私が今日も生きてる理由
一生に一度の恋だった。その恋を失った今、もう私に生きている意味などない。私は樹海を彷徨っていた。
私は彼に夢中だった。しかし彼はどうだったのだろう。彼はいつも私のメッセージに返事をくれたし、デートの誘いも断らなかった。しかし、彼の方から連絡をくれたり、行先を提案するようなことはほとんどなかった。それに、彼の口から愛情を感じうる言葉は聞いたことが無かった。それは、体の関係になってからも、付き合って一年が過ぎても変わらなかった。最初の頃はそれでもいいと思っていた。私は彼のことを大好きだったし、尊敬してもいた。しかし、二年が経つ頃には、限界を迎えた。虚しかった。
「私の事、本当に好きなの?」
そう聞いた私に、彼は困ったような目をした。返って来た「好きだよ」では、納得できるはずがなかった。私は、自分から別れを切り出した。彼は、すんなり私の要求を受け入れた。やはり、彼は私のことなど愛していなかったのだと思う。
しかし実際、私のことを愛した人間など、この世には一人もいなかったのだろう。どこまでも続く森を当てもなく歩きながら、私はそんなことを考えていた。父と母はまともな両親に見えるけれど、実際はそれほど私を愛さなかった。私よりも出来の悪い、愛嬌のある弟ばかりを可愛がり、私にはほとんどかまわなかった。私がいなくなったら悲しんではくれるだろう。思い出してたまには泣くだろう。しかしそうやって薄っぺらい感傷に浸り、己の不幸を嘆きながら、どうせ結構平気で生きていく。そういう人たちだった。
私は落ち葉が積もってふかふかした地面を踏みしめて歩いた。綺麗な格好で最期を迎えたいと思い、一番気に入っているワンピースを着てきた。男ウケも両親ウケもしない、ダボっとしたシルエットの、からし色のリネンのワンピースだ。サンダルはぺたんこ。結局、本当は私はこういう服が好きだったんだ。ウエストがキュッと締まって、ひらひらしたのじゃない。華奢なヒールのサンダルじゃない。全部全部無理して、嘘をついて生きてきた。それももう今日で終わりだけど。
「アッ」
その時だった。木の根に躓いて、私はバランスを崩した。しかし、地面に張り巡らされた木の根に阻まれ、体勢が立て直せない。何度か奇妙なステップを踏んで転倒し、そのまま急斜面を転がり落ちた。岩や木の枝にぶつかりながら転がっていく。内臓がひっくりかえったみたいな恐怖を覚えた。こんな死に方は嫌だ。そう思った瞬間、体が空中に投げ出された。
恐る恐る目を開けると、私は生きていた。しかし体は宙づりで不安定に揺れている。そうっと見渡すと、どうやら崖を落ちる途中だったらしい。ワンピースの背中の生地が木の枝に引っかかり、かろうじで転落を免れていた。下を見ると、崖の下に沢が流れている。しかも、何がどうなったのか分からないが、パンツがずれて尻が丸見えになっている。こんな無様な死に方はない。転がり落ちてもいいから、何とかしてこの宙づり状態から逃れたいが、ジタバタ藻掻いてもどうしても枝から外れない。私は疲れて一旦抵抗を止めた。こんな不運があるだろうか。辛くて死のうと思っただけなに、こんなシュールな……
「フフッ」
突然、腹の底から笑いが込み上げてきた。何だか無性に笑えてきて、止まらなくなった。私は声を上げて笑った。涙さえ滲んでくる。
「あーあ、こんな死に方するとはなぁ。末代までの恥じゃん。あ、子孫いないか」
小鳥がさえずり、木々の梢がさわさわと鳴る。そよ風が尻を撫でてスース―する。こんな状況でも、自然が美しかった。胸の中にある笑いの余韻に、少しの後悔が忍び寄ってくる。
「なんか、死ぬこともなかったかもなぁ。恋は終わったけど、別にどうでもいいじゃん、ね。こんな所、来なければよかったなぁ。ま、景色はいいけど。崖だけに」
「あの、お姉さん大丈夫ですか」
突然の人の声に私は飛び上がった。いや、すでに宙づりなのだからこれ以上飛び上がることはできなかったが、内心はまさにそれだった。崖の上を見上げると、迷彩服を着た男性が、崖の上からこちらを覗いていた。
「アッあのすみません、見ようとしたわけじゃなくて」
男性は慌てて視線を逸らせた。私は自分が尻丸出しなことを思い出したが、もうすでにどうでも良くなっていた。
「あ、いいんです。それはいいんで、助けてくれませんか。死のうと思ったんですが、こんなことになっちゃって、なんか死ぬのも馬鹿らしくなってきたんで」
「アッはい! 僕自衛隊の訓練中で、急ぎ応援を要請してきます! アッこれ……」
自衛官は迷彩服を脱いで私の腰から下に掛けてくれた。
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしますが」
「いえっ少しお待ちください。すぐ戻りますから!」
「それでどうなったの?」
大学生になったばかりの娘が聞いてくる
「その自衛官の人たちに助けてもらったのよ」
私は娘の髪を染めてやりながら答えた。
「滅茶苦茶恥ずかしいじゃん……」
「ね。お尻が出てることとかはもうどうでもよかったんだけどね。マヌケすぎて本当に恥ずかしかったわ。それに、その後お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも本当に死ぬんじゃないかってくらい泣いちゃって。私って結構愛されてたんだなって知ったの」
「で、それがきっかけだったってこと?」
「そ、それからお母さん、陸上自衛隊に入ったの。あと、その時お尻に迷彩服を掛けてくれた人」
「うん?」
「あの人がパパよ」
「あの人なんかい」
「そ、パパ尻フェチだから」
何だかんだ、私は幸せに暮らしている。