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18 双璧

温室内にある丸太を積んで作ったような研究所のドアをヴォルクはノックもなしに勢いよく開いた。


 今日は書類の山は倒れなかったらしい。

 レオンハルトが「おおう」という情けない声をあげて支えたからだ。


「おやおや、これはご機嫌麗しそうですね、ヴォルク様。いかがなさいました? まさか奥さんに逃げられちゃいましたか?」


「シュカが逃げた!?」


 小さな研究所の一番奥にある机の上で塔となっている書類の間から顔を覗かせたクラースがスッと緑の眼を細める。


 クラースはシュカが出て行ったことを知っている。

 察したヴォルクは驚いているレオンハルトを無視して手近の机に両手をたたきつけた。


「あいつは今どこだ? 実家か?」


 妻の逃げる先の定番は実家だ。

 だがクラースは首を横に振った。


「いいえ? あの子はうちには帰ってきませんよ。森に行きました」


「森ですって!?」


 ヴォルクより素早く反応したレオンハルトが手を離すと書類の束は雪崩を起こす。

 そんなことは気にもとめずにレオンハルトはクラースへと詰め寄った。


「どうしてそんな危ないところにシュカをやったんですか! あそこは魔物の巣窟ですよ! あそこで死ぬ人間も毎年必ずいます。旅人の噂では、あの森にはオオガラスまで出るって噂じゃないですか」


「だけど、そこにしかシアの花が咲かないんだから仕方ないじゃない」


 激昂しているレオンハルトに対して、クラースは余裕の表情だ。


 二歳から七歳までの期間を森で過ごしたヴォルクには、森の恐ろしさがレオンハルトよりずっとよくわかっている。

 特に夜の森は視界も悪く、夜行性の魔物には凶暴なものが多い。


 窓を見やると温室に入る日がもうオレンジ色になっていることがわかる。

 ヴォルクは恐ろしい森に易々と妹を送り出した義兄に怒る前に冷静にたずねた。


「所長はあいつを大事にしてたな。なんであんな危険な場所に行くことを知っていて許可した?」


「あの子の栄養剤を作るためのシアの花が必要だからですよ。シアの花は温室でも育ててるけど、自生してるのはこの辺りだと森の泉近くしかない。シュカちゃんの家出にあの栄養剤は不可欠。でも温室には誰かさんが城には来るなっていうから来られない。仕方なーくシュカちゃんは森へ行きましたとさ」


 クラースは口角をあげて話しているが、眼がまったく笑っていない。


 騎士団最強と言われるヴォルクですら気圧される雰囲気を放つクラースは机に肘をついて首を傾げた。


「でもいいんじゃないんですか? ヴォルク様はシュカちゃんを大事にしてなかったじゃないですか。大事じゃない女の子なんて、妻であっても他人でしょ。シュカちゃんの失踪は幸い今のところ俺たちしか知らない。しばらくは『妻は病気で臥せってます』で通せば、結婚して一ヶ月も経たないうちに離婚したとは思われないでしょう」


 あっけらかんと言うクラースにヴォルクは唇を噛む。


 確かにヴォルクはシュカを大事にしてこなかった。

 好きだと毎日言ってくれる言葉も信じずに疑うことばかりしてきた。


 それなのにいなくなったら困る、というのはわがままでしかない。

 ヴォルクは自分の愚かさを一番よく理解していた。


「ぼくが探しに行ってきます。もう夜になる。シュカが心配です」


「なんでおまえが行く」


「あなたが行かないからでしょう!」


「オレが行く!」


 身支度をはじめたレオンハルトがヴォルクの言葉で動きを止める。

 その表情は怒りに満ちていた。


「あなたが大事にしなかったからシュカはいなくなったんじゃないですか! あなたが行ったところで帰るとは言わないかもしれません。ぼくが行きます!」


 レオンハルトがここまで大きい声を出しているところは初めて見た。

 シュカの気持ちはわからないが、レオンハルトはシュカのことを愛しているらしい。


 ヴォルクはといえば、シュカを愛しているのかすらわからない。

 愛し愛された経験がないに等しいヴォルクには、自分がシュカを愛しているのかすら曖昧だ。


 それでもヴォルクは自分がシュカを連れ帰って、夜の森で冷えた身体を抱きしめてやりたいと思っていた。


「確かにオレはシュカを大事にしてこなかった。そのツケがまわってきたってことはわかってる。だからそのツケを返したい。絶対にあいつを見つけて森から戻る。あいつの夫はオレだ」


 ヴォルクはレオンハルトとクラースを見る。ふたりはそれぞれ怒りを湛えた瞳をしていた。


「チャンスをくれ。今度はあいつを絶対に大事にする」


 ヴォルクはシュカがくれる『好き』という言葉を信じることにした。


 魔物王子と呼ばれる自分が、シュカがくれるほどの大きな愛を返せるかはわからない。

 それでも自分を愛してくれた女の子をヴォルクは失いたくないと思った。

 はじめて誰かを大事にしなければいけないと思った。


 真摯にふたりを見つめていると、レオンハルトは持ち上げていた鞄を彼らしくない乱暴さで机に戻した。

 クラースはその姿を見てふっと笑う。


「レオン君も行ってこいってよ。ただし連れ帰ってこれなかったら、その時は俺がこの世で一番苦しんで死ねる毒を用意する」


 もうその声が毒を含んでいるのではないかというほどの低い声を出したクラースと鞄を置いたままじっとしているレオンハルトに「感謝する」と礼を告げる。


 城を駆け出して、待たせていた馬に飛び乗ったヴォルクはすぐに駆け出した。

 ヒントは森の泉しかないが、きっとまだ間に合うはずだ。


 ヴォルクが森に向かって走り出した頃、研究所ではレオンハルトが憮然とした表情で植物に霧吹きで水をやっていた。


「シアの花なんて温室にたくさんありますよ。どうしてシュカを行かせちゃったんですか」


 拗ねたようなレオンハルトの声に、書類を書いていたクラースが顔をあげてクスクス笑う。


「だって、シュカちゃんには幸せになってほしいじゃない」


 シアの花は温室にたくさんある。

 シュカにわざわざ泉に寄らせる必要はなかった。


 それでもクラースが森の泉に寄って夕暮れ時に光るシアの花を摘んでから行くようにシュカに言ったのは、ヴォルクがシュカを追おうとしたときに追いつくことができるようにと思ってのことだった。


「レオン君には悪いけど、妹が一番大事だからさ。シュカちゃんの大好きな人にシュカちゃんを大好きになってほしいと思うわけよ。そのためになら、その最愛の妹にだって嘘をつくさ」


 クラースはレオンハルトの刺すような視線を無視して、研究所の外に出る。


 夕暮れ時を迎えた温室の片隅にシアの花が輝いていた。


「さて、王子様は間に合うかな?」

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