羨望
八月に入ってから、裕介はあることがきっかけで、死に行く人間、逝った人間が羨ましくて堪らなくなっていた。
八月初旬。群馬県前橋市内にある大学病院。裕介は小枝子に連れられ病棟の廊下を歩いていた。
群馬は小枝子の地元であり、この病院には小枝子の母、澄子が入院していた。
澄子は五年前に腎臓ガンを患い、切除手術を受けたが、年が明けた頃から体調不良を訴え、二月初旬から入院していた。
「お婆ちゃん、……もう余命一ヶ月なんだって……」
夏休みに入って直ぐ、小枝子にそう告げられた裕介は、「ふーん」と聞き流した。入院していることは前に聞かされたが、自分のこと以外で頭が回らなくなっていた。
秋久は受験を控えた夏期講習などの為に、中々時間が取れなかった。でも、小枝子はどうしても、余命幾ばくもない母に孫の顔を見せてやりたかった。そこで白羽の矢が立ったのが、裕介だった。
小枝子の気持ちは、裕介も鈍い頭を回転させれば理解は出来た。しかし、「もう駄目だ」と言われている人を見舞うのは辛い。出来れば精神的動揺を加えたくはなかった。だが、「一緒に来て!」と母親の懇願は執拗だった。
遂に根負けした裕介は、小枝子の仕事が休みの日に、渋々前橋まで出向いたのだった。
エレベーターを降りて一分数十秒。親子は無言で病室を目指した。辿り着いた個室の三一二号室。壁の左上には、「大村澄子様」とネームプレートが貼ってある。
引き戸の前に立ち、裕介は深呼吸をした。息子の様子を気遣い、小枝子は「良い?」と確認し、裕介は無言で頷いた。
小枝子が戸を開けると、鼻に酸素吸入器を取り付けた澄子がベッドに横たわっていた。その姿を見るなり、せっかく深呼吸して落ち着いた裕介の心は、直ぐに動揺に変わった。
――これが……あの婆ちゃんか?
俄かには信じられなかった。
元々細身だった澄子は、二ヶ月程前から絶食状態となり、表現は悪いが正に「骨と皮」だった。豊かだった表情も消え失せ、虚ろに天井を見上げているだけである。身体も殆ど動かず、看護師にされるがままの体勢で寝かされていた。
「お母さん。また来たわよ。気分はどう?」
穏やかな笑みを浮かべ、小枝子は澄子に語りかけた。すると澄子は、ゆっくりと声のする方へ顔を向け、ゆっくりと二回頷いた。
「……だいぶ、良いわよ」
澄子の声を聞いて、裕介は更に動揺した。甲高かった声は今や昔。殆ど聞き取れない、か細い声だった。
「そう。良かった! 今日はね、裕介が来てくれたのよ!」
そう言って、小枝子はベッドから離れて傍観している裕介に、目で「来なさい」と合図した。
裕介は、小枝子が敢えて笑顔で接していることが分かった。自分もそうしなければとは思ったが、驚きと戸惑いで中々足が動かない。
だが、
「ほら裕介よ。解る?」
小枝子が指し示した為、澄子の顔は裕介へ向けられた。こうなると覚悟を決める暇はない。裕介は笑顔になってベッドに近付いた。
「婆ちゃん久しぶり!」
「……裕、介……」
よく見ると、入院以来初めて孫の顔を見た澄子の口元が、笑っているようにも見えた。
「……元気だった?……」
「うん。元気だよ!」
裕介は笑顔で答えた。
「……病気は……大丈夫?……」
「……ああ。安定してるよ」
澄子は裕介がうつ病を患っていることを知っている。会う度に「調子はどうなの?」などと気遣ってくれていた。
――自分がこんな状態なのに……。
今や寝たきりとなった祖母から心配され、裕介は胸が締め付けられた。まさか「ここんとこ調子悪くて……」とは、口が裂けても言えない判断くらいはつく。
「……そう。……諦めたら駄目よ……」
裕介は何も言えず、笑顔のまま頷くことしか出来なかった。
一時間くらい見舞った後、
「また来るから。ゆっくり静養して!」
裕介は気力で笑顔を作り、声を張った。
「……またいらっしゃい……」
「はい。お大事にね」
病室を出てエレベーターに向かう途中、小枝子は思い出したように話し始めた。
「今日は言わなかったけど、お婆ちゃん、時間のことが気になるみたいでね」
「時間?」
「うん。「今何時?」とか、「食事の用意は大丈夫?」とかね。……早く起きなきゃ、家に帰らなきゃっていう思いが強いのかもね」
「……退院を諦めてないんだ」
余命一ヶ月の人間が退院……。まずあり得ないことだ。
「そうよ。だから裕介にも、「諦めたら駄目よ」って言ったんじゃない?」
帰りの電車の中、小枝子とは離れて座った裕介は、ボーっと車窓から入って来る景色を眺めていた。
その内、さっき胸を締め付けられた思いを台無しにする、非人間的な考えが芽を出した。
――婆ちゃんは良いなあ。
退院を諦めていないとはいえ、澄子のような死に行く人間は、もう病気と闘うことも、日常生活を送ることも出来はしない。現状から逃げ出したいが故、自分もそうなりたいと強く思った。
邪な考えであることは百も承知している。が、そんな人達に憧れを持った。
仕事に友達付き合いと、毎日が活発的な女性。片や、現状にもがけばもがく程、悪循環に陥って行き、遂には死に行く人を羨ましく思ってしまう少年。
こうして二人の夏休みは終わった。
九月に入り後期が始まった。文夏は相変わらず裕介を見付けては、挨拶や一言二言声をかけ続けた。
裕介は無視を決め込もうとしたが、根が懐っこいが故、押し通すことが出来ない。気が付けば、ぶっきらぼうながら少しずつ会話をするようになっていた。
それこそが文夏の思う壺であり、旅を実行に移すカウントダウンに入った。
「東京生まれじゃなかったんだあ」
九月も残り一週間となった夜。美貴はソファに足を伸ばし、一日の終わりに必ず飲むビール片手に、目を丸くした。
「うん。久しぶりに里帰りしようと思ってね」
出会って五年。文夏は一度も地元の町を話題にしたことはなかった。
「ふーん。でも夏休みにすれば良かったのに」
「まあ、……紅葉も綺麗だし」
もっともな美貴の指摘に、文夏は歯切れの悪い返事をした。本当は、裕介に対する布石が必要だったからである。
「でも何で急に?」
美貴の質問に、文夏は少し考えた。
「……自分を見詰め直したいの。この二年くらいの間に色々あったし」
「スペクタクルだねえ」
率直な言葉に、文夏は「まあね」と言いながら笑みを浮かべた。
「私にとっても……」
文夏が思わず呟いた一言を、美貴は聞き逃さなかった。
「「私にとっても」って……、何か企んでるね?」
美貴の指摘に我に返った文夏は、「しまった!」と言いながら苦笑した。鈴江が指摘した時と同様、彼女は自分の気持ちを素直に言動に表わしてしまうところがある。
仕方なく、文夏はもう一つの「計画」を告白した。
「旅のお供っていうか、ちょっと付き合ってもらおうかなって人がいるの」
それを聞いて、美貴は嫌な予感がした。
「まさかあたし!?」
「ううん。学校の人」
「友達なの?」
「うーん。なりつつあるっていうのか、強引に付き添ってもらおうと」
自分がターゲットではないと解り、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。美貴は再び動揺させられた。
「……それって誘拐じゃん!?」
「誘拐っていうか、拉致?」
物騒なことをあっけらかんと言う文夏に、
「どっちにしたって犯罪でしょ!?」
美貴はツッコミながら呆れるばかりだった。
「相手は幾つなの?」
「十七って言ってた」
「ちょっとヤバくない? 警察沙汰になったらどうすんの!?」
美貴は動揺と呆れを一遍に感じ、訳が解らなくなる。
「その辺は大丈夫だと思う。彼なら」
「……?」
その自信はどこから来るのか? ニヤリとする文夏に、美貴は気味が悪くなり、それ以上は訊けなかった。




