08 婚約破棄
早とちりで妹想いな兄にシュカは「落ち着いて」と声をかけてから「一緒に深呼吸しよ」と誘う。
スーハーと深く呼吸をすると、なぜか誘っていないレオンハルトまでシュカの隣で深呼吸していた。
「落ち着いた?」
「ああ、落ち着いた。シュカちゃんはお薬を取りに来たんだね。それで? 新婚生活はどう? 仲良くやっていけそう?」
養子であるシュカには当然似ていない鳶色の髪に緑色の瞳を持つ兄は、シュカが知っている人間の中では誰よりも高い背を折り曲げてシュカを覗き込んでくる。
心配してくれているのはわかるが、ここにはレオンハルトがいる。
元婚約者である彼の前で新婚生活について語っていいものか。
空気を読むことに関しては自信がないシュカでも流石に気を遣ってレオンハルトを見やると、彼は優しくほほえんだ。
「ぼくのことは気にしなくていいよ。シュカが幸せならぼくは問題ないんだ。貴族の結婚なんて、政治的に優位な方がいいに決まってる。オルクス家と王家に繋がりができたことは祝福すべきことだよ。おめでとう」
琥珀色を柔らかく細めて祝福してくれるレオンハルトを見ていると、婚約破棄のときを思い出す。
両親が馬車の滑落事故で亡くなり、兄が家督を継ぐことになった後。
バタバタしていたオルクス家にレオンハルトがやってきた。
礼儀を重んじる真面目なレオンハルトが約束もなしに訪れるのは初めてのことだった。
忙しい兄に代わってシュカがレオンハルトを迎え入れると、彼は応接室に招いているにもかかわらず玄関ホールで膝をついた。
『申し訳ない』
片膝をつき、頭を垂れるレオンハルトにシュカは戸惑った。
『どうしたの? 何かあったの?』
困惑しながらたずねるシュカに、レオンハルトは血を吐くように伝えた。
『王命がくだった。きみとの婚約をなかったことにしてもらいたくて今日はここに来たんだ』
あのときは昼間なのに雨が降っていて暗かった。
玄関ホールに並ぶ縦長の窓の向こうでザアザアと降り続く雨の音がやけに耳についたのを覚えている。
『君を幸せにすると誓っていた。守り抜くと誓っていたんだ。だけどぼくは貴族で、王命に逆らうことはできない。本当に、本当に申し訳ない』
泣いているのかと思うくらいのレオンハルトの様子に、シュカは寂しい心を隠して笑って「大丈夫。気にしないで」と答えた。
明るい声で「レオンなら、もっと良い人に巡り会えるよ」と伝えながら、何故そんな王命が急にくだったのかを考えていた。
その謎は翌日にやってきた王からの使者がヴォルクとの婚約話を持ってきたときに解明した。
つまり王は息子とシュカを結婚させるために、レオンハルトに婚約破棄をするように命じたのだ。
レオンハルトはシュカを愛してくれていた。
婚約期間は十三年間。
政略結婚とはいっても幼なじみのように過ごしてきた。
情が湧いて当然の年月をシュカとレオンハルトは過ごしてしまった。
レオンハルトは確実に傷ついている。
シュカがその傷を気遣っているというのに、無遠慮な兄は「ほらほら」とシュカに話をせがむ。
「レオンくんも大丈夫だって言ってるんだし。ねえねえシュカちゃん教えてよ」
「新婚生活についてだなんて元婚約者の前でする話じゃないですよ。そのくらいの常識はわたしにもあるんですからね」
「えっ、それはびっくりした」
「失礼ね!」
兄妹のやりとりを見ていたレオンハルトはクスクス笑いだす。
片手を軽く振ってレオンハルトは「本当にいいんです」と笑った。
「確かにぼくはシュカのことが可愛いですよ。でもだからこそ、幸せに過ごしているかきちんと確認しておきたいんです。相手はあの魔物王子ですから」
レオンハルトがそう言うのなら話そうか。
魔物王子と呼ばれている彼の悪評を払拭するお手伝いが、彼の一番身近にいるシュカにならできるかもしれない。
せっせと書類の山を再度三人仲良く積み直しながらシュカは「そうだなあ」と何から語るか考えた。
「ヴォルク様は臆病で優しい方なんだと思う」
「臆病ぅ? あの魔物って呼ばれてる王子様が?」
クラースが「薬草マニアでさえなければ」と惜しがられる美貌を歪ませて訝しむ。
クラースはシュカの恋心を知っている。
知っていて応援してくれてはいたが、理解はしてくれていなかった。
あの王子のどこがいいのかといつも首を傾げてばかりのクラースに、いつの日か「彼なら納得だ」と言わせるのがシュカの夢だ。
「ヴォルク様はわたしに毒を盛られるんじゃないかって警戒したり、わたしが武器を持ってないかって疑ったりするのよ。今まで怖い思いをたくさんしてきたのかもしれないわ」
「へえ。なんか後ろ暗いところでもあんのかもしれんね」
シュカには砂糖を吐くほどに甘い兄だが、他人には毒を吐く男。
それがクラースである。
「もう!」とシュカが怒っていると、レオンハルトが書類の束の最後の一枚を山に乗せて首を傾げた。
「ヴォルク様にはよく会うんだけど、優しいイメージはあまりないな。正直に言えば乱暴なイメージなんだけど」
「優しいよ。だって、あ……えっと」
初夜を拒んでも許してくれたことを話しかけて口を閉じる。
初夜を行わなかった夫婦はこの国ではあまり良い扱いがされないと聞く。
シュカも『白い花嫁』なんて呼ばれたくないし、ヴォルクが『オスとして不能』と呼ばれるのは尚更嫌だった。
困り果てるシュカに、クラースが得意げに眉を跳ね上げる。
緑の瞳が意地悪に細まった。
「シュカちゃん残念。幸せアピールは失敗だなぁ。もっとハッピーにならなきゃ、俺が実家に連れ帰っちゃうよ~」
「大丈夫だから! もう!」
「ひゃひゃひゃ」と笑いながら去って行く兄に怒っていると、レオンハルトが「シュカ」と優しく声をかけてくる。
振り返ると、レオンハルトは見ているこちらが苦しくなるような表情でこちらを見ていた。
「ぼくにできることがあるなら何だってするよ。婚約は解消されてしまったけど、ぼくたちの絆は変わらない。そうだろ?」
シュカは十年前、変身薬を使用して五歳の姿でオルクス家の養女となった。
その同年に婚約したのがレオンハルトだ。
常識知らずのシュカをレオンハルトはいつも助けてくれた。
彼との友情という名の絆はシュカも永遠であってほしい。
「もちろん。何かあったら頼らせてね、レオン。あ、もちろんレオンが頼ってくれてもいいんだからね?」
「そうだな。まずは婚約者を探さなきゃいけないから、良い子が居たら紹介して欲しい」
のほほんとした会話をしていた研究所にまたまた「バーン!」という木製ドアがはじけ飛びそうな音が響く。
今度は誰だと視線を向けて、シュカは跳ね上がるほど驚いた。
「ヴォルク様!?」




