39分59秒
秋の文芸展2025参加作品
まだ若かったオレには『自分』が必要だった。
趣味は?特技は?どんな所が人と違う?
そんなことを周囲にアピールする為の『自分』が。
その手段としてマラソンを選んだ。
別に得意だった訳では無いし、陸上経験があるわけでもない。単に程よかったのだ。
時代はまだマラソンがブームになる少し前。ただ走っているだけでストイックなイメージがあった。そして、素人でも参加出来る大会が多いのも良い。大会出場しているというだけで、趣味の本気度がワンランク上がって見えるから。
何より独りで出来る。
孤独の隠れ蓑に調度良い趣味であり『自分』だったのだ。
その大会に出場したのは、走り始めて5年が経った頃だ。
スタートは某神社の境内、200人前後いる参加者のほとんどはランニングシャツとランニングパンツ。今ではウエアの進化に伴い様々な格好の人がいるようになったが、当時の市民マラソンのガチ勢(記録狙いの者)はランシャツ&ランパンが正装だった。
「すごいね。ここは速そうな人いっぱいいる。さっきまでと全然雰囲気違うね」
観客の誰かが言った。
市民マラソンは、年齢や距離に応じてスタート時間が違うことが多い。
この大会も最初はキッズランやファミリーランなどの比較的ほのぼのとした雰囲気。正直オレには居心地が悪い。
しかし、段々中学生、一般と対象年齢が上がり、距離も伸びていくと雰囲気が変わって来る。
オレが参加したのは一般男子10kmの部。この大会では最長距離でガチ勢も一番多い。
必然的にスタートを待つ者達の会話は少なく、ただペチペチと腿を叩く音が、そこかしこで響いていた。
段々周りも皆孤独になっていく。
そこでようやくオレは居心地の悪さが消えるのだった。
10kmの世界記録26分台。これは50m8秒を切るペースであり、とても人間業ではない。
市民マラソンなら優勝タイムは32分ぐらい。これも陸上未経験者にはキツイ。
当時のオレの目標は39分59秒。つまり、40分を切ることに設定していた。これが出来れば、他の稽古事で言えば初段ぐらい。ランナーの間でも一目置かれるぐらいのステータスになる。
その記録があれば「オレはマラソンが趣味で特技だ」と胸張って言える。そんな気がしていた。
目標を立ててから5年。何度も数秒単位でタイムを縮めていき、直近の大会で40分04秒。ついにそれが手の届く所に来ていた。
号砲が鳴った。
最初は少し無理してでも前に出る。ローカルな大会はコースの道幅が狭い所も多く、集団に飲み込まれたら前に出られなくなるからだ。
このコースも神社を出ると一旦狭い歩道を走らなければならず、そこまでの位置取りが重要だ。
明らかな上位者は無理に追わない。しかし、こういう大会は最初だけ張り切ってすぐに落ちてくる層がいる。そういう連中はマークし、早めに抜き去る必要がある。
どこで見極めるかって?上手く説明出来ないが、5年も大会出てればだいたい分かるんだ。体型とかフォームを見れば、そのスピードが持つか落ちるかはなんとなく分かる。
しばらく行くと、目の前に大柄な男がペースダウンして来た。
身長は190cmは超えているだろう。筋肉質だが体は絞り切れてはおらず、明らかにマラソン向きではない体形に見えた。
チーム名と選手名が書かれた黒のランシャツを着ており、そこには『南蛮渡来 Steven』とある。
そう、この走友会は知っている。主に外国人のマラソン愛好家で構成された走友会で、様々な市民マラソンでこのウエアは見たことがある。
陽気で活気のあるチームだ。
(スティーブ、悪いけど、ここはお前の場所じゃない。下がれ)
内心そう思いながらオレは抜き去った。去り際のステーブは、明らかにオーバーペースが祟ったような、今にも立ち止まりそうな荒い呼吸をしていたのだ。
そこから100mほど走り、直角にカーブするとようやく道幅が広くなった。沿道の応援も増え、いよいよ本格的なレースとなる。
チームで来ている連中は、ここで手を振ったり振られたり、走りながら仲間のカメラに向けてポーズを取ったりしていた。
そんな連中を尻目にオレは自分のフォーム、ペースを確認する。先ほどまで少し無理していたのでやや息が上がっている。これを落ち着かせつつ、かつ、ペースを落としすぎないようにしなければいけない。
(オレは本気で記録を狙っているんだ。お祭り気分のヤツラとは違う)
そう自分に言い聞かせて走った。
1km通過。タイムは3分38秒。
速すぎる!もう少しペースを落とすべきか?いや、落ち着いて来てこれだから、無理に落とすことは無い。
呼吸も大丈夫。リズムは取れているし維持出来そう。
オレは一つ一つ指差し確認しながら、自分の走りを安定させて行った。
ここからは、ひたすら同じフォーム、同じリズム、同じ呼吸を維持することが大事になる。
そして正確に1kmを3分55〜59秒のペースを刻む作戦だ。
よくある言葉で言えば『マイペース』なのだが、集団の中でそれをやるのは難しい。
マイペースは高等技術なのだ。
ふと沿道が賑やかになった。
それと同時に後ろから激しい足音と息遣いが聞こえる。
その音の主はオレを抜き去り、沿道の仲間とハイタッチして行った。
スティーブだ。
しかし、また角を曲がり、沿道の声援が途切れると彼は明らかにペースダウンしてくる。
オレは再度抜き返した。
すると、少し足音が強くなり、やがて消えていった。おそらく抜かれまいと一時だけペースを上げたのだろう。
こういうのは正直迷惑だ。オレはタイムだけを目標にしているので、抜いてもらっても一向にかまわない。しかし抜くなら確固たる実力を持って抜いて欲しい。ウロチョロと勝手に競われるとペースが乱れる。こういうのがあるから集団の中でマイペースを保つのが難しいのだ。
3km通過。タイムは11分49秒。
まずまずだ。スタートの1kmだけオーバーペースだが、その後は一定のペースを維持できている。今までの経験から後半は落ちることが予想されるので、5kmまでになるべく貯金を作りたい。
コースは神社を出て5kmのコースを2週する形なので、そこの通過を19分30秒ぐらいにしたいと、走りながら目標を立てた。
4km通過。タイムは14分53秒。
安心しすぎたか、貯金はむしろ減ってしまった。しかし、今は登りが続いている所なので一番タイムが落ちる所だと自分への言い訳を考えた。
そして対策を立て直す。
この後の下りでスピードに乗りつつ、最後の急な登りは様子を見ながら無理せず神社まで行く。この1周は練習だ。ここで感覚を掴み、2週目が本番・・・と、そんな計画を考えていた時、聞き覚えのある足音と息遣いが聞こえた。
ステーブだ。
持ち前の身長と体重、そして思い切りの良さで、物凄い勢いで下っていく。
(これについて行ってはいけない!)
オレは自重して走る。
案の定、続く登りに入るとヤツは息も絶え絶えにペースダウンし、オレは苦も無く抜き去った。
(なんなんだコイツは!)
正直走りは滅茶苦茶で、2kmも持たないと思っていたのだが、基礎体力と根性だけでここまで持たせてしまった。
(しかし、これで終わりじゃない。後5kmあるぞ。そんな死にそうな顔で大丈夫か?)
そう思いつつも、コイツならなんとかしそうな気もして来た。
5km通過。タイムは19分55秒。
全然貯金は増えていない。むしろ減ってしまった。
後半は、ここからまったく落とせない。
盛大な応援に迎えられながらも、オレには全く余裕は無かった。
後方で何やら英語の激励が聞こえる。
おそらくスティーブだろう。やはり、思ったほど離れていないようだ。アイツなら声援を力に出来るタイプだろうな。逆にオレはこの賑やかな場所を早く過ぎ去り、一人で集中して走りたかった。
一人で、マイペースで、時計と自分の体とだけ対話して走りたい。
1周目で把握したコース、条件を元に、なるべく正確に、計画通り走りたい。
しかし、その願いはかなわなかった。
何度もスティーブに抜かれ、オレもヤツを抜く。いや、ヤツが勝手に落ちてくるから抜かざるを得ないのだ。
そうしながら、オレの脚は徐々に疲労が溜まっていった。
9km通過。タイムは36分02秒。
貯金は借金に変わった。残りを3分57秒で走らなければいけない。直前の1kmは4分5秒かかっていた。
余力なんてない。
しかし、策はある!
下り坂に入ると案の定、もう何度も聞きなれた足音がする。
それに合わせてオレもペースを上げた。
オレを抜き去って行ったスティーブの後ろにピッタリとくっつく。
下りでスピードを作り、その勢いで登りを駆け抜ける!
腿と脹脛は痙攣する一歩手前。オーバーストライドにならないよう気を付けつつ、なるべく回転数を上げてステーブに付いて行った。
下りを乗り切り、最後の登り。
下りでついたスピードを少しでも長く持たせるように勢いで駆け登った。
ここで一気にスティーブを追い抜いていく!
・・・つもりが抜けない。ステーブは抜かれまいと並走する。
(ありがたい!)
オレの目標はタイムだ。だから正直、コイツに順位で勝とうが負けようがどうでもいい。
しかし、こうやって競り合えば最後までスピードを落とさずに済む。
坂の終わりで、オレは一度だけ上を向いて大きく息を吸った。
アニメのような真っ青な空が目に入る。
「あ゛ーっ!」
声を出して息を吐くと、再び顎を引き、腕を振り、腿を前に出す。
「Hooo!」
呼応するようにスティーブも声を出した。
結局そのまま最後まで抜きつ抜かれつしながらゴールした。
39分52秒。
それが自分の腕時計で確認したタイム。
あまり実感は無かった。あのスピードで走れば当然だろうぐらいの感覚。
そんなことより、ただただ苦しかった。
後続の邪魔にならない位置までかろうじて歩くと、オレはかかんで両手を膝に置き、まだまだ荒い呼吸を整えた。
「Nice run!」
頭上から声をかけられた。
スティーブだった。正面から見ると少年のような屈託のない目をしている。
「ユー トゥー サンキュー」
咄嗟に出たのはこんなカタカナだけだった。そして握手をする。とんでもない握力だ。その手を握ったままスティーブはまくしたてる。
英語は全然得意じゃないが、ランニングの話をしているので、なんとなくは分かる。
彼も40分切りを目指していたらしい。そして「お前のおおかげで達成できたぜ、ハッピーだ。HAHAHA!」というような意味のことを陽気に手振りを交えていっている。
「ミートゥ、ジス、タイム、ハッピー、サンキュー!」
自分の腕時計を指しながら、そんなことをカタカナで言った。スティーブは大げさな身振りを交えて「マジか!そいつはグレートだ」的なことを(たぶん)言った。
そこでもう一度握手を交わす。
そして、彼の仲間との祝勝会に参加しないかと誘われた。
「ソーリー アイ ハブ プロミス」
もちろん嘘で約束なんて無いのだが、そこは生来の人見知りで断ってしまった。ステイーブは本当に残念そうな顔をする。そして両手を握り、腕振りのゼスチャーして言った。
「マタアイマショウ」
たぶん、また大会で合おうと言ってるのだろう。
「マタアイマショウ!」
何故かオレもカタコトで答えた。
結局、5年間追い求めた目標を達成しても『自分』は何も変わらなかった。ただ、随分経った今でもスティーブのことだけはよく覚えている。
了
お読み頂きありがとうございます。
実在の走友会をもじった名前を使用しておりますが、一応フィクションですので悪しからず。
もう随分昔の体験談をベースにしておりますが、始めて40分を切った時に並走したスティーブのモデルの方は今でもよく覚えており、付き合いは無くとも勝手に戦友扱いしています。