第一話:運河の咆哮、拳闘の国
約束の運河
ようらん町の喧騒と、あの悍ましい虫たちの羽音が遠ざかる。
ユウサク、ネネ、ヴァレリアの三人は、緩やかに流れる茶褐色の運河を、一艘の乗合舟に揺られて進んでいた。
目的地は、精霊と格闘の国「ムエ・サイアム」。
亜人に化けて生活する中で、ユウサクは一つの噂を耳にしていた。
『ムエ・サイアムは、希少種で脆弱な「人間」であっても、拳闘や剣闘の舞台に立つ者ならば、一人の戦士として人権を認められる稀有な国である』と。
これ以上、野良犬のように蔑まれ、ましてや空き巣で食いつなぐような生活はもう御免だった。彼らは「人間」として胸を張って生きる場所を求め、この熱気と湿度の国へと辿り着いたのだ。
英雄の空白
舟の縁に腰掛け、流れる景色をぼんやりと眺めているヴァレリアは、どこか魂が抜けたような顔をしていた。
「ユウサク:……ヴァレリアさん? おーい、どうしたの。お腹空いた?」
「ヴァレリア:……あ。ああ、ユウサクか。……いや、なんでもない。ただ、どうも記憶がはっきりしなくてな」
ヴァレリアは、包帯が巻かれた自分の左腕を不思議そうに見つめた。そこには、あの凄惨な戦いの跡など微塵も感じさせないほど、ユウサクによって完璧に修復された肉体がある。
「ヴァレリア:あの巣穴で、私は確かに女王と対峙したはずだ。……だが、その後の光景が、霧に包まれたように思い出せんのだ。本当に……本当に、私が、あの異形たちをすべて斬り伏せたのか?」
彼女の記憶にあるのは、剣に力を乞い、意識が灼熱の殺意に焼き尽くされる直前まで。
ユウサクは、少しだけ切なそうに、けれど慈しむような優しい笑みを浮かべて頷いた。
「ユウサク:そうだよ。ヴァレリアさんは立派に戦った。ミミちゃんを救い出したのは、紛れもなく君の剣だ。誇っていいんだよ、僕たちの『英雄』さん」
「ヴァレリア:……そうか。ならば、いいのだが。……だが、なんだろうな。この、英雄になったという実感の無さは……」
ユウサクは、ただ穏やかにヴァレリアを見つめていた。
拳と精霊の洗礼
舟が水門を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには、無数の運河が網の目のように走り、色鮮やかな装飾が施された舟が行き交う水上都市が広がっていた。
「ネネ:……うわぁ、すごい熱気! それになんか……変な匂いがするわね。お香かしら?」
街のいたるところには、金色の装飾が施された小さな社「ピー」の祠があり、人々が熱心に祈りを捧げている。そして何より目を引くのは、至る所に貼られた興行のポスターだった。
「ユウサク:見てくださいよ、あの熱量。あっちでもこっちでも殴り合いの稽古をしてる」
運河沿いの広場では、亜人たちが複雑なステップを刻み、鋭い膝蹴りや肘打ちを繰り出していた。拳と拳がぶつかり合う音、賭けに興じる観客たちの怒号。
ムエ・サイアム。
ここは、強さこそが唯一の通貨であり、戦う者だけが自由を掴み取れる国。
「ユウサク:……よし。まずはギルド……いや、ここでは『ジム』って呼ぶのかな? そこを探しましょう。僕たち、これからは『剣闘士』としてデビューですよ」
ユウサクは不敵に笑い、水上市場の喧騒の中へと足を踏み出した。
適性試験の残酷な真実
辿り着いたのは、運河にせり出すように建てられた巨大な木造のジムだった。
中では屈強な亜人たちが汗を流し、入会希望者のための「適性試験」が行われている。
「ユウサク:ほう、この世界でも適性試験か……。これはもしかして、『おれ、また何かやっちゃいました?』的な、隠れたチートステータスが発覚する展開か……?」
期待に目を細め、ニヤつくユウサク。
「ネネ:何ブツブツ言ってんのよ、気味悪い。私は魔法使いだから専門外。パスよ」
試験の結果は、即座に叩き出された。
「試験官:……人間ユウサク。攻撃力ゼロ。防御力ゼロ。剣闘士、拳闘士、共に不適格。というか、生物として弱すぎる。不合格だ」
「ユウサク:……。……ですよね。わかってましたよ。チートなんてなかった」
続いて、ヴァレリアの番だ。
彼女は意気揚々と、貸し出された木製の剣を手にした。
「ヴァレリア:はぁっ!!」
気合を込めて訓練用の人型人形を叩くが、木剣は無情にも弾かれ、その反動で剣がヴァレリア自身の額を直撃した。さらに緊張のあまり自分の足がこんがらがり、そのまま派手に転倒する。剣の重さに振り回され、まるで剣に遊ばれているような様だった。
「試験官:……剣闘士、不適格。判定、三重バツ(×××)」
「ヴァレリア:……うぅ、ひっく……。な、なぜだ……。私の誇りが……」
ショックのあまり、すでに泣き始めるヴァレリア。ユウサクは慌ててフォローに回る。
「ユウサク:ま、待ってください! 彼女はこう見えて力が強いんです! ほら、次は拳闘士の試験を受けさせてやってください!」
促されるまま、ヴァレリアは泣きべそをかきながら人形の前に立った。
そして、無造作に拳を振り抜いた。
ドゴォォォォォンッ!!!
凄まじい衝撃音が響いた。木製の人形は粉々に砕け散り、破片がジムの壁を突き破った。呆然とする一同をよそに、彼女は見よう見まねの「首相撲」の要領で、地面に深く突き刺さっていた別の頑丈な練習用人形を、根元から引っこ抜き、そのまま怪力でバキリとへし折ってしまった。
「「「おおおおおっ!!!」」」
周囲の亜人たちから、地鳴りのような歓声が上がる。無自覚な才能。圧倒的な肉体のポテンシャル。
「ヴァレリア:……え? おれ、なにか……?」
きょとんとした顔で首を傾げるヴァレリア。だが、すぐに自分の手元を見て、またボロボロと涙をこぼした。
「ヴァレリア:嫌だ……! 私は、剣士がいいんだ……! 拳で殴るなんて、騎士の作法に反する……っ、うわぁぁぁん!!」
やりたいことと、才能は一致しない。
その見事なまでの残酷な例を目の当たりにし、ユウサクは遠い目でジムの天井を見上げた。
泣きじゃくる主人の足元に転がっている「剣」と、ユウサクの視線がふと重なった。
ユウサクと剣は、互いにあきらめ顔で顔を見合わせると、深いため息をついて同時に肩をすくめるのだった。




