プロローグ 限界
「ねぇ、ニセモモ。やっぱり私、限界だよ」
全身黒のグローブを羽織ったまま、リコリス・アリエッタはベッドに倒れ込んだ。大きめの枕から少しだけ顔を覗かせ、部屋の隅に視線を移す。そこには犬の形をした、大きな黒いシミがあった。
「リコ。今日も怒られちゃったの? ……ワン」
いつもと変わらず、シミから声が聞こえ、リコは胸を撫で下ろした。
幻聴だとわかってはいても、今のリコにとっては『ニセモモ』だけが唯一心を開いて話せる相手だった。
「怒られ……ってほどでもないけど、私が話しかけたとき、オリヴァーさんすごく機嫌悪そうだったんだよね。やっぱりあの人、私のことが嫌いなんだよ。どうすればいいのかなぁ、ニセモモ」
リコはゴロンと寝返りをうち天井を見上げ、勇者オリヴァー……リコが所属するパーティのリーダーを思い浮かべる。
厳格な彼は一切の妥協を許さず、自分にも仲間にもシビアだった。
パーティに入ったばかりのリコにも容赦はない。一度リコが過呼吸を起こすほど泣きじゃくってから、怒鳴りつけることは無くなったものの、彼は常に厳しい眼差しでリコを監視していた。
オリヴァーの存在は今のリコにとって、最大のストレスだ。幻聴の原因もきっと彼だろうと考えていた。
「たまたま機嫌が悪かっただけじゃない? ……それから、ボクのことニセモモっていうのやめてよ。ホンモノのモモだワン」
「いや絶対違うでしょ。無理矢理ワンって言ってる感じだし」
ちなみに本物の『モモ』とは、かつてリコが飼っていた犬のことだ。大型のクリーム色をした長い毛並みの雑種犬で、リコがまだ幼い頃から約10年間ずっと一緒だった。モモはリコの一番の親友で、楽しいときも落ち込んでいるときも、そばに寄り添ってくれたのだった。
2年前にモモが老衰死したとき、リコはいっそ自分も一緒に死んでしまおうかと思ったほどだ。
そんなモモの形に、黒い大きなシミはそっくりだった。そしてなぜかシミは、必死になって自分はモモだと主張をする。
けれどリコはどうしてもそれをモモだと確信できず、『ニセモモ』と呼んでいた。
「リコは、オリヴァーさんのこと、嫌い?」
ニセモモからの突然の質問に、リコは考え込んだ。きっと彼は私のことが嫌いだとは思うけど、私はどうなんだろう。
安全なクエストをこなすだけで生活できるのは、オリヴァーのおかげだ。
だけどこれから5年、10年、彼のそばで働くのかと思うと、ずっしり体が重たくなるのだった。
「リコ。もしね、もしリコがオリヴァーさんのこと、嫌いなら」
「うん」
「ボクがオリヴァーさんを、殺してあげるワン」
ニセモモの言葉に血の気が引いた。
単にニセモモの言ったことが、怖かったからではない。もしもニセモモの声が幻聴であるならば、オリヴァーを殺したい、というその気持ちは自分の本音なのではないかと思ってしまったからだ。
しかしリコは無理やり笑みを作ると、体を起こしてシミのほうを向いた。
「やっぱりあんたはモモじゃない。モモはそんなこと言わな……」
シミの真ん中には、見覚えのないものがあった。
何かに上から押し潰されたかのように、グチャグチャになったゴキブリが死んでいたのだ。
いや、厳密には死んではいない。頭は砕けて、身体もほとんど原型をとどめていないのに、伸ばしたギザギザの細い足は、まだ蠢いて宙を掻いて……。
一呼吸置いてからリコは枕に顔を埋めて、思い切り叫び声をあげた。