空転洋模
タンソンニャット国際空港。
ベトナム第1の都市、ホーチミン市に隣接する、軍併用空港にしてベトナムの玄関口。そこに一行が到着したのは、夕刻の事だった。
4月の半ばではあるが、日中照らされたアスファルトは熱を保ち、風は生暖かく湿気を持っている。タンクトップに短パンで身軽な美月は、涼しげだが、きっちり着込んだフランカは非常に暑そうで、既にうっすら汗をかいている。
反面、それ以上に厚着のマリア、何時もと変わらない黒スーツの晃一郎は、別段変わらず平気にしている。
「何で貴方達は、平然としてますの!」
その言葉に、マリアと晃一郎は顔を見合わせたが。
「紳士たる者」
「淑女たる者」
「「この程度の変化に心は乱れません(乱れん)」」
とのユニゾンに、酸欠に喘ぐ金魚のように口を開き、何かを言いかけて、無駄を認めて言葉を飲み込んだ。
「何であれ、着替えがしたいですわ」
「では、ホテルに参りましょうか。晃一郎様と美月様は、どちらのホテルへご滞在ですか?よろしければ、私どもと同じ所へお泊りになれば、無料で泊まれますが」
マリアの言葉に晃一郎は、手を振って、否定する。
「ホテルなんて豪勢な物に予定は無いさ」
そう言って、申し出を断ろうと思っていた晃一郎は、腕にすがりつく美月に制止された。
「お世話になろうよ、たまにはホテルに泊まりたいし」
「しかしな」
「良いじゃん、たまには良いお部屋でってのもロマンがあるじゃない」
何のことを指しているのやら、シナを作ると、体に擦り寄ってくる美月を見ると、晃一郎は顎に手を当てた。
「ふむ、それも良いかもな」
「やたっ。今夜はサービス、サービスだよ」
「ああ、がんばれ」
急にはじまった夫婦の会話に、フランカは顔を赤らめていたが、マリアは平静と電話をかけ始めた。
「それでは、スイートを取っておきます。直ぐに向かいますか?」
「いや、寄って置かなくてはならないところが3箇所ある。1つは明日で構わないが、他は直ぐに行かなくてはならんのでなぁ、そっちが先だ」
だるそうにしているフランカは、先にホテルへ行っていてもよかったのだが、本人が同行を希望したので、全員でハイヤーを取った。
ベトナムでは、セオムと呼ばれるバイクタクシーが有名で、実際に便利なのだが、自己や問題などが多く、晃一郎は嫌っているので使用しない。フランカやマリアも、別段乗りたがりはしなかった
唯一、美月はセオムへの搭乗を希望したが、晃一郎が許さなかったので、しぶしぶハイヤーに乗り込んだ。しかし、観光客専門のリムジン仕様のハイヤーの内装に気分を良くし、早速、吸備え付きの冷蔵庫から瓶ビールを取り出してラッパ飲みしている。
その豪勢なハイヤーは、ある程度整備された町並みを越えて、やや淫雑な繁華街も半ば通り過ぎ、少しうらぶれた雑居ビルの前で止まった。
ハイヤーの運転手が、停車するのを渋ったため、30分後に戻って来るように指示し、晃一郎達は車を降りた。
「汚い所ですわね」
フランカの発言は当然の事で、辺りの外灯は割れているか切れていて、壁にはペイントワークの落書きがされ、いかにも下町かスラムと言う所だ。周囲に人の姿は無く、裏道からは腐えた臭いが漂ってきている。
しかし、辺りにある雑居ビルの中からは、人の気配が濃密に漂っている。
その目の前の雑居ビルに、入って行った晃一郎は、そのままビルを抜け、さらに裏道を進んでいく。少し歩くと、大型の集合住宅が在り、そこへ晃一郎は入って行った。
過去、急激な人口増加の中で、急遽建てられた集合住宅は、狭い間取りと蜂の巣の様に密集した環境で、直ぐに富裕層中間層からは見放された。いや、忌避され、そこへ入る事が一種の敗北のように取られもした。
そこは、現在ではさらに低い階層、アンダーグラウンドな人々や犯罪者等に便利に利用されている。当然、貧困層も住んではいるが、そういった人種は他人の事を一々考慮したりはしない。むしろ、有事の際には盾になればよいとすら思っている。
「待ってろ」
そう言って、晃一郎は集合住宅の中に入っていく。その時、美月に何かを渡すのを見て、フランカは覗き込んだ。
「何ですの?」
「ん?結界用の牌だよ」
そう言うと、白くて薄い木で出来た板を見せる。
「カード?」
「晃ちゃんは、こう言う呪具を作るのが上手いんだよ。これは、「悪の意を転んじて、以って気を配する法」の牌だね」
「仙術になりますの?」
「そうだね、晃ちゃんは器用だから何でもするよ」
「それで、あなたは何を得手とされてますの」
そう言うフランカに、目を見開いて驚いた美月は、同時に納得したように呟いた。
「ふーん、確かに、こっちの世界には詳しくないんだね」
「どう言う事ですの?」
本心から分からず、フランカが聞き返すと、美月はニヤニヤと笑いながら応えた。
「そっかー。それじゃあお姉さんが教えてあげよう」
嬉しそうに言う美月だが、傍目から見れば、圧倒的にフランカの方が年長者に見える。人種の差も大きいが、それ以上に美月が童顔なのが理由だが。
「キリスト教のエクソシストや、イスラーム教の聖戦の使徒なんかは、使う系統がはっきりしているから無駄なんだけどね。それ以外の術者は、基本的に自分たちの情報を漏らさないよ。他人の事も同様にね」
「それは、争った時のためと言う事ですか?」
美月は、首を横に振る。
「違うよ」
「では、何でですの?」
「神秘と信仰。2種類あるからだよ。大きな宗教の場合、まぁキリスト教徒かだと、信仰する人間が多い方が、それに依る力も増える。でも、隠された神秘のほうが、力が上がる場合が多いんだ。だから、私達は自分たちの事を公言はしないし、仲間内でもめったに話さない。今回、オイゲンさんやゲオルグさんが私たちの事を喋ってのだって、私はあんまり良くは思ってないよ。恩があるから言わないだけ」
話しながら、だんだんと鋭くなる美月の眼に、フランカの背筋は凍りついていく。先ほどまでとのギャップが埋めきれず、思わず悲鳴が漏れそうなほど、恐怖を感じていたフランカだが、そこに助けの手が現われた。
「用事は済んだ、行こうか」
「うん、行こうか晃ちゃん」
帰ってきた晃一郎に笑顔を見せ、一気に緩んだ空気にフランカは息をつく。しかし、未だ早く呼吸を繰り返すフランカを見て、晃一郎は指を鳴らした。
すると、さっきまで漂っていた冷気のような物が、微塵も残さず消え去った・
「今のお前は、安定していない。結界内に気が篭っていたぞ、気をつけろよ」
「わざとだもん」
「だろうな」
間髪入れずに応える晃一郎に、美月はむくれてみせる。
「もうちょっと、構えよぅ」
「そうだな」
頭に手を置かれて嬉しそうな美月に、やはり先ほどとのギャップを埋めれず、フランカは眼を見張るばかりだった。
後ろでは、マリアがなにやらメモ帳にメモを取っている。気付いた晃一郎が尋ねると、
「怒らせてはいけない人リストに、美月様を加えました」
と、返ってきた。
「そうか、今後の為にも是非そうしてくれ」
呆れて言うと、煙草を取り出し、火を点けながら歩き出した。