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 第十一章 先生の結婚  

 梅雨が後半にはいった。期末テストはすぐそこだった。

 おれはパパと呼ばれた男が先生の本当の父親だと思わなかった。てっきり不倫だと思った。あまりに歳が離れすぎていたからだ。顔も似てなかった。父娘を思わせる雰囲気はどこにもなかった。

 期末テストが近づくにつれて先生の顔はどんどん沈んだ。三日に一度という関係はつづいていた。おれの部屋にはいるとき先生の顔は笑顔だ。でもおれの部屋を一歩でると曇った。おれは先生にどう接していいかわからなかった。先生と身体を重ねてもひとつになっていると思えなくなった。先生がパパと呼んだ男の顔がいつもちらついた。先生があの男と楽しんでいると思うと耐えられなかった。そのくせおれの下半身は先生を求めた。おれは先生を乱暴に責めた。この裏切り者。そう思いながらおれは欲望をとげた。

 先生は泣きもしなければ笑いも見せなくなった。おれとつながってもどこか冷めた目だった。気持ちよくないのに気持ちいいふりをしている。おれはそう感じた。

 おれの家をでると先生の肩はどんどんさがった。先生のマンションに着くころにはすっかり猫背になっていた。パパと呼ばれた男が現われたのはあの一度だけだった。おれはパパに会えないから先生の元気がないにちがいないと思った。

 そんな中で期末テストが始まった。梅雨の終わりの大雨が降っていた。

 数学のテストがどうだったかおれは鮮明に憶えている。おれは最初の難問をあえて無視して二問目から解いた。楽勝だった。最後に難問に取りかかった。こいつは厄介だった。引っかけを三段階に仕掛けてあった。ひとすじなわではいかなかった。まじめに勉強してなければとうてい解けなかっただろう。それでもおれは解き切った。終わったときおれはこぶしをにぎり固めた。やった! 百点だと。

 おれは先生のよろこぶ顔を思い浮かべた。先生にほめてもらえると思った。好きと言ってくれるかもしれない。そうも想像した。

 テストが終わると翌週から短縮授業だ。授業は午前中までになる。テストで赤点を取った者は午後から補習だ。おれは数学が百点ならすべての課目をクリアだった。先生に数学の補習がはいらなければ先生も午後は身体があく。おれは先生と昼から楽しめる。先生がパパと呼んだ男はおれが忘れさせてやろう。そうおれは考えを変えた。先生を責めたりすねたりせずに先生を慰めようと。あの男とは不倫のはずだ。先生はあの男と結婚はできない。でもおれとは結婚ができる。だからおれと結婚しようぜと。

 おれは先生からテストを返してもらった。予想どおり百点だ。学年でおれひとりだった。先生は授業中そっけない。だがその日は先生がおれの部屋にくる日だった。

 おれは先生のあとから部屋にはいった。いつも抱きついてくる先生が抱きついてこなかった。先生はベッドにすわってぼんやりとしていた。おれは先生に声をかけた。

「先生おれ百点取ったよ。おれと結婚してよ先生。いますぐに結婚しよう。おれが先生を幸せにしてやるからさ」

 先生が即答した。

「無理ですよ。それはだめですね」

「また無理でだめなのか? いつになったらおれにうんって言ってくれるんだよ?」

 先生が一瞬こまった顔に変わった。でもすぐ貌をあげた。決意がみなぎる顔だった。

「わたし今度結婚するんです。ですから伊沢くんと結婚はできません」

 おれはがくぜんとした。

「ええーっ! あんな男と結婚するのかっ! おれのほうが百倍はましだぞっ! あんな男じゃなくおれと結婚してくれよっ!」

 先生が苦い顔になった。

「知ってたんですか。でもわたしもういやなんです。高校生と関係をつづけても不毛ですから」

 おれは腹が立った。あんなジーサンよりおれのほうがましだろと。いくら地位やカネがあるからってそりゃねーだろと。

「なんでだよ! そんなのひどいじゃねえか! おれはいったいなんだったんだよ!」

「愛は時間とともに冷めるのですよ。わたし伊沢くんに飽きました。二度と会いたくありません」

 先生がベッドを立った。

「先生!」

 おれは先生をつかまえた。泣きながら先生がおれをふり払った。

「ごめんなさい! これでお別れです!」

 目を押さえた先生が戸をあけて出て行った。おれは先生を追おうとあせった。あせるあまり靴下がすべった。おれはズデンと大きな音を立ててこけた。そのあいだに先生は階段を駆け降りた。おれは床に腹這いになりながら追うのをあきらめた。追いついたところでなにを言えばいい? 結婚をあきらめろ? 代わりに地位もカネもないおれと結婚しろ? 先生の相手は立派な社会人だ。おれはアルバイトすらしてない高校生だった。親からこづかいをもらって貸本屋のマンガを読むガキだ。そんなガキと結婚しよう? どんな女がそこまで幼稚な十六歳と結婚をする? 先生に別れ話を持ちだされても当然だ。おれはそう思った。おれの目から涙がこぼれはじめた。どうしておれは大人じゃないんだ? そんなくやしさがおれの胸をしめつけた。

 先生は翌日から学校にこなくなった。陸丸校長が先生は結婚すると朝礼で説明した。結婚式は七月十四日だと。先生が退職するかは聞いてない。だが結婚してアメリカに行くらしい。そうなれば学校を辞めるだろう。そんな説明を陸丸はした。

 おれはあらためて先生の言葉が事実だったと知った。でも衝撃はもうなかった。おれにできることはなにもない。中学生のときもそうだった。おれは一方的に女教師たちの結婚を知らされてかやの外に置かれるだけだ。ラブレターに返事をくれなかったクソ女より先生がましだ。そう思った。

 先生が結婚するまで一週間もなかった。なんでそんな急に結婚式をするのかおれは知らなかった。おれはただふぬけになっただけだ。自分でも生きているのか死んでいるのかわからない。起きているのか寝ているのかさえわからなかった。名前を呼ばれたら返事をする。なにかしろと命令されたらそれをする。だが自分から行動を起こすことはなかった。

 梅雨があけて猛暑がきた。あやつり人形になったおれを心配してくれたのはハルアキとスズネだ。おふくろは事情を知っているのか知らないのかおれに声をかけなかった。メシをあたえて身の回りの世話をしてくれるだけだ。親父はおれを将棋に誘わなくなった。親父とおふくろはブスッと押し黙って夜ごと日本酒を口にはこぶのみだった。

 ハルアキとスズネは毎日おれをカラオケに誘ってくれた。おれはスズネたちにつき合った。笑いながら最新の歌をがなりたてた。でもなにも感じない。楽しくもなければうれしくもない。悲しみすらなかった。おれは感情がなくなったみたいだった。

 ハルアキとスズネが交代でおれに話しかけてくれた。しかしおれにはなにを言っているかわからなかった。おれは『ああ』とか『おお』とかうなずいただけだ。言葉はすべて右の耳から左の耳へすり抜けた。

 七月の十三日は土曜日だった。先生の結婚式の前日だ。

 おれはベッドに寝て天井を見ていた。このときには本当に先生とああいう関係になったとは思えなくなっていた。先生がおれに残したものは使用済みの下着が二枚だ。おれはそれを見ると先生を思い出して胸がうずく。だから貯金箱に押しこんでベッドの下の奥に転がした。いつか大掃除をしたときにでも出てきて先生を思い出せばいい。あのときそんなこともあったなと。そういう取りとめのない未来をぼんやりと思いえがいていた。小学生や中学生のときの女教師たちのようにいつか思い出に変わると。

 おれはベッドの下から目をそらせて天井を見ていた。なにをする気にもなれない。この一ヶ月あれだけテントを張ったおれの股間はピクリとも動かなくなっていた。朝勃ちすらしない。スズネの言葉どおり不能になったのかもしれない。だがどうでもよかった。使うあてのない機能などあったところで仕方がない。どうしても必要になったら『スーパー勃起んX』を飲めばいいだけだ。

 なんでおれはもっと先生にやさしくしなかったんだろう?

 そう思ったとたんだ。おれの目がぼやけた。涙があふれて耳に垂れた。耳から落ちた涙はシーツに吸われた。

 おれは泣いた。天井から目を離さずに目をあけたまま泣いた。

 おれの愛した人は年上だった。おれの先生は舌たらずだった。おれは先生の声が好きだった。おれを呼ぶあまい声が好きだった。教室で披露する大人の声とおれの前であまえる小学生にも似た舌たらずの声がおれにはたまらなかった。おれは先生が大好きだった。

 失恋の味はとめどもなく苦い。そうおれは知った。おれはその苦みをかみつづけた。楽しかった記憶が色あせずにおれの胸をしめつけた。あとからあとから湧きあがる先生の思い出がおれの胸をパンパンにふくれさせた。針でつつけば破裂しそうだった。思い出せば思い出すほど先生が好きになった。失われたものの味は甘美すぎた。

 あの日先生は泣きながら飛びだして行った。おれはあのとき追いすがるべきだったのだろうか? つかまえて結婚しないでくれとたのめばよかったのか? 

 おれにはわからなかった。後悔ばかりがこみあげた。失ってはじめてわかることもある。おれは先生が好きだ。大好きだ。いつの間にかこんなにも好きになっていた。

 午後八時だった。インターホンが鳴った。おれはベッドでビクッと起きあがった。鳴らし方が先生に似ていた。

 おれはあせって階段を降りた。玄関にいたのはスズネだ。おれは肩を落とした。そうだよな。あした結婚式をする先生がくるわけないよなと。

 ツインテールのスズネは学校のカバンをさげていた。学校帰りのはずはなかった。すでに短縮授業でスズネは補習もなしだ。クラブ帰りでもない。その証拠にスズネは私服だった。

「やあマサト。きょうはいいものを持ってきたの」

 スズネがおれの背中を押しておれの部屋にはいった。スズネが家にくるのはひさしぶりだ。去年の夏休みにハルアキときて以来ではないか?

 スズネがおれをベッドにすわらせた。となりにスズネが腰をすえた。行動的なスズネにしてはめずらしくなにも言わなかった。先生に別れを告げられる前のおれならスズネをうながしたはずだ。でもいまのおれはただベッドにすわっているだけだった。先生とああいう関係になる前のおれだとスズネをベッドに押し倒しただろう。いまのおれは不能でスズネのミニスカートを見てもピクリとも反応しなかった。となりにすわるのが先生ならムクムクと起きただろうか?

 時間だけがすぎた。おれもスズネもなにも言わない。しびれを切らしたのはスズネだった。

「マサト。きょうは重大な話があってきたの」

 おれは気のない返事をした。

「はあ。それで」

「あたしマサトが好き」

「はあ。それで」

 スズネは意を決して告げたと思う。だがおれはまるで感情が動かなかった。夢を見ている感じだ。おれは一方的にながめるだけだった。自分からかかわろうとは思わない。

「ねえマサトしっかりしてよ」

「はあ。それで」

 スズネの手が肩まであがった。次の瞬間おれの頬に痛みが走った。おれの目がちょっとさめた。

「いってーっ! なにすんだよスズネ?」

「よかった。やっと目がさめたみたいね。あたしさ。マサトが好きなの。あたしとつき合って欲しいのよ。あたしの言うことがわかる?」

 おれはすこし考えた。

「わかる気はする。スズネがおれとつき合いたい。そうか?」

「ええ。そうよ。それで返事は? イエス? ノー?」

 おれはまた考えた。

「おまえハルアキは?」

「ハルアキとはつき合ってるわよ。でもエッチはしてないの。あたしはマサトが好きだから」

 おれはちょっと混乱した。

「ハルアキとつき合ってるけどエッチはなし? それでおれが好き? どういうことだ?」

「その説明はややこしいからあとでね。いまは答えてよ。マサトはあたしが好き? あたし今夜はマサトに初めてをあげにきたの」

「初めてをあげに? てことはおれとエッチを?」

 スズネが深くうんとうなずいた。

「そうよ。ねえマサトもあたしが好きでしょ? お互い初恋よね? マサトは十二年間ずっとあたしが好きだったわよね?」

 おれは苦い顔になった。

「いや。おれは」

「わかった。じゃキスしよ」

 おれはことわるひまがなかった。スズネは言い終えるやおれに口を押しつけた。おれはスズネにくちびるを舐めまわされた。おれは先生を思い出した。先生ともよくこうやってキスをしたなと。

 スズネが泣きそうな目でおれを見た。

「マサト。あたしにキスをして。あたしに舌をからめてよ」

 ふたたびスズネがおれに口をつけた。おれはスズネの舌に舌をからめた。スズネがアンとあえぎを洩らした。スズネの手がおれの手をつかんだ。スズネの手はおれの手をミニスカートの下に持ちこんだ。下着のゴムの下までおれの指をもぐらせた。スズネがキスをしながらおれごとベッドに倒れこんだ。

「マサト。あたしにさわって」

 スズネにうながされておれは指を進めた。スズネの若草は先生のより濃かった。女のものの感触は先生のと似ていた。スズネの背すじがビクンビクンと波打ちはじめた。おれはキスをつづけながらスズネの敏感な部分を指先でころがした。おれがそうしたくてしたわけではなかった。先生にしたことを指が憶えていた。ああ先生にもこうしたなあ。そんなことを思いながらスズネを愛撫した。

 スズネの手がおれの股間にのびた。おれの股間はピクリともしてなかった。

 スズネがびっくりした顔でおれを見た。

「マサト! あんたホントに不能になっちゃったの!」

 おれは答えなかった。おれが不能かどうかはおれ自身にもわからない。しかし先生に別れを告げられて以来反応してなかった。おれは答えずスズネにキスをした。そして先生にやったようにスズネの胸と下半身を指で愛した。キスをしながらスズネを満足させてやった。スズネがツインテールをふり乱しておれのベッドでお尻を上下させた。

 荒い息が収まったスズネがおれをにらみつけた。

「こらマサト! せめて下着をぬがせてからやってよね! 下着がよごれたじゃない!」

 あっとおれは思った。そういやそうだ。おれは先生とするとき先生の服をぬがすのが好きだった。かならず先生の下着をぬがしてふたりで抱き合った。下着をつけたままの先生を押しあげたことはない。

「あーあ。下着の替えは持ってきてないのよ。冷えたら悲惨よこれ。あんたねえ先生になにを習ったの? 女を満足させるときは下着をぬがせましょう。そう教わらなかったわけ?」

 とつぜんおれのスイッチが切り替わった。目の前が鮮明になった気がした。

「おいスズネ! いまなんて!」

「どしたのマサト? なんか生き返ったみたいな反応だけど?」

「いまなんて言った? おまえおれと先生の関係を?」

「ええ。知ってるわよ」

 おれはがくぜんとした。

「どうしてだ? なぜおまえが知ってる? みんなも知ってるのか?」

 スズネがうふふと笑った。

「みんなはきっと知らないわね。マサトあんたあたしをなめてない? 女シャーロックホームズのスズネちゃんよ? あんたこのひと月ほどようすが変だったでしょう? だからあたしあんたを尾行したのよ。気づかなかったの?」

 おれはぜんぜん気づかなかった。と言うよりおれが先生を尾行していたわけだ。そのおれが尾行されているなんて考えもしなかった。

「じゃぜんぶ見てたのか?」

「ぜんぶは見てないわ。『スーパー勃起んX』をわたしたときはあんたが不能になったと本気で信じてたもの。まさか先生とそんな関係になってるなんて思わなかった。私服で登校してきてハルアキにジャージを借りた日があったでしょう? あの日からよ。あの日のあんたはマジでおかしかったもの。顔色はまっ青だったしさ」

「なるほど。そうか。あの日からか」

「ええ。あたしが見張ってたらあんたは先生を尾行してるじゃない? 『なにをやってんだこいつ?』と思ったわよ。先生にリベンジするって言ってたからさ。てっきり先生に陰険な復讐をするんだと思ったわ。でも先生があんたの家にはいってくでしょう? あんたは先生のあとから家に帰るしね。ますますわからなくなったわよ。あんたの家をでた先生はくらーい顔になってるしさ。あんたはあんたで先生をマンションまで尾行してる。なにをやってるのかちっともわかりませんでしたわあたし」

「じゃどうしておれと先生がそういう関係だと?」

「苗塚に聞いたの。あんたがあたしを苗塚に派遣したでしょ? あれもよくわからなかったのよ。あんたと苗塚の関係と『スーパー勃起んX』がね。それで苗塚を問い詰めたの。苗塚がすっかり白状してくれたわ。おかげでやっと謎が解けた」

「ああ。そういうわけか。推理じゃなかったんだ。知ってる人間から聞きゃわかるよな」

 おれはがっかりした。女シャーロックホームズのスズネが神さまのごとき推理力で真相を見やぶったわけではなかった。スズネに神のような力があればおれをいまの状態から救いだしてくれるかも。そんな期待をおれはしたのにだ。

「あまーい。ここからがスズネちゃんの才能よ。先生のことも調べたわ。先生には七十二歳のお父さんが県庁所在地にいるの。先生のお母さんはずいぶん昔に離婚したそうでわからなかったけどね」

 おれはハッとした。

「ちょ。ちょっと待てよ。七十二歳の父親ぁ? それってロマンスグレーのおっさんか?」

「ええそうよ。写真もばっちり」

 スズネがカバンからファイリングした紙の束を取りだした。おれは写真を見てびっくりした。先生がパパと呼んだ男だった。

「ええーっ? この人が先生のお父さんだったのぉ? おれこの男が結婚相手だと思ってたぞ?」

 おれは混乱した。こいつが相手でなければ先生の結婚相手は誰だ? このおっさんが先生の愛人でなければ先生はやはり処女だったのか?

「なにそれ? 知らなかったのマサト?」

「ああ。おれ先生にそこまで歳の離れた父親がいるなんて知らねえよ。そもそもおれ先生の家族のことをまるで聞いてねえ」

「おいおい。恋人の家族関係くらい聞き出しなよ。そりゃ先生も泣いちゃうわ。あたしだったら絶交だね。先生の結婚相手の写真は手にはいりませんでした。でも名前はわかったわ。不治井福一郎っていう三十歳の物理学者よ。先生のお父さんの雲財寺紘州は県立大学の物理学教授なの。要するに部下と先生を結婚させようってわけね。結婚式場は県庁所在地に建つプレジデントホテルよ。ホテルの一階の吹き抜けにある教会でやるの。時刻は午後二時ね。見取図はこれ」

 スズネがファイルからカラーの案内図を引きだした。

「おまえどうしてこんなものを用意したんだ?」

 スズネがふふふと笑ってカバンから一枚のDVDをつまみだした。

「これを今夜中に見ること。わかった? 絶対に今夜見るのよ。あした見ても役に立たないからね」

「なんだいこれ? タイトルがないけど? 新作のアダルトビデオか?」

「ううん。ちがう。とにかく見ろ。あんたはあたしが来るまえ泣いてたでしょ? 男が泣くな。泣くひまがあれば行動しろ。ああそれから最後にもう一度キスをして」

 おれの返事も聞かずにスズネがおれの口を吸った。おれはスズネの舌に応えてやった。

 キスが終わるとスズネがおれを見た。

「先生がマサトの家にはいってしばらくするとさ。あんたの家がゆれはじめたのよね。女のあえぎみたいな声も聞こえたわ。あたしそこまで見たし聞いたのよ。でもあたしはそれがあんたと先生の行為だと気づかなかった。うかつもいいとこよねえ。先生はてっきり数学の補習にきてるものだと思ってたの。女シャーロックホームズが泣くわ。ホームズはこんなことを言ってたのにね。『最初に不合理なものを除去する。するとあとになにかが残る。手の中に残ったものがどんなに信じにくいものでも人はそれを真実と呼ぶ』とね。あたしの推理力はまだまだよ。既成概念にとらわれすぎてるわ。マサトあんたは既成概念にとらわれちゃだめ。わかった?」

「あ。ああ」

 おれはスズネがなにを言いたいかわからなかった。スズネはその忠告を最後に帰った。おれにDVDと妙な資料を残してだ。資料はプレジデントホテルの見取図と先生の周辺をまとめたものだった。先生の履歴や取り巻く人間関係を時間のゆるすかぎり調査したようだ。

 スズネはどうして先生のことを調べたんだろう? それに先生の結婚式場の見取図をおれにわたしてどうしようってんだ?

 おれは首をかしげながらDVDを再生した。DVDは映画だった。四十年以上前のアメリカ映画だ。最初おれはつまらない映画だと思った。でも音楽は気にいった。映画のなかばで挿入されていた歌だ。

 港町出身の男が戦争に行く。港町に恋人を残してだ。男は戦場で人を殺す。恋人は自分の帰りを待っているだろうか? 人を殺して血でよごれた自分でもむかえてくれるだろうか? そんな悩みを歌いあげていた。男は故郷に帰る友に言づてをたくす。恋人にこう訊いてくれと。『おれは帰ってもいいか? 血によごれた手でも大丈夫か?』とだ。

 歌だから結論はない。戦場の男が恋人を想っているだけだ。恋人がなんと答えたかまでは歌われなかった。戦争が終われば男はきっと港町に帰る。そのとき恋人は彼をむかえただろうか? おれとしてはむかえて欲しい。きっとこの歌を聴く者の誰もがそう思うはずだ。

 おれはその歌を口ずさみながら映画のつづきを見た。主人公は男だった。男はある母娘と関係を持つ。アダルトビデオで言う母娘丼だ。男は娘より母に惹かれる。娘は男が好きだ。でも男は母が好きだった。そこで娘は男をあきらめて別の男と結婚をする。その結婚式場に男が駆けつけて花嫁姿の娘を強奪して逃げる。それだけの映画だった。

 見終わったおれは排出させたDVDを手に考えた。スズネはシャーロックホームズおたくだ。そのスズネがこの映画をおれに見ろと言った。結婚式場の見取図を添えてだ。つまり花嫁を結婚式からうばって逃げろ。そう言いたいのではないか?

 おれは手にしたDVDをほうり投げた。

「バカな。映画だからうまく行くんだ。そもそも先生が結婚を決めたんだぞ。その先生がおれとくるはずねえさ」

 おれはそこでハッとした。スズネはこうも言った。『あんたは既成概念にとらわれちゃだめ』と。『先生がおれとくるはずねえ』? それが既成概念ではないだろうか?

 映画では男と娘は手に手を取って逃げた。花嫁衣装の娘と男だ。それがラストシーンだった。逃走途中のふたりがバスに乗りこんでエンドテロップが流れた。ふたりがその後どうなったか映画は語らない。

 おれの目から涙がこぼれはじめた。この映画みたいに先生をうばって逃げられたらどんなに素敵だろう? だがおれが先生を強奪したとて先生を養えない。おれは先生に求婚した。でも先生は『無理』で『だめ』としか言わなかった。その先生が手に手を取って逃げてくれるはずがない。

 おれは泣いた。こんな映画を置いて行ったスズネを恨んだ。せっかく忘れかけている古傷をまたこじあけやがってとだ。

 おれはほうり投げたDVDを拾いあげた。何度も何度もラストシーンを見た。先生とふたりでバスに乗ったらおれはきっと先生に座席でキスをするだろう。おれが主演する映画のラストシーンはふたりがキスをしている場面で終わりだ。先生もおれも泣きながらキスをしているにちがいない。

 おれはそんなことを思いながらいつしか眠っていた。気がついたら朝だった。

 日曜日で親父もおふくろも家にいた。三人無言で朝メシを食った。おれは時計を見た。午前十一時だった。県庁所在地までは電車で一時間だ。先生の結婚式は午後二時だった。いまから駅に向かえば二時にはプレジデントホテルに着ける。

 おれは着替えて家をでた。

 家の前にハルアキとスズネがいた。

「決心はついたかいわが親友?」

「とうぜん決行よねあたしの初恋の人?」

 ハルアキとスズネは妙な荷物を持っていた。ハルアキは網袋にはいったバスケットボールとサッカーボールだ。ツインテールのスズネは大きなリュックを背負っていた。

 スズネがおれの手を引いた。駅へと歩きはじめた。

 道すがらハルアキがおれに話しかけた。

「おれさ。すっげーものをゲットしたんだ。先生の写真と引き替えならやってもいいぞ。なんとスズネの処女膜だぜ」

 おれはハッと聞き返した。

「えっ? スズネの処女膜かよ? でもおれ先生の写真なんか撮ってねえぞ?」

「一枚もか?」

「ああ。一枚もさ」

「なにをやってんだよマサト? 恋人の写真くらい撮っとけよ。顔写真もなしか?」

 おれはあらためてショックを受けた。

「うわあっ! そうだよ! おれ先生の顔すら撮ってねえ! 処女膜どころか顔もねえぞ!」

 ハルアキがおれの顔を見た。

「なんだいそりゃ? 先生は処女だったのか?」

「きっとそう。でもおれ流されただけでさ。先生の裸体を見るとか味わうとかはいっさいなし。ただやっちゃっただけ。おれ最悪だ。あまいムードもへったくれもねえ。ふられて当然か?」

 スズネが口をとがらせた。

「先生がマサトをふる? そんなバカな! マサトはなにもわかってない! あの女はあたしからマサトを盗ったのよ! あいつはどんなことをしてでもマサトが欲しかったの! あいつほどあくどい女はいないわ! あいつがあんたを手放すものですか!」

「じゃなんで先生はおれと結婚しないんだよ? おかしいだろ!」

 スズネがおれのむなぐらをつかんだ。

「先生は生きるのをあきらめただけよ! 自分を殺して結婚する気なの!」

「なんでだよ!」

「どんなにあんたが好きでもマサトは高校生だもの! 結婚はできないわ! あんたを好きって言うだけで教師を辞めなきゃならない! あんたと関係を持ったら逮捕されるかもしれないのよ! だからあんたをあきらめて心を殺すことにしたの! きっとあんたのためにだわ!」

「どうしておれのためだよ!」

「あんたと関係を持ったとバレたらあんたは退学よ! あんたと先生は噂になりかけてたの! あんたと先生が手をつないで学校からでるのを見た生徒がいるのよ!」

 あっとおれは思った。教頭の蘭野に先生が襲われたときだろう。あのとき先生の手を引いて学校を離れた。

 おれはスズネの考えが読めた。

「そういうことか? 先生はおれと関係ないと周囲に思わせようとして好きでもない男と結婚を?」

「きっとそうよ! あんたを守るためでもなきゃあの極悪非道な鬼畜女があんたを手放すはずがないもの! あいつが最後にあんたの家をでたときの泣き顔を見たわ! あんな悲しい人間の顔を見たのは初めてよ! あたしはざまあみろと思ったわ! マサトとケンカしてふられたんだってね!」

「先生がおれにふられた? そんなバカな。でもよスズネ。さっきから聞いてりゃおまえひどすぎないか? 先生をあくどいだの極悪非道な鬼畜女だのって」

「だってそうなんだもん! マサトはあたしのよ! それをあいつが横から盗ったの!」

「いや。えーと。それに関してはおれわかんねえ」

「じゃあとで聞いといてね! あいつあたしがマサトを好きだって知ってたはずよ! だからあたしを目のかたきにしたんだわ! あたしあいつに文句を言いたい! 勝ち逃げされてたまるものですか! あのあとマサトはふぬけになるしさ! あいつがマサトを捨てたせいよ! あたし全部をつなぎあわせてやっとあいつの行動の意味にたどり着いたの! あのバカ女に言っといてよね! 好きほうだい引っかき回して最後すらひとりよがりに姿を消すなってね! あの泣き顔とマサトの不能がなきゃ手は貸さなかったんだからね! まったく! いますぐあいつの首を絞めてやりたいわ! あの腹黒わがまま自己チューのマサト大好き女め! なんであたしが恋がたきに塩を送らなきゃならないのよ!」

 スズネは先生の代わりにおれの首を絞めかねない勢いだった。

 ハルアキがスズネを押さえておれを見た。

「おれもおまえと先生が結ばれないと困るんだ。だからマサトがんばれ」

「なんでだハルアキ?」

「スズネはおまえが好きだ。おまえが先生と別れるとスズネがまたおまえに行く。そうなるとおれは失恋だ。ここはひとつ先生をうばい取ってスズネに引導をわたしてくれ。たのむぞマサト。おれの恋はおまえにかかってる。あ。それからな。スズネの処女膜の写真は先生の写真と引き替えだぞ。うばい返したら先生の写真を撮れ。顔の写真でごまかすような卑劣な真似はゆるさん」

「わかった。先生がオーケーしてくれたらな」

 スズネが口をはさんだ。

「あの女がマサトのたのみをことわるはずないでしょ! でさ。やっぱり先生ってマグロ?」

「いや。おれがマグロだった」

「そうなんだ。先生は二十六歳だものね。でも処女だったんでしょ? なのにテクニシャンなの?」

「テクニシャンかどうかはわかんねえ。おれ童貞だったからさ。けどすごく活発だよ。教室での無表情が嘘みたい」

「ああ。それはさ。マサトが相手だからよ。いまの結婚相手となら冷凍マグロになるわねきっと。カキンコキンで解凍不可能な超低温マグロね。絶対零度の女よ」

「そうなのか?」

「まちがいないわ。あいつそういう女だもの。好きな男にしか愛想をしない女よ。マサト以外に笑顔は見せないもの。あたしなんかにらまれっぱなしよ」

 なるほどとおれは納得した。

「ところでさスズネ。おまえおれが好きだって言ったよな? じゃどうしてハルアキとつき合ったんだ?」

 ハルアキがおれの肩をたたいた。

「スズネはマサトが好きだ。でもマサトはいつもふらふらしてる。マサトがスズネひとりに定まったらつき合うのをやめる。そういう約束でつき合ってもらったんだ」

 スズネが口を添えた。

「ハルアキはあたしひとすじだものね」

 おれは首をかしげた。

「おれふらふらしてる?」

 ハルアキがおれをにらんだ。

「いつもじゃねえかよ。小学校のときは担任に夢中だった。中学のときは理科と英語の教師にべた惚れだった。ちがうかい?」

「そういやそうか。でもおれスズネにずっと惚れてたぜ?」

 スズネがおれに怒鳴った。

「マサトは自分がわかってない! あんたは年上ごのみの変態だ! 女教師フェチかもしれない! たしかにあたしはあんたの初恋よ! でもそのあとあんたが好きになった女はみんな教師じゃないの! 年上ばかりだわ! おない年はひとりもいないのよ!」

 おれはがくぜんとした。指摘されてみればそのとおりだ。

「そ。そうだったのか」

「そうよ。きっとね。マサトがあたしに惚れたのもおない年だと思わなかったからだわ」

「どういうことだいそれ?」

「あたしがお姉さんみたいだったからじゃない? マサトとハルアキは弟みたいにあたしの言うことを聞いたもの」

「あっ! そういやそうだ。じゃおれ年上ごのみなのか。ぜんぜん意識しなかった」

 スズネが肩をすくめた。

「たぶんそうよ。あたし今回の件があるまでマサトの順位は巨乳が最高位だと思ってた。でもちがったみたい。きっと年上が一番なのよ。こんな男に惚れたあたしがバカだったわ。さらにあんな最悪の女が現われるとは思ってもみなかった。まさか年上の女教師が本気でマサトに惚れるなんてさ。マサトあんたはね。まちがいなく巨乳好きよ。でもそれ以前に年上がいいの。さらに女教師フェチだと思うわ。そろそろ自覚なさい。あたしはあの女にどうしても勝てないのよ」

 おれはぼうぜんとなった。

「先生は巨乳をのぞくとおれのストライクゾーンだったわけか?」

「まさにそのとおり。ねえマサト。あの女を絶対にうばい返してこう言ってちょうだい。あたしの十二年の恋を返してってね」

「すまんスズネ」

「いいのよ。年上ごのみで女教師フェチに惚れたあたしがバカだったの。自業自得だわ。あたし昨夜まで処女だったのよ。でもきょうはもう処女じゃないわ。マサトがもらってくれないからハルアキにあげちゃった。妬ける?」

 チクッと胸が痛んだ。だがそれはスズネを失ったからではなかった。ハルアキ。スズネ。おれ。その三人の対等関係がスズネとハルアキのふたりとおれの二極に分離したさびしさだった。

「ごめんスズネ」

「そっか。このひと月で完全にマサトの気持ちはあたしから離れたわけね」

「すまない。それでスズネ。ハルアキとの初体験は気持ちよかったか?」

「痛かった。でもちょっとよかったよ。マサトがその前にほぐしてくれたからね。マサトとハルアキのふたりに愛されてる気になったわ」

 ハルアキが照れ顔でおれを見た。

「おれはすっげーよかったぞ。マサトありがとう。おまえのおかげだぜ。おまえがスズネをふってくれたからだ。おれおまえと親友になれてよかったよ」

「おれこそそう思ってるさ。ハルアキがいてくれてよかったよ。おれとスズネだけじゃスズネを泣かせてる」

 スズネがおれの首をつかんだ。

「もう泣いたわよ。ハルアキの胸でね」

「悪いスズネ」

 ハルアキが意味ありげにスマホを取り出した。そこにスズネの写真があるのだろう。

「マサトおまえさわっただけで見てねえんだろ? どうせならおがんどきゃよかったのによ」

「そうだな。ちょっとしくじったかも。でもよ。スズネおまえはいいのか? おまえの写真をおれが見ても?」

 スズネが鼻で笑った。

「そもそもマサトにあげる予定だったものだもの。マサトも見る権利があるわ。それにあたしも興味があるの。マサトを盗った女のがどんなか知りたいわ。ああ! でもあたしのよりきれいだったらどうしよう? あたしへこむかも?」

 おれは肩をすくめた。

「そんな妙なものでへこむなよ」

「妙なものとはなによ! 女のいちばん大事な部分よ!」

「わかったわかった。でも写真は外見だけじゃねえか。大切なのは中身だろ? いい子が産めたらそれでいいじゃねえか」

「なるほど。それもそうね。けど外見でも負けたらくやしいぃ!」

 なにがなんでもくやしいようだ。おれは先生を好きになってスズネに悪いことをしたらしい。だがハルアキには感謝された。ハルアキの恋を成就させるためにもがんばらねば。

 ハルアキがおれの顔を見た。

「じゃマサト。おまえ先生の思い出ってなにも持ってねえの?」

「写真は撮ってねえよ。でもおれ先生に白とスカイブルーの下着はもらったぞ。白は先生の破瓜の血がついたやつ」

「おおっ! いいなあそれ」

 横からスズネの指がハルアキの頬に伸びた。

「いてて! 痛いよスズネ! つねらねえでくれぇ!」

 おれはスズネとハルアキを見て笑った。

「スズネ。ハルアキ。仲よくやってくれよ」

 スズネとハルアキがそろって頬をあからめた。スズネとハルアキはふたりだけの道を歩きだしたようだ。

 おれの目から涙がこぼれはじめた。スズネとハルアキが結ばれて素直に祝福してやれる日がくるとは思わなかった。それもみんな先生のおかげだ。

 おれはこぶしを固めた。どんなことをしてでも先生をうばい返してやる。おれの先生だ。おれだけの先生だぞと。


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