御維新の錦絵暦
明治五年十一月十日、善右衛門は新聞を読んで仰天した。
「十二月三日が正月になるだと!」
西欧列強にならって太陽暦に切り替えるという明治政府の突然の太政官令であった。
これまでは、月の満ち欠けを一月と数える太陰暦が主であった。
正確には、季節のズレが生じるため閏月を入れて一年十三ヶ月の年をこしらえて補正する太陰太陽暦と言う。
来年はまさにその閏年であった。
善右衛門は錦絵の出版業を営んでいた。
年末には十二枚か十三枚の錦絵に暦を付けたものを「錦絵暦」として売り出しており、暦を扱う「弘暦者」としてはモグリなのだが、毎年売り切れる人気であった。
モグリだったから新聞で改暦の事を知ったのである。
──朝。
暦の改定を知った者たちが緊張した顔で、作業場を兼ねた善右衛門の家に集まってくる。
でっぷり太った善右衛門は神棚の下で皆を迎えた。
番頭の半助、手代の小吉、雑用係のハツ、下絵師二人、彫り師三人、摺師二人……。
作業場には小売におろすばかりになった、梱包済みの錦絵暦が山のように積まれていた。
皆は、固唾を飲んで善右衛門の言葉を待った。
じっと宙をにらんでいた善右衛門が口を開いた。
「摺るんじゃ。何があっても錦絵暦を摺り上げるんじゃ!」
「でも、間に合いません」
善右衛門はニヤッと笑った。
「小吉、さっき役場に行って月ごとの日付を貰ってきた。これで、十二ヶ月分、日付だけを摺る」
皆の顔をグッと見回して、
「それだけなら摺れるだろう」
「日の吉凶は? 干支は? 農事は?」
「一切省く……」
細かい文字を彫れるのが自慢の職人がガックリと肩を落とす。
「錦絵は? 肝心の錦絵はどうするんで?」
やせこけた番頭の半助が訊く。
「新たに摺るのは日付だけだ。錦絵は前のと貼り合わせる」
上等の紬を着た善右衛門が言葉を続けた。
「金は取り戻せるが信用は取り戻せねぇ。来年も再来年も錦絵暦を飾ってもらう。小吉、ハツ、荷をほどけ。そして片っ端から綴り糸をはずせ」
「わかりました。ハツ、失敗するんじゃねえぞ」
ハツは首を縮めた。小吉はいつもハツに容赦がない。
つぶれかけたような桃割れに藍染めのつんつるてんの着物。母一人子一人のギリギリの生活。
嫌味くらいで「辞めます」とは言えない。
善右衛門は下絵の職人と打ち合わせしている。
暦は一日間違ってもすべておじゃんになるしんどい仕事。
急いでもあわててはいけない。
彫り師と摺師にも手伝ってもらって、どんどん荷をほどく。
ほどいた端から十三枚の錦絵──日付付き──をばらしていく。
善右衛門は見事に描かれた十三枚の錦絵から、胸をはだけて中秋の名月を観る美人画を外して十二枚にして綴り直すことにした。
日が暮れて長屋に帰ったハツは明日から泊まり込みになると母に言った。
「わかったよ。これ、持っていきな」
渡してくれたのは玄関の正月飾り。
品薄をいいことに法外な値が付いているのに。
「おっかさん、ありがとう」
翌朝、ハツは正月飾りを懐に善右衛門の仕事場に着いた。小吉に正月飾りを飾ってくれるように頼む。
「よく手に入ったな。高えぞ、これ」
嫌味を言われるかと思っていたハツはホッとした。
「暦が変わっても歳神様は来てくださるかねぇ」
「おらにもわからねぇ」
小吉はざんぎり頭を振った。
この日から作業は本格化した。
版木が彫り上がるとすぐに摺師に渡し、摺師はバレンが火を吹く勢いで摺っていく。
小吉とハツは旧版から日付の部分を切り取って待ち構えていた。
切るといわれても、ハサミでちょん切るのではない。水で湿してちぎり取るのだ。
和紙の特性、同様に端をちぎり取った別紙と貼り合わせても違和感はほとんど無い。
日付が刷り上がる端から、貼り合わせていく。
仕上げは綴りだ。
最後の一冊、畳針を抜いて綴糸を切る。
表紙には黒々と「新暦」と摺られていた。
「間に合った……」
ハツは表へ出た。
火点し頃、東の空の月に手を合わせる。
隣に小吉がいた。
「なんだ、お月さんを拝んでいるのか」
「新しい暦は、お月さんとずれるんでしょ、なんだか申し訳なくて……」
小吉も黙って手を合わせた。
「新暦だよ、新暦の錦絵暦だよ!」
普段は売り子をしないハツや小吉も市へ出た。
急な新年の準備にあわただしい人々が足をとめる。
新暦の錦絵暦、年内にすべてを売り切った。
小吉とハツは思わず抱き合った。
次の瞬間、弾かれたように飛び下がる。
二人とも真っ赤になっていた。
「ハツ、おらおめえのこと……」
「小吉さん……」
そっと手をつなぐ。
善右衛門が秋口に五千枚の「満月を眺める艶っぽい女の図」を売り出して大儲けし、今回の損を取り戻したのは、これまた別の話。
政府は閏月を無くしたおかげで一月分の官吏への給料をまるまる浮かすことができましたとさ。
お題「月」二作目の習作です。
よかったら一話目と読み比べて見てください。