第一章 うざいんじゃ冷凍マグロみさえ
先生は化粧をしていなかった。女性用のビジネススーツを着てなければ女子高生に見えた。いや。いまどきの女子高生は濃い化粧をして長いつけマツゲが標準装備だ。水商売のオネーサンにしか見えない。先生はその点で中学生か小学生みたいだった。二十六歳だというのにだ。独身なせいかもしれない。
おれは高校二年生だった。先生は四月におれたちの県立高校に着任した。
先生は美人だ。ととのった貌つきで理知的という形容がぴったりだった。しかしニコリともしない。人間が近づくと眉間にしわを寄せて一歩かならず引いた。
先生の担当は数学だ。数学の天才との噂だった。なんでも数学のノーベル賞と呼ばれる賞を十七歳で受賞したそうだ。そのあとアメリカの大学に入学した。マサチューセッツにある理工系の大学だった。大学院を修了してこのたび帰国した。
そんな天才数学者がだ。どうして田舎町の県立高校に数学教師として赴任したのかおれは知らない。たぶん数学者の引く手がなかったのだろう。先生は二十六歳だ。大学はアメリカも日本も死にぞこないのジーサンで押し合いへし合いをしている。いくら天才でも二十六歳では大学教授になれないのではないか? あるいはやっかみかもしれない。大学教授なんてたいていは凡人だ。天才に来てもらっちゃ困るのだろう。本当の理由はわからない。だがきっとそんなところだと思う。
先生はいつもグレー系のスーツを着ていた。服のセンスは悪くない。しかし色の選択は最悪だった。ドブネズミ色と呼んでさしつかえのないくらーい色ばかりだ。二十六歳の独身女性の身につける色ではなかった。
先生の髪は肩にかかる黒髪だった。サラサラの髪がいつも風になびいていた。前から見ても美人だがうしろ姿はとびきりの美人だった。前から見た先生はみんなの不評のまとだ。しかしうしろ姿の先生はみんなに好かれていた。うしろ姿は険がなかったからだ。
先生は舌が短かい。そのせいで発音が不明瞭だった。
四月の初めのおれは教室のいちばん前にすわらされていた。おれの名前は伊沢正人だ。つまり出席番号が一番だった。二年生になった最初だから出席番号順に席決めがなされたわけだ。
教卓に手をついた先生が自己紹介を口にした。
おれはつい声に出して訊き返した。
「うざいんじゃみさえ?」
先生がおれをにらみつけた。ニコリともせずにだ。
「雲財寺美冴です。伊沢正人くん」
そのあとで先生が黒板に自分の名前を書いた。雲財寺美冴とだ。
おれはうしろの席にいる親友の香芝晴明をふり向いた。
「最初から黒板に漢字で書けよ――つー感じ?」
先生が音もなくおれのうしろに忍び寄った。おれの頭をパカンと出席簿でたたいた。痛くはなかった。だが腹は立った。
おれは口をとがらせた。
「なんで殴るんだよ? 体罰反対! あんた暴力教師かよ!」
先生はなにも言わずにおれに背中を向けた。そのまま黒板に数式を書き始めた。空ぶりをしたおれはよけいに腹が立った。
おれは顔を半分だけうしろに傾けてハルアキに声をかけた。
「あんな冷てえ女に恋人ができるはずねえぞ。あいつきっとベッドで冷凍マグロだな。それで独身なんだろうさ。服の色もドブネズミ色だしな」
おれの言葉に紀尾井鈴音がクククと声を殺して笑った。おれは胸を張った。スズネは左右にふりわけたおさげのツインテールがトレードマークだ。おれとは幼稚園からのつき合いだった。
おれはこのツインテールの活発な幼なじみに惚れていた。幼稚園のときに惚れて以来だからもう十二年になる。
ハルアキとも幼なじみだがハルアキとは十一年のつき合いだ。おれとハルアキとスズネはとあるマンションの同じ階に暮らしていた。おれたち三人はずっとつるんでいた。三人の家のどこかに毎日あつまってはくだらないことをして遊んだものだった。
ハルアキの父親はサラリーマンだ。しかし副業にエロ小説を書いていた。そのためハルアキはエロDVDを父親の部屋からくすねるのが常だった。資料として集めていたから一枚や二枚がなくなっても気づかなかったわけだ。
おれたちは三人で肩をならべてよくそれを見た。おれたちは中学生になってもキスすら知らなかった。だがエッチには興味があった。おれはとなりに女のスズネがいるのに襲わなかった。大人になるとあんなことをするんだな。そのていどにしか思わなかった。ビデオの中の女性と同じことをスズネがすると思えなかった。おれもハルアキもスズネとエッチがしたいと思ってはいた。でもスズネにさわることさえしなかった。
とうぜんと言うべきか。中学生のおれもハルアキも童貞だった。スズネに訊いたことはないけどスズネも処女だったはずだ。要するにおれたちは子どもだった。女の子のとなりでエロビデオを見て自慰をしたいと思ってもスズネを押し倒しはしなかったのだから。
おれが中学三年のとき親父が一戸建て住宅を購入した。幼なじみ三人のうちおれだけがマンションを離れた。
そのころからすこしずつおれたちの関係が変化をはじめた。
高校一年のとき決定的な事態が起きた。おれひとりがちがうクラスに飛ばされた。おれはすこし残念だっただけだ。それが致命的だとは思わなかった。
ハルアキとスズネは一組でおれは五組だった。校舎の端と端にわかれたわけだ。
おれは頻繁に一組に遊びに行った。しかし同じクラスではないというのはハンデだったようだ。
おれとハルアキはスズネが好きだった。でもスズネはおれが好きだと信じていた。だがハルアキとスズネは高校一年の秋につき合うようになった。おれだけがかやの外だ。
おれは親父を恨んだ。どうして引っ越しなんかしたんだと。だけど変わる年頃をむかえただけかもしれない。おれたちはきっと子どもでいられなくなったのだろう。中学生のおれとハルアキはスズネにキスさえしなかった。高校生になったおれたちがスズネと三人でエロビデオを見たらきっとスズネに手がのびたはずだ。中学生のときはスズネにさわることすら思いつかなかったのにだ。いまならたぶんスズネを押し倒す。それが時間というものだろう。
おれはスズネとハルアキをまじえた三人の関係がいつまでもつづくと思っていた。そのくせ初体験はスズネとすると確信していた。おれが初体験をスズネとするとハルアキはどうなるのか? そんな想定はおれの脳裏になかった。その点が子どもだったにちがいない。高校生になっておれたちの関係は一段うえに登るときをむかえたようだ。おれたち三人が肩を並べてアダルトビデオを見ることはきっともうない。
高校でハルアキはバスケット部にはいった。ハルアキとつき合いはじめたスズネはバスケット部のマネージャーになった。
おれは帰宅部だ。中学のときおれはサッカー部だった。だが動機が不純だった。サッカー部の顧問が若い女性教師だったわけだ。おれはその教師の関心を引こうとサッカー部にはいった。
うちの高校の体育系クラブの顧問に女性教師はいなかった。それでおれはクラブに不参加だ。
ハルアキとスズネはバスケットボールという共通の目的をえたことでより密接になったみたいだ。ふたりはいつもいっしょに登校していっしょに帰った。
おれはハルアキとスズネにこれまでどおりに接した。いや。接したつもりだ。だがおれはふたりの顔をまともに見ることができなくなっていた。
おれたちは高校二年生だ。おれとハルアキとスズネは中学生からエッチビデオを見ていた。無修正ものも数多くあった。性に関しては早熟だった。きっとハルアキとスズネはもう関係を持っている。そう想像するとおれの胸はグツグツと煮えた。
ハルアキもスズネも両親が昼間は勤めていた。おれたち三人はみんなひとりっ子だ。ハルアキの家もスズネの家も昼はハルアキとスズネしかいない。エッチをするのに都合のいい環境だ。しかも家族ぐるみのつき合いだった。ハルアキとスズネがそういう関係になってもどちらの親も反対しないだろう。
おれは高校に進学したあともハルアキの家にはよく行った。でもスズネの家には行かなくなった。スズネの部屋でスズネとふたりっきりになるとスズネにエッチなことをしたくなるからだ。
おれはスズネと距離を取った。まさかハルアキとスズネがつき合い始めると思ってなかったせいだ。こんなことになるのならスズネをやっちまえばよかった。おれはいつもそう悔やみながらハルアキとスズネを見る。中学のときにスズネを無理やりなんて思わなかった。おれはどんどんオヤジ化しているのかもしれない。そのうち電車で痴漢をはたらくかも?
おれの高校二年生はそういうゆううつさにおおわれて始まった。
うざいんじゃ冷凍マグロみさえ。それが先生のあだ名となった。もちろん面と向かっては使われない。かげぐちをたたくときのあだ名だ。
『ロボット先生』とも呼ばれはじめた。ニコリともせずただひたすら黒板に数式を書くだけだったからだ。先生は舌がみじかい。だから説明してもらってもちゃんと聞き取れなかった。そのせいで先生本人が口で説明しなくなった。ひたすら黒板に書いた。書きまくった。
『氷の美少女』というあだ名も生まれた。先生とすれちがっただけで背すじに寒けが走るというわけだ。先生は生徒が一メートル以内に近寄ると眉間にしわを寄せて一歩うしろに逃げた。寄らないで。けがらわしい。そうきらわれている印象をみんなに与えた。
もちろん生徒だけではなかった。人間が近寄ると先生はかならず一メートル以上の距離を取った。校長や同僚の教師たちにもだ。教室の机と机のあいだを歩くときは髪の毛を逆立てるような眉をして歩いた。ピリピリと緊張しているのが誰の目にもあきらかだった。生徒にお尻をなでられないか。そう用心しているふうだった。
うちの高校は田舎の県立高校だ。進学校ではなかった。しかし教育困難校でもない。生徒はごく一般の凡人ばかりだ。不良はいなかった。先生に悪さをする生徒は皆無だ。なのに先生はおれたち生徒から距離を取った。いくら美人で天才でもそんな教師が生徒に好かれるはずはない。まさに『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』だった。
おれたちが授業中に見るのは先生のうしろ姿だけだ。おれはいちばん前の席で先生のお尻を間近に見た。でもおれは先生のお尻が悲しかった。おれは巨大なオッパイが好きだ。お尻もドンとボリュームを持つのがこのみだった。要するに典型的なAV女優がおれのタイプだ。
先生はスリムで体型は抜群だった。すらりと細い肢体にちいさな美顔が乗っていた。連続ドラマの女教師役でも務められただろう。だが胸とお尻はちいさい。いや。標準よりすこし小さいていどだ。おれたち三人がいつも見たアダルトビデオの女優たちは巨乳や爆乳だった。持ちきれない乳房だ。進物用のマスクメロンみたいな乳がふたつゆれていた。香芝ハルアキの父が巨乳ごのみなのだろう。
おれは小説を読まない。だからハルアキの父が筆名で書いているエロ小説も読んでない。しかしきっとヒロインは巨乳だ。そうに決まっている。男はみんな大きなオッパイが好きだ。すくなくともおれは好きだった。スズネも高校にはいって一段と胸が張りはじめた。おれはスズネのオッパイやお尻に欲情する日々だった。とうぜんおれの夜のおかずはスズネだ。
おれは板書をつづける先生の尻を見つづけた。先生がチョークをカッカッと鳴らすたびにちいさな可愛いお尻がチマチマとゆれた。こんな貧弱な尻では昂奮しねえな。そう思いながらおれは先生のうしろ姿を見た。事実おれの股間は先生にはまるで反応しなかった。スズネとハルアキが交わっている場面を想像すると胸と下半身が痛くてたまらなかったのにだ。