翻訳者、自由を語る 社会の構造と対処法
個人的見解です。ストレスは発散しないと死にます。確定事項です。ですがあまり他所様に迷惑をかけてはいけません。周りに疎まれて気分が悪くなります。これは私の体験談です。病は拗らせると中々治りません故、早期発見の元、各自的確な治療をおすすめします。
「私は、言葉を失った、ないし忘れてしまった人の翻訳者にならなければならない」
私が言葉に含まれている感情的な物を少しだけ理解できる様になってきて、父がよく言ってきた
言葉の内の一つだ。最初はその言葉の意味や意図を中々理解出来なかった。
言葉って忘れてしまうものなのか?
言葉は失くしてしまうのか?
そもそも人間なのだから何かしらの表現方法、例えば体から発するもの、つまりボディランゲージ
や視線を使った誘導方法などあるだろう。
それなのに父は難しい顔を作って、こうつぶやくのである。
「人間は自分が考えている程自分を自在に動かせていない。世の中のしがらみや、時間的な余裕、自己能力など多岐に渡るが、そもそも自由など与えられていないんだ。こう在るべき、こうでなくてはいけない、このような意味でない、と言った確定的な具象には自由など存在しないんだ。何かしらを成す、こなす、作り上げる、纏め上げる、色々とあるけれど、その過程から結果までの全ての具象を経て何かしらの試行錯誤があると思う。その試行錯誤で良い結果、ないし成功を修めたとしても、明らかに過去の自分が求めていたものとは違う所があるんだよ。自分が最初に考えていた物より出来すぎていたり、悪かったり、少し違う物ができてしまったり、イメージをすべからく物質世界に置換できないんだ。自由の定義によって自由が安物に見えてしまう事のほぼ全ては個人の理想が別々に脳の中に存在しているからだよ。一秒先の事でさえ、分からないんだ。本当に自由なら今から死ぬまで、スケジュールを組んで、実行してみて欲しいよ。まあ、無駄に終わるだろうけどね。もっとも、そんな作業に他ならないものを自由と言えるかってところだね。」
こんな事を言っているから口の減らない性悪腹黒タヌキ親父と陰で言われるのだろう。
処世術というものが元々備わっていない、いや、恐らく意図的に外しているんだろう。
そう思いたい。「バカがバカやって何が悪い」私にはそうとしか感じれないし読み取れない。
上を見上げればキリがない、下を見れば底が無い、人間は各々が上手く自分の脳ミソと相談しながら身の丈に合った人生を歩めばいい。というかそれだけしか出来ない。社会やらなんやらでも自分の居場所がなければ大きなストレスになるし、逆にピッタリな居場所があれば落ち着いて自分との相談ができるだろうと思う。そうは問屋が卸さないが。
虚無的思考が人を退廃させていく。人は小さな群れから年月を重ねることにより自分を取り巻く社会に否応なく付き合わされる。深い関係や、ほんの少しの付き合い等、様々な出会いに翻弄されていき、自己の意識が分裂しているように思う。人は多数の仮面、ペルソナを用いて対処療法としてアイデンティティを保っている。自分に素直に生きていれば社会生活に多大な影響を及ぼすだろう。たった1枚の仮面で生きていけるほど甘くはないのだ。手札は多ければ多いほど良い。切り札も持っていれば尚更良い。
前書きも後書きも私にとっては日記です。紙媒体は嵩張りますが、このような電子媒体は楽なのでのらりくらりとポツポツ書いております。それでは。