中華後宮百合小譚
栄華極まる五彩国の都。その中心にある巨大な城の一角に、わたしたちが暮らす宮がある。
「やっぱり月鈴の舞はとてもきれいね。……練習に付き合ってくれてありがとう」
「いいってば」と照れたように笑う月鈴はとても可愛らしくて、私もつられて笑顔になる。ふたりだけで行う特訓はもう何度目になるだろう。
「明日はいよいよ本番ね、雪」
「ええ」
明日は中秋の名月を祝う宴席が設けられ、わたしたち下級妃は舞を披露することになっている。演目は「月下仙女」といい、名月の晩に現れた美しい仙女と男の一夜を踊りにしたものだ。
明日の舞台は特別。わたしたちは普段お飾りにすぎない下位の妃だが、内容次第では皇帝陛下から夜伽の指名があるかもしれないのだ。陛下から愛をたまわることは、この宮に住む女たちの悲願であり、最大の目的。
その、はずなのに。
ちらりと月鈴の横顔を見る。後宮に入るだけあって、その姿は瑞々しく華やかだ。月鈴だけじゃない。みなそれぞれ美貌や才能、そして高い家格を持っている。わたしだってそう。
全ては陛下の愛を得て、世継ぎを授かるため。
でも……その機会に恵まれたのに、心が躍らないのはどうしてだろう。
わたしと月鈴は同じ日に後宮へ召し上げられた。他にも十人ばかりの少女が親族の期待を一身に背負い、同じ部屋に集められてこれからの説明を受ける。
栄えある皇帝陛下の側室、その下級位である『才君』というのが私たちに与えられた称号だ。付き人もなく、大部屋で共同生活を送りながら教養や芸事を学び、陛下にふさわしくあるよう日々研鑽をつむ。実力が伴わなければ女官へ降格もありえる厳しい世界だが、懐妊にありつけば皇后の座も夢ではない。
「はじめまして、わたし胡月鈴というの。これからよろしくね」
そう言って彼女は無邪気に笑った。
「……王雪よ。よろしく」
たまたま隣にいただけ。そのわたしに話しかけるものだから、最初は警戒していた。なにせ、父から聞いていた後宮の話は恐ろしいことこの上なく、全てを疑う気持ちがないとこの後宮では生きていけないと思っていたから。
「ねえ見てみて雪、池の蓮がきれいに咲いてるわ」
「雪、どうしたの? 具合が悪いの?」
「これあげる。あなたにとても似合うもの」
そう言ってわたしの懐にひょいと入り込んでしまった月鈴。今では睦まじく姉妹のように過ごしている。後宮での暮らしは大変なことがままあるけれど、心折れずにいられるのは月鈴のおかげだ。
「王才君、胡才君、がんばっていますね」
「李先生」
舞の先生だ。近くを通りがかったのか、わたし達を見るとにこやかに声をかけてくれた。
「胡才君、あなたの舞踊はとてもすばらしいわ。明日の演舞も、本当はあなたに主役をまかせたかったのだけれど……」
そう言って先生は困ったように小さく息を吐いた。舞台でいちばん目立つ仙女の役は、同じ下級妃のなかでも幅をきかせている劉紅花がつとめる。彼女の踊りは悪くないし、むしろわたしより上手いのだけれど、月鈴には全くかなわない。
長い手足がのびのびと宙をかき、指の先や視線まで決しておろそかにしない月鈴の踊り。激しく動いても決して体がふらつくことはなく、そこにきらびやかな衣装が合わされば、その姿はまさに天女のよう。
わたしは彼女の舞っている姿がとても好きだった。
劉紅花が主役なのは外部から圧力があったのだろうとすぐわかる。なにせ貴妃の姪で、本人もそのことをことさら強調しているのだ。後ろ盾の強さはこの後宮での立場に直結する。今は才君の位置だが、そのうちにすぐに序列を上げるだろう。
さまざまな陰謀が渦巻くこの後宮。
できればうまく渡っていきたい。
「——ごきげんよう、王才君」
たっぷりの布を使った華やかな衣装、完璧に結い上げられた御髪、歩くと揺れるきらきらの髪飾り。突然な目上の方のお出ましに、その場にいた全員が両手を胸の前で組み、頭を垂れた。ひとつひとつの動作を丁寧に。それだけで気品が出るというのだから実践するしかない。そして早打ちする心臓をどうにかなだめながら、わたしは口を開く。
「湘賢妃にご挨拶申し上げます。この度は四夫人への冊封、誠におめでとうございます」
「ありがとう。いいわ、気楽にしてちょうだい」
「ありがとうございます」
この後宮には明確な序列がある。
陛下の正妻である皇后を頂点として、その下に側室。そして側室の中にも五つの序列がある。
わたしたち「才君」は五つめの位だ。側室のなかでもいちばん下の立場で、その人数は十程度。基本的に陛下のお渡りはなく、場を賑わせる花のような存在だ。そして目の前にいるのは側室の筆頭格「四夫人」。四人の妃に貴妃・淑妃・徳妃・賢妃とそれぞれに呼び名があって、各個人で宮殿を賜るほどの厚い待遇である。下っ端妃が不興を買っていい相手ではない。
湘賢妃が李先生へ目線を向けると、その意味を察したのか、先生は深く礼をしてこの場から離れていった。その背中が小さくなってから湘賢妃は紅がのった唇をにっこりとさせる。
「王才君。明日の夜は祝いの席だけれども……あなただったらどんな歌を詠むかしら」
胸の前で両手を組んだまま、わたしは笑ってみせた。
「今年は陛下の初戦となった長高の乱が終結してちょうど十年となりますので、それを絡めるかもしれません。かつて戦士を明るく照らした月は、十年の時を経て光をさらに増し、広大な我が国へふり注いでいる。ひっそりと咲く宮の花にも、その光は暖かく届くでしょう。……このような旨が思い浮かびそうです」
内心、冷や汗ものだ。前もって言われていればもう少し気の利いたことが言えたかもしれない。でも即興ならこれが精いっぱい。
「なるほど、おもしろいわね。……ああ、そうだわ、菓子を持ってきたの。二人でお食べなさい」
湘賢妃が後ろに視線をやると、控えていた侍女がわたしへ包みを手渡した。ただの好意なのか、口止め料なのか。
「まあ、とても嬉しいです」
ふいに、湘賢妃のほっそりとした手が伸びて、わたしの頬を撫でた。よい香りが鼻をくすぐる。
「王才君。あなたが望めばいつでも侍女として迎え入れるわ」
艶やかな笑みはさすがの迫力だった。「ではまた」と言ってきびすを返す湘賢妃。去りゆく後ろ姿を低頭したまま見送り、完全に見えなくなったのを確認して、わたしは大きく息を吐いた。失敗はしなかったみたいだ。
ふたり並んでいただいた包みを開ける。
なかは砂糖がまぶしてある花形のかりんとうだった。かなり上等そう。つまんで指先でもてあそぶと砂糖の小さな粒が落ちていく。
月鈴が下を向いてぽそりと口を開いた。
「湘賢妃は、雪がお気に入りなのね」
「そうなのかしら。いつも難しいことを聞かれるから、お会いすると緊張するの」
「そっか」
父は言っていた。おまえは頭はいいがどこか冷めている。その器量を活かし、でしゃばらず、にこにこ愛想よくすることに腐心せよと。なんてありがたいお言葉だろう。自然と魅力をまとう人間に、かなうはずがないのに。
「月鈴はきっと陛下のお心を射止めるわ」
そんな言葉がぽろりと漏れた。
わたしは月鈴が踊っている姿が本当に好き。それだけじゃなくて、困っていたらすぐ気がつくところや、頑張りやなところ、舞を褒めると恥ずかしそうに笑うところも好き。陛下だって、月鈴と一緒にいればすぐに彼女の魅力に気づくだろう。
陛下と月鈴が手をとり見つめ合う姿を想像して、なぜか胸が痛んだ。同じ妃としての妬みかもと思ったけれど、少し違う気がする。友人をとられる寂しさだろうか。
「わたしは、雪こそ陛下の目にとまると思う。雪は物知りだし、優しいし、それに……とってもかわいい。湘賢妃だって……」
「かわいいのはみんな一緒よ」
「ち、ちがうわ。雪は、誰よりもきらきらしてて、わたし……」
月鈴の言葉はそこで途切れた。見るとその瞳は濡れていた。頬は上気してほんのりと色づき、唇がきゅっと結ばれている。
ああ、だめよ月鈴、そんな顔をしては。
砂糖の粒がまたひとつ落ちる。
◇
おそろしく広い城の最北には美しく整えられた庭園が広がっている。中秋の名月を祝う宴席はその庭園で行われた。特設の舞台でわたしたちは踊り、皇帝陛下の目を楽しませることができたのだと思う。遠くからではあるが直接お褒めの言葉をくださり、褒美として才君全員に金子が配られるとのことだった。
自分たちの出番が終わり、月鈴とわたしは庭園にある池のほとりを歩いている。普段は閉じ込められている宮の女も、こういう日は大目に見てくださるのだ。池の反対側にはまだ賑わっている宴が見えた。きっと今頃は歌がお上手なお妃さまがその歌声を響かせているのだろう。風にのって楽団の心地いい音が流れてくる。
歩くたびに若草色の長い袖がふるふると揺れる。
陛下がいらっしゃる高座のすぐとなりに劉紅花が侍っていた。仙女役が目に留まりお声がかかったのかもしれない。それを見て心がざわついた。もし紅花が仙女じゃなかったら、あそこにいたのは月鈴で、わたしはそれを池の対岸から眺めていたのだろうか。……想像しただけなのに胸が痛い。
しばし無言で歩いていたのだけど、ふと月鈴が言葉を漏らした。
「ねえ、口づけってどんな感じだと思う?」
彼女の視線は下をむいたままだ。
「……わからない。でもきっと素敵なものよ」
そうだと思いたい。こっそり自分の唇を指先でなぞる。唇と唇がふれあうときっと柔らかな心地だろう。相手の吐息も感じるかもしれない。
「陛下が教えてくださらないと、わたしたちはずっと知りようがないね」
「ええ」
曲が変わったのか、二胡のせつない音色が聞こえてくる。わたしたちはまたしばらく無言になり、そして宴席の反対岸まできたところで歩みをとめた。
周りには衛兵もおらず、月明かりの下で月鈴とふたりきりだ。
「……ねえ、手を繋いでもいい?」
月鈴の声はほんの少し震えていた。期待と不安がないまぜとなっているような、そんな声。わたしは返事をする代わりに手を伸ばす。暗がりのなか、指先がふれた。月鈴の肩がぴくりとゆれるのも構わず、わたしはゆっくりと彼女の指先を握った。最初は冷たかったお互いの指先がだんだんと熱を持っていくのがわかる。
「なんだかドキドキする」
「うん」
「もう少し、こうしていたい」
「……うん」
演舞「月下仙女」は、男と仙女の一夜を描いている。月の下で運命的に出会ったふたりはお互いに惹かれ、ずっと一緒にいようと約束するが、夜明けと共に仙女は仙界へと連れ戻される。必死に逃げたけれど、見つかってしまうのだ。
固く握っていたはずなのに、仙女の手はするりと解け、夢のような一夜は終わりを告げる。
誰もいない池ほとり。耳をすませば聞こえてくる虫の声、草木のさざめき、二胡の旋律。……そしてお互いのわずかな息づかい。
なにかしゃべったらこの空間が消えてしまいそうで、逃げていきそうで、わたしは自分の指先を月鈴の指に絡めた。
誰にも見つかりませんように。
熱のこもった息を小さく吐きながら、なぜかそんなことを考えてしまった。




