ってたよね? それはなんで?」

「わたし伊沢くんが四月から好きでした。伊沢くんは気づいてませんでしたけどわたし伊沢くんをずっと見てました。伊沢くんはわたしのお尻ばかり見てましたよね? あれってわたしとしたいと見てたんですか?」

 先生の目には期待がこもっていた。おれは正直に白状することに決めた。

「ごめん。あんな貧弱な尻には欲情しないなって見てた。実際おれのそこはピクリとも反応しなかった」

 先生がガックンと肩を落とした。

「そ。そうだったんですか。わたしがきらいでもわたしを犯したいと思って見てるとばかり信じてましたよ」

「あのころは先生がきらいなだけだったんだ。ごめんね期待にそえなくて」

「いえ。いいんです。きらわれてるのはわかってました。じゃいまはどうです? わたしの貧弱なお尻で感じますか?」

「もちろんだ! 丸くてツルツルでスベスベしてもっちり吸いつくんだぜ! 最高だよ!」

「やーん。変態ですぅ」

「やだ。おれ先生のお尻が好き。一日中でもなでてたい」

「だめぇ! 変態すぎますぅ! なんでそう極端なんですかぁ! 大きらいだったはずでしょう!」

 おれは苦笑した。

「そうなんだよな。先生に食われて惚れちゃったみたい。あの晩の先生かわいすぎ。あれですっかりまいったよ。でさ。スズネがおれを好きだってのもわかってたわけ?」

「ええ。知ってました。スズネさんは伊沢くんをよく見てましたからね。わたしが伊沢くんを見るでしょう? スズネさんも見てるんです。しかも恋する女の子の目つきでした」

「なんだよそれぇ? そんなんでおれを誘惑したわけ? それじゃおれとスズネは相思相愛じゃないかよ?」

 先生が頭をさげた。

「ごめんなさい。だってわたしも伊沢くんがよかったんですもの」

「先生さ。最初からおれとするつもりだったの?」

「いいえ。でも想像はしてましたよ。家に連れこんで伊沢くんと愛し合うのをです。だけど本当にそうなるとは思いませんでした」

「上に乗る想像だったわけ?」

「そんなはずはありませんよ。ふつうのかっこうです。わたしは冷凍マグロの予定でした」

 おれは頬をゆがめた。

「あんなに活きのいい冷凍マグロがいるか。あんな冷凍マグロばかりだと魚河岸は大混乱だ」

「わたし自身がびっくりです。わたしひとりでするときはひっそりですよ? 声も出しません」

「ひとりでやるときに大声を出すやつはいないっての。おれもひとりでするときはなにも言わないぞ」

「そうなのですか? いつも予告して終わってるのかと思ってました」

「出すぞってか? そんなやつはいないってばさ。それだとおれ変態じゃないか」

「いえ。変態でしょう? わたしに恥ずかしいことばかりしますし」

「先生いつもよろこんでるぞ? それをよろこぶ先生は変態じゃないのかよ?」

「わたしは二十六歳ですから」

「二十六歳だといいのか?」

「伊沢くんはまだ十六歳ですもの。変態おやじになるには早すぎませんか?」

「早すぎない! おれはエロいことがしたいんだ!」

 先生が肩をすくめた。

「伊沢くんのエッチ」

「先生に言われたくないな。そもそも教え子を食っていいのかい先生?」

「ごめんなさい。よくないです。わたし反省しますね。二度としないように努力します」

「その二度とってのはおれを食うこと? それとも別の教え子を食うこと?」

「もちろん伊沢くんに決まってます。わたし伊沢くん以外の男のかたにさわられると全身に鳥肌が立つんですよ? 伊沢くん以外は食えません」

「なるほど。そういやそうだった。じゃおれもう先生に食われないわけ?」

「ええ。女教師と男子高校生ですもの。そんな関係はまずいでしょう? わたし二度と伊沢くんを食べません。それで納得していただけますか?」

 先生がニコッと笑った。さっきのアリスママそっくりのからかい笑いだった。まぎれもなく母娘だ。そう思った。

「嘘つき。食う気まんまんのくせして」

「よくおわかりで」

 ペロリと先生が口の端をみじかい舌で舐めた。とんでもなくエロかった。おれはまた股間が突っ張った。痛いくらいだ。おれは前かがみで腰をくねらせた。

「先生それ反則。公園でなんかやらないで」

「あら? そうなんですか? おやおや。そのようですね。気をつけます」

「でもさ先生。もうひとつ疑問があるんだ。先生はおれが好きなんだろ? おれも先生が好きだ。なのに先生はおれをマンションにいれてくれなかった。おれの部屋にくるのもだんだん間隔があいた。あれはどういうことなのさ? 最後に会ったとき『おれに飽きた』って言ってたしさ?」

「ひどいです! 飽きたなんて嘘に決まってるじゃないですか! わたしがどんなにつらい我慢をしたか知らないからそんな無神経なことを言うんです!」

 先生が泣きはじめた。おれは人目を気にしながら先生を抱いた。

「ごめん先生。やっぱりおれ先生をわかってないだろ? だから教えてよ。先生のことをなにもかも」

 先生がおれの胸から涙目でおれを見あげた。

「わかりました。わたしのなにもかもを受け入れてくれますか?」

「ああ。おれ先生が欲しいんだ。先生のいいところもみっともないところもね。嫉妬深い先生も好きだよ。エッチな先生はもっと好きだ!」

「そこのところはひかえめにおねがいします。わたしと伊沢くんは先生と生徒ですよね? その関係を校長に知られると伊沢くんは退学ですよ? ですからわたし伊沢くんとすこしずつ距離を取ろうとしたんです。わたしは伊沢くんの部屋に行くたびに帰りたくなくなりました。伊沢くんの胸にひと晩中抱かれたかったんです。それで。それで。わーん! 伊沢くんがいじめるぅ!」

 先生がおれの胸で泣きじゃくった。泣く先生を抱きしめてあやすおれの前を三歳くらいの女児の手を引いた若い母親が通りすぎた。母親は見て見ぬふりをした。女児は足をとめてじっとおれと先生をながめた。うらやましそうな顔だった。通りすぎた母親がもどってきた。しぶる女児をむりやり引きずって遠ざかった。

 先生はおれに飽きたわけではない。そうホッとしたおれは質問をつづけた。

「先生はおれと離れたくないからおれの部屋に来なくなったの?」

 先生がおれの胸から顔をずらせた。

「そうですよ。わたしはひとりの部屋に帰るのがいやでした。でも伊沢くんと結婚はできません。大人として自分の部屋に帰る以外に選択肢はなかったんです。伊沢くんを部屋に招かなかったのも同じ理由ですよ。伊沢くんがわたしの部屋にきたら帰したくなくなるからです。伊沢くんを引きとめてずっとずっといっしょにいたい。そうねがうのはあきらかでした。だけど伊沢くんと住むわけにはいきません。仮に伊沢くんが住んでくれたとしてもそれをしたら伊沢くんはたちまち退学です。送ってもらわなかったのも同じ理由です。引きとめたくなるせいです。わたしにできるのは元の生活にもどそうと努力するのみでした。伊沢くんがいなかったときのわたしの生活にです。お酒と数学しかなかったわたしの生活を返してください伊沢くん。わたしはもうあの頃のわたしにもどれません」

「なんでだよ? もどる必要はないじゃないか。いますぐおれと結婚しようよ先生? あっ! そうか! いますぐはできないんだった。じゃ婚約は?」

「よろこんで!」

 先生がおれの口に口をつけた。おれは目玉をきょろきょろさせて人がいないのを確認して先生と舌をからめた。また人影が見えておれは先生から口を離した。

 おれは先生を連れて公園をでた。駅へと向かいはじめた。

 歩きだしておれは気づいた。結婚式場から花嫁をうばう? それって映画だから問題化しなかっただけではないか? 映画はバスに乗ったあとを語らなかった。しかし現実はむちゃくちゃになった結婚式のあと始末をつけなければならないはずだ。

「ところでさ先生。あの結婚式どうなるんだろ? このままうやむやにってわけにもいかないよな?」

 ウエディングドレスの先生が首をかしげた。

「よくわかりませんねえ? なにしろ初めての経験ですから」

「結婚するのも結婚式場から強奪されるのも?」

 先生がクスッと笑った。

「ええ。でも相手のかたに悪かったですね。好きでもないのに伊沢くんを忘れるために結婚するだなんて」

 おれは眉をしかめた。どっちもどっちじゃないかと。

「いや。そもそもふざけすぎだろ。数学者の先生だから欲しいってやつばかりじゃないか。先生自身が欲しいんじゃないぞ? 数学者じゃない先生に価値はないのかよ」

「そうですよ。わたしには数学とお酒しかありませんもの」

「そんなことないよ。おれは数学者の先生なんかいらないぞ。女としての先生が欲しいだけだ」

「エッチをするためにわたしの体だけが欲しいわけですね?」

「あ? いや? それは? まあそうかも? 先生としたい。そこはたしかにそうなんだ。でもそれだけじゃないってのもあるんだよ。ああもどかしい! どう言えば伝わるかわかんないぞ!」

「じゅうぶんです。ちゃんと伝わってますよ」

 おれは先生の顔を見た。うふふと笑っていた。おれをからかったらしい。

「やだなあ。先生の作る問題もむずかしいけどさ。先生本人はもっとむずかしいね」

 先生がまじめな顔にもどった。

「そうですか? わたし数学とお酒しかない女ですよ? 簡単だと思いますけどね。もっとも最近ひとつ増えました」

「なんだいそれ?」

「ノ。ノーコメントです。き。訊かないでください」

「たまには訊いてもいいだろ? 先生になにが増えたわけさ?」

「言わなきゃいけませんか?」

「ああ。言わなきゃだめ。ゆるさねえ」

「しょうがないですね。では白状します。その前にひとつおねがいを聞いてください」

「は? おれがおねがいを聞くの? 先生に増えたなにかを教えてもらいたいのはおれなのに? おれが先生におねがいをしてるんじゃないわけ?」

「ええ。先に伊沢くんがわたしのおねがいを聞いてくれないといやです。女には言葉がいちばん必要なんです。毎日でも『好き』とか『愛してる』とか言って欲しいんですよ。そうでないと安心できません。女は『愛してる』『好き』と言ってくれるだけで男のかたを信じられる生き物なんです。なのに伊沢くんは好きとも愛してるとも言ってくれません。わたしたちデートすらしてないんですよ?」

「デートしたいの先生?」

「いいえ。わたしは二十六歳です。いまさら高校生の男の子と遊園地に行ったり映画館に行ったりハンバーガー店でおでこを寄せ合ったりはしたくありません。だいたいですね。デートもしないで花嫁を結婚式場から強奪するなんてひどすぎますよ。鬼畜です」

 言いながら先生は頬を染めていた。おれはははーんとひらめいた。おれの先生は素直じゃないんだろうなきっと。

「したいんだデート?」

 先生がますますうろたえた。

「こ。答えたくありません。ノ。ノーコメントです」

 純白の花嫁衣装に桜色に染まった頬がよく映えた。可愛かった。年上とはとうてい思えない。

「今度デートしようか。どこに行きたい?」

 先生が顔をうつむけた。ポツンとつぶやきが口から洩れた。

「遊園地」

 先生がそんな言い方をするのをはじめて聞いた。先生はいつもきちんとした話し方をする。よほど行きたいらしい。そして恥ずかしいようだ。おれはしっかりと記憶にきざみこんだ。あしたは海の日で休日だ。先生を遊園地を連れて行こうと。まもなく夏休みもはじまる。夏休みは先生と遊園地に行きまくるぞと。

「ねえ先生。お酒と数学のほかに増えたものはなに?」

 先生が顔をあげた。

「わたしを好きと言ってください。愛してると」

 おれは首をひねりながら口にした。

「おれ先生が好きだよ。愛してる」

「わたしもです。好きです。愛してます。なにが増えたかわかっていただけましたか?」

 おれは思わず叫んだ。

「わかんねーよ! なんだそれ! どういう謎解きなのさ!」

「こういう謎解きですよ」

 先生が人目をさけておれに抱きついた。おれの頬にかるくキスをした。

 おれはハッと悟った。

「あっ。おれ? おれが増えたわけ?」

「はい。お酒と数学と伊沢くんです。わたしにはその三つしかありません。でもいまは伊沢くんがいちばんですよ」

 おれの目から涙がこぼれはじめた。先生のいちばんだと言われて素直にうれしかった。おれこんなにもこの人が好きなんだとあらためて気がついた。

 そのときだ。ムカつくことを思い出した。おれのこんなに好きな女を往復ビンタしたバカ野郎がいたことをだ。いったん思い出すとムカムカきた。

 こらえきれない怒りがおれのこぶしを勝手にぶんまわした。

「だいたいだな! おれの先生にマグロとはなんだマグロとは! おれの先生はおれよりスケベだぞ!」

 先生がおれから離れて頬を両手で押さえた。

「やーん。わたし伊沢くんよりスケベじゃないでーす。でもですね。そもそもマグロは伊沢くんが言い出したんですよ? わたしちゃんと聞いてました。ハルアキくんにこう言いましたよね? 『あんな冷てえ女に恋人ができるはずねえぞ。あいつきっとベッドで冷凍マグロだな。それで独身なんだろうさ。服の色もドブネズミ色だしな』って」

 おれは目玉をふらつかせた。

「そ? そんなこと言ったかな? き? 記憶にねえな? ハルアキが言ったんじゃねえの?」

 先生がくちびるをとがらせた。

「どの口がそれを言うんです? 親友に自分の罪をなすりつけちゃいけませんね! わたしのあだ名が『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』になったのは伊沢くんのせいじゃないですか! わたしとっても恨みましたよ! 大好きな人がそんなひどいあだ名の大元を作ったわけですからね!」

 おれは肩を落として顔を下にむけた。

「ごめん先生。言いわけのしようもないよ。まぎれもなくそのとおりだ」

 あのときはまさか『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』がおれの最愛の人になるとは思ってもみなかった。あのころの先生はおれにとって最悪の人だったものな。人生って不思議だなあ。

 駅に着いてふたりで二両編成の電車に乗った。席にすわって田舎の線路にガタゴトとゆられた。

 遊園地のポスターが車内に貼ってあった。サルが車掌をつとめる蒸気機関車のアトラクションが描かれていた。そういえばとおれは思い出した。

「先生がサルと結婚するならおれもサルになりたい」

 先生がおれの顔を見た。楽しげにうふふと笑った。

「もうなってませんか? 伊沢くんはわたしに好きとも愛してると言ってくれませんでした。デートにも連れてってくれません。わたしたちのあいだにあったのは肉体関係だけです。伊沢くんは自慰を憶えたばかりのサルそのものです」

 おれは先生をにらんだ。

「たしかにそのとおりだよ。そんなにデートに行きたいならあした行こうよ。あしたも休みだからさ」

 先生が首を横にふった。

「いいえ。あしたはだめです」

「なんで?」

「わたしおカネがありません。いま花嫁衣装ですよ? 財布もなにも持ってません。下着と服だけです。これから伊沢くんの家に行くんでしょう? あしたデートをするならわたしはなにを着るんです? この花嫁衣装でデートですか?」

 おれはあんぐりと口をあけた。指摘されてみれば正しい意見だった。

「そりゃそうだ。じゃ夏休みにデートしよう」

「それならなんとかなると思います。伊沢くんってあんがい思慮不足ですね」

 おれは顔をしかめてうなずいた。

「おれさ。先生がいればそれでいいんだ。先生以外になにも考えられないよ。だから先生の服まで頭がまわらなかった」

 先生がふふふと笑った。楽しそうだった。

「そうですね。伊沢くんは裸のわたしが好きですものね。わたしの服には関心がないですよね。そうそう。わたしが伊沢くんの部屋から遠ざかったのはもうひとつ理由があります」

「なにそれ?」

「伊沢くんわたしに会うたびに三回はするでしょう? 毎日三回もすると身体にわるいと思いました」

「なんだあ? そんな理由だったのぉ?」

「だってわたし最初に抱かれたときから伊沢くんの妻のつもりでした。伊沢くんの健康管理は妻の仕事です。夫の健康をそこねる妻は失格でしょう? わたしは毎日でも毎晩でも伊沢くんに身をまかせたかったんですよ」

「でもおれのためにがまんした?」

「ええ」

「ねえ先生。おれさ。先生と毎日三回のときのほうが調子よかったよ。翌朝だってちゃんと処理してたしさ。先生が帰ったすぐあとにしたこともあるよ。男って好きな女の子となら一日に三回くらいは平気なんだ。むしろ先生がこない日はむしゃくしゃして死にそうな気分だった。おれの健康を考えるなら毎日抱かせてよ。おれスケベだからさ」

 先生が眉を寄せた。

「そ? そうなんですか? じゃわたしのしたことって?」

「おれを疑心暗鬼にさせただけだね。先生が毎日きてくれないのはおれに飽きたからだと思ったしさ。紘州パパを先生の愛人だとかんちがいしたんだぜ。先生の部屋にまねいてくれないのは紘州パパがたずねてくるからおれを入れないんだと」

「えーっ! そんなことを考えてたんですか! ショックですぅ! わたし伊沢くんのためを思ってしてましたのに!」

「お互いが誤解してたみたいだね。おれ先生とちゃんと話し合えばよかったよ」

「そうですね。反省しました」

 おれはずっと気にかかっていて訊けなかったことを切り出そうと決めた。聞かないほうがいいとは思う。だが訊かないでこじれるのはもういやだ。

「先生ってさ。おれと決別するために結婚式をしたんでしょ? 結婚してアメリカに行けばおれと離ればなれになる。そうなればおれは先生を忘れてスズネとくっつく。結婚式がどうでもいいってのはそういう意味だよね? 先生は不治井福一郎と結婚したくなかった。でも自分が結婚すればおれは元の平凡な高校生にもどる。退学にもならない。スズネと相思相愛にもなる。万事めでたしめでたし?」

 先生がしぶい顔でうなずいた。

「はい。そう考えました」

「先生が不幸になってもおれが幸福になれば先生はよかったの?」

「ええ。パパはわたしに結婚をすすめるために興信所に依頼したんです。それでわたしと伊沢くんの関係がバレました。伊沢くんとスズネさんのつながりもです。パパにこう言われました。伊沢くんの将来をゆがめてもいいのかと。わたしのせいで伊沢くんが退学になったらわたしは後悔すると思いました」

「先生をなくしたおれが不幸になるとは考えなかったわけ?」

「だって! 伊沢くんはわたしをきらってました! 好きとも愛してるとも言ってくれません! わたしに腹を立ててました! そんなわたしがいなくなって悲しむはずがないじゃないですか!」

 先生の目から涙が落ちた。

「ごめん。そのとおりだ。おれがもっと早く先生に愛してるって言えばよかったんだ。反省してる」

 先生は頭に昇った血が降りたようだ。どうしてそうなったかを思い出したらしい。

「いいえ。伊沢くんはわたしにプロポーズをしてくれましたものね。わたしも突っこんで訊くべきでした。わたしを愛してるかとたしかめるべきだったんです。ごめんなさい」

「お互いさまだね。おれは口にだして言わなくてもお互いにわかってると思ってた。おれと先生は愛しあってるとね。実際に相思相愛だったわけだけどさ。アリスママに説明されておれちょっと女が理解できたよ。自分からは言わないくせに男には言ってもらいたい生き物だってね。でもさ。先生の言葉ってまわりくどいのが多いよ? おれなにが言いたいのかわからないときがよくあるんだ。もっと簡単に言ってよ先生」

 先生が口を突き出した。

「簡単に言えるなら女なんかやってません」

「そ? そうなの?」

「そうです。女ってそういう存在です。いつも直球勝負の男とはちがいます」

「ふうん。そうなんだ。あのさ先生。最後にとっても訊きにくいことを訊いていい?」

「なんですか?」

「先生あいつとした? 結婚が決まって一週間ほどあっただろ?」

 先生がおれを真剣に見つめた。これだけは信じてください。そんな目だった。

「いえ。まだです。あの日だなんだと逃げてました。でも今夜以降それは無理だったと思います。プレジデントホテルに一泊してあした新婚旅行にたつ予定でした。だけどわたしそんなぐあいに運んでもきっと冷凍マグロだったはずですよ」

 おれは胸をなでおろした。先生がまだおれだけしか知らない。そう思うと安堵がおれの胸をヒタヒタと満たした。

 おれは笑顔で訊いた。

「ところでさ先生。その冷凍マグロって自分でコントロールしてなれるわけ?」

「さあ? どうなんでしょう? わたし伊沢くん以外の男のかたにさわられると鳥肌が立つんです。ほかの人とまともにああいう行為ができるとは思えません」

 おれは肩を落とした。

「なんだ。残念」

「残念? 残念ってどういう意味です? わたしが冷凍マグロのほうがいいと?」

「そう。先生はおれの部屋に住むわけだろ? 毎晩あそこまで乱れちゃさすがにまずいと思うぜ。だからふだんは冷凍マグロでいいかなって」

「えっ? そんなにわたし乱れるんですか?」

「あれ? 知らなかったの? 家全体がゆれるほど活動的だしさ。家の外からでも先生の声が聞こえたってスズネも言ってたよ?」

「そ? そうなのですか? やーん! 恥ずかしい!」


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