幕間 神崎
外から、バイクが走り去っていく音が聞こえる。兎夜君と姉御が向かったか。場所を割った以上、この術を使い続ける意味もないのだが、一度発動してしまった以上、しばらくはこの術が解けない。我ながら参っている。本来なら、術を解くことも、把握範囲を広げることも、そんなに難しいことでは無いのに。そもそも、ひなみの攻撃程度に歯が立たないなんてことがないはずなのに。
「随分と弱くなってしまったものだな」
自分を悲観するほかなかった。何が罪の償いだろうか。誰かにそういう風に告げた訳では無いが、あまりにも口だけだ。いざとなったら動けず、周りに助けを頼むことしか出来なかった。嗚呼、あの時に、もっと早く気がついていれば、せめて雷斗だけでも助けられたかもしれない。そもそも、雷斗が助かっていれば、ひなみをどうにかすることが出来ていたかもしれない。あの時、あの時……
「雷斗って、髪の毛綺麗だよね」
ひなみは、自分の髪を梳かしながらそう言った。
「まぁ、そうだねぇ。男子にしては長いから、手入れが大変だろうけど」
「でも、長い方がいいよ。綺麗だし」
そういえば、雷斗に髪を伸ばして欲しいなんて頼んだのはひなみだったって聞いたことがある。長髪男子が好みなのだろうか。
そうこうしていると、風呂から雷斗が帰ってきた。
「やぁ、今日ちょっと長かったね」
「いや、別に長湯してたんじゃない。風呂上がったあと美奈子姉さんに捕まってたんだ」
そう言う彼の手には、オシャレなボトルが握られていた。
「あ! それ華代ちゃんが言ってたトリートメントだ! いいな〜」
「あぁ、これ。ひなみ使うか? 俺が使ってもしゃーねぇだろ」
「え、ダメダメ! 雷斗が使って! 絶対髪の毛綺麗になるよ!」
「お、おう。そうか」
雷斗が机の椅子に座るなり、逆にひなみは立ち上がった。
「台所、もう雷斗のお父さんとお母さんいないから大丈夫だよね? わっちちょっとお水取ってくる!」
そう言って、ひなみは部屋から出ていった。
「そういえば君、ひなみに髪の毛伸ばして欲しいって言われたんだったな」
「あぁ、そうだな。いつだったか忘れたけど、確かにそう言われたから、いつも大体結べる程度までにしか切らんな。別に俺も不便じゃないからいいんだけどよ」
雷斗はそう言うと、自分の髪を一束摘んで、パラパラと流していた。そこから、僕は普通に本を読んだし、雷斗も課題をしていた。ひなみがしばらくしても帰ってこない。
「ひなみ、遅くないか? 親父に見られたりしてねぇといいけど」
雷斗がそう言って、様子を見に行こうとした。その時、ちょうどひなみが帰ってきた。
「おぉ、遅かったな」
雷斗が言い終わらないくらいで、ひなみが雷斗に正面からもたれかかった。パッと見、抱きついているようにも見える。
「ちょ、おまっ、大丈夫かよ!?」
僕も、ひなみは体調が悪いんじゃなかろうかと思って窓のふちから立ち上がった。しかし、僕の足が床に着く頃には、雷斗の心臓を、氷が貫いていた。
「え……ぁ……?」
「大丈夫だよ、雷斗。ずっと一緒にいようね」
突然の出来事で、一瞬頭が回らなかったが、床に彼が倒れるのを見てハッとした。ひなみの手を防ごうと、糸を使ったが、それも虚しくすぐ氷漬けにされて、粉々に砕け散った。ひなみの背後から吹雪が吹いて、部屋の壁に打ち付けられる。糸をを束にしてひなみを止めようとしても、それもすぐに凍ってしまった。ひなみに利用される前に自分で砕く。ほんの数分前までは、普通の少年の部屋であったにも関わらず、ひなみによって、ほぼ冷凍庫と化してしまった。
「雅之、なんでそういうことするの?」
ひなみは、いつも以上に幼い子どものようだった。
「雅之なら、氷漬けにしなくっても一緒にいてくれるって思ってたのに。雅之のいじわる」
部屋に吹き荒れる吹雪が酷くなっていく。寒さ故に、だんだん手足の動きが悪くなる。なんなら、凍り始めていた。
「雷斗をどうするつもりだい? ひなみ」
ひなみにそう聞くと、床に倒れている雷斗の髪を撫でながら、ひなみは答える。
「ずっと一緒にいたいの。だって雷斗、わっちより早く死んじゃう。でも、こうしたら、ずぅっと一緒にいてくれるもん」
若干会話が成り立っていない気もするが、つまりは、雷斗を冷凍保存するつもりということなのだろうか。
「わっちね、みんなとずっと一緒にいたい。雅之とも一緒にいたい。一緒に、いようよ」
強い吹雪が吹き荒れて、その中に氷の塊があることを確認する。それを交わすなり、三重ぐらいに編んだ糸を使って、ひなみを一瞬だけ拘束する。
「あぁ……今の君とならお断りだな。話す前に氷漬けにされたらなんにもならんだろう」
そう言って僕は窓から飛び降りた。
「あーあ。雅之行っちゃった。でも、いっか。行こう……お姉ちゃん」
雷斗の部屋から遠ざかる前に、そういうひなみの声を聞いた。そこから、僕は急いで姉御のところに転がり込んで、そのまますぐに、兎夜君の所へ向かった。
だんだん頭痛が酷くなってきた。この術が切れる頃、僕は人の姿も保てなくなって、蜘蛛に戻って倒れているだろう。彼が帰ってきた時に、そんな醜態晒す訳にはいかない。倒れるなら、早く、だ。
どうやら、二人はひなみがいる洞窟付近に着いたらしい。あえて細部まで綺麗に見えるようにして、力を使い果たす。一瞬明瞭になった視界は瞬時に暗転し、酷い頭痛が襲ってきた。おそらく、もうあと数秒で意識が途絶える。
「すまないな、すまないな……」
頭を金槌で殴られたような感覚に襲われて、意識は完全に遮断された。