蛇を呑む眼
火壇からは香の臭いが漂い、部屋の四方には金属の楔が打ち込まれている。楔の間には、金糸銀糸を織り込んだ綱が張られ、その中ほどには四方に対して四色の札が掛けられている。
美月の体には、玉のような汗が浮かび上がり、背中に薄い衣服を貼り付けている。両手にある珠は、強く握りこまれ、目の前の炎の光を映している。
晃一郎は、その背後で只管集中力を高め、頭上から降り注ぐ力を見ていた。
此処は結界の中だ。上下に向って、五天六道五趣六道三界十界を貫く結界だ。
炎が激しく燃え上がり、炎の光が階段を作る。上界から膨大な気配が降りてくる、否、落ちてくる。
「何だこれは!」
晃一郎は、思わず声を上げた。本来ならば集中の最中声を上げるなどというのは、やってはならない事だ。しかし、その気配のあまりの大きさに、口から漏れ出る声を止められなかった。
狭い室内に雷鳴がこだまする。目を焼く様な閃光と、毛肌を焦がす熱が吹き出る。
神を降ろした美月の意識は無い。少なくとも神降ろしに協力したものが、神に危害を加えられると言うことは無い。しかし、晃一郎自身は別問題だ。
「こんな物を御せと言うのか、無茶にも程があるぞ」
荒れ狂う雷華と猛風に、声も出せずに内心毒づいた。
― 吾は三界の空を二分する者 ―
― ハッティにおいて信仰された神 ―
― 雷と光と暴風の司にして、烈風と雨の軍帥 ―
― 乙女の請願により、吾が名を欲するか ―
赤銅の肉体、紅く燃える髪と髭、長腕長足の巨体。身に携えるは、鎧と金剛杵。
「インドラよ」
インド神話、リグ・ヴェーダにおいて天空神であり雷神、ヴリトラを倒せし者、インドラ。
拝火教においては、ダエーワの中のダエーワ、千眼の魔王にして愚風の破壊神、インドラ。
「インドラよ、私は貴方の力と名前を欲する」
固く引き結ばれ、筋肉の隆起で鬼の様に盛り上がった顔が、笑いに包まれる。
しかし、その笑いは和やかな笑みではない。獲物を前に笑う獅子、物理的に圧倒されるような空間制圧力を持った笑み。
― 吾が名の加護に飽き足らず、力をさらに求めるか。面白い、面白いぞ、乙女の偶者よ。この面白き乙女が選ぶわけよ、お前ならば吾を退屈はさせまい。お前の望む以上の力をくれてやろうぞ ―
高らかな哄笑と共に、辺りに再び雷華が舞う。
次の瞬間、一筋の稲妻が晃一郎の胸を貫いた。
「がっ!」
骨の髄が沸き立つように体が熱い。神経を通常の何億倍もの電流が走る様な痺れと激痛、筋肉が骨を折らんばかりに収縮する。
「ががががががががっ」
痛みにのたうつ晃一郎を、インドラは上から見下ろしていた。
「かかか神ぃのぉ、験しかかか」
歯がガチガチと鳴らされる。強制的に体が震える、電気ショックの只中では、まともな言葉もつむげない。
― まだ持つか、人の身にして置くのは惜しいな。お前も、あの乙女も ―
インドラの顔に、好色そうな笑みが浮かぶ。先ほどの威圧ある笑みとは違う、厭らしい笑みだ。その笑みが向けられているのは、美月。
「よ、嫁さんんんっ、残して成仏して堪るかぁぁぁぁ!」
晃一郎の右目に雷光が集う。集まった雷光は、目の前で凝縮し熱の塊、光玉になり眼に吸い込まれる。
― ほぉ、眼で雷を喰らったか。面白い事をする ―
晃一郎は、震えながらも立ち上がった。その眼は、もともとの青い目に、熱気の赤が写り薄い紫色に見える。
「浄眼は、元々金気を帯びる。木気の雷ならば克つ事も可能だ。験しはこれで終わりか」
― よかろう。乙女は手に入れ損ねたが、面白い物も見れた。今は満足しておいてやる ―
エロ神め、アハリヤーを誘惑して痛い目を見たことも忘れたか。少しは自重しやがれ。
哄笑と共に、再び雷風が舞い起こる。その光に乗ってインドラは天空へと上っていった。
神が抜け、気を失った美月は祭壇の前で倒れている。晃一郎は、残った気力を使い火を消すと、糸が切れた操り人形の様に、力なく倒れた。
「エロ神め…」
倒れながら、精一杯の意地で罵声だけは吐く事に成功したが、その意識は闇の中に潜り込んで行った。
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