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第一章

 王都ユグレシア。絢爛たる貴族街の喧騒から遠く離れた、泥臭くも活気あふれる市井の片隅。表通りから一本路地に入った薄暗い場所に、リアナの代筆屋はある。

 間口の狭い木造の店舗には、これといった看板すらない。窓ガラス越しに見えるのは、色とりどりのインク瓶と山積みの紙、そして古い学術書に目を落とすリアナの姿だけだ。

(今日は、ここまでにしておきましょう)

 リアナは他国由来の言い回しが記された分厚い古書に栞を挟み、小さく息を吐いた。

 かつて男爵令嬢だった頃の記憶は、もはや遠い。父の事業失敗による没落と両親の死を経て、莫大な借金を返し終えた彼女の手には、ペンを握り続けたことでできた硬いペンだこがある。華奢な体にまとったインク汚れの目立たない濃紺のワンピースはひどく簡素なものだが、自らの腕一つで稼ぐ平民としての今の暮らしは、貴族社会の息苦しさから解放された、静かで心安らぐものだった。

 カラン、と。

 古びたドアベルが上品な音を立てる。途端に、埃とインクの匂いが漂う狭い店内に、冷たい冬の空気と共に微かな白檀の香りが流れ込んできた。

 リアナは背筋を伸ばし、仕事用の、静かで淀みのない顔を上げる。

「いらっしゃいませ、エルネスト侯爵様」

 そこに立っていたのは、くすんだ灰色の壁には到底似合わない、最上級の黒の外套に身を包んだ長身の男だった。装飾こそ少ないものの、一目で極上の仕立てとわかる貴族服を纏っている。

 銀髪に近いグレーの長い髪を後ろで一つに束ね、長く流した前髪の奥には、氷のように透き通ったアイスブルーの瞳が覗く。「氷の侯爵」と称される若き当主、ユリウス・ヴァン・エルネスト。王都の社交界で知らぬ者はいない高位貴族の彼こそが、このしがない代筆屋の最も気前の良い上客であった。

「急な訪問で済まない。また、頼めるだろうか」

 低く落ち着いた声。ユリウスは慣れた手つきで外套を脱ぐと、リアナの机の向かいにある木椅子に腰を下ろした。彼が座ると、立て付けの悪い粗末な椅子さえも豪奢な家具に見えてしまうから不思議だ。

「もちろんでございます。本日は、どのようなご依頼でしょうか」

 リアナは平民向けのざらついた紙を片付け、引き出しの奥から貴族向けの滑らかな羊皮紙を取り出した。相手がどれほどの高位貴族であろうと、彼女にとっては大切な顧客の一人だ。私情を挟まず、求められた仕事を完璧にこなすことだけが、代筆屋としての彼女の矜持だった。

「いつものように、夜会の辞退の手紙を二通。それと……」

 ユリウスは少しだけ眉間を寄せ、懐から手紙を数通、机の上に置いた。

「縁談の断り状だ。今回は少し厄介でね。相手は伯爵家だが、王家とも繋がりがある。角は立てたくないが、一切の希望を持たせないように完全に断ち切ってほしい」

 リアナは手紙の宛名を確認し、淡々と頷いた。

「承知いたしました。相手方の家格を重んじる言葉を並べつつ、当方には全くその気がないことを、礼儀の範囲内で最も冷たく伝わる定型句を用います。紙は厚手で無地のものを。封蝋も華美な色は避け、誠実さを示すと同時に『これ以上の進展は望まない』という裏の意味を持つ、沈んだ青の蝋を使いましょう」

「頼む。君の紡ぐ言葉には、冷酷な拒絶の中にも確かな品格がある。私の拙い言葉では、どうしても刺々しくなってしまうからな」

 ユリウスは微かに自嘲するように息を吐いた。隙のない態度から畏怖される彼の、ひどく不器用な素顔。だがリアナにとって、それは「氷の侯爵」というよりも、ただひたすらに面倒な社交辞令を嫌う、実直な一人の雇い主に過ぎなかった。

 リアナは新しいペン先にインクを浸し、白紙に向かった。カリカリという規則正しい音が、店内に響き始める。

 若く美しい高位貴族である彼の元には、連日のように夜会の招待や縁談が舞い込む。しかし彼は、そのすべてをリアナの代筆を通して断り続けていた。それは彼が、社交界のしがらみよりも優先すべきものを持っているからだと、長年のやり取りでリアナも察している。

「……エイル様は、いかがお過ごしですか」

 沈黙を埋めるように、リアナはペンを動かしたまま、世間話の一つとして問いかけた。

「ああ。今日は少し風邪気味でね。今は乳母が寝かしつけている。熱が下がらなければ、私が一晩中絵本を読むことになりそうだ」

 ユリウスの声が、先ほどまでの硬さを失い、幾分か柔らかくなる。

 エイルは、未婚であるはずの彼が大事に育てている五歳の男の子だ。亡き兄夫婦の忘れ形見であることは世間には伏せられているが、彼が親代わりとしてその子を深く愛していることは、言葉の端々から痛いほど伝わってきた。

「では、夜会の辞退の理由には、身内の流行り病の懸念を匂わせておきましょう。それならば、無理に誘うのは無作法にあたりますから」

「……君は、本当に機転が利く。助かるよ。ただ……私が絵本を読むと、どうも声が硬いらしくてエイルが怖がってしまうのだが、何か良い方法はないだろうか」

 不意にこぼされた個人的な相談に、リアナは手を止めずに答えた。

「少しだけ声の調子を上げて、ゆっくりと読んで差し上げてはいかがでしょう。エルネスト侯爵様は普段からお声が低く威厳がございますから、子供向けのお話を読む際は、意識して大げさに優しいトーンを作ると丁度良いかと存じます」

「……そうか。試してみよう。いつもすまないな、専門外のことまで」

「いいえ。代筆の間の、ただの世間話ですから」

 書き終えた三通の手紙を差し出すと、ユリウスは長い指でそれを受け取り、真剣な眼差しで文面に目を通した。彼の視線が流麗な文字をなぞる。

 リアナは静かにその様子を見守った。彼がここを訪れるのは、彼女の紡ぐ知性的で温かみのある文章が必要だからだ。リアナもまた、適正な報酬を支払い、自分の技術を正当に評価してくれる彼を、良き顧客として重宝していた。

「完璧だ。毎回、君の仕事には感服する」

 ユリウスは満足げに頷き、封筒に手紙を仕舞い込むと、机の上に鈍く光る金貨を一枚置いた。

「エルネスト侯爵様、これは少し多すぎます。いつもの代金で結構ですよ」

「構わない。君の言葉には、それだけの価値がある。それに、これはエイルに良い助言をくれたお礼も含まれている」

 有無を言わさぬ静かな響きに、リアナはそれ以上固辞することはせず、淡々と礼を言って受け取った。代筆屋として生きる彼女にとって、生活資金はいくらあっても困るものではない。

 外套を羽織り直したユリウスが、ドアの取っ手に手をかける。

「リアナ」

「はい」

「外は冷える。夜遅くまで勉強をするのもいいが、身体を壊さないように」

 リアナの手元にある古書にちらりと視線を落とし、ただそれだけを言い残して、ユリウスは店を出て行った。

 カラン、とドアベルが鳴り、再び店は静寂に包まれる。

 机の上に残された金貨と、微かな白檀の香り。リアナは金貨を丁寧に引き出しにしまい、再び古書を開いた。侯爵の抱える厄介な仕事が無事に終わった安堵とともに、彼女は自らの静かな日常へと意識を戻していった。

 エルネスト侯爵が帰った後も、リアナの店には途切れることなく客が訪れた。

 恋人への熱烈な恋文を少しだけ上品に書き直してほしいという若い娘。離れて暮らす家族へ仕送りと共に送る近況報告を依頼する職人。そして、商店の帳簿の整理代行まで。

 王都の裏通りにあるこの小さな代筆屋は、市井の人々のささやかな日常を支える場所として、確かに根付いていた。

 数人の依頼をこなし終える頃には、窓から差し込む光はすっかり赤みを帯びていた。夕日が傾き、路地裏を長く濃い影が覆い始める。

 リアナは最後に使ったペン先を丁寧に布で拭き上げ、インク瓶の蓋をしっかりと閉めた。山積みになっていた紙の束を整頓し、一日の売り上げを木箱にしまう。

「夕飯のお買い物に行かないと……」

 小さく独り言を呟き、リアナは店の奥にある居住スペースへと足を踏み入れた。

 質素なベッドと小さな机、そして手狭な厨房があるだけの簡素な空間。元男爵令嬢の部屋としてはあまりにもわびしいが、今の彼女にとっては誰に気兼ねすることもない、一番落ち着く自分の城だった。

 厨房の小さな棚を開けると、見事に空っぽだった。残っているのは、乾燥したハーブが少しと、硬くなりかけた黒パンの欠片くらいだ。日中は代筆の仕事に追われ、ここ数日は買い出しを後回しにしていたことを思い出す。

 リアナはため息をつき、作業机の上から適当な紙の切れ端を手に取った。高価な羊皮紙ではなく、平民向けのざらついた、裏紙として使っている安物の紙だ。

 ペンを走らせ、今日必要な食材を書き出していく。玉ねぎ、じゃがいも、それに少しの塩。流麗な貴族向けの文字にならないよう、自分用のメモはわざと少し崩した文字で書くのがすっかり癖になっていた。

(今日はエルネスト侯爵様が多めに賃金をくださったから、いつもより多めに買い込みましょう)

 引き出しの奥にしまった、鈍く光る金貨の感触を思い出す。

 冷たい印象を与える「氷の侯爵」でありながら、彼はリアナの技術を正当に評価し、時には甥であるエイルのための助言にまで惜しみなく対価を払う。そして、帰り際に残していった不器用な気遣いの言葉。

 それは単なる顧客としての情けなのかもしれない。それでも彼の言葉は、胸の奥に小さな温もりとして確かに残っていた。

「……新鮮な卵と、少しだけお肉も買おうかしら」

 いつもなら節約のために我慢する食材も、今日ばかりはリストに書き加える。たまには自分を労わっても罰は当たらないだろう。

 インク汚れの目立たない濃紺のワンピースの上に、使い古した茶色のショールを羽織る。少しだけ重くなった財布をしっかりと鞄の奥底にしまい込み、リアナは店を出て鍵をかけた。

 裏通りを抜け、大通りへと向かって歩き出す。

 日が落ちかけた王都の下町は、一日の仕事を終えた人々で活気に満ちていた。屋台から漂う香ばしい肉の焼ける匂い、客引きの威勢のいい声、子供たちの笑い声。絢爛たる貴族街では、決して見ることのできない力強い人々の営み。

 没落してこの街に流れ着いた当初は、この喧騒に戸惑うこともあった。しかし今では、この雑多な空気がたまらなく心地よい。

 リアナは夕暮れの冷たい風に少しだけ身をすくませながらも、足取りは軽く、賑わう市場へと向かっていった。

 王都の下町にある市場は、夕暮れ時になると一層の活気を帯びる。

 石畳の両脇には所狭しと屋台や露店が並び、香ばしい肉を焼く匂いや、新鮮な野菜を売り込む商人たちの威勢の良い声が飛び交っていた。リアナは雑踏を縫うように歩き、いつも利用している馴染みの食料品店へと足を向けた。

「おや、リアナ。今日はなんだかたくさん買うんだね。誰か特別な来客でもあるのかい?」

 籠いっぱいに詰め込まれた玉ねぎやじゃがいも、それに少しばかりの塩と新鮮な卵を見て、ふくよかな店主の女性が目を細めて笑いかけてきた。リアナの普段の質素な買い物ぶりを知っているからこその、からかい半分の問いかけだ。

「ふふ、そうだったら良いんだけどね。ここ数日忙しくて、すっかり買い物を後回しにしていたの。家の厨房が、見事なまでにすっからかんなのよ」

 リアナは小銭を支払いながら、朗らかに微笑み返した。

「なんだい、つまらないねえ。あんたみたいなどこぞの令嬢みたいな別嬪さんなら、色良い話の一つや二つ、すぐに転がり込んできそうなもんなのに」

「もう、おばさんったら。私はこの生活で十分に満足しているわ」

 そんな他愛ない世間話を交わし、ずっしりと重くなった籠を抱えて店を後にする。

 賑やかな大通りから一本外れ、自分の店がある裏通りへと向かう道すがら。リアナの足は、一軒の古びた建物の前でぴたりと止まった。

 王都でも珍しい、平民街にある古本屋だった。

 薄暗い店先には、背表紙の擦り切れた分厚い本が雑然と積み上げられている。インクと古い紙の独特の香りが、リアナの鼻腔をくすぐった。

(だめだめ、古本といっても本は高いんだから……)

 リアナは小さく頭を振り、自分自身に言い聞かせるように目を伏せた。

 彼女の住まいにある本は、両親が遺してくれた学術書ばかりで、それらもすり減るほどに何度も読み返している。元男爵令嬢である彼女にとって、活字に触れることは息をするのと同じくらい自然なことだったが、生まれながらの平民にとって本は無縁の長物だ。

 そもそも、紙もインクも安くはない。古本であっても、没落した貴族の家から流れてきたものが大半であり、平民の収入ではおいそれと手が出せる値段ではない。王都の華やかな貴族街には貸本屋もあると聞くが、今のリアナのような平民街の人間にとって、そこは身分違いのあまりにも敷居が高い場所だった。

(先月、代筆の仕事のために新しい『貴族名鑑』を買ったばかりじゃない。節約しなきゃ)

 最新の派閥や婚姻関係を把握しておくことは、代筆屋として必須の投資だったとはいえ、決して安い買い物ではなかった。誘惑に耐え、歩みを進めようとしたリアナだったが、ふと、店先の木箱に無造作に置かれた一冊の本に目が留まった。

(これは……医学書、かしら? 装丁を見る限り、まだ新しいみたいだけど……)

 深緑色の革表紙に、かすかに金箔の文字が残っている。おそらく、どこかの貴族が急にお金に困って手放したばかりのものだろう。リアナの持ち前の学習意欲が、ふつふつと掻き立てられる。

 その時、脳裏に浮かんだのは、先ほど店を訪れたエルネスト侯爵の、普段の冷徹さからは想像もつかないほど柔らかく、そして心配そうな声だった。

『今日は少し風邪気味でね。熱が下がらなければ、私が一晩中絵本を読むことになりそうだ』

 彼が大切に育てている五歳の子供、エイル。彼がその子を深く愛していることは、言葉の端々から痛いほど伝わってきていた。

 この国において、十分な知識を持った医師は決して多くない。王都であっても、屋敷にお抱えの侍医を雇えるのは、それこそエルネスト侯爵家のようなひと握りの高位貴族か、王族くらいのものだと聞く。

 侯爵家であれば相応の医療を受けられるはずだが、それでも、知識はあって困るものではない。万が一の時、自分に少しでも看病の知識があれば、手紙のやり取りを通してでも、あの不器用な雇い主の役に立てるかもしれない。

(こういう知識は、必要よね。それに、平民の暮らしではいつ怪我や病気をするか分からないし)

 それは、ただの正当化だったかもしれない。

 気前の良い上客への恩返し。あるいは、冷たい仮面の下に隠された彼の誠実な愛情に対する、ささやかな敬意。

 リアナの右手は無意識のうちに真っ直ぐと伸び、その分厚い医学書にそっと触れていた。

 深緑色の革表紙にそっと指を這わせ、その確かな重みを感じながら医学書を手に取ると、その下からもう一冊、見慣れない装丁の本が現れた。

 表紙には精緻な植物の線画が金箔で押しされている。パラパラとページをめくると、それは同じくまだ新しい薬草の知識を綴った専門書のようだった。

 恐らく、どこかの貴族か学者がお金に困り、医療関係の蔵書をまとめて売り払ったのだろう。紙の質も良く、保存状態も極めて良好だ。

「うっ……」

 リアナの口から、思わずくぐもった声が漏れる。

 普段から空いた時間のすべてを読書や勉強に割くことを厭わない彼女にとって、未知の知識が詰まった真新しい学術書が二冊も目の前にあるという状況は、あまりにも魅力的すぎた。

(ああ……、さっさと立ち去っとけばよかった……)

 本から目を逸らすこともできず、リアナは心の中で深く後悔しつつ、古本屋の店先から一歩も動けないでいた。

 右手には夕飯の食材が詰まった重い籠。左手には、侯爵から受け取ったばかりの金貨が収まっている鞄。先月、代筆業のために高価な貴族名鑑を買ったばかりなのだ。いくら思いがけない臨時収入があったとはいえ、これ以上の散財は平民としての堅実な生活を揺るがしかねない。

 それでも、リアナの視線はどうしてもその二冊の本から離れなかった。

 医学書には、急な発熱や子供特有の症状に対する処置が書かれているかもしれない。薬草の本には、冷え込む夜に体を温めるための、負担の少ない煎じ薬の作り方が載っているかもしれない。

 頭の片隅で『私には関係のないことだ』と冷静な自分が警鐘を鳴らしているのに、心の奥底ではすでに、その知識をどうやってあの不器用なユリウスに伝えようかと考え始めている自分がいる。

「お嬢さん、お目が高いね。それはつい先日、没落した男爵家の蔵書から引き取ってきたばかりの品だよ。中身もほとんど読まれた形跡がない、上物さ」

 奥から出てきた店主のしわがれた声に、リアナは肩をビクッと震わせた。没落した男爵家。奇しくも自分と同じ境遇の誰かが手放したという事実に、微かな縁を感じてしまう。

「あ……ええと、その……」

「まとめて買ってくれるなら、少しだけ色を付けてもいいがね。どうだい?」

 店主の悪魔の囁きに、リアナはギュッと目を閉じた。

 頭の中で、日々の生活費の計算と、氷のように冷たい瞳の奥に隠された侯爵の不器用な優しさが激しく交錯する。自分の身分を弁え、決して身の丈に合わない望みは抱かないと誓ったはずの平民の暮らし。

 しかし、彼が残していった微かな白檀の香りと、金貨に込められた「エイルへの助言に対する礼」という不器用な言葉が、リアナの背中を強く押した。

(……これは、投資よ。代筆屋として、より幅広い相談に乗るための、立派な先行投資なんだから)

 誰に対する言い訳ともつかない理由を胸の内で必死に唱えながら、リアナはゆっくりと目を開けた。

「……二冊で、おいくらになりますか?」

 気がつけば、彼女の声は静かな決意を帯びていた。

 店主から提示された金額は、まけてもらったとはいえ、平民のひと月の食費が軽く吹き飛ぶほどの額だった。しかしリアナは迷うことなく鞄から金貨を取り出し、手渡した。

 ずっしりと重い二冊の本を抱え、すっかり陽の落ちた裏通りを歩き出す。

 食材の籠と本の重みで腕はちぎれそうだったが、胸の奥には、新しい知識を得られるという純粋な喜びと、誰かの役に立てるかもしれないという温かな期待が、小さな灯りのようにぽつりと点っていた。


 裏通りの小さな店舗兼住居に戻る頃には、外はすっかり夜の闇に包まれていた。

 鍵を開け、インクと古い紙が混ざったような馴染み深い匂いのする室内へと足を踏み入れる。リアナはまず、腕がちぎれそうになるほど重かった二冊の分厚い本を、作業机の上へと慎重に置いた。

 深緑色の革表紙と、植物の線画が描かれた真新しい学術書。それらを薄暗いランプの灯りの下で改めて見つめると、満たされた知識欲とともに、財布の紐を緩めすぎたという現実的な焦りがじわじわと押し寄せてくる。

 リアナは小さく息を吐きながら厨房へと向かい、買ってきたばかりの食材を籠から取り出し始めた。

(明日から節約しなきゃ……割の良い依頼なんてそうそう無いんだから)

 手に入れたばかりの新鮮な卵を慎重に棚へ収め、少しだけ奮発して買った肉の塊をまな板に乗せる。今日すぐに食べる分だけを切り分け、残りは日持ちさせるためにたっぷりの塩と乾燥ハーブをすり込んでいく。玉ねぎやじゃがいもも、風通しの良い籠へと移し替えた。

 没落してから身につけた、平民としての生きる知恵だ。無駄遣いはすぐに生活の破綻に直結する。

 代筆業の収入など、決して安定したものではない。

 王都の下町に暮らす平民の多くは、日々の生活において文字を必要としていない。商売は口約束で成り立ち、遠方へ手紙を送るような金銭的余裕のある者はごく一部に限られる。そもそも読み書きの知識がない者が大半であるため、代筆屋の門を叩く客の絶対数自体が少ないのだ。

 リアナがどうにかこの裏通りで店を維持できているのは、ひとえに彼女の持つ「貴族の教養」のおかげだった。商人や職人が貴族を相手にする際の、無礼のない手紙。あるいは、身分を隠して訪れる上客からの、毒を含んだ高度な社交辞令を要する代筆。そういった特殊な需要に応えられるだけの技術があるからこそ、彼女は生計を立てられている。

 だが、エルネスト侯爵のように、ポンと金貨を置いていくような気前の良い依頼主は他にいない。

 塩漬けにした肉を布で包み終えると、リアナは夕食の準備に取り掛かった。

 鍋に湯を沸かし、硬い黒パンを少しだけ柔らかくするためにスープを作る。くず野菜と一緒に、先ほど切り分けた僅かな肉を放り込むと、すぐに香ばしく食欲をそそる匂いが狭い部屋に広がった。

 コトコトと煮立つ鍋の音を聞きながら、リアナの視線は自然と作業机の上に置かれた二冊の本へと向かう。

 明日の仕事の合間にでも、あの本を開いてみよう。子供が熱を出した時の対処法や、体に負担をかけない薬草茶の淹れ方。それを知ったところで、侯爵家が雇い入れているであろう一流の侍医の代わりになどなれるはずもない。

 それでも、エイルを案じていたあの不器用な雇い主が少しでも安心できる言葉を、手紙の中に添えることくらいはできるかもしれない。

 リアナは出来上がったばかりのスープを木皿によそった。


 翌朝、王都の空は薄い雲に覆われ、下町の通りにはひんやりとした空気が漂っていた。

 リアナはいつも通りに店を開け、床板を掃き清め、窓ガラスを磨き終えると、机の上を整頓した。朝のうちは職人たちも仕事に精を出している時間帯であり、代筆屋を訪れる客は少ない。

 インク瓶の並びを直し、白紙の束を揃えた後、リアナは引き出しから昨日手に入れたばかりの深緑色の本を取り出した。

 表紙を開くと、新しい紙とインクの匂いがふわりと立ち上る。

 それは間違いなく、優れた学者が記した専門的な医学書だった。急な発熱に対する段階的な処置、怪我の止血法、さらには各地方で採れる薬草の効能から毒物の見分け方に至るまで、細かく的確な図解と共にびっしりと書き込まれている。

 エイルの件がなかったとしても、平民としてこの下町で生きていく上で、得られるものはあまりにも大きかった。医者にかかる金銭的余裕のない市井の人々にとって、病や怪我は即座に死や生活の破綻に直結する。知識は、何よりも確実な自衛の手段となるのだ。

(発熱した際は、無理に体を冷やすのではなく、まずは汗をかかせて熱を出し切ることが重要なのね……。そのためには、白湯や特定のハーブを煎じたものを少しずつ……)

 リアナは羽ペンを指先で器用に弄りながら、時間も忘れて医学書に読み耽っていた。

 元々、文字を追い、新しい知識を吸収することは彼女にとって最大の喜びだ。ページをめくるたびに広がる未知の領域に、すっかり意識を持っていかれていた。表通りの喧騒も、遠くで響く馬車の車輪の音も、今の彼女の耳にはまったく届いていない。

「―――ナ、リアナ?」

 ふと、頭上から降ってきた低く落ち着いた声に、リアナの意識が唐突に現実へと引き戻された。

「あっ! エルネスト侯爵様」

 弾かれたように顔を上げると、カウンター越しに長身の男が立っていた。銀髪に近いグレーの長い髪を後ろで綺麗に束ね、最上級の黒の外套を纏ったユリウスだ。

 驚きのあまり、リアナの手からすっぽ抜けた分厚い医学書が、ドンッ、と鈍い音を立てて机の上に落ちた。

「……今日は随分と熱心に勉強しているね? 良い事だが、客が来た事に気付かなければ仕事が減ってしまう」

 氷のように透き通ったアイスブルーの瞳が、僅かに細められる。その整いすぎた冷徹な美貌に叱責の色は薄く、むしろ、珍しく隙を見せたリアナに対する微かな呆れと、どこか柔らかい響きが混じっていた。

「も、申し訳ございません! いらっしゃいませ。あの、ドアの音にまったく気がつかず……お恥ずかしい限りです」

 リアナは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。代筆屋として、客の来店に気付かないなどあってはならない失態だ。しかも相手は、王都で最も高位の貴族であり、この店の一番の上客である。

 冷や汗をかきながら顔を上げると、ユリウスの視線はリアナではなく、彼女が取り落とした机の上の本へと向けられていた。

「いや、構わない。……それは医学書か?」

「あ、はい。昨日、少し手に入りまして」

 リアナは顔に熱が集まるのを感じながら、咄嗟に本の表紙を両手で隠すように覆った。

 彼が昨日、エイルの熱を心配していたから慌てて買ったのだと悟られるのは、あまりにも気恥ずかしい。ただの代筆屋が、雇い主の個人的な事情に首を突っ込むために高価な専門書を買ったなどと知られれば、過剰な干渉だと不快に思われる可能性もある。自分の身分は、あくまで裏通りで働く平民なのだ。

(どうか、深く追及されませんように……)

「そうか。君は本当に、学ぶことを厭わないのだな」

 ユリウスはそれ以上本の内容に踏み込むことはせず、ただ静かに感心したように呟き、いつもの立て付けの悪い木椅子へと腰を下ろした。

「教養は、私のような者が生きていくための、唯一の武器ですから」

 リアナは心を落ち着かせるように一つ深呼吸をすると、医学書を机の端へと追いやり、プロの代筆屋としての端正な表情を作り直した。インク瓶の蓋を開け、滑らかな羊皮紙を手元に引き寄せる。

「本日は、どのようなご用件でしょうか。エルネスト侯爵様」

 リアナの問いかけに対し、いつもなら淀みなく要件を口にするはずのユリウスが、わずかに視線を彷徨わせた。

「ああ、今日は代筆と言うか、そうだな……頼み事なんだが」

 氷のように冷たい美貌を持つ彼にしてはひどく珍しく、その声は歯切れが悪い。言い淀むような態度に、リアナは少しだけ目を丸くした。

「頼み事、ですか? 私で出来ることなら……。そういうのもたまにありますし」

 代筆業の依頼は不定期だ。そのため、時には商店の帳簿整理や、文字が読めない平民に代わって役所の掲示板を確認しに行くなど、代筆以外の細々とした頼み事を請け負うことも少なくない。

 とはいえ、相手は王都で最も高位の貴族である。彼がわざわざ下町の代筆屋に頼むような「頼み事」とは一体何だろうか。リアナが小首を傾げていると、ユリウスは困ったように微かに眉間にしわを寄せた。

「エイルなんだが、私に毎日のように手紙が届く事が羨ましいようで……自分宛の手紙は無いのかと、このところ毎日言っているのだが」

「エイル様が、お手紙を……」

 ユリウスの元に毎日届く手紙の大半は、彼にとってはひどく厄介な夜会の招待状か、あるいは打算に満ちた縁談の打診である。しかし、五歳の幼い子供から見れば、立派な封蝋が施された手紙が毎日届けられる光景は、どこか特別でワクワクするものに映るのだろう。

「体調を崩しやすく、寝込むことが多いエイルには、年頃の近い手紙をくれるような友人はいない……それで、君にエイル宛の手紙を書いて貰えないかと……」

 ユリウスの言葉には、エイルへの不器用な愛情と、子供のささやかな願いを叶えてやりたいという切実な思いが滲んでいた。

 屋敷の者やユリウス自身が書いたところで、見慣れた筆跡ではすぐに誤魔化しだと気付かれてしまう。だからこそ、彼はリアナの元へと足を運んだのだ。

(エイル様のために、私に……)

 リアナは静かに息を吸い込んだ。冷徹な「氷の侯爵」の仮面の下にある、ひとりの子供を想う誠実な姿に触れ、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……承知いたしました。エイル様は、どのようなお話がお好きですか?」

 リアナが微笑みながら問いかけると、ユリウスはホッとしたように肩の力を抜いた。

「絵本で読んだ騎士の冒険譚や、遠い異国の動物の話などを好んで聞いている。難しい言葉はまだ読めないが、君の紡ぐ温かい文章なら、きっとエイルも喜ぶだろう」

「ふふ、お任せください。エイル様が読みやすいように、少し大きめの文字で、楽しいおとぎ話のようなお手紙にいたしましょう」

 リアナは先ほどまで手元に置いていた貴族向けの冷たく滑らかな羊皮紙をそっと引き出しに戻し、代わりに、少しだけ生成り色がかった、手触りの柔らかい平民向けの紙を取り出した。

 夜会の断り状に使うような威圧感のある黒や濃紺のインクではなく、温かみのあるセピア色のインク瓶の蓋を開ける。

「差出人は、エルネスト侯爵様のお名前になさいますか? それとも、架空の友人からということに……」

「いや……『王都の片隅にいる代筆屋より』としてくれ。私が頼んだと知れば、あの子は私に気を遣うかもしれないからな」

 どこまでも子供への思いやりに溢れたその言葉に、リアナは深く頷いた。

 ペン先にたっぷりとインクを含ませる。いつもの、相手を慇懃無礼に拒絶するための冷たい言葉の羅列ではない。ただ一人の幼い少年の心を躍らせるための、優しくて温かい言葉を探す。

「『親愛なるエイル様。私は王都の片隅の、小さな路地裏で代筆屋をしている者です――』……このような書き出しでいかがでしょうか」

 リアナが少し声を出しながらペンを走らせると、ユリウスは真剣な表情で頷いた。

「ああ、良い。あの子は外の世界に興味があるから、市井の情景が伝わるような話も喜ぶはずだ」

「では、私の店の近くによく来る、大きな野良犬のお話を書きましょうか。エイル様は、犬や猫はお好きですか?」

「好きだが……あの子は体が弱く、動物の毛で咳き込むことがあるため、屋敷では飼えないのだ。だから、犬の話を書いてもらえると、きっと目を輝かせるだろう」

 ユリウスの言葉には、与えられないものに対する僅かな悔恨が混じっていた。リアナは「お任せください」と力強く微笑み、再び紙に向かう。

(エイル様が、この手紙を読んで外の世界を想像できるように……。少しでも、ベッドの中での時間が楽しいものになるように)

 彼女のペン先から紡がれるのは、日向ぼっこが好きな大きな犬が、代筆屋の店先でどんな風に昼寝をしているかという、ささやかで温かい日常の風景だった。

 文字の形も、大人が読むような流麗な筆記体ではなく、一文字ずつ丁寧に丸みを帯びた、子供が読みやすい字体に変えている。

 ユリウスは、そんなリアナの細やかな気遣いに気付いたのか、少しだけ目を細めて彼女の手元を見つめていた。

「君の字は、本当に不思議だ。冷酷な拒絶の言葉を書く時は氷のように鋭く見えるのに、今は……まるで日だまりのように温かい」

「文字は、言葉の温度を伝えるための器ですから。エイル様宛てのお手紙なのですから、一番温かい温度にしてお届けしなければ」

「言葉の温度、か……。確かに、君の言う通りだ」

 ユリウスは深く納得したように呟き、リアナが書き上げるのを静かに待った。カリカリという規則正しいペンの音が、白檀の香りが漂う店内に心地よく響く。

 やがて書き上がった手紙に、リアナは可愛らしい花の模様が彫られた小さな印で、明るいオレンジ色の封蝋を施した。

「完成いたしました。エイル様が、喜んでくださると良いのですが」

「必ず喜ぶ。……ありがとう、リアナ。君に頼んで本当に良かった」

 手紙を受け取ったユリウスの表情は、「氷の侯爵」という異名が嘘のように、穏やかで優しい顔をしていた。

 その笑顔を前にして、リアナはトクン、と胸が小さく跳ねるのを感じる。

(エルネスト侯爵様もこんな顔をなさるのね…)

 意図せず親の顔を見せるユリウスに、リアナはつい見入ってしまっていた。



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