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8.エーレンベルク邸の朝


魔法に目醒めたかもしれない。


そう直感した榮太郎だが、『まだ下手な真似はすべきじゃない』と考えられる程度には判断力が戻っていた。

この世界に何種類の魔法があるか知らないが、一度突風で吹き飛ばされた事実を参照するだけでも、取り扱いに注意が必要だと分かる。

万が一、魔法が暴発して部屋を壊したなどとなれば、いよいよロップイヤーへ言い訳ができない。


さきほど見た光の粒の正体も精霊と決まったわけではないし、どのみち一人で考えても意味はない――、と榮太郎はベッドから抜け出した。





寝かされていたのは、エーレンベルク邸一階の客室らしい。

必要最低限の家具しか置いてはいないが、その最低限が高級だ。ベッドはふかふかだし、ちゃんと作業机まで用意されている。もしこの部屋を使わせてもらえるなら最高だと、榮太郎は思った。


そこで、机の上に小さなメモが置いてあることに気づく。

開いてみると、『起きたら行くから、この部屋で待ってて』と書かれていた。

既に見覚えのあるその文字に、榮太郎はすこし安心を覚えた。


「んん……!」


ぐっと伸びをする。

カーテンを開けると、早朝の弱い日差しが部屋を満たした。ウィスタリアが来るまで手持ち無沙汰だが、出勤準備も持ち帰り仕事もない朝は久しぶりだ。色々あったが、異世界に来て初めて迎えた朝を堪能しよう。

そう思って、窓の金具へ手をかける。すると、


ガサッ!!


とすぐ目の前に人影が降ってきて、榮太郎は声をあげそうになった。


「!?」


何か事件かと物騒な考えがよぎるが、すぐあとにバラバラと枝葉が落ちてきて、ジョキンジョキンという鋏の音が聞こえたので納得する。

覗き込むと、窓枠の下でピンク色の髪がぴょこぴょこ動いていた。


「おはよう」


窓を開いて、声をかける。

すると小さなシルエットが大きく反応し、榮太郎を認めた。


「おぁ! これはこれはエータローさん! お早いお目醒めですねえ!」


「いや、結構長い間眠っちゃってたらしくてね。レミンさんこそ、朝早くからご苦労様」


「ふふふ、レミンでいいですよ」


レミンはそうニコリと笑うと、枝切り鋏を置き、窓のふちに手をかけた。

決して高い位置にある窓ではないが、彼女の身長だと目から上しか出ない。


「授業中に倒れちゃったって聞きましたが、ご気分はいかがです? お嬢様と旦那様がたいそう心配しておいででしたよ。でも、顔色は昨日よりいいみたいですね。やっぱりネルロからの長旅で疲れちゃいましたか」


「ネルロ? ……あ! そうそう。そうだった」


意識が途切れる直前にそういう話が出ていたのを思い出す。

あの後、ウィスタリアが説明をしてくれたのだろう。ロップイヤー以外にも情報が伝わっているらしかった。


「ヘリベルトさんも、せっかく晩御飯を用意していたのにって残念そうでした」


「ああ、料理人の。一人分が無駄になるわけだもんな、申し訳ない」


「ご安心ください。無駄にはなっていません」


「ん?」


「余ったものはレミンが頂きましたので」


「あ、そ、そうなんだ」


「ごちそうさまでした」


「……どういたしまして?」


不思議なテンポ感の子だ……。

そもそもこんな小さな女の子が庭師として働いていること自体不思議ではあるのだが、少なくとも榮太郎に対する敵意は感じなかった。メイド二人と違って。


「これからまた仕事に戻るのか?」


「そうですねえ。お庭の木の剪定はだいたい終わりましたので、畑の様子でも見に行こうかなあと思ってました」


「畑?」


「ええ、このお屋敷の裏から出てすぐのところに小さな畑がありまして。そこでお野菜を育てて、ヘリベルトさんに料理をしてもらうんですが」


レミンはそう言いながら、後ろの方を振り返る。

並んだ庭木でよくは見えないが、敷地外に出る道があるのだろう。

しかし、畑がある方を見るレミンの顔はなぜか難しげだった。


「どうかしたのか?」


「実は、今年はお野菜さんの出来があまりよろしくないのです。苗が倒れちゃったり、実が腐ってしまったり。何が原因か分からないので、どうしようもなくて。ちゃんと毎日水はあげてるんですけどねえ」


レミンが首を捻る。

榮太郎はその仕草を見て、ふと懐かしい思いになった。

何故だろうか。そうだ、父方の祖父母が広い畑を持っていて、よく似たような会話をしていたのだ。夏休みに遊びに行くと、畑には青々しい野菜が所狭しとなっていて、もぎたてのトマトを食べさせてもらえたりした。


祖父と祖母は野菜の出来について頻繁に話し合っていた。

今年の天気はどう、土の質がどう、肥料がどう、水がどうとか。専門的な用語はわからないが、榮太郎はその会話を横で聞いているのが好きだった。実際祖父母の家で食べる野菜は、デパートに並ぶどの野菜よりも美味しかった。


もう10年以上前の話である。

祖父母はもう畑仕事を引退しているし、遊びに行く機会も減った。榮太郎自身が畑仕事に精通しているわけでもない。


だけれど、レミンがポツリと漏らした呟きが、なんとなく榮太郎の記憶のスイッチを押した。


「――水をやりすぎてるんじゃないか?」


「はぇ?」


レミンが榮太郎を振りかえった。


「お水をやりすぎてはいけませんか?」


「ああ、野菜は水をあげなくても、あげすぎてもうまく育たないんだ。適度な栄養と水分量を保たないといけないと、根腐れを起こしたりする。もし去年はうまく行ってたなら、今年は雨が多かったりしたのかもしれないなあ」


「…………」


気づけば、レミンが目を丸くして榮太郎を見つめている。

榮太郎はハッと我に返り、畑がある方向から眼下の少女へ視線を戻した。


「すまん、素人意見だ。見当はずれなことを言ったかもしれない。レミンは俺なんかよりもよっぽど植物の育て方に精通しているはずだもんな」


レミンはブンブンと首を振る。

そして、少し俯いて考え込む素振りをしてから言った。


「一年前、おじいちゃんが倒れたのです」


「え?」


「今はここよりも大きな街の病院にいます。おじいちゃんはこのお屋敷でずっと、ロップイヤーさんよりも前から庭師をしていました。今植わっている木は全部おじいちゃんが育てたものなのです」


「はあ、そうだったのか」


レミンが一人で管理していると聞いた時はその仕事量にだけ驚いていたが、よく考えれば、そもそもこれだけ見事な庭園を完成させるには数年では足りない。十年、二十年、あるいはもっと長い時間をかけて完成する芸術作品だ。


「よく付いてきていたレミンが、その代わりをやりたいと言ったのです。草花を見るのが好きでしたし、力持ちですし、枝を切ったり水撒きをしたりもちゃんと出来るつもりだったのです」


榮太郎は初めて聞く先代の庭師を、自分の祖父と重ね合わせていた。

畑にしゃがみこみ、背中を丸めて、もくもくと土をいじっている後ろ姿と。そこにあるのは親愛と憧れだ。


「でもやってみたら、レミンの知らないことばっかりでした。このお屋敷の庭の木も、畑のお野菜も、去年まではもっと生き生きしてました。おじいちゃんが元気になって帰ってくるまでと思って頑張ってはいますが、おじいちゃんみたいにはいきません。エータローさんでも知っているようなことを、レミンは知らないのですから」


窓の枠を握るレミンの手が少し強くなる。

榮太郎はその横から顔を出し、改めて裏庭を眺めてあっけらかんと言った。


「いいんじゃないか、別に」


レミンは眉をひそめる。


「よくないですよぉ」


「初めは誰でも新米だよ。っていうか、俺もそうだしな。レミンと同じで知らないことばかりだ」


「……エータローさんもです?」


「そう、だから分からないなりに試行錯誤するんだ。この裏庭を見るだけでも、レミンがよくやってるのは分かるよ。野菜の育て方とかはさ、俺の知ってることでよければ教えるよ」


異世界の野菜に通用するかは分からないが、と頭の中で付け足す。


「ええ! 今度、レミンの畑を見に来てください! ダメになっちゃったのもありますが、ちゃんと美味しそうに育ったものもあるんですよ!」


榮太郎が頷くと、レミンはパッと顔を明るくした。

そして機敏な動作で窓際から飛び退くと、枝切り鋏を抱えて敬礼する。


「ではでは、本日のところはお仕事に戻ります! 約束ですからね! 見にきてくださいね! 待ってますからね! あ、あと、レミンはお嬢様のお勉強についてはよく分かりませんが、エータローさんはとってもいい先生だと思いますよ! レミン、エータローさん好きです!」


そう言い残すと、レミンは瞬く間に視界の外に走っていった。


「エネルギッシュだなあ……、ん」


榮太郎が小さく笑みを浮かべて呟いたところで、いつからか、目の前に青い光の粒がふよふよ浮いていたことに気がついた。さっき榮太郎の頬を叩き、体に潜り込んでいったやつだ。


何だろうかと思っていると、青い光は大きく膨らみを増し、パッパッと点滅してから――、また榮太郎の額へと戻っていった。

トントンと指で叩いてみても、なんともない。



「毎回、出てきてすぐ消えるの何……?」


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