婚約破棄された醜聞の王子は大好きな令嬢を諦められない
「君との婚約は破棄させてもらう!」
「ええ! 望むところよ!!」
公爵令息が脅し半分で叩きつけた婚約破棄は、それを上回る勢いで返ってきた。
まさかこんな些細なことで、令嬢自らも婚約破棄を望むとは予想外だったらしい。しおらしく落ち込むだろうとタカを括っていた分、ショックが大きかったのだろう。令息は目を丸くして、よろめいた。
クラリス・オルコット侯爵令嬢は仁王立ちして、こちらをまっすぐに睨んでいる。見たことがないほど、毅然と怒りを露わにしていた。その手には、小さな犬が抱かれている。
「か弱いワンコを足蹴にするような男、こっちから願い下げだわ!」
「な、なんだと! 僕が動物嫌いなのは知っているだろう!? その犬が勝手に近寄ってきたから、どけただけじゃないか!」
今まで動物の好き嫌いで何度か衝突はしたが、お茶会に紛れ込んだ子犬を令息が足蹴にしたことで、クラリスの怒りは爆発し、それに逆ギレした令息の売り言葉は、クラリスの買い言葉で実現に至ってしまった。
高貴な家柄の子女が集まる学園のお茶会は、水を打ったように静まりかえった。
ベルフィールド侯爵家にて。
「はぁ~~」
父親の長いため息を、クラリスは横目で見る。
「クラリスよ……公爵家と婚約破棄だなんて。もう各家に噂が回って、大騒ぎだよ」
「だってお父様。向こうから言い出しましたのよ? それにお父様は、結婚しても犬と一緒に暮らしたいという、私の夢をご存知でしょう? あんな動物嫌いの男、伴侶として最初から不適合でしたのよ!」
クラリスは自宅の大きなもふもふ犬を抱きしめながら、憤慨している。
「ワンコを蹴るなんて、人としてあり得ない!」
その怒りの勢いに、父は諦めて肩を落とす。
クラリスは聡明で見目も美しい令嬢だと、社交界でも評判の自慢の愛娘であるが、度を超えた犬好きと、毅然とした意思の強さには父もほとほと困っていた。
否と言ったら断固否だし、理論で筋を通してくる分、反論のしようが無い。
「しかしクラリス。婚約破棄はこれで2人目だよ? しかも1人目は……」
「王太子のことですね? お父様はあの事件を、許すべきだったと?」
「あ、いや、それは……」
「それこそ、人としてありえない所業でしたよね?」
「う、うーん……」
父が弱った隙に、クラリスはもふもふ犬を連れて庭に駆け出した。
「私、お散歩に行ってきますわ!」
庭でワンコと戯れながら、クラリスは幸せな気持ちに満ちていた。
「ああ、やっぱりワンコが好き。こんなに可愛くて、賢くて、もふもふなんですもの。私はね、婚約の失敗が続いて、もう人間の男が嫌になってしまいそうよ」
首を傾げるワンコの額にキスをしながら、クラリスは子供の頃の記憶を思い出していた。
父の勤め先である宮廷に遊びに行ったあの日。
6歳だったクラリスは、中庭でうっかり池に落ちて、溺れかけた。
そこへ宮廷の警備にあたっていた軍用犬が駆けつけて、救助されたのだ。あと一歩遅ければ、自分はきっと溺れ死んでいただろう。その命の恩犬である大きな犬が忘れられず、ずっと心の中で慕っているのだ。
銀色の毛に深い青の瞳が美しい犬が、自身の襟首を噛み掴んで引き上げる力強さ……思い出すだけで胸がときめいて、それは好きを通り越した熱恋だった。
以来、クラリスは無類の犬好きとなったが、あの恩犬は宮廷から辺境の警備に移動してしまったらしく、あれから2度と会えなかった。
「はぁ……あんなに美しくて格好いいワンコ……人間じゃ敵わないわ」
犬にこぼす、犬への悲恋の嘆きは重症だった。
数日後。
クラリスはまたしても、仁王立ちで怒っていた。
「婚約の、再度申し入れ!?」
ワナワナと震える娘の怒りに、父親は誤魔化すように目を逸らす。
「う~ん。どうやら君と公爵家との婚約破棄を、王室の関係者が聞きつけたみたいで。再度、王太子と婚約をしてほしいと……」
「あの、アシュリー王子と!?」
「う、うん」
「嫌ですわ! あんな事件があったのに、同じ相手と2度も婚約するなんて!」
父はまあまあ、とクラリスをなだめる。
「あの事件は子供の頃だったし、王太子殿下も立派に成長されて、きっと昔のことを後悔しているよ」
クラリスはありえない、と首を振る。
「私があの池に落ちて溺れている間、アシュリー王子は恐怖のあまり逃げ出して、誰にも助けを求めずに隠れたのですよ? しかも、その後も無視を続けて、一言の謝罪も無く!」
「う、うん。確かに……でも」
「それに世間であの王子が何と噂されているか、ご存知でしょう?」
「オホン、え~と」
「銀箔の王子、ですわ。見目が良いのは上辺だけで、ペラペラの箔のようだって。王族らしい銀髪と顔は美しいけれど、中身は人見知りのコミュ障で、女嫌い。しかも引き籠もりですって。婚約者として、最悪ですわ!」
父は弁解もできずに、手を合わせて拝んだ。
「クラリスよ、ご尤もだ! だが、雇い主である王家から頼まれた、私の立場も考えてほしい。せめて一度会ってはくれないか! ひと目でもいい!!」
父の懇願に負けて、クラリスは馬車の中にいた。
ひと目でいいと言うのなら、義務的に会うだけだ。
あの池ぽちゃ事件の弁解が一言でも聞けるなら、自分の中のわだかまりも無くなるかもしれない。
「だけど絶対、婚約なんてありえない……」
そう頑なに心に決めたクラリスは、明るい金色の長い髪に映える水色のドレスを纏い、素敵なお嬢様として宮廷の中庭に現れたが、眉間は疑心を露わに顰めている。
目前には、十数年ぶりに会うアシュリー王太子が、お付きの者を連れて立っている。
なるほど。
噂通り、見かけだけは見事に美しい。
銀色の髪も、整った顔も、すらりとした身体も。高貴な服が良く似合っている。
だが……顔はそっぽを向くように斜めに構えて、クラリスを見ていない。
「お久しぶりです、アシュリー王太子殿下。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます」
丁寧に挨拶をするクラリスに和かな笑顔を向けているのは、お付きの者だけだ。
「クラリス様。お初にお目にかかります。私はアシュリー王子に仕える執事のレイです」
噂に聞く、アシュリー王子がいつも側に置いている優秀な世話係らしい。物腰が柔らかく愛想があって、王子よりよほど話しやすそうだ。
中庭の薔薇を眺めながら、クラリスはアシュリー王子の横に並んで歩くが、王子はやはり、こちらを見ようともしない。人見知りのコミュ障で、女嫌いという噂は本当らしい。立場上、世継ぎのために結婚は必須だろうが、あまりにも存在を無視されて、クラリスは改めて失望していた。不躾だった子供の頃と、何ら変わらない。
だが咲き誇る薔薇は芳しく、クラリスは思わず笑顔になった。
「見事な薔薇ですわね。綺麗……」
うっとりとして薔薇から顔を上げると、アシュリー王子と初めて目が合った。
一見冷たく見える青い瞳には深い煌めきがあって、クラリスはドキリとする。すぐに目を逸らされてしまったが、一瞬見惚れてしまった自分を軽率に感じて、クラリスも目を逸らした。
無音になる空間を和ませるように、レイが説明してくれる。
「こちらの薔薇は東の国から輸入した、新種なんですよ」
「まあ。遠方の国との国交が成功して、貿易が盛んになったというのは本当でしたのね」
「ええ。アシュリー王子は語学と歴史学に長けており、他国との交渉の橋渡しをしてくださるので」
「え!?」
意外な仕事ぶりを聞いて、クラリスは思わずアシュリー王子を凝視してしまう。コミュ障なのに!? と叫んでしまうところだった。
アシュリー王子はクラリスに見つめられて照れているのか、顔を赤らめて、視線の置き場所に困っていた。
(何? 可愛い……?)
クラリスの心に迷い言が浮かんで、首を振る。
(いやいや、見目に惑わされてるから)
あまりに麗しい外見だからか、さっきから胸の奥で鼓動が騒いでいる。
レイが紅茶を用意してくれて、テラスのテーブル席に着いたクラリスはほっとした。ひとまず、混乱する気持ちを落ち着けられる。
少し距離を取って横に座るアシュリー王子の、茶器を手に取る所作は美しい。引き籠もりなのに、さすがに作法は叩き込まれているのだろうか。
木漏れ日の中、アシュリー王子に魅入りながらクラリスが紅茶を口元に近づけたその時、思わぬ事が起きた。
アシュリー王子が突然にこちらを振り向き、美しい瞳でクラリスを直視したかと思いきや、立ち上がり、クラリスの持っていたティーカップを取り上げて、凄い早さで茂みに投げ入れたのだ。
「えっ」
一連の動作の後、あろうことか、アシュリー王子はクラリスの両ほっぺを右手でムニッと掴んで、顔を近づけた。
「飲んだのか!?」
いや、まだ飲んでないけど、そりゃ飲むでしょ! と内心突っ込みを入れながら、クラリスは真っ赤になっていた。アシュリー王子の意味不明な行動よりも、間近にある深く青い瞳に再び、鼓動が跳ね上がっていた。隠しようもなく、自分に恋心が芽生えているのがわかる。
「レイ! この紅茶に毒が入っている!」
とんでもない事を叫びながら、王子はレイを振り返ったが、レイはシレッとしていた。
「よく分かりましたね。流石の嗅覚。でも紅茶に混ぜたのは毒ではなく、ほんの僅かな量の漢方です。東の国の漢方には、緊張を解して和やかにする作用がありますよ」
アシュリー王子は愕然として、固まった。クラリスはそんな王子を見上げて衝撃が走り、思わず立ち上がった。
「耳!!」
その言葉に、アシュリー王子は咄嗟に両手で頭を隠した。だが、隠しきれないほど、銀色の髪のてっぺんに、立派なワンコの耳が出ていた。
クラリスは茫然と目を見開いた。
「犬……銀色の、犬……!?」
アシュリー王子は真っ赤になると、ヘナヘナと椅子に座りながら、頭を抱えた。
「犬じゃない……狼だ」
新しい紅茶を置くレイを、アシュリー王子は睨み上げた。
「レイよ。俺を嵌めたな? 興奮すれば耳が出ると知っていながら、漢方で毒を偽装するとは」
「だって、クラリス様が王子の婚約者になられるなら、既に身内同然です。王族同士であれば、アシュリー王子が狼であるとバレても問題ありませんよ」
クラリスは立ったまま、信じられない光景……銀色のもふもふの耳を見つめている。
「あの時……子供の頃に池から助けてくれたのは、狼の姿のアシュリー王子だったの?」
レイが微笑んでこちらを向いた。
「王族は遥か昔、狼の精霊の加護を受けたことから、狼になる身体をお持ちなのですよ。王家の紋章にも、狼が描かれていますでしょう? ただ、それは隠し通すのが家訓とされていまして……」
アシュリー王子は頭を抱えたまま、苦悩するように呟いた。
「耳や尻尾を人前で出すなど、感情を制御できない半人前なのだ。ましてや完全な狼になるなんて、野蛮な振る舞いだ」
まるで裸を見られたように恥入るアシュリー王子を、レイは慰める。
「アシュリー王子はクラリス様のことになると、すぐに興奮してしまいますもんね? あんなに平常心を訓練されたのに」
「言うな!!」
クラリスはまるで、お家のもふもふ犬にそうするように、アシュリー王子の上からそっと被さって、その耳に指で触れながら囁いた。
「警備の軍用犬が救助したなんて、嘘だったのね?」
アシュリー王子は耳まで熱くなるほど赤面して、動揺していた。
「あ、あれは恥だから隠せと、王の指示で虚偽を伝えたらしい。俺はしばらく人間の姿に戻れなくなったので、ずっと幽閉されていた……すまない」
クラリスの中で不満に思っていた無視も、引き籠もりも、合点がいった。そんな状態を誤解して婚約を解消してしまったのが申し訳なく、アシュリー王子の頭を抱きしめた。
「ごめんなさい。命の恩人だったのに」
「い、いや、仕方ない。こうして人の姿で君に会えるようになるまで、訓練に時間がかかったんだ」
「どんな訓練を?」
「そ、その、君の肖像画を見たり、昔もらったハンカチを嗅いだり……」
レイがその情景を思い出して、吹き出していた。クラリスも笑いと一緒に、膨れ上がるように愛情が込み上げていた。
「可愛い。私の愛しい銀色のワンコ。ああ……初恋が叶うのね」
右耳を存分にもふもふしながら、左耳に何度もキスをするクラリスに、アシュリー王子は恍惚と涙目になって、レイは必死で笑いを堪えていた。
それからしばらくして、盛大な結婚式が開かれた。
未だかつてなく熱々の王太子夫妻の誕生を国民は祝福し、銀箔と揶揄されたアシュリー王子は、その後の国政の手腕で醜聞を一蹴した。
深い愛で結ばれたふたりの噂は、羨望とともに遠い東の国まで轟いたという。
最後までお読みくださりありがとうございました!
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