第5話「泥濘の逃走、よこすか挽歌」
鉄の残骸、古びた鼓動
シズクが去った後のカオス城内は、死んだ生き物の中に入り込んだような、不快な湿り気に満ちていた。
ユウサクは這いずりながら、城の裂け目から工場の床へと降り立った。
「……無理だ。俺には、あんなの無理だよ」
独りごちる声が、広大な敷地の静寂に反響する。
逃げたかった。シズクの失望した目も、浅葱の冷淡な観察も、この禍々しい城の脈動も、すべてを放り出してどこか遠くへ行きたかった。
錆びついた機械や巨大な歯車の影を抜けていくユウサクの目に、それは飛び込んできた。
資材置き場の隅、油にまみれたブルーシートを被せられ、ひっそりと佇んでいた機械のシルエット。
ユウサクが震える手でシートを剥ぎ取ると、そこには一台の大型バイクがあった。
かつての文明の遺物だろうか。赤錆に覆われてはいるが、無機質な鉄のフレームと剥き出しのエンジンは、今のユウサクにとって、この場から逃げ出すための唯一の手段に見えた。
「……これなら、俺でも扱える」
カオス城のような「生きている機械」ではない。ガソリンと鉄の匂い。かつての日常にあった、馴染みのある感触。ユウサクはスライム化した肉体を無理やり人間の形に固め、サイドスタンドを蹴り上げた。
泥濘のエンジンスターター
「アハハ、本当におぬしは逃げるのが得意な男じゃな」
背後から降ってきた浅葱の声に、ユウサクの心臓が跳ね上がる。
見上げると、天井付近にあるキャットウォークに、浅葱が優雅に腰を下ろしていた。彼女は止めようともせず、ただ興味深そうにユウサクを見下ろしている。
「放っておいてくれよ……。俺は、魔王なんかじゃない。ただの、しがない人間なんだ……!」
「良いぞ。好きにせよ。戦士の魂なき者に、この城を御す資格などないからな」
浅葱の嘲笑を背に、ユウサクは必死にキックペダルを蹴りつける。
一回、二回。エンジンは死人のように沈黙している。
三回。スライム状の肉体が熱を帯び、ユウサクの焦りと「ここから消えたい」という渇望が、機体へと流れ込む。
――ドッドッドッ、ドォォォォォンッ!
四死五裂していた鉄の塊が、断末魔のような排気音を上げて目覚めた。
ユウサクは剥き出しの全裸のまま、シートに跨る。
スライム状の皮膚がバイクの金属表面と癒着し、まるで体の一部になったかのような異様な一体感が生まれる。
「……さらばじゃ、臆病な王よ。その先に『正解』があると良いがの」
浅葱の囁きを振り切るように、ユウサクはアクセルを全開にした。
霧のハイウェイ、ドームへの疾走
カオス城を、よこすかの廃墟を、さらに仲間たちの失望を置き去りにして、ユウサクは疾走する。
海から流れ込んできた深い霧が、全裸の肌を冷たく撫でる。
だが、今の彼に恥じらいはない。ただ、目の前の闇を切り裂くヘッドライトの光だけを信じていた。
(……逃げるんだ。どこか、ここじゃない場所へ。ヘスティアが作ったあんな綺麗な街なら、俺みたいなやつでも、一人で静かに暮らせるはずだ……)
ユウサクは「よこすか」からドーム都市へと続く、崩れかけた道路の跡を突き進む。
道端には放置された戦車の残骸が転がっているが、彼は一度もバックミラーを見なかった。
背後で、かつて自分が救ったはずの少女たちが泣いているかもしれない。
カオス城が再びショウゴに襲われているかもしれない。
だが、今のユウサクには、それを顧みるだけの勇気は残っていなかった。
「……僕は、僕はただ、普通に生きたいだけなんだ……!」
霧の向こうに、眩いばかりの光が見えてきた。
ドーム都市を包む、偽りの星空。
ユウサクは、まるで聖地を目指す巡礼者のように、ガソリンの匂いと鉄の振動に身を任せ、加速し続けた。
自分が「魔王」という役割から脱走した、ただの敗残兵であることを、必死に忘れようとしながら。




