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拉致旅行  作者: 弘田宜蒼
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発病

「うつ病だね」

 東京都内にある総合病院の精神科。女性医師は裕介の言葉をパソコンに打ち込んだ後、診断結果を告げた。

 微笑を浮かべる医師とは対照的に、裕介は無表情で目も虚ろである。だが、うつ病とはっきり言われ、少し安心した気がした。

 

 しかし、隣に座る母、小枝子さえこは目の前が真っ暗になる思いだった。

 中学三年となって二ヶ月。もう直ぐ受験を控えている。そんな時にうつ病とは、これからどうなるのか?……

「……それで、……どういう感じなんでしょうか?」

 無言の息子に対し、黙っていられなかった小枝子が質問する。

「まあ、中山君の場合、症状としてはまだ軽いと思います」

 「軽い」との言葉に、小枝子は少し安心し、一番気になることを訊いた。


「……学校の方はどうすれば?」

「行くなとは言いませんけど、あまり無理強いをするのも、却って良くないでしょうね」

 安心はほんの束の間。止めを刺されたような、小枝子は全身から力が抜ける思いだった。

「取りあえず、内服薬三種類と、頓服を二週間分出しておきます。頓服は、一日三回までにして下さい」

「……解りました。ありがとうございます」

 押し黙った母に代わり、今度は裕介が口を開き、親子は病院を後にした。

 

 家に帰り、裕介は部屋に閉じこもり、ベッドに横たわっていた。これから先のこと、まずは明日からの学校のこと、考えることは山程あったが、腑抜けの状態。

 小枝子も同じで、リビングのソファに横たわり、夕飯時になっても、支度する気にもならない。

「母さん飯は?」

 裕介の二歳下の弟、秋久あきひさが尋ねても、小枝子は何も言わない。

 仕事から帰って来た父、譲一じょういちも、この状況を怪訝に思ったが、譲一も秋久も、裕介を病院へ連れて行ったことは知っていたので、何となく推測出来た。

 二人は仕方なく、コンビニで済ませることにした。

 

 やがて、やっと起き上がった小枝子から診断結果を聞いた譲一は、「そうか」と呟いたっきり、晩酌の焼酎を飲み続けた。

 そこに、トイレの為に部屋から出て来た裕介が通りかかる。

「裕介!」

 廊下を歩いていた裕介が、譲一の呼びかけにビクついて足を止める。声の調子からして、そうとう飲んでいることが解った。

 普段は大人しいが、最近は酔うと喧嘩上戸となって手が付けられない。

「お前は、……どれだけ迷惑をかければ気が済むんだ!!」

 嫌な予感がしながら振り返った息子に、父親は目が合うなり怒鳴りつけた。

 決して息子を憎らしく思った訳ではない。夕飯の支度をしていなかった妻への苛立ちを下地に、心配から来る歯痒さ、酒……。それらが重なった結果の鬱憤だった。

「何でそんな言い方するのよ!」

 小枝子は夫の暴言が信じられなかった。

 何も言い返せず、裕介は黙って俯いた。


 小学生の頃の裕介は、成績優秀な少年であった。だが、譲一も小枝子も決して満足はしなかった。

 二人共専門学校の出だが、いずれも学んだ職種には就いていない。譲一は自動車会社の支店で営業を、小枝子はクリーニング店でパート従業員をしている。

 学歴コンプレックスを持つ二人は、裕介が小三、秋久が小一になると塾へ通わせるなど、息子の教育には熱を入れた。

 

 日本人特有の褒め下手な譲一と小枝子は、テストの点数は百点が当然。例え九十点台であろうと評価は辛かった。

 「大学は国立以外駄目だ」。裕介が公立中学へ上がった頃から、譲一は息子二人に口酸っぱく言い始める。それは、裕介が六年生の時に中山家が新築した為の「お家事情」からだった。

 ところが、裕介の成績は中学へ上がると半ばまで下がってしまう。別に、部活や遊びに熱中した訳ではない。

 

 この頃から、裕介の調子は悪くなり始めていた。急に襲って来る落ち込み、苛々、怯え……。裕介自身にも原因は解らなかった。

 息子の変化に、譲一と小枝子も気付いてはいた。勉強に熱中すれば打開出来るのではと考え、塾を有名進学塾に変える対策をとる。 だが、一向に改善されなかった。

「こんな成績で(高校や大学に)受かると思うのか!?」。譲一と小枝子は裕介を追い詰めて行った。


 学校では、入学して半年が経った頃から苛めが始まった。

 当時の裕介は、百五十八センチで五十七キロという小太りな体型。その裕介が落ち込みで暗い顔をし、怯えで挙動不審な態度をとる。そこに目を付けられてしまったのだ。

 初めは同級生が面白がり、不意に頭をはたき、背後から蹴りを入れるといったちょっかいを出し始める。やがて上級生の耳にも入り、身体的なものから、「消えろ!」「キモイんだよ!」などの言葉攻め。苛めはエスカレートして行った。


 成績を咎められること以外に、家庭にはもう一つ問題があった。酒乱親父の「出現」。 仕事上のストレス、息子への憂いを、譲一は酒で紛らわせていた。そして一定量を超えると、「お前に親の苦しみは解らないだろ!」「悉く期待を裏切りやがって!」と鬼瓦そっくりの顔で、息子に御託を並べた。

 精神の不調に加え、苛めっ子と父親に恐怖心を抱いた裕介には、反撃する気力はなかった。

『ミシミシミシ……』

 裕介の精神は、音を立てて軋み始めていたのだ。


 そんな状況下で裕介の唯一の支えは、小学校からの親友、高木洋一たかぎ よういちの存在だった。

 「大丈夫か?」「負けるなよ!」。高木は笑顔で言った。裕介の精神状態と苛めを、親身になって心配してくれた。

 しかし、裕介には最大の欠点があった。常に誰かに気にかけてもらいたいという、自己顕示欲から来る「害虫」が住み着いていた。 ともすれば、根が懐っこい性格も手伝い、一度しがみついたら離れない「寄生虫」。

 

 学校では勿論、夜に電話をしてまで、裕介は鬱憤を吐き出した。

「オレ、ずっとこんな運命なのかなあ……」

 裕介が悲観すると、

「何言ってんだよ。オレ達まだこれからだぜ!」

と高木が励ましてくれる。

「もう行くとこまで行っちゃえば良い……」

 裕介がやけになれば、

「明けない夜はないんだ。そう信じろ!」

と高木は諭した。

 神様・仏様・高木様。

 しかし、裕介は「仏」を「鬼」に変えてしまう。


 中三に上がって一ヶ月目の、日曜の夜だった。

 裕介はいつものように、一階から電話の子機を持って二階の自室に入った。

 高木宅へかけ母親に取り次いでもらう。

『……もしもし?』

 電話口の高木の声は明らかに掠れていた。そこで気付けば良いものを、裕介には自分のことしか頭にはない。

「今日も調子悪いよ……」

『……』

 

 いつもなら、「そうか。辛いよな」などと言って同情してくれる。

 裕介は高木が無言なことを怪訝に思ったが、構わず続けた。

「本っ当、いつになったら善くなることやら」

『……オレも体調悪いんだよ』

 高木の返事に裕介はやっと思い出した。おとといの金曜日。高木は朝から顔が赤く、一目で熱があると解った。その日は配慮して彼に近付かなかったが、一日挟み、裕介の頭からは綺麗さっぱり消えていた。

「……ごめん」

 重苦しい沈黙が流れ、高木が口を開いた。

『……あのさあ、前から思ってたんだけど、お前甘え過ぎじゃね?』

「……」

 最もな指摘と、友人の体調不良を忘れていた自分のバカさ加減に、裕介は言葉が出なかった。

『多くを求められても何にもしてやれねえし……正直ウザイんだよ!』

――!!!!

 瞬間、裕介は頭から冷水をかけられた感じだった。身体は凍りつき、頭の天辺から冷たいものが「ジワー」と広がって行く。

 

 再び沈黙が続き、裕介はゆっくりと耳から子機を離し、無意識に通話終了のボタンを押した。

 「害虫」がブンブン飛び回り、暴走した顛末であった。


 次の日から、裕介は二日間登校出来なかった。やっと登校出来たのは、昼休みが終わる寸前。

 高木とは同じクラスだったが、当然彼の方から裕介に歩み寄ることはなかった。

 裕介も同じで、無論あの日から電話はしていない。直接謝るのが筋だとは解っていても、その勇気はなかった。

 

 それでも、たまに高木と目が合うことがあった。その都度、彼はあからさまに視線を逸らし足早に去って行った。

 取り残された裕介は、遣る瀬なさと申し訳なさにさいなまれた。

――オレは、人と仲良くしちゃいけないんだ……。

 以降、裕介は苛めを受けようが、気持ちが沈み続けようが、誰にも助けを求めなかった。

 今のままでは人に依存し過ぎ、傷付け、自分も傷を負う。一人でいることを専決し、心に蓋をした。


 その内、身体的にも症状が出て来た。休みであろうが適度な睡眠をとろうが、だるさが付き纏う。慢性疲労の状態だった。

『ミシミシ……ガタン!!』

 裕介の精神は軋みが限界に達し、崩壊した。とうとう、昼休みが終わる時間帯からの登校が当たり前となる。


「もう、こんな命いらない……」

 裕介は憔悴しきった顔で、小枝子を前に譫言のように呟いた。

 いよいよ息子の姿を見ていられなくなった小枝子は、譲一と相談し、精神科へ連れて行くことを決めた。


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