第十章 パパ
おれは放課後になると先生から目を離さなくなった。先生がトイレにはいるのさえ見とどけた。もう言いわけのしようがないストーカーだ。さすがにトイレの中までは踏みこまなかった。しかし耳はすませた。もし蘭野がひそんでいたらと危惧したせいだ。でも先生が知ればおれを断罪しただろう。蘭野以上におれが犯罪者だった。先生のおしっこをする音まで聞いたわけだから。
おれは変態街道をまっしぐらだった。これできらわれないと考えるほうがおかしい。だがおれは先生を守っているつもりでいた。おれだけが先生を守れるとだ。
そんなある夜のことだった。
先生がマンションにもどると男がひとり先生をむかえた。七十歳をこえた男だった。老人と言ってもいいはずだ。身なりのいい男で背広を着ていた。地位の高そうなロマンスグレーの男に見えた。顔立ちはガンコそうだがハンサムだった。
先生の顔がパッと輝いた。
「パパ!」
先生が男に抱きついた。おれは眉を寄せた。パパ? 男は七十歳をこえている。先生は二十六歳だ。歳の差は四十五歳ほどあるはずだ。先生の父親なら現在は五十歳くらいではないのか?
男がしぶい声をだした。
「美冴。戸をあけろ」
ふだん声をだすのに慣れている声音だった。職業はアナウンサーとか俳優かもしれない。
「はい」
先生がいそいそとカギを取り出した。戸があくと男が先生の肩を抱いてマンションにはいった。先生も男の胴に腕をまわした。おれ以外の男にさわっている先生を見たのは初めてだ。男と先生のあいだにはおれの割りこめない親密さがあった。
おれのはらわたを嫉妬がこがした。先生そいつは誰なんだよ! そう叫びたかった。
その夜そいつと先生はマンションからでなかった。男が先生のマンションに泊まったわけだ。おれはひと晩中マンションを見張った。つらい夜だった。小雨なんか平気だ。胸の深部からのどを突きあげる嗚咽がたまらなかった。おれはきっと血走った目でマンションを見ていただろう。まばたきすらできなかった。悲しくてくやしくて腹立たしかった。涙がとまらない。おれは一睡もせずマンションの入口を見た。見つづけた。
先生と男がマンションをでたのは翌朝だ。駅で先生は男と別れた。先生は学校に向かう電車に乗った。男は県庁所在地方向への電車だ。ちょうど正反対だった。
おれは迷った。男を追って男の正体を突きとめるか先生を追うかだ。こんなときスズネがいてくれたらなあ。そうおれは思った。スズネがいれば的確な指示をくれただろう。スズネなら男に気づかれずに尾行して男の正体を突きとめたはずだ。
迷ったあげくおれは先生を選んだ。男の正体を突きとめているあいだに先生が蘭野に犯されたらなにをしているかわからない。先生を守るのを優先しよう。そう考えた結果だ。
おれはその日一日をハルアキに借りたジャージですごした。私服のままだったせいだ。おれの高校は私服禁止だった。ハルアキのジャージはハルアキの汗の匂いがした。スズネとハルアキはおれの奇行に眉をひそめていた。
補習に行くと先生も不審顔だった。
「どうしました伊沢くん? 川にでも落ちたのですか?」
おれは先生の問いにろくな答えを返せなかった。あの男が気になって仕方がない。考えまいとしても思考はそちらに流れた。
先生はおれが初めての男だと言った。しかしだ。おれは先生の処女膜をたしかめたわけではない。女は月に一度血を流す。その際に痛いと顔をしかめられればおれに処女か非処女か見分けがつくはずはない。血がでたから処女なんだなと思うだけだ。
先生は県庁所在地に実家があると言った。県庁所在地までは電車で一時間だ。実家からかよおうと思えばかよえるだろう。先生のマンションは家賃が高そうだ。先生は初めて仕事に就いたはずだった。貯金が豊かとは思えない。マンションの家賃はパパと呼ばれたあの男がだしているのではないだろうか? そのせいで先生はおれを自分の部屋に招かない。いつあの男が来るかわからないからだ。先生はあの男の愛人ではないか? あの男はきっと地位のある人物なのだろう。しょっちゅう先生とは会えないにちがいない。その空白を埋めるのがおれではないだろうか?
おれの脳裏に先生とあの男がベッドでからむ姿が浮かんでとまらなかった。おれは股間を盛りあげながら胸が詰まった。欲情しているのか苦悩しているのかわからない。
おれは吐き気に襲われてトイレに走った。便器に胃の中身をぶちまけた。吐き気がとまると次は淫欲だった。おれはあの男の上に乗る先生の妄想に駆られて憎しみのすべてを便器に吐きだした。白い粘液が白い陶器の肌をトロリとつたい落ちた。おれは悲しかった。胸がとめどもなく痛いのにおれの下半身は気持ちよかったからだ。なんて最低な男だよおれって。
トイレをでると心配した先生がおれの手を取った。おれは泣きそうな思いがこみあげて先生の手をふり払った。裏切り者! そう思った。
おれは先生を数学準備室に押しこんだ。おれ自身は『気分が悪いから家に帰る』と告げた。先生が悲しげな顔でおれをみた。
「そうですか。じゃあとで行きます」
おれは迷った。ベッドで先生に問いただしたかった。あの男は誰だと。一方でおれはすねていた。先生となんか二度と寝てやるもんかと。
結局おれは後者を取った。
「いや。医者に行こうと思うからこなくていい。いつ診察が終わるかわからないから」
先生が残念そうにうなだれた。
「わかりました。ではおだいじに」
おれは帰るふりをした。いつもどおり先生を見張った。蘭野はこなかった。教頭として期末テストと夏休みの用意で忙しいようだ。
先生の行動に変化はなかった。完全にふだんどおりだ。うきうきもしていなかった。むしろ沈んで見えた。きっとひさしぶりに会えた男が帰ってさびしいのだろう。おれの胸に黒くすすけたよごれがこびりついて取れなかった。光を吸いこむ闇に思える染みはおれ自身をすこしずつ飲みこみはじめた。
♀
夜だった。美冴はマンションにもどった。マンションの前で雲財寺紘州が待っていた。
美冴は紘州に抱きついた。
「パパ!」
紘州は県立大学の物理学教授だ。歳は離れているが美冴の父だった。母は離婚して国に帰っている。雲財寺家は父と娘のふたりっきりだ。しかし美冴と紘州は離ればなれになることが多かった。厳格な父だが美冴にとってたったひとりの肉親と言えた。美冴が五歳のときに離婚した母とは一年に一度も会わない。
美冴は父をともなって部屋にはいった。
台所のテーブルにつくと紘州が茶封筒をカバンから取り出した。中に写真と報告書がはいっていた。
「美冴。実はおまえに縁談がきておる。そこで興信所に調べさせたんじゃ」
美冴は写真を手に取った。美冴の顔が曇った。
「パパ」
「恋をするなとは言わん。男とつき合うなとも言わん。じゃがその男はまずいじゃろう?」
写真に映っていたのは自転車の荷台にすわる美冴だった。自転車をこぐのは伊沢マサトだ。美冴の顔はひと目で恋をしているとわかる幸せな笑顔だった。雨の中でマサトとキスをかわす美冴もあった。
「でもパパわたし」
「誤解するな。責めるつもりはないぞ。なったことはしかたあるまい。おまえは伊沢と関係を持っておるわけじゃろ?」
美冴は顔を伏せた。
「ええ。そのとおりです。すみません」
「あやまることでもなかろう。伊沢には幼なじみの紀尾井鈴音という初恋の女がいるらしいのう。伊沢はその娘に十二年間もこがれつづけておる。調査員の話では鈴音もまた伊沢が好きだそうじゃな? おまえはそれを知っとって伊沢を誘惑したんじゃろ?」
美冴は顔をあげた。
「いえ。わたし純粋に伊沢くんが好きなんです」
「それはそうじゃろ。数学と酒しか趣味のないおまえが惚れてもない男に近づくとは思えん。しかし伊沢と鈴音が相思相愛じゃと知っとった。そうではないのかな?」
「そ。そうです。わたし知ってました。伊沢くんが鈴音さんに盗られないうちにと伊沢くんを誘ったんです」
「それは『鈴音に盗られる』ではなくおまえが『盗った』んじゃないのかね? 横取りしたのは美冴おまえじゃろう? 十二年間の愛が結実しようとしておるのを邪魔したのはおまえじゃ。大人げない行為ではないかな?」
「は。はい。たしかに」
「先生と生徒の恋は誰もが一度はかかる青春の熱病みたいなものじゃ。わしも大学教授じゃから経験がある。じゃがすぎてしまえばすぐに忘れるものじゃ。おまえは憶えとっても相手は青春の思い出にしかせんさ。高校生は高校生同士じゃよ。まして相思相愛の幼なじみ同士じゃ。おまえがいなくなれば元のさやに収まるに決まっとろう」
「でもわたし」
「わしとおまえの母親は歳が三十離れとったよ。四十五歳のわしの研究室に十五歳の彼女が姿を見せた。わしは年がいもなく彼女に夢中になったさ。彼女もわしに惚れた。愛の最初はなにもかもうまく行くと思う。愛の最後はなにもかもがうまくいかん。彼女はアルコール依存症にかかって離婚した。三十歳も歳が離れると話題も趣味も合わんかった。わしには彼女がとうとうわからんままじゃったよ。おまえと伊沢は十歳離れておる。共通の話題も共通の趣味もなければ肉体を重ねることが共通するだけじゃ。すこし愛が冷めればぎくしゃくしはじめるぞ。悪いことは言わん。歳相応の相手と結婚しろ。愛は一時の錯覚じゃよ。冷めてしまえばなにも残らん。わしは十五歳の彼女の将来を変えてしもうた。結果として不幸にしただけじゃ。愛して愛して愛したすえにたどりついたのはそこじゃよ。おまえにわしの轍は踏んで欲しくないのう。おまえが十六歳の高校生の将来を考えてやるのも大人の責任ではないかな?」
美冴が考えこむと紘州が次の封筒を取り出した。こちらは上質紙だ。
「これがおまえを欲しいと言っとる男じゃ。不治井福一郎という。三十歳じゃ。興信所に調べさせたところ女性関係は皆無じゃった。顔は悪いが出世頭じゃぞ。うちの研究室でいちばんのやり手じゃな。野心家と言えよう。おまえがどうしても欲しいそうじゃ。不治井は八月にアメリカの研究所にはいることになっとる。それまでに結婚しておまえを連れて行きたいそうじゃ。不毛な恋を忘れるにはちょうどいい。そう思うがのう」
美冴は不治井の写真を見なかった。見てもしようがないと思った。わたしの結婚相手は伊沢くんしかいないとだ。
でもと美冴は考えた。紘州の指摘はそのとおりだった。伊沢マサトにはスズネという初恋の想い人がいる。スズネもまたマサトが好きだ。どういう理由があるのかは知らないが現在スズネはハルアキとつき合っている。しかし美冴の見たところハルアキとスズネは肉体関係にない。スズネの本命はマサトだ。だから美冴はマサトを強引に食った。スズネとマサトがお互いの思いをたしかめ合う前にと。
「まあしばらく考えるがよかろう。じゃが七月のなかばには答えをくれ。決まればすぐに式をあげねばならんからのう。あわただしいが七月のなかばすぎにはアメリカで新生活の準備にかかれるはずじゃ。伊沢はおまえとの関係が発覚すれば退学になるのじゃろ? 黙って消えるのも美しい思い出として残っていいのではないかな? 本当はおまえ自身が一番わかっておるはずじゃ。高校生との関係がつづくわけがないとな」
美冴は答えを返さなかった。