第十三章 先生の両親
おれと先生は手をつないで駅に足を進めた。とちゅうでスマホをおれたちに向ける人がかなりいた。おれは先生の花嫁衣装を撮影していると思った。まさかおれたちそのものを撮っているとは思わなかった。
おれは知らなかった。さっきの大活劇を結婚式場にいた者たちが動画投稿サイトにリアルタイムで投稿していたとはだ。その時点でおれと先生はインターネットの一部で有名人になっていた。結婚式場襲撃の情報がSNSなどで伝わっておれたちを撮影する人たちがいたわけだ。おれたちは口コミ世界で話題の人だった。
ギラギラした陽射しが猛暑をあおっていた。溶けそうなアスファルトがかげろうを立てておれたちを包みこんだ。暑かった。行く手に公園が姿を現わした。おれははき慣れない靴で歩く先生を公園に引きこんだ。おれと先生は木漏れ日がやわらかに降るベンチで足をやすめた。木々のあいだをぬけてくる風が心地よかった。
おれは訊きたいことがいっぱいあった。言いたいことも山ほどあった。
おれは先生の顔を見た。先生は化粧をしていた。先生の化粧顔を見たのははじめてだ。
「先生も化粧するんだね」
先生が顔をそむけた。
「ホテルの人がしたのです。こんなわたしはきらいですか?」
おれの目がとつぜん曇った。言葉が口をついてでた。おれの意志とうらはらにだ。
「きらいだよ! 大きらいだ! おれを捨てて別の男と結婚する女だぞ! ひどすぎるじゃないか!」
水滴がポロポロと土に吸われた。おれは泣くつもりなんかなかった。最後まで笑っていよう。そう思っていた。だが涙がとまらない。あとからあとからあふれた。
おれはきらいだなんて言うつもりはなかった。愛してる。そう言おうと決めていた。先生をうばい返してだ。かっこよく笑って言うつもりだった。でもおれの口から出たのは恨み言だ。みっともない責め言葉だけだった。
先生も泣きはじめた。おれは泣きながら先生をなぐさめた。
「ごめん。いまのは嘘だ。信じないでよ先生」
先生がおれに抱きついた。
「うれし泣きです」
おれはあぜんとした。
「うれし泣き? なんだいそりゃ? おれにきらわれるとうれしいのかよ?」
「いえ。そうではありません。ひさしぶりに伊沢くんからきらってもらいました。伊沢くん四月五月とわたしをきらってたでしょう? あの頃を思い出しました。伊沢くんはわたしのどんなところがきらいです?」
「そうだなあ。よくわからないところかな? ツンツンしてるかと思えばデレデレだしさ。おれがんばってテストで百点を取ったのにほめてくれなかったしな。都合が悪いとノーコメントでごまかすしさ。そうだ。思い出せばいっぱいあるぞ。おれ先生が本当にきらいかもしんねえ」
先生がおれに抱かれながら涙をぬぐった。
「やーん。本当にきらいはいやですぅ。でもそんな本当にきらいな女を助けにきたのですか?」
おれはいじわるが言いたくなった。
「単なる気の迷いさ。することのない日曜日がひまだっただけだよ」
「わざわざわたしがどこで結婚式をするかを調べてですか? わざわざバクチクやネズミ花火を一万発も用意してですか? わざわざバスケットボールとサッカーボールを持参でですか?」
「そう。わざわざ用意周到な気の迷い。でも本当はそれぜんぶスズネなんだ。スズネがおれたちのリーダー格でさ。あいつがお膳立てしたのをおれたちが実行するってのが昔からのパターンなんだ。ごめんね先生。おれひとりじゃ先生を助けようなんて思わなかったよ」
「そうなんですか? わたしスズネさんにひどいことばかりしましたよ? 今度ちゃんとお礼を言わなきゃだめですね。けどわたし」
「けど?」
「スズネさんの顔を見るともうだめです。嫉妬で胸がどす黒く曇ってついにらんじゃいます。伊沢くんに十二年も愛された女の子ですものね」
「なるほど」
「ところで伊沢くん。どうしてさっき苗塚先生がいたのです? わたし招待してませんよ?」
おれはびっくりした。
「えっ? 気づいてなかったの? 苗塚先生はパイプオルガン奏者だよ。先生の結婚式でパイプオルガンを弾いてたのが苗塚先生だ」
「あら? そうでしたの? わたしあんな結婚式どうでもいいんでまるで気にしませんでした」
「おいおい。どうでもいい結婚式のためにおれをふったのか? ひどい女だなあ」
「いえ。その。結婚式はどうでもよかったんです。でもその」
「でもその?」
「言えません。ノーコメントです」
「じゃなんであんなやつと結婚しようとしたんだ?」
「それも言えません。答えたくありません」
先生がおれから離れた。先生は顔をそむけておれを見ない。おれは先生の顔に両手をのばした。むりやり先生の顔をおれに向けさせた。
「おれのためか先生? おれとの関係がバレたらおれが退学になると?」
先生が力づくで顔を横向けた。
「いやですね。そんなはずはないでしょう? わたしそんな殊勝な女じゃありませんよ」
「嘘をつけ。それが本当ならどうしておれを正面から見ない? あんたは冷たいようで他人に気をつかう女じゃねえか」
先生がおれに抱きついた。おれをぎゅっと抱きすくめた。
「わたし。わたし。わたし」
先生はわたしがどうなのかを口にしなかった。おれの胸に涙をこすりつけた。
おれは黙って先生の頭を抱きしめた。先生がおれの胸で泣きつづけた。
涙が枯れたのか先生がおれから身体を離した。まじめな顔を作っておれに向けた。結婚を決めたのはおれのためだ。そう先生の顔には書いてあった。スズネの推測が正しいのだろう。おれと先生の関係がうわさになりつつあると。
「わたし伊沢くんに処女をもらってもらえました。だからもう思い残すことはありません。わたしは伊沢くん以外いりません」
「ならどうしておれと結婚しないんだよ?」
先生がツンとすねた。
「どうせです」
「どうせ?」
「はい。どうせわたしなんか二十六歳で十歳も年上のおばさんです。伊沢くんは十六歳でスズネさんとよろしくやればいいんです。伊沢くんに捨てられるとわたし生きてられません。生きるつもりがなければ誰と結婚したっていっしょでしょう? 伊沢くんと結婚できないならサルとの結婚だって承諾します。わたし自分の殻に閉じこもるのは得意ですから」
「あはは。あいつはサルかよ。おれは馬だと思ったけどさ。じゃおれとならすすんで結婚するのかい? いますぐ結婚する先生?」
「いいえ。それはできません。無理です」
おれは眉を寄せた。
「なんでだよ? また『無理』かい? おれはそこがわかんねえ。あんたおれが好きなんだろ?」
「ノ。ノーコメントです。そ。その質問には答えたくありません」
「それもわかんねえ。おれがきらいなの?」
先生がまたおれに抱きついた。
「きらいな人にこうして抱かれたくありません。でも深くは訊かないでください。わたし泣いちゃいます」
おれは肩をすくめた。
「もう泣きかけじゃないか」
「まだ涙は落ちてませんよ。さっき枯れました。ねえ伊沢くん。不治井さんがわたし自身を心から愛してくれていればですね。わたしと不治井さんの結婚を認めてくれたんですか?」
おれはすこし考えた。
「いや。誰がどれだけ先生を愛してたって先生はわたさねえ。先生はおれのだ! でもさ。ごめんね先生。結婚式をめちゃくちゃにしちゃって」
先生がうなずいた。
「ええ。わたし泣けました。伊沢くんはいじわるです。わたしを泣かせることばかりします」
「そうだったのか。ごめん先生。おれああするのが先生のためだと思ったんだ。先生を泣かせる気はなかったんだよ」
「ほらまた泣かせてくれます。わたし泣いてもいいですか? 伊沢くんの腕の中で」
先生がおれを抱きしめてキスをした。
先生ここは公園だぞ? おれは周囲を見回した。幸い人影はなかった。
口を離した先生がわんわんと声をあげて泣いた。
「わたし幸せですぅ! こんな日が来ると思いませんでしたぁ! 伊沢くんはわたしをいじめてばかりですよぉ! なんでこんなに泣かせるんですかぁ! わたしに恨みがあるんでしょうぉ! えーん!」
おれは苦笑した。恨みなんてないさと思いながら先生の髪の毛を指ですいた。先生の髪の毛にふれているとふとなにかがおれの心に引っかかった。それがなにかはつかめなかった。だがつかめないままおれは訊いた。
「あのさ。先生のお母さんってどんな人? 式場にいなかったみたいだけど?」
先生が涙をぬぐっておれを見た。
「はい。ママは遠くにいます。結婚式にもきてくれませんでした。いつも手にお酒のグラスを持ってる思い出しかありません。足ぐせの悪い人でした。長い足で他人を引っかけて転ばせるいたずらが好きなのです」
「あれ? おれそんな人に会った気がするぞ?」
おれの脳裏に浮かんだのは酔っぱらいのママさんだ。
「ママに会ったのですか? いつ?」
でもとおれは考え直した。レストランでおれたちを助けてくれた酔っぱらいママさんは四十歳くらいだった。先生は二十六歳だ。ママさんが先生の母親ならママさんは十四歳で先生を産まなきゃならない。そんなわけはなかった。しかもママさんは外人だ。金髪で青い瞳だった。先生は黒髪で黒い瞳だ。おれは先生の髪をすきながら心に引っかかったのをつい忘れた。答えは先生の髪にあったのにだ。
「ううん。おれのかんちがいだ。先生のお母さんじゃないと思う」
「そうですか。こっそり結婚式を見にきてくれたのかと思ったのですが」
そこで先生がおれをにらんだ。なにかに気づいた目の色だった。
「ねえ伊沢くん。伊沢くんが会ったのは女の人ですよね? その女性とどういうやり取りをしたんです?」
おれはうろたえた。
「あ。いや。電話番号を聞いたんだ。先生がおれをふったらそのおばさんに交際を申しこもうかと」
「んもぉ! 信じられません! わたしという女がいながらほかの女に交際を申しこむだなんて! この浮気者!」
「おいおい姉ちゃん。それあんたがおれ以外の男と結婚しようとしてたときの話だぞ? 誓いのキスをする直前まで行ってたじゃないかよ? その女のセリフがそれかい?」
「ええ! さっきも言いましたがそれはそれでこれはこれです! わたしが誰と結婚しようと伊沢くんはわたしだけのものです!」
「なんて身勝手な女だ。まあいい。そろそろ行こうか」
先生がベンチを立った。
「はい。伊沢くんとならどこへなりとまいります。地獄の果てまででもかまいません」
歩きかけたおれたちに背後から声がかかった。
「待て小僧!」
おれはふり返った。先生のお父さんの紘州教授が立っていた。
紘州教授が先生に向けて手をのばした。
「美冴。結婚式場にもどるぞ。いまならまだ取りなしてやれる」
先生がおれのうしろに身をかくした。
「いやです! わたし伊沢くんと行きます!」
「その男はおまえの肉体だけが目当てじゃぞ。そもそもおまえはそいつと別れると誓ったではないか。あれは嘘じゃったのか美冴?」
先生が黙った。
おれはふり向いて先生を見た。
「いまのは本当かい先生?」
先生がうなずいた。しぶしぶ認める顔だった。
「はい。本当です」
おれは先生の肩をつかんでゆさぶった。
「なんでだよ? なんでおれと別れるんだよ? おれがきらいになったわけじゃないんだろ?」
先生がおれから顔をそらせた。
「だってわたしが強引に伊沢くんの初めてをうばって関係をつづけただけです。わたし伊沢くんから好きとも愛してるとも言ってもらってません。男の人は好きでもない女とだってできると聞いてます。伊沢くんには好きな女の子がいました。わたしはずっときらわれてました。伊沢くんにとってわたしは欲望を処理するだけの都合のいい女だ。そう思ったんです。わたし伊沢くんより十歳も年上の二十六歳です。伊沢くんごのみの巨乳でもありません。伊沢くんに好かれる要素がどこにもないじゃないですか。伊沢くんわたしにおこってるみたいでしたしね」
おれは苦い顔になった。先生と紘州教授の関係を誤解して先生に腹を立てた。それは事実だ。でもおれにだって言い分はあった。
「そう。たしかにおれは好きとも愛してるとも言ってないよ。でもおれ三回もプロポーズしたぜ? いますぐ結婚してくれってさ。先生はそのたびに『だめ』『無理』ってことわったじゃないか。先生おれ十六歳だよ? いますぐ結婚できる歳だ。どうしておれと結婚してくれないんだよ? なんで『だめ』で『無理』なんだよ?」
先生がおどろき顔に変わった。
「えっ?」
先生と紘州教授が顔を見合わせた。
紘州教授がおれに質問をした。
「おい小僧。日本では何歳で結婚できるんじゃ?」
「十六歳だろ? おれが以前住んでたマンションの姉ちゃんは十六歳で結婚したぜ?」
ふたたび先生と紘州教授が顔を見合わせた。
先生が肩を落として大きくため息を吐いた。
「伊沢くん。十六歳で結婚できるのは女だけです。それも以前の法律ではです。男はいまも昔も十八歳をすぎないと結婚できません」
おれは先生がなにを指摘したのかすぐには理解できなかった。そのおれに紘州教授が追い打ちをかけた。紘州教授はしぶい顔をおれと先生に向けた。
「おい美冴。そのおバカな高校生に日本の法律も教えてやれ。エッチだけを教えてるんじゃないぞ。民法の第七三一条で男は満十八歳にならんと婚姻ができぬと定められとる。それが日本の常識じゃぞ小僧?」
おれの脳みそにやっと先生と紘州教授の言葉がしみこんだ。
「ええっ! そうなの!」
おれは目を丸くした。おれは民法なんて知らない。女が十六歳で結婚できるなら男も十六歳で結婚できると信じていた。
おれの背中にいた先生がおれの目をのぞきこんだ。先生はあきれ顔だった。
「伊沢くんは知らないでわたしにプロポーズしてたんですか? わたしひょっとしてずっと伊沢くんのプロポーズをことわりつづけてたわけですか? わたしは法律的に無理だって否定してたのを伊沢くんは生活力がないからだめと?」
おれはうなずいた。
「ああ。そう思ってたよ。おれにカネがないからだめなんだってね。おれが働いてないから無理なんだと」
「あら。そんなわけないでしょう? 伊沢くんひとりくらいわたしが食べさせてあげますよ。ちゃんと養えます。わたしこれでも二十六歳です。立派な社会人ですよ」
紘州教授が先生に釘を刺した。
「こら美冴。立派な社会人は教え子を食わんぞ」
そこに声がかかった。女の声だった。
「少年。好きな人に好きと言った?」
おれは声のぬしを見た。酔っぱらいのママさんだった。
先生と紘州教授が同時に叫んだ。
「ママ!」
「アリス!」
えっ? とおれはママさんを見つめた。ママさんの右手はグラスを持ってなかった。ウイスキーのボトルをさげていた。
ママさんがおれに近寄った。ママさんがおれの首のうしろに左手をまわした。ママさんがおれを抱き寄せた。ママさんの口がおれの口をうばった。ママさんのみじかい舌がおれの口にもぐりこんだ。
おれの口の中を舐めまわす舌をおれは追った。おれの口の中でママさんの舌とおれの舌が追いかけっこをはじめた。追いかけっこが終わるとママさんの舌に誘われるままおれはママさんの口に舌を入れた。そのとたんおれの口内は酒の匂いで充満した。
むせ返りそうな酒の匂いにおれは過去を思い出した。先生とはじめてしたキスだ。あのとき先生も酒を飲んでいた。おれはあのあと先生と結ばれた。そう思うとおれの股間に血が集まった。ママさんの口は酒の匂いもあったが先生と同じ匂いと味だった。おれはのぼせてママさんと舌をからめ合った。
ママさんが口を離したときおれのズボンの前は世間に顔向けができなかった。先生がおれの頬を平手打ちした。
「なんてことをするんです伊沢くん!」
「いってー! ごめん先生!」
「ひどいですよ! わたし以外の女とキスをしてその気になるなんて!」
「そっちかい! 先生のお母さんにキスをしたからおこったんじゃないわけね!」
もちろんですと言いたげな顔で先生がママさんをにらみつけた。
「ママもママですよ! 伊沢くんはわたしのです! 盗らないでください!」
ママさんが先生を無視した。
「少年。きみのキスはなかなかよかったわ。でももうすこし練習を積みましょうね」
おれは痛む頬を押さえながら先生とママさんを見くらべた。先生とママさんはおどろくほど似ていた。ママさんの髪の毛と瞳を黒にすれば先生だ。みじかい舌までそっくりだった。どうりでさっき先生の髪をすきながらママさんを思い出したわけだ。先生の髪を金髪に変えたらママさんになるのだろう。
紘州教授がママさんをにらんだ。
「アリス! なにしにきた!」
ママさんが平然と答えた。
「プロポーズをしに」
紘州教授が頭から湯気を立てた。
「なんじゃと! このガキに求婚をか!」
つづいて先生がひたいに血管を浮かせた。
「伊沢くんと結婚するのはわたしです!」
ママさんがニコッと笑っておれに抱きついた。
「あたしこの子が気に入ったの。もらって行くわ」
ママさんの笑顔はからかっている顔だった。誰をからかっているかはわからない。だがおれではなかった。おれはママさんに訊いてみた。
「でもさママさん。ママさんは四十歳くらいでしょ? 十四歳で先生を産んだの?」
「いいえ。あたしは四十二歳よ。十六歳で美冴を産んだわ。ちなみに紘州はいま七十二歳よ。あたしと紘州は三十歳ちがいなの。あたしと少年はよく似てるわね」
おれにはどこが似ているのかわからなかった。おれはママさんの言葉を暗算したあと紘州教授に目を向けた。
「お義父さん。ママさんは十六歳で先生を産んだわけだろ? お義父さんひょっとして十五歳の女の子を孕ませたんじゃないの? お義父さんは物理学の教授でしょ? 四十五歳の立派な社会人が十五歳の教え子を食っちゃったんじゃないの? さっき先生を責めたけどさ。お義父さんに先生を責める資格があるとは思えないよ?」
紘州教授がうろたえた。
「そ。それはそうじゃ。じゃがアリスは教え子ではなかった。わしの研究室を見学にきた留学生じゃったぞ」
おれは鼻で笑った。
「たいして変わらないと思うけど? 父娘で似たことをやっただけじゃんさ?」
「いや。わしは真剣にアリスを愛した。美冴が生まれて結婚もしたぞ」
「でもいま離婚してるんだろ? おれだって真剣に先生を愛してる。法律さえ許せばすぐ結婚してもいい。おれは学校を辞めて先生のために働くさ」
「若いのう。わしも新婚当時はそうじゃったよ。しかし愛だけではどうにもならんこともある。熱にうなされとるいまはわからんと思うがな」
「わかりたくもないね。さあ先生。行こうぜ」
先生がおれと紘州教授を見くらべた。先生はゆれていた。おれと紘州教授のどちらの言葉が正しいかで板ばさみになったらしい。アリスママがおれにキスをして『おれをもらって行く』と言ったのもゆらぐ一因のようだ。先生がおれと行くべきかとどまるべきかを選べなくてきょろきょろしていると紘州教授がおれに問いを投げた。
「おい小僧。美冴の処女はよかったか?」
「ええーっ?」
おれはどう答えるか悩んだ。とんでもない難問だった。誰かこの問いの正解を教えてくれ。そう思った。この父娘はなんて難問をだすんだよ? 娘もすごいが父親はさらに上だぞ?
おれは必死で考えた。実の父親に娘の体の感想を告げる? 『気持ちよかった』ではまずいだろう。かといって『感じなかった』では先生から怒られる。おれはどう答えりゃいいんだ?
先生も紘州教授もアリスママもおれを見つめていた。おれの答えを待っているようだ。口をつぐんで逃げるわけにはいかないらしい。絶体絶命だ。
おれはない智恵をふりしぼった。だが名案は浮かばない。そんな質問をするなよぉと弱音が浮上しただけだ。
しかたがないとおれは覚悟を決めた。
「ああ。先生の処女は最高だったぜ。先生以上の女はいない!」
すると紘州教授の目から涙がポタポタとこぼれはじめた。
「許さん! 許さんぞ! おまえと美冴の仲など認めん! 結婚などだんじてさせんぞ!」
しくじった! そう思った。
今度はアリスママが紘州教授に問いかけた。
「じゃあたしと少年の結婚は?」
紘州教授が爆発した。
「もっと認めん! アリスはわしのものじゃ!」
「さっさとそう言いなさいよ。バカ」
アリスママがウイスキーのびんを地面に落とした。中身の酒が土に染みこんだ。アリスママが紘州教授に抱きついた。
「な? なにをするんじゃアリス?」
「キスをするだけよ。少年とどうちがうかくらべてみるの。なにしにきたって? プロポーズにきたって言ったでしょ? 可愛いひとり娘の結婚式よ? 一応きてみたわ。でも美冴はまるで乗り気に見えない。あなたが部下を押しつけたとしか思えなかったわ。押しつけるあなたも最低だし承諾する美冴も最悪ね。つまらない結婚をする。そう思ってレストランで飲んだくれてたのよ。あんな結婚式は見る気もしなかった。でもね少年が教えてくれたの」
アリスママがおれに目を流した。
紘州教授が抱きついているアリスママに眉を寄せた。
「なにをじゃ? 小僧がなにを言った?」
「あたしはね。日本に来るとアルコール依存症が再発するわ。日本は見た目だけがきれいで味は最低な料理よ。そう思ってた。日本人はたてまえばかりだと信じてたの。うんざりしてたのよ。でもきょうは日本の男を見直したわ。花嫁をうばって逃げる高校生がいるなんてね。ひさしぶりに血が沸いたわ。若さかしら?」
「バカさのまちがいじゃろう」
「そんなバカさならあたしは好きよ。いまのあなたはつまんなーい! 十五歳のあたしを孕ませたあなたはどこへ行ったの? 歳を取るにつれてつまらない男になっちゃってさ。変化がないのよ。退屈だわ。男は攻めでなくちゃね。常識なんて捨てちゃいなさいよ。分別くさいおっさんはだーいきらい」
「七十二歳にもなって分別がなければ人間失格じゃろう?」
「四十五歳のおっさんが十五歳のあたしを妊娠させた時点で人間失格よ」
おれはアリスママに軍配をあげた。
「ママさんの勝ち」
紘州教授の頬が苦笑いでゆがんだ。負けをしぶしぶ認めたようだ。
アリスママが紘州教授に抱きついたままセクシーに腰をくねらせた。
「四十二歳のあたしを孕ませてみる? いまならまだ子どもを産めるわよ?」
アリスママが紘州教授にキスを求めた。おれはさっきのアリスママの言葉を思い出した。おれとアリスママが似ているとだ。アリスママも年上ごのみらしい。
紘州教授がアリスママのキスに応えた。先生はあまくキスを交わすアリスママと紘州教授をじっと見つめた。家族がまたひとつになるかもしれない。そんなよろこびが先生の口もとに浮いていた。
アリスママが紘州教授から口を離して紘州教授に頬をすり寄せた。
「あなた。美冴にかまってないであたしにかまってよ。やり直しましょうあたしたち」
「やり直す? わしらがか?」
「ええ。次は男の子を作る? それともまた女の子?」
ふたたびキスをしながらアリスママがうしろ手をおれにふった。行けと。
おれは先生の手をつかんだ。先生と踏みだしながらアリスママに声をかけた。
「ありがとう! ママさん!」
紘州教授から口を離したアリスママが答えた。
「少年! あたしこそありがとう! 勇気をもらったわ!」
おれは気が進まないが紘州教授にもあいさつを投げた。
「お義父さんもママさんと仲よくね!」
紘州教授がおれに怒鳴った。
「お義父さんと呼ぶな小僧!」
おれは顔をしかめて紘州教授に背を向けた。先生がおれのわき腹をつついた。あとひとこと相手をしてやってください。そんな顔だった。おれは紘州教授をふり向いた。
「じゃなんて呼べばいいわけお義父さん?」
「パパと呼べ!」
先生がクスッと笑った。おれも苦笑いを浮かべた。紘州教授とアリスママは似たもの夫婦らしい。
歩きかけておれはふと気づいた。足をとめて紘州教授に声をかけた。
「パパさん! なんでおれたちが公園にいるとわかったのさ?」
キスをつづける紘州教授から答えが返った。
「インターネットの地図を見ろ」
「インターネットの地図を見ろ?」
おれにはどういう意味かわからなかった。
紘州教授はおれにそれ以上の答えをくれなかった。おれはアリスママを見た。
「じゃママさんは?」
アリスママがスマホをポケットからのぞかせておれに示した。なるほどとおれは納得した。おれはアリスママからスマホをもらった。あのスマホにGPS機能がついていたわけか。おれがどこにいてもあのスマホを持っているかぎり位置を教えてくれるらしい。
アリスママがふと思いついたようだ。先生に問いかけた。
「そうそう美冴! 少年との処女喪失はよかった?」
先生が答えた。
「最高でした!」
アリスママが紘州教授に声をかけた。
「息のあった夫婦になるわね」
紘州教授がブスッと答えた。
「バカな。わしはちがう意見じゃぞ。すぐ別れるに決まっとる」
ぜったい別れるものか。そうおれは思った。先生も同感だったようだ。おれの手をギュッとにぎりしめた。