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咳をするなら口を覆ってほしい男爵令嬢

作者: はぢてる
掲載日:2026/09/11

短編です。街で向かいから歩いてきた人にゲホゲホやられた際に思いつきました。

「レティシア、僕と結婚を前提に交際しては頂けないだろうか」


 学院中庭の噴水前に設置されたベンチに腰を下ろし、昼食を取ろうとしていた時のこと。


 私の前に跪いて恭しく手を差し出すのはジークライト公爵家の嫡男オリバーである。


 眉目秀麗、成績優秀、家柄よし。

 王立学院卒業半年前にして既にエリート中のエリートといわれる宮中執務室入りが決定しており、将来性も申し分ない。

 有り体に言って、彼から求婚される今の私は女性ならば誰もが羨む立場にある。


 ベンチに座ったまま周囲を見回せば、いつの間にか人だかりができていた。


 私が何か言おうと口を開きかけると、だがオリバーが喉に何か詰まったように顔を強張らせた。


 次の瞬間、げほげほと盛大な咳をした。

 私をまっすぐ見つめたまま、顔を逸らそうともしない。


 彼の咳が止むと、私は無意識に止めていた呼吸を再開し、手にしていたサンドイッチを口にしないまま包に戻した。

 勿体ないが、これはもう食べたくない。


 控えめに言ってありえないんだが?


 私はベンチから立ち上がると自身に満ちたオリバーの冷ややかな目を向けて言い放った。


「申し訳ありませんがお断りします。他の女性をお探しになって下さい」


*****


 私、レティシア・ソーンダイクは転生者である。

 今でこそ男爵令嬢などやっているが、元の世界では二十代の日本人だった。


 しかし当時付き合っていた男から風邪を伝染された。

 

 元来、何度注意しても咳やくしゃみをする時に口元を覆ってくれない男。最後のデートでも対面に座る私のことを気にすることなく咳をしまくるので流石に堪忍袋の緒が切れ、その場で別れを告げてやった。


 あいつが風邪を引いていたと悟ったのは既に手遅れになってからだった。


 翌日、会社でどうしても外すことが出来ない重要な会議があったので、薬を服用しながら出勤した。

 なんとか会議は乗り越えたものの、会社を出て病院へ向かう頃には薬の効果も切れて高熱を出していた。


 朦朧とした頭で意識を失いかけた私は交差点にはみ出てしまい、左に曲がろうとしたタクシーに撥ねられて命を落とした。



 記憶を取り戻したのは、このレティシアの体に転生してから四年が経とうとしていたある日のこと。

 きっかけは、父親が食事の場で咳をしたことだ。


「おとうさま」


 それまでニコニコと笑いながら食事を楽しんでいた私が急に真顔になったので両親は驚いたという。


「せきをなさるときは、どうかくちをおおってください」


 傍に控えていた給仕も含め。その場にいた誰もが束の間、ぽかんとして私の方を見つめていた。


 まあ、と沈黙を破ったのは母だった。


「咳エチケットなど私でさえ最近知ったのに。物知りなのね、レティシアは!」


 両手を合わせて感嘆する母。

 すると父も申し訳なさそうに、だが同意してくれた。


「す、すまなかったな、レティシア。シンシアも嫌だったろう。私も早く身に染み込ませたいと思っているのだがつい忘れてしまうことがあって……」

 と、次に咳をする時はナプキンで口を覆ってくれた。


*****


 この世界で「咳やくしゃみをする際は口元を覆う」という行為が広く奨励されるようになったのはごく最近のことだ。


 数年前、海を渡って我が国に攻め込んできた大陸の蛮族が風の精霊を連れてきてしまったのである。


 風の精霊はそのままでは特に悪さをする存在ではないが、簡単に人や生き物の体の中に入ってしまい中に溜まる種々の”淀み”とくっついてしまうという特徴を持っていた。

 悪感情や体調不良の兆しなどから体内に溜まる”淀み”は精霊とくっつくことで”呪い”となる。

 そして”呪い”となった精霊が別の人の体内に入り込むと様々な悪影響を及ぼすのである。


 幸い、精霊術師の調べによって”呪い”を帯びた精霊は大気中でしばらく放置すればあっさり”淀み”を離すことが判明した。

 要は人の体内から人の体内へ直接飛び移るようなことでもなければ問題ないのである。


 そんなわけで我が国では、私が前の世界で「咳エチケット」と呼んでいたものに限りなく近い行為が奨励されるようになり、大きな被害を出す前に事なきを得た。


 下手すると呪いで命を落とすこともあるという恐怖心もあってか、国の徹底した指導の甲斐あってか、何にせよ咳エチケットは瞬く間に浸透した。


 我がソーンダイク家でも食事の場における私の発言がきっかけとなって、そのひと月後には使用人から御者、出入りする商人に至るまで誰一人無造作に咳をする者はいなくなった。


 一方、自分が転生者であることを思い出した私はといえば前世の知識や経験で今世はイージー・ライフ確定かと思えばそうは問屋がおろさない。

 何しろ体も幼児なら脳みそも幼児なのだ。

 未熟な精神とひっきりなしの生理現象に振り回され、無駄に豊富な科学知識も妖精や魔法が幅を利かせるこの世界だとむしろ混乱の元となった。


 ただそういった心身の悩みも十代後半を迎える頃になると徐々に鳴りを潜め、十六歳で王立学院へ入学する頃にはほとんど気にすることはなくなっていた。


 知識の混乱についても、三歳の頃に父を注意した一件から「うちの子賢い!」と気合が入ってしまった両親が、私に惜しみなく学ぶ機会を与えてくれたお陰で落ち着いた。それどころか王立学院に入学した直後に受けた総合試験でパーフェクトに近い成績を叩き出し、周囲から注目を浴びることになった。


 オリバー・ジークライトに見初められたのはその頃のことだ。



 彼の名は入学して間もなく、色恋沙汰にはあまり興味を示さない私の耳にさえ入ってきた。

 何やら女子達の憧れの的らしい。


 ただ実際に目の当たりにし、彼の顔と名前を一致させた時に私がまず抱いた感想は「ああ、入学式で壇上で派手にくしゃみをしていたあいつか」というものだった。

 新入生代表として壇上に立った彼は、その途中で聴衆に断りを入れるでも、顔を逸らすでも、まして口を覆うでもなく。

 真正面を向いたまま大きなくしゃみをし、そのまま演説を続行させたのである。


 こいつだけはない。

 自分の位置が彼のくしゃみの射程に入っていないことに心底感謝しながら、私はまだ名も知らぬ彼と絶対に関わらないことを誓った。


 風の精霊が我が国に入り込んでから十年以上が経ち、咳エチケットも身分如何に関わらず広く浸透していたが、彼のように相変わらず咳やくしゃみをする際に配慮しない輩は少なくない。

 とりわけ貴族の中にはよくわからないプライドが邪魔しているのかその傾向が強い。

 自分は咳をする際には口を覆っても、他人がそれをしないのには無頓着な者が大半だ。


 私も頻繁に関わる人で目に余る人がいればそれとなく諭すくらいで、そうでなければ自分からその人と関わらぬよう身を引くことでそれまではやり過ごしてきた。


 オリバーはその限りではなかった。


 優秀だと自負を抱いていた彼は当初、そんな自分を差し置いて首席となった私に興味を抱いて話しかけてきたらしい。

 その際、既に向こうへ悪印象を抱いていたこちらが悪しざまに扱ったのがまずかったらしい。


 引き下がるどころか、他の淑女と違う反応を示す私を面白がって度々話しかけてくるようになった。

 そして咳をする。くしゃみをする。

 配慮はしない。

 そういった時、咄嗟に私が顔をしかめたり避けようとしたりするのがことさら琴線に触れたのか、次第にアプローチがあからさまになってくる。


 他の女の子であれば真っ赤に頬を染めてもだえていたかもしれない。


 だが「咳エチケットを守れない」というその一点で私にはどんな醜男でもこいつよりマシ扱いである。


 何度かそれとなく咳エチケットを守ってくれるよう注意したこともある。

 だが彼は聞く耳を持ってくれなかった。


「ははは、風の妖精の呪いが怖いだなんてレティシアは可愛いね。大丈夫、僕が守ってあげるよ」

 

 そんな風に流す。

 今度は少し強めに言うと、その場限り「そうだね、今後注意するよ」と一応言うが、翌日にはまたゲホゲホと周囲に呪いを振りまいていた。


 そんな彼の態度は前世で私が死ぬきっかけを作った元カレを思い出させ、私に益々嫌悪感を抱かせた。


*****


「レティシア、ジークライト公爵家から嫡男のオリバーとの婚姻相手に是非君をという申し出が届いているが?」

「お断りして下さい」


 校舎中庭の噴水前で告白してきたオリバーを振ってしばらくすると、彼は家名を使って私との婚姻を求めてくるようになった。


 宮中で近衛騎士団に務める父や、日頃お茶会に出席する母もそれとなく公爵家から圧を受けているらしい。


 次期公爵からの求婚を男爵令嬢が断るなど中々あることではなく、両親にも迷惑がかかっていることは容易に想像できた。


「お父様やお母様にもご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 私が頭を下げても両親は気にしていないといわんばかりに笑って返した。


「いいさ。幼い頃から筋が一本通っているのがお前の良いところだ。それに他の部分がどれほど優れていたところで、将来の妻や子を危険に晒しかねない癖を直そうとしない人物のもとへ娘を送り出したいとは思わんよ」

「そうそう。私もこの人のように便座に座って用を足してくれるようになってくれる方が良いと思うの」


 母が言うと父は気恥ずかしそうに「いやあ、お前がそうしないと同じ屋敷に住めんと言うから…」と頭を描いた。

 

 私は転生する際にチートらしき能力を与えられなかった。

 だがこの両親の子供として生を受けることができたことは間違いなくチートだと思う。



 その後、私は学院を卒業すると宮中職務室からの誘いを蹴り、王都の外れに拠点を置く王都警備室で父の補佐をする役職に就いた。


 宮中職務室はオリバーが一緒なので論外だ。


 私の人間関係に巻き込まれて父が近衛騎士団から閑職に飛ばされてしまったことには一時心を痛めたが、本人は城の中で人様の機嫌を窺ってばかりの宮中からずっと離れたいと思っていたらしく、むしろ人と関わり動き回る機会も増えたと喜んでいた。

 母の方も面倒なお茶会をスキップできるようになったと趣味のガーデニングに精を出している。


 警備室では王都全域の治安維持の他、生活環境の整備に都市計画の策定にとその業務は多岐に渡る。

 特に街全体の衛生事情の改善に携わる業務は私の性に合っていた。


 入局後の五年間で様々な改善策を提案した結果、王都は今や大陸でも有数の衛生環境が整った場所となり、疾病率が下がるとともに豊かな庶民文化が花開くようになった。


 なお、父と私はしばらくして王宮に呼び出されることとなった。


 宮中で強い”呪い”が蔓延し、王族の一部をはじめ主要な役職に就いていた連中に多大な被害が出たため、その対策を行うためである。

 その後、諸悪の根源として断罪されたのは、咳をする時頑なに口元を手で覆うことをしなかった1人の若き公爵家嫡男だったそうな。

みんな、咳エチケットは忘れずにな!

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