16 森へ
森に帰る決意をして自室を簡単に片付けたシュカは、クラースに「実家で話をしたい」とい旨の手紙を出していた。
使用人に頼んで手紙を届けてもらうと、帰ってきた使用人はクラースからの返事を既に持っていた。
『急ぎかな? シュカちゃんのためなら、明日おうちで待ってるよ』と書かれた手紙をシュカは抱きしめて、持ち出す荷物の中にそっと入れておいた。
「シュカちゃん、おかえりぃ。どう? 結婚生活は。魔物王子が酷いことするなら、俺がその二倍、いや三倍は苦しむ毒を調合してあげるからね」
「もう、お兄様。ヴォルク様はそんなひどい人じゃないの!」
リエルと共に訪れた実家で出迎えてくれたクラースはわざわざ仕事を休んでくれたらしい。
同僚に迷惑をかけたのではないかと気遣うと、「シュカちゃんのためって言ったら、レオン君が張り切ってたからいいんだよ」とカラッと言われてしまった。
案内された応接室に入り、使用人が紅茶を入れるとクラースは人払いをした。
壁際に立つリエルと兄妹だけになった応接室で、紅茶を一口飲んだクラースは「さて」とわざとらしく高い声をあげた。
「俺のかわいい妹は、なんのお話に来たのかな?」
クラースはわかっているのだろう。机に両肘をつき、合わせた手の甲に顎を乗せたクラースの顔は寂しげだ。
「お兄様、わたし……森に帰ることにしたの。リエルも一緒に来てくれることになったから、心配はしないでね」
言いながらシュカは立ち上がる。
シュカが人間になったばかりの頃に、クラース自身が腰に布を巻いてシュカに教えてくれた、ドレスの裾を持ち上げる淑女の礼をシュカはとる。
「今まで本当に、本当にお世話になりました」
「リエルも一緒なら少し安心したよ。だけど、どうして森に帰ることにしたの? ヴォルク様のせいだって言うなら、俺は本気で考えることがある」
クラースの声が尖る。
本気で何を考えるというのか。
シュカは慌てて首を横に振り、次の瞬間には「うーん」と首をひねった。
「ヴォルク様のせいじゃないのよ? でも、ヴォルク様の警戒心が高すぎるせいというかなんというか……」
「よし、とっておきの毒薬をつくろう。噴霧するタイプのものを作れば、食べ物や飲み物に混ぜるなんて面倒なことはせずに済むからね」
「ヴォルク様の命を狙わないで! 違うの。ヴォルク様は悪くないの。わたしが魔物だってバレたくないから森に帰るの」
シュカはドレスの布を握る。
もしもレオンハルトと結婚していてバレそうになったとしたら、シュカはレオンハルトに魔物であると正体を打ち明けていたかもしれない。
レオンハルトは驚いただろうが、彼となら十三年間築き上げてきた信頼関係がある。
受け入れてもらえるかもしれないという自信がわずかにあった。
だがその自信がヴォルク相手には全くない。
魔物だとバレたら良くて切り捨てられる。
悪ければ本格的に嫌われてしまうという想像しかできなかった。
シュカにとってヴォルクに嫌われることは死より辛いことに感じられた。
それほどまでにシュカはヴォルクに恋をしていた。
「わたしはヴォルク様に好きになってもらえなかったの。それなのに魔物だなんてバレたら、もっと嫌われちゃうかもしれない。結婚式でわたしの幸せを祈ってあんなに泣いてくれたのに、ごめんなさい」
「まだ正体も明かしていないのに、シュカちゃんは臆病だなぁ。でも本気でヴォルク様を好きだから怖くなっちゃうんだよね。恋は人を臆病にするっていうけど、魔物も臆病にするとは」
困った様子で笑うクラースはシュカに座るように促す。
シュカが椅子に座り直すと、クラースは傍にある窓の向こうに視線を投げた。
その方角にはシュカの暮らしていた森がある。
「シュカちゃんが森に帰ることは反対しないよ。ただ時々顔を見せに来てくれないと、俺は泣いちゃうからそこだけはよろしくね。そのときはリエルも一緒だよ」
「ふふっ。わかった。リエルはもちろん一緒よ」
クラースは本当にシュカとリエルを可愛がってくれた。
両親が亡くなり、この広い家にクラースはひとりでいる。
必ずまた会いに来なければならない。
それが愛された者の勤めだ。
クラースはシュカの寂しげな表情を見て自身のポケットを探る。
取りだしたのは小さな袋だった。
「これは変身薬の材料。必要になったら使えるように大急ぎで作ろうと思ったんだけど、材料がひとつだけ足りなくてね。シアの花をすりつぶして、この袋に入ってる材料と一緒に真水に入れて溶かせば作れるよ。森の奥に行くなら、まずはシアの花を摘んでからにした方がいい。泉の近くにあって夕暮れ時に輝く花だから見つけやすいよ」
シアの花は森で見たことがある。夕日を受けるとキラキラ輝く小さな薄桃色の野花で、森の中でも比較的街の近くに咲いている。
道中で摘んでいくことができるだろう。
「ありがとう、お兄様」
「いつ出るつもりなの?」
「今日中には出るつもり。もう準備もしてあるの」
「そっか」と返事をしたクラースが立ち上がって薬草の入った袋を差し出してくれる。
シュカは袋を受け取り、クラースに抱きついた。
クラースもその高い背を折り曲げるようにしてシュカを抱きしめてくれる。
「待ってるからね、シュカちゃん」
「うん。いってきます、お兄様」
兄妹の別れの抱擁を終えると、クラースがリエルにも「ハグする?」と笑顔でたずねる。
リエルは「結構です」とぴしゃりとその提案をはねのけた後に、丁寧に「お世話になりました」と礼をした。
庭にある両親の墓に挨拶も済ませてから屋敷へと帰る。
夕飯の用意はヴォルクの分だけで良いと使用人に告げてから、ヴォルクへの手紙を託す。
これでするべきことは終わった。
後は支度を整えてこっそりと屋敷を抜け出すだけだ。
もうヴォルクには会えないのだと思うと、胸の奥が狭くなったように切なかった。
「行こうか、リエル」
後悔や寂しさを振り切るようにシュカはリエルに笑顔で告げる。
「はい」とうなずいたリエルは、シュカを支えるように半歩後ろをしっかりと付いてきた。