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 第十二章 結婚式は大立ち回り 

 プレジデントホテルに着いた。スズネがおれの手を引いてホテルのロビーを横切った。スズネはホテルの中にくわしいらしい。下調べをしたのだろうか? そもそもどうやって先生の結婚式場がここだとわかったのだろう?

 おれは不思議顔で教会の戸を押しあけた。吹き抜けの天井はステンドグラスだった。天井までとどく巨大なパイプオルガンが荘厳な音楽をかなでていた。曲はメンデルスゾーンの『結婚行進曲』だった。

 すでに式ははじまっていた。神父の前で新郎が花嫁にキスをする直前だった。

 おれはおもわず大声を張りあげた。

「その結婚! 待ったぁ!」

 式場は九分の入りだった。その全員がおれたち三人をふり向いた。曲がなぜかとつぜんベートーベンの『運命』にきりかわった。ジャジャジャーンとだ。

 先生は純白のウエディングドレスだった。全体がレース飾りでおおわれてすそは床まであった。先生の眉間にはたてじわがきざまれていた。

「先生! そんなしかめっツラで結婚式をあげてんじゃねえぜ!」

 おれの声が先生にとどいた。とたんにパッと先生の顔が笑顔に変わった。おれは先生のその天使みたいな笑顔を見て確信した。おれはここに来て正解だと。なにがあってもこの女をうばって逃げよう。そう決心した。先生の笑みは心の底からの喜びにあふれていた。

 先生がおれに声を投げた。舌たらずの発音でだ。

「伊沢くん!」

「バカ野郎っ! いやな結婚なんかすることないだろっ!」

「でもわたし!」

「おれと来い! おまえはおれのだ!」

「けど!」

「『でも』も『けど』もいらねえ! おれと結婚してくれ! たのむ先生!」

 先生がおれに返事をする前にとなりのタキシードの男が先生を自分のうしろにかくした。

 おれはそのとき初めて先生の結婚相手を見た。不治井福一郎は間延びした馬みたいな男だった。いや。馬が間延びした顔と言うべきか。とにかく間抜けとしか思えなかった。すくなくとも利発そうには見えない。あんな間延び馬に先生をわたしたくねえ。そうおれの髪の毛は逆立った。

 不治井がおれに怒鳴った。

「ぼくは美冴さんを愛してるんだぞ! 美冴さんは偉大な数学者だ! 近い将来ノーベル賞だって取れそうなんだぞ! それをきみなんかにわたしてたまるか! きみは高校生じゃないか! 美冴さんの数学の才能をきみは使いこなせないに決まってる! ぼくなら美冴さんといっしょに世界の檜舞台で活躍できるんだ! 高校生のきみと結婚して平凡な主婦になるよりぼくと輝かしい学術の世界を駆けあがるべきだ! 美冴さんの計算力があればぼくは世界一の研究者になれるんだぞ! 美冴さんもそのほうが幸せさ!」

 おれはムカッときた。

「あんたは先生本人を愛してないじゃないか! 先生の数学の才能が欲しいだけだ! そんなやつに先生はわたせない!」

 おれとスズネとハルアキは最後尾から教会の前に進もうと足を踏みだした。

 そのとたんだった。おれたちの前に黒い服で身をかためた男五人が立ちはだかった。

 先頭にいた頬に大きな傷のある男がおれを見た。二十五歳くらいの男だった。

「おいおい坊や。結婚式の邪魔をしてもらっちゃ困るねえ。俺は玄洞組げんどうぐみの若頭で越前雪之丞えちぜんゆきのじょうってんだ。憶えといてくんな。俺は名代としてごちそうされにきただけだがね。不治井のボンの親父とうちの親父は友人でさ。見すごすわけにゃいかねえんだ。式が終わるまで引っこんどいてくんねえかな?」

「いやだ! その花嫁はおれのだ! もらって帰る!」

「どうしてもかい? 聞き分けのねえガキだぜ! ちいと痛い目にあってもらおうかい! おう! やっちまいな!」

 越前の合図で黒服の男たちがおれたち三人に動いた。

 先生がおれに叫んだ。

「伊沢くん! だめよ! 逃げて!」

 おれは心の中で突っこんだ。おい先生。逃げるのはあんただよと。

 スズネがニヤッと笑った。

「なんの用意もしてないなんて思わないでよね! スズネちゃん特製バクチクとネズミ花火が一万連発よ! くらえくそヤクザ!」

 スズネが大きなリュックからバクチクとネズミ花火の巨大な束を取り出した。一万発あるらしい。どんなむちゃをする女だよ? 一万発のバクチクとネズミ花火は高価そうだった。おれは場ちがいな心配で胸を痛めた。あとでおれに請求書がまわってこないだろうなと。

 スズネが百円ライターで火をつけた。導火線が火を噴いた。スズネがバクチクとネズミ花火のかたまりを黒服たちの頭上に投げつけた。

 一万発のバクチクとネズミ花火だ。またたく間に教会中を跳ねまわった。パンパンと爆発がそこかしこで連続しはじめた。参列者たちが立ちあがった。われ先に教会の前へと逃げだした。逃げつつスマホをかまえて撮影している者もいた。パイプオルガンの曲がロッシーニの『ウィリアムテル序曲』にかわった。

 会場の混乱の中でハルアキがおれにサッカーボールを押しつけた。

「マサト。まぼろしの稲妻シュートを決めてくれよ。おれも必殺技をあみだしたぜ。名づけて『ステルスパス』だ」

「ステルスパス?」

「ああ。こんなのだ」

 先生へと足を進めるおれたちに黒服のひとりが横からかかってきた。ハルアキは前を向いたままその黒服の顔にバスケットボールをぶつけた。おれは一瞬なにが起こったのかわからなかった。ハルアキは前を見たままだ。黒服の男をチラリとも見なかった。

「どうなったんだいまの?」

 ハルアキが跳ね返ったボールを回収した。

「目が見てないほうにパスをしただけさ。口で言うと簡単だがこれがなかなかむずかしい。習得するのに一年かかっちまった。マンガからヒントを得たんだがね。飛んでくると思わない場所に飛ぶのがミソさ」

 またひとり黒服がきた。今度は正面からおれにだった。

「くらえ! 必殺っ! 稲妻シュート!」

 おれは黒服にボールをぶつけた。黒服はゆれながら飛んでくるボールをよけられなかった。

 スズネはおれたちのうしろを守っていた。そのスズネに黒服がおどりかかった。

 スズネが叫んだ。黒服の胸ぐらをつかんでクルリと身体を回転させた。

「シャーロックホームズ直伝! 一本背負いぃ!」

 黒服はきれいに床にたたきつけられた。おれは苦笑した。シャーロックホームズは小説の登場人物だ。直伝のはずがないぞと。そのあいだ若頭の越前雪之丞は襲いくるバクチクを相手にタップダンスをおどっていた。なかなかシャレた男だった。大理石の床がトタトタと音を立てていた。

 おれたちが進むにつれて曲がワグナーの『ワルキューレの騎行』にかわった。おれは『なんでだ?』と思ってパイプオルガンを見た。演奏者の横顔が見えた。サングラスをした女だった。見憶えがあった。苗塚だ。『男が萎えるソプラノ苗塚』だった。教師はアルバイトが禁止だ。苗塚はサングラスで顔をかくしてパイプオルガン奏者のアルバイトをしているらしい。おれはスズネがどうして先生の結婚式場を知ったのかわかった。苗塚が教えたのだろう。おれは苗塚に親指を立てた。苗塚がうなずいた。苗塚は乗りに乗っていた。おれたちは苗塚の演奏に乗せられるように前進した。

 先生が不治井の背中からでた。おれに駆け寄ろうとした。教会内は一万発のバクチクとネズミ花火の破裂で大混乱だ。スズネはバクチクとネズミ花火に手製の導火線をつけて爆発を長引かせる工夫をしていた。女性客たちはきゃーっきゃーっと叫びつづけだ。男たちは火の粉を払うのに必死だった。先生のお父さんの紘州教授は誰かに押し倒されたらしく脳しんとうを起こして祭壇のわきでのびていた。

 教会は長イスが左右にならべられていた。通路はまん中に一本だ。しかもせまい。おれたちの前を女性客や男性客が右往左往してさえぎった。なかなか前に進めない。

 混乱する客ごしに先生が会心の笑顔をおれに向けた。

「伊沢くん!」

 おれは先生に手をのばした。まだまだとどかない手をだ。

「先生! いま行くぞ!」

 動きはじめた先生を不治井がうしろからつかみとめた。

「ちっ! こうなったら一発ハメて既成事実を作るまでだ! 来い美冴!」

 不治井が先生の腰を抱いた。先生の全身がビクッとひきつった。身体中に鳥肌が立ったらしい。先生の力が弱まった。おれは苦虫をかみつぶした。男にさわられると気味悪がるくせは治せよなと。

 力の抜けた先生を不治井が引きずった。となりの部屋へと通じる戸にふたりが消えた。

「あの戸はなんだ? どこに通じてる?」

 おれの問いにスズネが答えた。

「となりはレストランよ! レストランの向こうはエレベーターで客室へ登れるの! どこかに部屋を取ってあるんだわ!」

 おれたちは逃げまどう客たちをさばいてとなりのレストランへの戸をあけた。

 レストランは間接照明の落ち着いた雰囲気だった。客はまばらだ。午後二時すぎだった。お昼ご飯の客はもういない。

 いちばん向こうの戸から不治井が先生を引いて出ていくのが見えた。先生がおれの名を弱々しく呼んだ。おれたちは追おうとした。だがそこでも黒服が六人立ちはだかった。こっちにもいたらしい。いや。こちらがメインで料理を食っていたようだ。若頭の越前は名代として退屈な式に参列していたのだろう。血気盛んなチンピラたちはこちらで飲み食いをしていたみたいだ。

 レストランにいた客たちがいっせいに壁ぎわへ避難した。ひとりだけ酔っぱらっているおばさんがおれたちのすぐ前の席でグラスを舐めつづけた。なにが起こっているのかわからないみたいだった。

 黒服のひとりで最も太った男がおれに突進してきた。とんでもない重量級だった。おれはゆだんをしていた。デブは意表をつくほど速かった。とてもよけ切れない。もうだめだ。そうおれは目をしかめた。

 デブがおれに迫った。そのときだ。デブの進路にいたチャイナドレスのおばさんがデブに長い足をかけた。逃げおくれた酔っぱらいおばさんだ。デブはおみごとにスッテンコロリと転がった。すかさずおれは跳躍した。デブは転がったままおれの足の下を素通りした。

 おばさんは四十歳くらいだった。薄紫のチャイナドレスを着ていた。金髪で青い瞳の外人さんだった。スリムな体型で細い肢体に小さな美顔が乗っていた。おばさんの右手にはロックグラスだ。中に琥珀色をした液体がゆれていた。氷ははいってない。察するにウイスキーだろう。ブランデーならブランデーグラスのはずだ。

 おれはおばさんに親指を立てた。日本語で声をかけた。

「グッジョブだ! おばさん!」

 グッジョブくらいならおれのつたない発音でも理解できるだろう。そう思ったわけだ。ところがおばさんは達者な日本語で返事をした。

「どういたしまして少年。ところであんたはなにをやってるの?」

 おばさんは舌がみじかいのか発声が不明瞭だった。おれは舌のみじかい女の言葉を聞き取るのに慣れていた。

「さっきここを通り抜けた花嫁がいただろ? あれおれのなんだよ。だから取り返しに行くのさ」

「なるほど。彼女は『伊沢くん』と呼んでたわね。じゃ少年が伊沢くんか。おもしろそう。あたしも手をかしたげる」

 おばさんが席を立った。グラスを右手にだ。おばさんはふらふらしていた。あきらかに酔っていた。顔が赤い。

「おばさん。すわってなよ。相手はヤクザだぜ。おれたち遊んでるんじゃないんだ。命がけなんだよ」

「義を見てせざるは勇なきなり。そう言うのよこの国じゃ。ちゃんと勉強してる少年?」

 そこへおれたちのうしろから声がかかった。教会にいた越前たち五人の黒服が背後からおれたちに迫っていた。曲がオッフェンバックの『天国と地獄』にかわった。フレンチカンカンのギャロップ曲だ。

「はさみ打ちだな坊や。不治井のボンがあの女をやっちまうまでここで足どめさせてもらうとすっか。不治井のボンはサディストだからあの女にゃきついぜえ。死んだほうがましだって思うかもしれねえなあ」

「そんなことさせるか!」

 おれは叫んだ。だが相手は十一人だ。デブはのびたままだから十人かもしれない。それでも前とうしろに五人ずつだ。本職のヤクザが十人。こちらは高校生が三人。手を貸してくれるのは酔っぱらいの外人おばさんがひとりだ。おばさんがたよりになるとは思えない。越前たちのうしろでは教会にいた客たちがおそるおそるこちらをのぞき見ていた。スマホで撮影をしている者もいた。傍観者にとってはおもしろい見世物だろう。

 おれとハルアキとスズネが身がまえた。

「おっと。やる気だねえ。そうこなくっちゃ。おい。相手をしてやれ」

「へい若頭!」

 前とうしろから黒服たちが殺到した。八人の黒服だ。越前ともうひとりは襲撃を手下たちにまかせておれたちの進路をさえぎるように移動した。うしろからきた越前が今度は前にまわったわけだ。越前とその横に立つ男は腕組みをして事態の推移を見はじめた。そいつは越前につぐ幹部なのだろう。

 おばさんが前からくる五人によたよたと進んだ。おれは叫んだ。

「あぶない! おばさん!」

 しかしあぶないのはおばさんではなかった。黒服たちだった。

 先頭のひとりがおばさんになぐりかかった。おばさんはよろけて男の腕をすりぬけた。おれはラッキーと思った。偶然よろけたせいで黒服の攻撃があたらなかったとだ。

 攻撃をかわされた黒服がうしろからおばさんになぐりかかった。おばさんが右手に持ったグラスを頭上に投げあげた。グラスが宙に舞った。その瞬間だ。おばさんの身体がクルリと回転した。おばさんのきゃしゃな右足が黒服にまわし蹴りを放った。薄紫のチャイナドレスは太ももまでスリットが切りこんでいた。おばさんの下着がチラリと見えた。黒のレースつきだ。さすがは四十代だった。色っぽい大人の下着だ。

 黒服が驚愕のまなざしを残して床にくずおれた。おばさんは落ちてきたグラスを右手でつかまえてひと飲みした。

 ハルアキがゴクッとつばをのんだ。

「なんてすげーんだ! 神わざだぞありゃ! あのおばさん酔拳つかいかよ!」

 しかし間髪を入れず次の黒服がおばさんに抱きつこうとした。足わざをくらうとまずい。だからタックルをしておばさんを寝技に持ちこもう。そう考えたらしい。おばさんは酔っぱらい特有の千鳥足でたたらを踏んだ。黒服はおばさんをつかみきれず床に顔から突っこんだ。

 スズネが指を鳴らした。

「うまい! おばさまがんばってぇ!」

 おばさんがスズネにグラスをかかげた。

 三人目の黒服はおばさんに前蹴りでのぞんだ。おばさんは右に左にくねくねとふらついた。いよいよ酔いがまわったらしい。いつ倒れてもおかしくなかった。なのになかなか倒れない。

 黒服の蹴りはおばさんの残像だけをいつも蹴った。おばさん本体にはあたらなかった。

 黒服の蹴りがまたはずれた。おばさんが黒服のふところに倒れるようにすりこんだ。完全に酔っぱらいだ。

 うわあっやられる! そうおれは目をほそめた。

 黒服は絶好のチャンスとばかりおばさんに手をのばした。おばさんをつかまえようとだ。

 おばさんは黒服を誘惑するように身体をくねらせた。セクシーな動きだった。はっきりエロかった。おれの股間がピクッと反応した。だがまだ起立はしなかった。おれの不能はつづいているらしい。

 おばさんはくねる肉体で紙一重に黒服の手をかわしつづけた。おばさんの右手が黒服の頭にグラスを置いた。黒服がエッという顔になった。その一瞬だ。おばさんの掌底が黒服のあごを突きあげた。おばさんの左手が黒服の頭上から自由落下するグラスをサッと回収した。ダルマ落としみたいだった。黒服はうしろ向きにズデーンとのけぞって倒れた。おばさんが左手のグラスを右手に持ち替えてまたひと口飲んだ。

 おばさんが上を見あげてプハーと息を吐いた。足はふらふらだ。泥酔と言っていい。おばさんがおれに右手のグラスを持ちあげた。

「少年。あとはまかせた。あたしもうだめ。よたよただわ」

 おばさんが近くにあったイスに身を投げた。おれはおばさんに親指を立てた。

「サンキューだ! おばさん!」

 おれは英語が得意だ。だがこんなときになんて言うかは習ってなかった。エクスキューズミーじゃおかしいよな?

 おれは前からくる四人目の黒服に焦点をあわせた。

「くらえっ! 稲妻シュート!」

 ボールが黒服をノックアウトした。

 おれのとなりでハルアキとスズネがうしろからきた黒服にわざをかけた。

「目標っ! 県大会優勝っ! ステルスパス!」

「シャーロックホームズゆずりっ! 一本背負いぃ!」

 六人を倒した。黒服が越前たちをふくめて残り四人になった。越前のとなりにいた幹部がふところに右手を突っこむのが見えた。越前が幹部の右手に手をあてた。

「やめろバカ。ガキ相手にチャカをだしてどうする。ここはホテルのレストランだぞ。しかも客がまだいる。警察に通報されちまうぞ。素手で行け素手で」

 幹部がふところにいれた右手をまた外に出した。拳銃を左肩に吊っているらしい。

 おれはひやっとした。そんなものを出されては勝機がなくなってしまう。

 早くカタをつけねばとおれはあせった。おれの蹴ったボールが跳ねてもどってきた。おれはそのボールを蹴り返した。正面にいた黒服のあごを直撃した。今度は普通のシュートだった。黒服が床にひざをついた。つづいて前のめりに倒れた。

 おれは跳ねるボールに走った。サッカー少年だった勘がもどってきた。おれはその足でおれたちの背後にいたもうひとりの黒服に稲妻シュートを蹴りこんだ。黒服がぶっ倒れた。ハットトリックだ。おれは絶好調だった。中学のときに稲妻シュートを使っていればおれはこれほどの活躍をしただろうか? それとも先生の結婚式という大舞台だからここまでの集中力が維持できるのだろうか?

 ハルアキがドリブルでさっき銃を取りだしかけた幹部に迫った。幹部の注意がハルアキに向いた。だがハルアキはおとりだった。本命はスズネだ。走るスズネが幹部に足払いをかけた。幹部が重心をくずしてよろめいた。そこにすかさずスズネの体落としが炸裂した。幹部がドーンと床に背中をぶつけた。ひくひくと幹部が全身をけいれんさせて動かなくなった。

 残りはひとりだ。若頭の越前のみだった。

 ところがだ。越前が右手を左のわきの下にいれた。黒く光る拳銃を取りだした。落ち着いたしぐさで越前が遊底を引いた。初弾が銃身に送りこまれた。

「遊びは終わりだ坊や。手をあげな」

「卑怯だぞっ越前! それは使わないって言ったじゃないか!」

「ふふふ。そんなこと言ったかねえ。あいにく俺は記憶力がわるいんだ」

 越前が俺に銃口を向けた。これだから大人はきらいだ。都合が悪くなると自分が決めたルールを簡単にほごにしやがる。なんて卑劣なんだ。

 おれはしかたなくゆっくりと両手をあげた。おれの武器は足だ。すきがあれば稲妻シュートが打てる。そう判断してだ。

 越前がおれたち三人に手をあげさせた。銃の撃鉄は起きていた。いつでも弾丸がおれたちに飛ぶ。ピクリとでも動けば弾丸がおれたちを貫く。そんな身動きひとつできない恐怖におれたちはすくんだ。

 にらみ合いがつづいた。越前にとってはそれでいいらしかった。不治井が先生を犯す時間かせぎだからだ。おれは手をあげたままあせった。

 曲がショパンの『葬送行進曲』にかわった。おれは心の中で苗塚に突っこみを入れた。苗塚あんたどっちの味方だよと。

 そのおれに酔っぱらいのおばさんが声をかけた。みじかい舌がつむぐあまい声だった。

「ねえ少年。大人になるとね。好きな人に好きと言えなくなるのよ。あたしは言えなかったわ。あんた彼女に好きと言った?」

 おれはすこし考えた。

「おれも言ってないな」

「なんで言わないの?」

「いや。言わなくても彼女はわかってくれるさ」

「女は言ってもらいたいものよ」

「じゃどうしておばさんは言わないのさ?」

「女は自分から言いたくないの」

「わがままだな」

「そうよ。でもおばさんはやめてね」

「じゃなんて?」

「ママと呼んで」

「ママさん? 酒場の人なの?」

「いえ。飲む一方の人よ」

「じゃママさんは誰? 何者?」

「正義の味方よ。酔っぱらいの」

 おれはいまお礼を言わないともう言えないと思った。

「ありがとう。酔っぱらいの正義の味方さん。おれママさんの電話番号が知りたいな。教えてよ」

 ママさんがポケットからスマホをふたつ取り出した。そのうちひとつをおれに投げた。

「あげる。そこに番号がはいってるわ。いつでもかけてらっしゃい。キスの仕方を教えたげるわ」

 おれは先生にふられたらこのママさんに交際を申しこもうと決めた。金髪で青い目の外人さんだがこれくらい日本語が達者ならつき合えるだろうと。おれは本当に年上ごのみらしい。四十代もオーケーのようだ。でもおれはママさんに見憶えがある気がした。初対面のはずなのにだ。デジャブというやつだろうか?

 越前はのんきに会話をかわすおれとママさんにカチンときたらしい。越前がママさんに銃口を向けた。

「そこの外人! おまえも手をあげろ!」

 ママさんがよたよたと立ちあがった。グラスは右手から離してない。

「オー! アタシニホン語ワカリマセーン! アタシハトオリスガリノパツキン娘ネ!」

 ママさんのたどたどしい日本語に越前が一瞬ひるんだ。外人に弱いらしい。

 おれは胸の内で突っこんだ。おいおい越前。いまのいままで流暢な日本語だったじゃねえかよと。

 そのときだ。ママさんの右手がピクッとぶれた。次の瞬間ウイスキーのはいったグラスが越前に飛んだ。ガギッと音を立ててグラスが拳銃と衝突した。割れたガラスと拳銃がガシャンカチャンと床に落ちた。越前の右手はウイスキーまみれだ。越前の左手が右手を押さえた。右手が痛むようだ。越前の顔がゆがんだ。

 ママさんがおれに叫んだ。

「いまよ! やっちゃって!」

 おれは稲妻シュートを越前にぶちかました。ハルアキはステルスパスだ。とどめにスズネが走って越前に一本背負いをかけた。越前が床に大の字にのびた。

 おれは濡れた銃を拾ってホテルのマネージャーに手わたした。マネージャーが目を見ひらいた。撃鉄の起きた銃を押しつけられてふるえあがったようだ。おれはあらためてホッとした。グラスが命中したときよく暴発しなかったなと。

 ウエイトレスのひとりがマネージャーから銃を取りあげた。ウエイトレスが遊底を連続して引いた。弾倉の弾丸がつきるまで排莢させた。最後にウエイトレスが遊底止めを解除して弾倉を床に落とした。ウエイトレスの指が引き金を引いた。撃鉄がガキンと空打ちをした。ウエイトレスがおれに親指を立てた。おれも親指を立てた。

 つづいてママさんがおれに右手を持ちあげた。ママさんの指はグラスをにぎる形に曲げられていた。

「少年! きみのひたいに勝利の栄冠がかがやかんことを!」

 ママさんは手にグラスがないのが不満なようだ。おれに『乾杯』と言って締めたかったらしい。そのまま指をパチンと鳴らした。指の鳴る音でボーイがママさんを見た。ママさんがボーイに声を投げた。

「スコッチをストレートで。氷はいらないわ」

 おれはママさんに手をふって駆けはじめた。ハルアキとスズネがサッカーボールとバスケットボールを拾っておれにつづいた。パイプオルガンの曲がベルディの『アイーダ』にかわった。

 エレベーターの前でおれたち三人は立ちつくした。廊下に先生も不治井もいない。

「どこだよ? 先生はどこに連れ去られたんだ?」

 このホテルは二十階建てだ。いちいち捜しているあいだに先生が凌辱される。そのとき曲がまた変化した。大リーグの球場でよく流れる曲だ。ニール・ダイヤモンドの『スイートキャロライン』だった。

「スイートルームだ!」

 おれたちはエレベーターで最上階のひとつ下に向かった。最上階は展望レストランだ。スイートルームは十九階だった。

 なぜパイプオルガンにはりついている苗塚がおれたちの動静を知ったのかはわからなかった。かなりあとでおれはパイプオルガンを見た。譜面代の横にモニターテレビがすえてあった。そもそもホテルのオプションで結婚式をビデオ撮影するそうだ。のちに編集してDVD化して参列者に配るためだ。イヤホンをつけた苗塚がカメラの映像と会場の音に合わせて演奏をするらしい。そのため適切な音楽がそのつど流れる。苗塚は教会の聖歌隊に伴奏をつけるだけではないようだ。

 十九階に着いた。エレベーターの戸があいた。先生の声が聞こえた。先生がおれを呼んでいた。

「伊沢くーん! 伊沢くーん! 助けてっ! 助けてぇ!」

 先生は部屋の前で不治井ともみあっていた。

「うるせえ! この不感症女! てめえは黙って股をひらきゃいいんだ! どうせマグロだろが! てめえの価値は女じゃねえ! 天才数学者だ!」

 不治井が先生の頬を往復ビンタした。先生がキャッと悲鳴をあげて床に倒れた。

 おれは頭に血が逆流した。髪の毛が総毛立った。

「先生ふせてろ! 必殺っ! 稲妻シュートォオォォォ!」

 おれはここぞとばかりにボールを蹴った。この一撃に命をかけた。おれの先生を張り飛ばしたバカ野郎を粉々に吹き飛ばしてくれとだ。

 ボールがうなりをあげて飛んだ。一散に不治井の顔面めがけてひた走った。不治井があわを食ってよけようとした。ボールが右に左にゆらゆらとゆれた。不治井が右に顔をそらせた。ボールがクイッと右にぶれた。不治井の顔の真っ正面に直撃弾が命中した。不治井がうしろ向きにドーンとぶったおれた。

 おれはボールにつづいて先生に走った。床にくずおれた先生をお姫さまだっこした。館内放送の曲がヴァンゲリスの『勝利への脱出』にかわった。走るハルアキがトントンと床で跳ねるサッカーボールを回収した。スズネもきて床に大の字にのびた不治井の睾丸を踏んづけた。ズンッとだ。グシャッという擬音が聞こえた気がした。ひっでーとおれとハルアキは顔を見合わせた。不治井は目がさめたら入院かもしれない。まあおれの先生をなぐったクソ野郎だ。勃起不全になってもおれは悲しまない。

 おれはぐったりした先生をかかえて走った。先生が弱々しくおれを抱きしめた。

「伊沢くーん! 逢いたかったぁ!」

 先生がおれの口に口をつけた。おれは走りながら先生のみじかい舌に舌をからめた。スズネとハルアキがよたつくおれと先生をエレベーターに押しこんだ。先生をお姫さまだっこして走りながらキスをするなんてむちゃだ。おれはまっすぐ走れなくなっていた。

「んもぉ。このバカップルは。キスはあとにしなさいよね。いまは逃げるの」

 エレベーターのドアがしまる直前にパイプオルガンの曲がおれの知らないクラシックにかわった。お姫さまだっこのままで先生がおれに告げた。

「シベリウスですよ。『フィンランディア』です。北欧の小国が大国の支配をのがれるために立ちあがる革命の歌です。人々よ蜂起せよ。いまこそ闘うときだ。そんな歌です」

 エレベーターの中で先生がおれを見あげた。先生のうるうるした瞳におれは思わず叫んだ。

「先生はおれのだ!」

 先生が顔をしかめて口をとがらせた。

「まちがってますよ伊沢くん。わたしは誰のものでもありません。わたしはわたしです」

 おれは先生と議論するのをあきらめた。実力行使だ。キスをした。先生が涙目であらがった。先生はゆらいでいるみたいだ。おれが好きな一方でそんな関係はまずいとも思っているらしい。好きだけど別れなければという感じだった。

 先生が口でだけ抵抗した。先生の腕はおれをぎゅっと抱きしめた。

「だめですよそんなの。わたしたちは先生と生徒です。ああん。だめぇ」

 先生のみじかい舌は言葉とうらはらだった。おれの舌に応えた先生の背中をスズネがツンツンと突いた。

「ふふふ。先生。あたしマサトとついに結ばれたわ。昨夜マサトのベッドでキスされながらイカされちゃったもんねえ。マサトったらすっごく情熱的なキスをするのよ。あたし濡れ濡れ。ビンビン感じちゃった」

 先生がおれから顔を離した。きつい目でおれをにらんだ。

「本当ですか伊沢くん?」

 おれはいまのスズネの言葉を思い起こした。ほぼ正しい。そう思った。『結ばれた』という部分が疑問符なだけだ。だが解釈しだいだろう。スズネの部分を可愛がったわけだ。女からすれば合意ができたと思われてもしかたがない。

「あ。ああ。まちがってねえな」

 先生のひたいに青すじが浮いた。おれの上で暴れて床に降りた。

「ひどいです! わたし以外の女の子にそんなことをするなんて! 浮気です!」

「浮気? 浮気はねえだろ? 先生だっておれ以外の男と結婚しようとしたじゃねえかよ」

 先生がおれに人さし指を突きつけた。 

「それはそれ! これはこれです! まったく関係ありません! わたしが誰と結婚しようが伊沢くんはわたしのものです! 浮気はゆるしません! 浮気をするとちょん切りますよ!」

 なんてむちゃくちゃな女だ。おれはそう苦い顔になった。

「あのさ先生。ひょっとしておれが勃たなかったのは先生の呪い?」

 先生がおれのズボンの前を見た。先生のお尻を抱きかかえてキスをしたせいで布が持ちあがっていた。

「勃たなかった? 立派に機能してるように見えますけど?」

 スズネが口をはさんだ。

「さっきまで不能だったのよ! あんたにふられたあとずっとね! 昨夜あたしが処女をあげようとしてさわらせてもピクリともしなかったの! おかげであたしハルアキに処女をあげちゃったわ! あんたのせいよ! この泥棒ネコ!」

「あら? 先ほどスズネさんは伊沢くんと結ばれたと言いませんでしたか?」

「あれはいやがらせよ! 十二年間も好きだった男を横取りされるんだもの! それくらい言わせてよね! マサトはあたしにキスをして手で満足させてくれただけ! 合体はしてないわ!」

 先生がまたおれにキスをした。

「そうだったのですか。誤解してごめんなさい。わたしだけの伊沢くんがほかの女と浮気をするはずがないですものね」

 スズネがおれをつついた。

「調子のいい女。マサトこんな女やめなよ。嫉妬深くて腹黒くて最悪な女だわ。計算高いしさ」

 おれは笑うだけだった。調子がよくて嫉妬深くて腹黒くて最悪で計算高くてもおれは先生が好きだ。もうどうしようもなかった。

 高速エレベーターはすぐ一階に着いた。

 曲がスズネからもらった映画の挿入歌にかわった。おれは思わず口ずさんだ。

『港町へ行ったら伝えておくれ。おれの彼女が待ってるはずさ。おれは人を殺しちまった。こんなおれでも帰っていいかいってよ』

 先生がおれを見た。

「あ。それわたしも知ってます」

 おれは先生にたずねた。

「先生。おれが戦争に行って人殺しになってもおれを待っててくれるかい?」

「もちろんです。わたしには伊沢くんしかいません」

「おれの手が血でよごれてても?」

「ええ。わたしが必ずきれいにしてさしあげます。わたしではいやですか?」

「いやならこんなとこに来るかよ。さあ帰るぞ」

「どこに? わたしのマンションは解約しましたよ?」

「おれの家じゃだめか? おれ親父にたのんでみる。先生を置いてくれってな。おれの狭い部屋でよかったらいっしょに暮らそう」

 先生が涙を浮かべながらおれに抱きついた。無言でだ。

 おれも胸がつまった。言葉がなにひとつ出て来ない。

 おれたち四人はレストランにはいった。海辺の小さな町に最愛の恋人を残して戦争に行った男の賛歌を輪唱しながらだ。酔っぱらいのママさんはもういなかった。

 レストランでは警官たちが黒服と小競り合いをしていた。誰かが通報したらしい。あれだけの騒ぎを起こしたわけだ。そのうえヤクザが銃を持ち出せば警察がくるよな。そうおれは思った。

 苗塚がしのび足でおれたちに近寄った。

「こっちよ。裏口から逃げましょう」

 苗塚がおれと先生の手を引いた。

 おれは苗塚を見た。

「なんで裏口から?」

「警察につかまったら本日中は解放されないわよ。それでもいいの?」

 よくなかった。おれはこのまま先生をうばって家に連れ帰りたい。それから先生と話し合ってお互いにわかり合いたい。

 苗塚はパイプオルガンを離れた。なのにまだ演奏はつづいていた。

「苗塚先生。なんでまだパイプオルガンが鳴ってるの?」

「ああ。あれは自動演奏よ。定番の曲は自動演奏できるようにしてあるの。あたしはそのために雇われたわけよ。曲を記憶させるためにね。でもそれだけじゃおカネにならないからさ。複雑な曲は自動演奏できないって嘘をついて生で演奏させてもらってたのよ。結婚式の生演奏はいいおカネになるし自分のときのリハーサルにもなるでしょ?」

「なるほど。苗塚先生ってあったまいい」

「いやあん。それほどでもぉ」

 苗塚がいつものソプラノで身体をくねらせた。そのソプラノがよけいだとおれは思った。

 おれたちは苗塚の手引きでホテルの裏にでた。先生は白のウエディングドレスだ。目立つことこの上ない。慎重にホテルを離れた。

 おれたちは警察がうろうろしている範囲を脱出して足をとめた。

 先生がスズネを見た。申しわけなさそうな顔だった。先生が頭をさげた。

「スズネさん。わたしイギリスの大学に行こうと思います。誘われてるんです。わたしが日本にもどったのが失敗でした。伊沢くんをよろしくおねがいしますね」

 スズネの髪の毛が逆立った。ツインテールがピンと横に持ちあがった。

「ちょっと! いいかげんにしなさいよね! あたしはゴミ箱じゃないわ! 自分の食べ残しは自分で始末なさい! あたしをキスと手で満足させといて『先生がいいからだめ』って処女はそのままよ! これほどバカにした話ってないわ! あんたあたしからマサトを盗ったなら最後まで面倒を見なさいよね! かっこよく身を引こうなんて許さない! 一発なぐらせなさいよ!」

 先生の返事を聞く前にスズネの手が飛んだ。先生の頬がパシーンと鳴った。

 先生が歯を食いしばって痛みに耐えた。なのに先生の顔は笑っていた。

 スズネが歯ぎしりをしてじだんだを踏んだ。

「ムカつくう! その余裕がきらい! だいっきらい!」

 スズネがハルアキに抱きついた。ハルアキの顔が笑みくずれた。グッジョブとハルアキがおれと先生に親指を立てた。おれも親指を立ててがんばれよとサインを送った。

 おれは先生の耳に口をつけた。

「先生。イギリスに行くって本気?」

「誘われてはいます。でも」

 先生がスズネを見た。スズネは涙目で先生をにらんでいた。

 先生がおれに泣き笑いじみた苦笑を向けた。

「行けば恨まれそうです」

「おれも恨むぞ絶対」

 スズネがうんうんとうなずいた。ふと気づいたらしくスズネが先生にまじめな顔を作った。

「じゃあさ。あんたなんで日本にもどったの? もどった理由はなに?」

 先生が頬を染めた。照れながらスズネを見た。

「わたし大柄なかたや金髪のかたはだめなんです。黒髪で小柄な人がいいんです」

「ああ。なるほど。男あさりに来たってわけね? 最初から男子高校生を食う腹だったわけ?」

「そんなはずはないでしょう? 同僚の先生にいいかたがいないかと期待してです」

「ところがマサトにひと目惚れをした。そうね?」

「は。はい。そのとおりです。ごめんなさいスズネさん」

 そのときスズネはよからぬことを思いついたらしい。スズネがニヤッと邪悪な笑みを浮かべておれに近づいた。スズネが背伸びをしておれの口を吸った。

「最後のいやがらせ。ざまあみろ」

 スズネがおれにくちづけながら先生に笑顔を送った。今度は先生がじだんだを踏んだ。スズネの舌がおれを求めた。おれはハルアキを見た。ハルアキはしてやってくれと手で合図していた。おれは先生に悪いと思いながら感謝のキスをスズネに贈った。スズネがいなければ先生をうばい返すなんて思いつきもしなかった。先生を取り返せたのはすべてスズネのおかげだ。

 スズネがおれから口を離すと苗塚がおれを見た。

「あたしにもそれして。だめ伊沢くん?」

「な? なんで苗塚先生が?」

「こないだの雨の夜の美冴先生とのキスがとっても素敵だったの。どんなキスなのあれって気になって仕方ないのよ」

 なるほどとおれはあきらめた。苗塚がいなければ先生がどこで結婚式をするかわからなかっただろう。毒を食らわば皿までだ。おれは苗塚の手を引き寄せた。渾身の感謝をこめて苗塚の舌をしゃぶり倒した。先生が奥歯をかみしめてキィィィと声を洩らした。嫉妬深いんだとおれは知った。

 おれから口を離した苗塚がへなへなとアスファルトにへたりこんだ。

「すっごーい。こりゃたまらないわ。こんど友也にやってもらおっと」

 先生が思いきり眉間にしわを寄せておれをにらんだ。神父の前での顔よりずっと怖い。おれは肩をすくめた。

「先生。そんな顔をしてると小じわが増えるぞ」

「えっ? そ。そうなんですか。たいへんです」

 先生があわてて眉のあたりを指でマッサージしはじめた。女らしいところもあるんだとおれは意外だった。

 ハルアキがおれに網袋にいれたサッカーボールをさしだした。

「ほらマサト。これを記念にやるよ。じゃおれたちはこれで」

「これで? いっしょに帰るんじゃないのか?」

 ハルアキがうなずいた。

「ああ。おれとスズネはここから別行動だ。実はきのうさ。おれスズネとやっちゃっただろ。でも夜だから家に親父とおふくろがいたわけよ。やっちゃったのはやっちゃったんだけどほんのすこしで終わったんだ。それできょうはゆっくりできるラブホテルでしっぽり楽しもうと思ってさ。せっかく県庁所在地まできたんだ。評判のラブホに行こうかって」

 スズネが口をはさんだ。

「ハルアキって早いの。きのうなんて撮影中に下着の中に無駄弾を撃つほどよ。そのあとあたしにきたと思ったら次の瞬間には終わってたわ」

 ハルアキが頭をかいておれに照れ顔を向けた。

「しょうがねえだろ? 一生見れねえと思ってたものを見たんだぜ? スズネはマサトのものになるって信じてたものな。十一年も大好きだった女の部分だ。それを間近でおがませてもらったんだぞ? 暴発もするぜ。そうだよなマサト?」

 おれは苦笑した。気持ちはよくわかった。おれも先生が現われなかったらそんなだったろう。スズネは十二年間も惚れつづけた女の子だ。

「そうだな。男にとっていちばん見たいものだものな」

「だよな。そんなわけでさ。昨夜は親父もおふくろもいたから楽しめなかったんだ。だからきょうはふたりっきりでこれからラブホさ。マサトと先生もお楽しみだろ? ここで解散にしようぜ。おれスズネをもっと口説かなきゃなんねえの。マサトを早く忘れさせなきゃな。それからスズネの写真の件もわすれるなよ」

「ああ。わかった。ちゃんと憶えとく」

 苗塚がため息を吐きだした。

「ああ。いいなあ。あたしも帰って友也に抱いてもらおっと。あたし車だけどさ。伊沢くんと美冴先生も乗せてったげよか?」

 おれはすこし考えた。苗塚の運転をおれは知らない。ここで交通事故を起こして先生が死んだらなにをしているかわからない。

「いや。おれと先生は電車にゆられて帰るよ。いろいろ話もしたいし」

「そう。じゃまた火曜に学校でね。ああ。そうそう。あたしもうすぐ苗塚から沼泥になるの。結婚式にはきてね。招待するからさ。最近あの薬なしでも役に立つようになってきたのよ。愛の力かしらね」

 あきらめだ。そうおれは思った。沼泥は腹をすえたのだろう。教頭のイス一本に目標をしぼったらしい。

 苗塚がホテルの駐車場へと足を返した。

 ハルアキがスズネの肩を抱いておれたちに手をふった。

「じゃおれらはここで! 先生マサトと仲よくやってくれよ! おれはスズネとよろしくやっからさ!」

 おれはハルアキにいつもの軽口を投げた。

「ああ。あとでスズネのぐあいを教えてくれよな」

 笑顔のハルアキが親指を立てた。

「わかった。マサトも先生の感想を教えろよ」

 おれも親指を立てて応えた。先生があきれ顔をおれに向けた。

「親友ではなくエロ友ですか?」

「かもな。おれとハルアキとスズネはガキのころから三人でアダルトビデオを見た仲でさ。お互いのエッチなこともみんな話すあいだがらだったんだ。おれの精通やハルアキの夢精やスズネの初潮も三人の秘密さ。どんなシチュエーションが感じるかを披露しあったこともあるよ」

「それはそれでうらやましいですね。わたしも伊沢くんと幼なじみになりたかったです」

 おれは苦笑した。おれと先生がおない年ならおれは先生に惚れなかったのではないか? おれは年上ごのみらしいから。


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