冬のバラ
冬のバラ
鶴巻 繁
祥子の家の庭には一本のバラがあった。バラは四季咲きで、最もあでやかな五月の大輪の花の後、夏と秋にも小さな花を咲かせた。
師走、木枯らしが冷たさを募らせていく頃、秋口に刈り詰めた一本の枝の先端に小さなピンクの蕾があるのを祥子は見つけた。その枝は、祥子の背丈より少し高い所まで伸びていた。これから季節は真冬に向かってひた走っていく。この蕾は、花開くことなく萎んでしまうだろうと祥子は思っていた。
師走も押し詰まったある朝、祥子が仕事に向かう夫の弘次を送り出してふと見ると、バラの蕾が少し開いてピンクの花弁が覗いていた。その意外な開花に、祥子の顔はほころんだ。
バラは、年を越して寒気の中、完全に花開いた。初夏の、青々とした葉を従えた大輪の花に比べればずっと小さく、半分ほどの大きさだったが、それでも花の形は八重の花弁がきちんと整っている。たった一輪の小さなバラは、寒風に耐えて咲いていた。
1
不意に襲ってきた悲哀に涙が溢れた。祥子は、バスルームのタイルを磨いていたブラシを手離して立ち上がった。毎日くり返している掃除の最中に、なぜそのように不意に悲哀がこみ上げてきたのか、祥子自身にもわからなかった。涙は止まらず、胸が締めつけられるように痛んだ。
祥子はハンカチで涙を拭ってバスルームを出た。リビングルームの椅子に腰を下ろしたが、なおも涙は止まらず、胸の痛みも尾を引いていた。
突然の感情の破綻に祥子は困惑した。初めての経験だった。
祥子は気分を変えようと、テレビのスイッチを入れた。ニュースの時間だった。ニュース原稿を読んでいるのは、報道番組などによく出ている、祥子と同じ年頃の、三十歳前後と思われる女性のアナウンサーだった。端整な顔立ちのアナウンサーの舌の回りは滑らかで、言葉は明瞭だった。以前から祥子は、ある憧れをもってそのアナウンサーを見ていた。
ニュースが終わるのを待って、祥子はテレビのスイッチを切った。ようやく涙は止まり、胸の痛みもおさまったが、心は沈んでいた。
祥子は電話の受話器を取った。大学の同級生の陽子の番号を押す。コールサインは鳴りやまなかった。祥子は、陽子が旅行代理店に勤めていて、仕事中であることを思い出して、次に同じ大学の同級生の由紀子の番号を押した。コールサインは四度鳴って受話器が外された。
「祥子です」と名乗ると、
「あら、しばらく、元気?」と応じた由紀子の声は、間近にいる人の声のように大きく弾んでいた。
「ええ」と祥子は小さな声で答えた。
「ちょうどよかった。私、あなたに電話しようと思ってたの。パパがね、来月からロサンゼルスに異動が決まって、五年くらいだろうっていうんだけど、海外での生活になるの」
「あら、おめでとう」
「ちっともおめでたくなんかないの。とにかく大変なの。子供がいるでしょう。下の子は就学前だからいいけど、上の子は小学生でしょう。転校に向けて説得するのが大変で、もう三日間、いやだいやだって泣きっぱなしなの。これからしばらく地獄の日々だわ」
一方的に話す由記子の声は高ぶっていた。祥子は気押されて、何を話したらいいか、わからなくなった。沈んでいる自分の気持ちなどにはお構いなく、世の人々は多忙な日々を送っているのだ。
「ご免なさい。そんなわけで、向こうに渡る準備に追われて。何かあった?」と、由紀子は祥子を促した。
「ううん、特にないの。元気かなと思って。大変そうね、頑張って」
「ありがとう、向こうに着いて落ち着いたら手紙書きます。家は広いらしいから、もしよかったら遊びに来て」
由紀子との話はそれで終わった。祥子は、受話器を置くと、またソファに腰を下ろした。
祥子は、紅茶を飲もうと立ち上がった。紅茶でも飲めば、体が温まり、少しは元気になるかもしれないと思った。
サイドボードの扉を開くと、そこにティーカップのセットがある。そのティーカップの脇に、何本かの洋酒とワインの瓶があるのが祥子の目に入った。それはもう長い間そこにあったから、いつも目にしているものだったが、このとき、それらの瓶はある力をもって祥子の目を引きつけた。
祥子は、ブランデーの瓶を取った。もうだいぶ前に夫の弘次が持ち帰ったXOの表示のあるもので、弘次はそれを一、二度飲んだだけで、放っておいた。
祥子はそれをワイングラスの底に一センチほど注いで、そっと口をつけてみた。芳潤なブランデーの香りは失せていなかった。舌触りは丸く、喉越しは甘く熱い。
日中の美酒は、悲哀に沈んでいた心を、たちまち明るい気分に変えてくれた。中空に解き放たれるような快さがあった。きっと体が冷えて、そのせいで、あんな悲哀に見舞われたのだろうと祥子は思った。
祥子はもう一度、ブランデーを、さっきより少し多目にグラスに注いだ。甘く熱い酒は、祥子をさらに心地よくしてくれた。
チャイムの音で祥子は目覚めた。はっとして横たわっていたソファーから立ち上がる。部屋は暗かった。照明をつけ、インターフォンの受話器を取った。
「僕だよ」と、夫の弘次の声。
祥子は慌てた。壁の時計は7時を回っている。夕食の支度が全くできていない。祥子はブランデーの瓶とグラスを片づけて、玄関の鍵を開けた。
「ご免なさい。うたた寝していて、まだ夕食の支度できていないの。いますぐします」と祥子は弘次に詫びた。
「それじゃ、今夜は外食にしよう。たまにはいいだろう」
弘次は不機嫌になることもなく、そう言った。
「ありがとう」と祥子は弘次に礼を言った。
二人は祥子の運転する車で、近くのレストランに向かった。
祥子と弘次が結婚したのは五年前だった。公務員同士の職場結婚だった。弘次は役所の出先の課長を務めていた。祥子は、弘次の希望もあって、結婚後間もなく退職した。祥子は役所に辞表を出すとき、そうすることが幸福な生活の第一歩だと信じて疑わなかった。祥子の退職と同時に、この家を新築した。その祥子を、友人たちは羨んだ。
子供はいない。別に避けているわけではなかったが、子供はできなかった。
弘次はやさしい夫だった。祥子が惹かれたのも、何よりもそのやさしさにだった。それは平凡な動機だったが、祥子は、それが生活を共にする夫婦にとって最も大事なことだと思って、弘次との結婚を決意した。それから五年、祥子の時は、大空を行く鳥のように静かに、そして瞬く間に過ぎた。
その夜、祥子は弘次の求めに応じた。弘次を受け入れながら、祥子は、昼のブランデーの甘く熱い味と、その後にやってきた中空に解き放たれるような快い感覚を思い出した。
2
翌日、祥子は夫を送り出すと、同じ市内に住んでいる母に電話をして、一緒に車で街中のデパートに買物に出かけた。祥子は冬物処分のバーゲンセールで、弘次と自分のセーターと靴を買った。買物の後、昼食をとったが、お互いとお互いの夫が元気であること以外、祥子も母も話らしい話はしなかった。
家に戻ると、買ってきたセーターと靴の包みを解くことなく、祥子はバスルームの掃除にとりかかった。昨夜は、残湯を落として、ごく簡単に浴槽だけを洗って給湯した。今日は、どうしても隅々まで洗わなければならない。そう思って、洗剤をバケツに溶き、ブラシをつけて浴槽を磨き始めた。
再びあの悲哀が襲ってきたのは、浴槽を洗い終えて、床と壁のタイルを磨こうとしたときだった。
私は何が悲しいの? と、祥子は自分に尋ねた。しかし、自問の針は、然るべき理由を指し示すことができなかった。わからぬままに、ただ涙が溢れて頬を伝い、胸は締めつけられるように痛んだ。
祥子は掃除を諦めて、リビングルームのソファに身を投げた。涙は一しきり流れて止まったが、心は深く沈み、体は重かった。
祥子は救いを求めて、サイドボードからブランデーを取り出した。その甘く熱い酒は、昨日と同じく、たちまち祥子を明るい中空に解き放ってくれた。心には、何かしたいという意欲が湧いてきた。
祥子は再びバスルームの掃除にとりかかった。もう涙が溢れることも、胸が痛むこともなかった。祥子は、バスルームからダイニング、リビングルーム、そして寝室を含む三つの部屋を掃除した。
掃除を終えて、祥子は再びブランデーの瓶を取った。
その夜、祥子は昨日留守だった陽子に再び電話をした。陽子は独身で、旅行代理店に勤めていた。
「仕事が忙しくて、なかなか休みがとれないの。新商品の大型パック旅行があってね。その販売促進キャンペーンに向けて、社内一丸となってっていう感じ。民間は大変よ」と、陽子は口早に話す。
「大変ね、それじゃ、あなたの好きなコンサートへ行くこともできないわね」
「そうなの、全然行ってないの。ああ、そうそう、でもね、今度F響の定期コンサートでKがラフマニノフの三番を弾くの。これだけは聴きたいと思ってて、チケットあるんだけど一緒にどう?」
絢爛華麗なラフマニノフの三番のピアノ協奏曲をナマで聞ける。これは祥子にとってこの上なくうれしい誘いだった。
「ぜひ行きたい」
祥子は声を弾ませてそう言った。
演奏会の夜、祥子は精いっぱい着飾ってコンサートホールに向かった。何年ぶりのことだろう。夫の弘次は、そういう音楽には興味を示さなかった。結婚後、祥子はコンサートから遠ざかっていた。Kは、祥子と同じ世代の女流ピアニストだった。ステージに近い祥子の席からは、至難のピアノ協奏曲を弾くピアニストの高揚した表情と、白いノースリーブのドレスから伸びている腕の躍動、顔や腕に光る汗までもが見えた。
終楽章の、ピアノとオーケストラが輝きつつ押し寄せる波が最後の和音をもって終わった。満場の聴衆の拍手と歓声。Kは、指揮者やコンサートマスターと握手を交わすと、聴衆に向かって立った。聴衆の拍手は一段と大きくなった。礼をしては、客席を見回すピアニストの汗に光る笑顔は晴れやかで、喜びに満ちていた。それは、この日のために日夜練習を重ね、聴衆の前で難曲を無事弾き終えたピアニストだけが味わうことのできる喜びだっただろう。
帰途、二人はレストランで食事をした。
「実はね、あのコンサートはボーイフレンドと一緒に聴くつもりだったの。だから代金は要らないの」
料理が運ばれてくるのを待つ間に祥子がチケットの代金について尋ねると、陽子は明るい表情でそう言った。
「ボーイフレンドって?」
「二、三人いたんだけど、いまは一人もいなくなっちゃった。そういう時期もあるわよね」と言って陽子は笑った。その笑顔はあくまで明るかった。
「それより、とにかく仕事が忙しくて。私、今度係長になったの」
「本当、それはおめでとう」
「ありがとう。でも、給料がちょっと上がるだけで、仕事がますます忙しくなって、いいことばかりじゃないわ。男女共同参画社会もいいけど、昔より大変な面もあるわね。でも、ボーイフレンドのご機嫌を窺っているよりは仕事をしているほうがいいかな」
笑顔でそう言うと、陽子は運ばれてきた生ビールを飲み、サーロインステーキを手早く切って食べ始めた。
丸い顔に短くカットした髪がよく似合う陽子の態度には、話ぶりにも食事をしている様子にも、職業をもって自立して生活している者の落ち着きと自信が感じられた。学生時代の陽子は、黒々とした髪を背中まで伸ばして、どこかあどけなく幼い印象を受ける女子学生だった。
翌日、祥子は華やかな協奏曲のいくつかのフレーズを口ずさみながら、バスルームの掃除を始めた。
すると、間もなく音楽は消え、またあの悲哀が涙とともに押し寄せてきた。
その悲哀の急襲にすっかり臆病になっている祥子は、すぐにバスルームを出て、サイドボードからブランデーの瓶を取り出した。ブランデーをあおると、消えていた音楽は再び祥子の心に鳴りだした。
3
冬のバラは散らなかった。初夏の頃には一週間で、夏にはわずか二、三日で散ってしまうバラが、正月明けに咲いて、一月が終わろうとする頃になっても、まだ八重の形と色を保っている。祥子はその花弁に触れてみた。花弁はすっかり水分を失って乾いていた。
さらに十日ほど過ぎて見ると、花は枯葉のように茶色になっていた。しかし、それでも花は形を保って枝先にあった。
バスルームの掃除をしているときの悲哀の急襲は続いていた。祥子は、弘次が残しておいたブランデーはとうに飲み終えて、何本目かのブランデーを買って飲んでいた。飲まずにいると、体がだるく、気分は憂欝の淵にとめどなく沈んでいった。
ああ、このままでは私はアルコール依存症になってしまうという不安にかられつつ、祥子はその不安から逃がれるために、そして掃除や家事を片づけるために、またブランデーの瓶を取った。
弘次は、年度末近くの仕事の多忙さもあって、毎日帰宅が遅く、夕食は仕事先で済ませてくることがほとんどになっていた。週末の土・日に休日出勤することもあった。
いつか祥子は、家の掃除をほとんどしなくなっていた。バスルームの壁や床のタイルには黴が生えていた。家の中は、家具にも床にも埃が溜まり、窓を開け放つと風に煽られて埃が舞い立った。ガラスは、土埃で汚れきっていた。その光景は祥子の心を深く晋蝕していった。祥子は、汚れた家の中でブランデーを呷った。
ブランデーの酔いの狭間に、もう私はこの家で一人夫を待つだけの生活には耐えられないのだという思いが、祥子の心に芽生えた。そしてその思いは、確信に変わっていった。
その日々、夫の弘次は深夜に帰宅して、ビールを飲むと入浴してすぐ寝てしまった。家の汚れも、祥子の変化も、気にしている様子はなかった。
祥子は夫に自分の苦しみについて話を切り出そうとしては、果たせぬままベッドに入るしかなかった。深夜、寝室の隣のベッドに寝ている夫の、疲れのためらしい荒い寝息を聞きながら、祥子は、私はもうこの夫を愛してはいないのだろうか、と自分に問うてみた。しばらく思いめぐらしたが、わからなかった。ただ、結婚前後の、すべてを許し、すべてを受け入れられるという、あの熱い思いが失せていることは確かだった。
二月半ばを過ぎて、とうとうバラの花弁は散った。小さな花がさらに小さくなり、枯葉の色に変色して、なお形を保っていた花弁は、春先の強風に吹かれて地面に落ちていた。地面に落ちて、花弁の形が砕けてしまっていた。その砕けてしまったバラの花弁を見つつ、祥子は弘次との別れを決意した。
4
祥子は弘次に話をする時を、休日の朝食後に選んだ。
「とても言いにくいことなんだけど、私と別れてください」
祥子は低いがはっきりした声でそう言った。
休日の朝食を終えて、くつろいでいた弘次の顔が一瞬強張った。
「どうして、何かあったの?」と問う弘次の顔は、妻の悪い冗談を笑おうとして笑いきれずに崩れた。
「別れてほしいんです」
笑いきれずにいた弘次の顔が、困惑の表情に変わった。
「ご免なさい。私の我ままです」と、祥子はうつ向いて言った。
「本気なの?」
「ええ、本気です」
この祥子の言葉に、弘次は沈黙した。その沈黙が、祥子にはとても長く感じられた。
「何か理由があるだろう。それ相当の理由が」
重い沈黙に耐えかねたように発せられた弘次の声には、突然に不当な扱いを受けた者の欝屈した怒りが込もっていた。いつもは穏やかな弘次の顔には、いままで祥子が見たことのない苛立ちが見てとれた。
そうだ、理由だと祥子は思う。
私はこの家であなたを待っているだけの生活には、もう耐えられないのです。もしこのままの生活を続ければ、私はアルコール依存症のために、心も体もボロボロになってしまいます。私は、このまま数十年をあなたとの生活のためだけに費やして老い朽ちたくはないのです。
そう言わなければならなかった。しかし祥子は、
「我ままだと思うけど、別の暮らしをしたいので、別れてください」としか言えなかった。
「別な暮らしって、どんな?」
「この家であなたを待っている暮らしではない、別の暮らしです」
「僕がいやになった、嫌いになったということ? それとも、ほかに好きな相手でもできた?」
「違います。あなたが嫌いになったのでも、ほかに好きな人ができたのでもないの。今の生活が、私にとっては苦しみなの」
「苦しみ? 僕が君を苦しめている。何が苦しいの?」
「この家であなたを待っている毎日の生活が苦しいの」
祥子はうつ向いて、小さな声で本当のことを言った。
「僕にはわからない」
弘次は呻くように言った。
「ご免なさい」と祥子は弘次に詫びた。
この朝の話はこれで終わった。
その夜、弘次は祥子を求めた。祥子はそれを拒まなかった。あるいは、そうすることで弘次は何とか事態を解決しようとしたのかもしれない。仕事で疲れているのに、やさしい人だと祥子は思う。
そういう弘次に対して、自分は悪い妻だと祥子は思った。私は救いようのない悪妻だという思いが、祥子を責めた。
深夜、弘次が寝入ったのを見て、祥子はリビングルームのサイドボードからブランデーの瓶を取り出した。昨日新たに買ったばかりのXOの瓶だった。祥子はそれをワイングラスに半分ほど注いで、一気に呷った。ブランデーを飲むことで感じられた、あの明るい中空に解き放たれるような心地よさは、もう何日も前から感じられなくなっていた。心と体が重く沈み込むような感覚だけがあった。
祥子は車のキーを取り、そっと家を出た。
行く当てはなかった。ただ、夜の闇の中に消えてしまいたいという思いが、祥子にアクセルを踏ませた。深夜の道路を、対向車のヘッドライトが間近に接近しては背後に消えていく。祥子の車は、何度もその光芒に吸い込まれそうになり、その都度、対向車の鋭いブレーキの音が聞こえた。
どのくらい走っただろう。海沿いの道が緩やかに右にカーブしている箇所にさしかかったとき、祥子の車は駐車場になっているエプロン状の空地に突入した。車が一瞬宙に浮く感じと同時に、激しい衝撃を感じて、祥子は意識を失った。
祥子の耳に波のざわめきが聞こえた。足から腰にかけて祥子を包んでいる冷たい感触。たゆたう水。私は生きているという思いが、深い霧の中にある祥子の意識に浮かんで消えた。
<center><b>5</b></center>
祥子は目を開いた。窓があった。窓一面に青空があった。点滴のスタンドが見えた。そのボトルから下りている黒い管は、祥子の左腕に刺入されている針につないである。
祥子はベッドに横たわっていた。顔、腕、胸、背中、脚と、体中のいたる所に鈍い痛みを感じて、私は生きていたという思いだけが、祥子の意識に浮かんで消える。祥子はまた眠りに落ちた。
遠くから自分の名前を呼ばれたような気がして、ふと目を開くと、自分を見ている視線とぶつかって、祥子は一瞬目を閉じた。何者か。確かに女の目だった。若い女の、澄んだ大きな目だ。
祥子は自分の体が布団に覆われていることに安堵した。
「お目覚めですか」と、その目の主が言った。明るい、歌うような声だった。祥子は仕方なく、また目を開いた。
祥子より少し年下らしい、若い看護婦だった。
「ここは、どこの病院ですか?」と祥子は尋ねた。
「M市のM病院です」
看護婦は、三浦半島の南側にある街の名前を告げた。祥子は、酔って長時間車を走らせたことになる。
「私はいつここに?」
祥子は、気恥ずかしさを感じつつ尋ねた。
「昨日の朝です」と看護婦は答えた。
「傷の手当てをしますが、いいですか。ちょっと痛むかもしれないけど、すぐに済みますから、我慢してください。あまり痛かったら言ってくださいね」
そう言って、若い看護婦は、傍らのワゴンから、脱脂綿やガーゼをピンセットで器用につまみ、祥子の傷の手当てを始めた。
頭から顔、腕、手、胸から腹、そして脚と、看護婦は手際よく傷の手当てをしてくれた。看護婦の澱みのない手捌きには、医療の専門家としての熟練と自信が感じられた。
顔に貼られているガーゼが気になって、
「顔の傷、どうですか、跡が残りますか?」と祥子は小声で尋ねた。
「エアバッグが作動して、ガラスによる深い傷はありませんから、大丈夫だと思いますよ」と看護婦が答えた。
「お名前は三谷祥子さんですか」
今度は看護婦が祥子に尋ねた。
この言葉に祥子は内心驚いた。ハンドバッグの中身をあれこれ見られてしまったのかもしれない。それを見られてしまったということは、三谷祥子という名前も、二十九歳という年齢も、住所も電話番号も、すべて知られてしまったことになる。
「そうです」
「お住まいは、横浜市金沢区ですか」
「ええ」
「とりあえずご家族には連絡をとりまして、昨日旦那さんがお見えになって、夜までいらっしゃったんですが、今日はどうしても職場に行かなければいけないということで、夕方にいらっしゃるそうです。お母さんが見えています」
母が来ているという言葉に、祥子はハッとした。
「母は、いま病院にいるんですか」
「ええ、手当ての間、ロビーで待っていただいています」
弘次も母も、昨日の早朝この病院に駆けつけたのだろうか。
若い看護婦は、
「これで失礼しますが、何かご用のことがあったら、このナースコールを押してくださいね」と、祥子の枕の脇にあったボタンを取って、歌うように言うと、素早く病室を出て行った。その身のこなしの軽快さは、自分も学生の頃まではもっていたはずだと祥子は思った。
看護婦が出て行って間もなく、母が病室に入って来た。
「ご免なさい」と、祥子は母に詫びた。
「本当に、命を落とすところだったわよ」と、母は、語られている内容の深刻さにそぐわない、おっとりした口調で言った。
「どうしてあんなことになったの。弘次さんと喧嘩でもしたの?」
「夜中に目が覚めて、ドライブがしたくなったの」と祥子は答えた。
母は娘の容態を気づかってか、それ以上祥子に事故のことは尋ねなかった。
母は、元は市の職員で、退職後はある公益法人の役員をしている祥子の父の妻として、これまで黙々と家庭を守り続けてきた人だった。その整った穏やかな風貌や、おっとりした話しぶりは、主婦としての生活によって育まれたものだと祥子は思う。
母には、祥子に対してに限らず、人との間合いの保ち方や、人との接し方、自分の意思の伝え方に、父との生活によって育まれたと思われる独特の仕方があった。まず相手の出方を見る。そして、いま自分が対面している相手との関係を、いかにしたら円満に運べるかを第一に考えて、自分の思いを告げるのだ。祥子は、母が父と議論しているのを見たことがなかったし、表立った派手な夫婦喧嘩にも遭遇したことがなかった。家庭は、いつも静かで、夫婦の会話は短かった。
別に母は父にかしづいていたわけではない。父の服装の趣味は、まさに母の趣魅の反映だったし、祥子が子供の頃に建てられた家のたたずまいも、母の意思に沿ったものだった。祥子が子供の頃から、母は日々、その家の掃除に励んでいた。窓ガラスといわず床といわず、家の隅々まで磨き上げて、
「家が汚れているのは体が汚れているのと同じで、とても気持ちが悪いわ」と言うのが口癖だった。
しかし、それでも母は、絶えず父の様子を窺いつつ生きてきたことを、祥子はよく知っていた。
たとえば、ときどきこんなことがあった。一家揃っての食事の時、父は母が出した焼き魚を口にして、わずかに眉をしかめた。するとすぐに母は、
「あら、何かまずかったかしら、新しいの焼きますから、ちょっとお待ちになって」と言うと、父の魚の皿を取ってキッチンに入り、新しい魚を焼きにかかるのだった。
父が、
「別にいいよ、腹わたがちょっと苦かっただけだ」と言っても、母は魚を戻そうとはしなかった。
それが母の父親に対する愛にのみ根ざしての行いであったかどうか、いまだに祥子の心に解けない疑問として残っている。
祥子の昼食が終わった後、母は、また明日来ますと言って帰って行った。帰り際に、
「弘次さんによくお詫びするのよ」と言い置いて行くことを母は忘れなかった。
その日の夕方、弘次がやって来た。
「ご免なさい」と祥子は弘次に詫びた。
弘次は特に怒っている様子はなかった。それどころか、
「君はとても疲れているようだから、これを機会にしばらく休養したらいいよ。僕や家のことは心配しなくていいから」とさえ言ってくれた。
そして、海に落ちた車の始末や、警察への事情説明も済ませてきたが、いずれ祥子本人が事情を尋ねられることになるだろうという話をした。
「ありがとう。本当にご免なさいね」と祥子は弘次に詫びた。
「それにしても、体中グルグル巻きにされて、ミイラみたいだね」
そう言って弘次は笑った。祥子が久々に見る弘次の笑顔だった。弘次が笑ってくれたほうが気が楽だと祥子は思った。
弘次は一時間ほど居て帰って行った。
病院の長い夜、祥子はあることを考えなければならなかった。自分はこれからどうすべきか。あんな事故を起こして、結局弘次と母に後始末を委ねなければならない。今の祥子の立場では、別れてくださいとか、別れますなどと言えたものではない。
それでも祥子は、自分は次の冬に、寒風に耐えて咲くあのバラを見ることはないだろうと思った。
了