第三話:仮面舞踏会の恥辱と、蒼の暴走
喧騒への逃避
デッキを吹き抜ける夜風は、奪ったばかりの薄手のドレスで過ごすにはあまりに冷たかった。いつまでも外にいれば、警備兵の巡回に捕まるリスクもある。
ユウサク一行は、逃げるように船内の中央ホール――『仮面舞踏会場』へと足を踏み入れた。
そこは、眩いばかりのシャンデリアと、優雅な弦楽の調べに満ちた別世界だった。
仮面をつけた貴族たちが、偽りの笑顔を浮かべながらステップを刻んでいる。指名手配犯として追われる身の彼らにとって、顔を隠すことが推奨されるこの場は、皮肉にも最高の隠れ蓑だった。
「……ふぅ。……これ、おいしいわね」
会場の隅で、ヴァレリアが給仕のトレイからひったくったワイングラスを、凄まじい勢いで空けていた。
「ヴァレリアさん、ペースが早すぎませんか? さっきから五杯目ですよ」
ユウサクが嗜めるが、ヴァレリアの耳には届いていないようだった。彼女の頬は林檎のように赤く染まり、その瞳はどこか虚ろだ。
生真面目な彼女にとって、故郷の英雄から一転して略奪と密航に手を染めたという罪悪感は、並大抵のストレスではなかった。さらに、あの狭苦しいワイン樽の中に閉じ込められていた際の「緊急事態」の記憶が、彼女の自尊心をズタズタに引き裂いていた。
「……もう、帰れない。故郷には、もう……。私は、汚れた騎士だ……。うふ、あはは……」
不憫すぎる。ユウサクは、現実逃避のために酒に溺れる彼女の姿に、かつての自分を重ねて少しだけ同情を覚えた。
痴漢と失言
そんな折だった。
ワインを追加しようと千鳥足で歩き出したヴァレリアの背後から、仮面をつけた小太りの男が近づき、その「お尻」を厚かましくも撫で回したのだ。
「――ッ!!?」
刹那、ヴァレリアの動きが止まった。
静かな、しかしマグマのような怒気が彼女の身体から溢れ出す。
「……貴様。今、何を……した?」
「おやおや、威勢のいい小鳥ちゃんだ。そんなに怒るなよ。ちょっとした挨拶だろう?」
男は下卑た笑みを浮かべ、さらに指を這わせようとする。ヴァレリアはドレスを激しく翻し、男の胸倉を掴み上げた。
「痴漢野郎……ッ! 殺してやる! その指、一本残らず叩き折って海に沈めてやるわ!!」
「ひぇっ!? な、なんだお前は! ここは高貴な貴族が集まる場だぞ! そんな……そんな硬い尻、触っても少しもうれしくないわいっ!!」
あまりの恐怖に、男は口を滑らせた。
それは、自分が触ったという事実を自ら証明する、救いようのない失言だった。
蒼の剛力と、肉の剣
「……やっぱり触ったんじゃないか。死ね」
ヴァレリアの拳が、男の仮面ごと顔面を捉えた。
会場に響き渡る鈍い音。男は床を転がり、周囲の貴族たちから悲鳴が上がる。
「何事だ!!」
異変を察知し、即座に数名の警備兵が駆けつけてきた。彼らはヴァレリアを取り囲み、警棒を構える。
「……あーあ。ヴァレリアさん、なぐっちゃったよ。せっかく隠れてたのに」
ユウサクは遠巻きにその光景を眺めながら、他人事のように呟いた。
「ちょっと! 助けに行かないの!?」
ネネが焦って袖を引くが、ユウサクは動かない。
「いや、いいんじゃないですか。今の彼女、完全に『魔王』より怖いですよ」
ヴァレリアは、襲いかかってきた警備兵の腕を掴むなり、人間とは思えない剛力でその体を引き寄せ、ホールのバルコニーから一人を夜の海へと投げ飛ばした。
「ゆうさくさん、大変なことになったわよ! ……あ、あれ見て!」
ネネが悲鳴を上げる。
いつの間にかヴァレリアの手には、あの不気味に脈打つ「王から授かった剣」が握られていた。ボリュームのあるドレスのスカートの中に、どうやってか隠し持っていたらしい。
覚醒する凶刃:戸惑う魔剣
ヴァレリアが剣を正眼に構えた瞬間、剣身に施された肉のような装飾がドクンと大きく波打ち、禍々しい紫色の光を放ち始めた。
『……力が、欲しいか……。絶望を切り裂く、絶対的な力が……』
ヴァレリアの脳内に、湿り気を帯びた粘着質な声が直接響く。
だが、今の彼女は騎士としての自制心など、ワインの海に流し去った後だった。
「……うるさい! 力なんていらないんだよ!! だまれ!!」
ヴァレリアは呂律の回らない声で一蹴した。
『……拒むな……。我を受け入れれば、お前の恥辱を、この船ごと飲み込む破滅を与えよう……』
「しつこい! 恥辱、恥辱って、あんたもあのワイン樽の音を聞いてたのか!? 死ね! セクハラ魔剣め!!」
ヴァレリアの支離滅裂な怒りに、肉の剣が微かに震えた。本来なら負の感情に同調して契約を結ぶはずの魔剣が、完全に「酔っぱらいの理屈」で拒絶され、戸惑っているかのように脈動が不規則になる。
『……待て、話を聞け。我は……お前の怒りを……』
「聞かない! お酒! もっとお酒を持ってこい!! 騒がしいんだよ頭の中が!!」
ヴァレリアは剣を乱暴に振り回した。魔剣としてのプライドをズタズタにされた肉の剣は、もはや「契約」を諦めたのか、あるいは彼女の異常なテンションに無理やり同期させられたのか、暴走気味の魔力を無造作に放出し始めた。
――ヒュオォォォッ!!
剣先から真空の刃――凄まじい密度の「かまいたち」が扇状に飛び出した。
「ぎゃあああ!!?」
「ぐはっ!!」
駆け寄ろうとしていた警備兵たちが、次々と血飛沫を上げて吹き飛ぶ。刃は鎧を紙のように切り裂き、大理石の柱を深々と刻んだ。ヴァレリアが剣を振るうたびに、真空の刃が四方八方へと荒れ狂い、ホール内の豪華な調度品を粉々に粉砕していく。
「あばばばば!! ヴァレリアさん、それ味方にも当たるから!!」
ユウサクはネネを抱えて床に伏せ、頭上を通り過ぎる真空の刃を間一髪で避けた。
「……はは、あははは!! 消えろ、みんな消えろー!!」
銀髪を乱し、返り血をドレスに浴びたヴァレリアは、最後の一太刀を大振りに横へ薙いだ。
瞬間、周囲にいたすべての警備兵が、まるで目に見えない巨大な鎌で刈り取られたかのように、一斉に地面に倒れ伏した。
「……あ。……あーあ。全滅だ」
ユウサクは、死屍累々となった舞踏会場を見渡し、冷めた目で感想を漏らした。
「……恐るべし酒乱。……というか、あの剣、主導権を握ろうとして失敗して、なんだか泣きそうな脈動してますね。まあ、いいか」
華やかだった舞踏会は、一人の騎士の「恥辱」と「ワイン」が生んだ悪夢によって、完全な地獄へと変貌していた。指名手配犯たちの逃亡劇は、もはや国家転覆レベルの騒乱へと発展しようとしていた。




