11 怒れる魔物
「ん?」
「シュカ様。今日は望遠鏡は必要ないかと」
シュカはリエルの声に応えず、眉間にしわを寄せて望遠鏡の焦点を『それ』に合わせる。
四角形の訓練場のシュカから見ると対角線上の片隅に、袋が置いてあったのだ。
椅子の上に無造作に置かれている袋は口が開いていて傷薬が何本か覗いている。
更に袋につけられたタグには『ご自由にどうぞ』というメッセージカードが添えられていた。
「あの傷薬、あの袋……」
筆跡に関してはまだ結婚誓約書に名前を書いたときにしか見たことがないため自信がないが、あの傷薬と袋は間違いない。
ヴォルクが温室内の研究所で持っていたものだ。
ヴォルクは研究所から慣れた調子で傷薬をもらっていた。
レオンハルトもヴォルクにはよく会うと言っていたし、他の薬師たちがヴォルクに驚いていなかったのだから、あれは日常の光景なのだろう。
つまりヴォルクは毎朝研究所に行って傷薬を袋に詰め、『ご自由にどうぞ』と書かれたタグを袋に結んでいるということになる。
望遠鏡で見回してみると、袋から受け取ったのだろう傷薬を傷口に塗布している騎士が何名も見受けられる。
その誰もがきっとヴォルクが持ってきた傷薬だということを知らないのだろう。
しかも『ご自由にどうぞ』というタグをつけていることなんて、尚更知るはずがない。
「う、うわぁっ、もう、好きすぎて内臓が出そう……!」
「お手洗いに参りますか?」
「参らない。訓練見る」
ヴォルクの優しすぎる秘密を知ってしまった。
誰もが知らない一面に気がついてしまった。
それだけで内臓がひっくり返りそうになるくらい嬉しい。
槍の攻撃を飛んでかわして相手の顔を足蹴にして転がしたヴォルクが、また「次ィ!」と叫ぶ。
連戦続きでさすがのヴォルクも疲れが見える。
騎士が走り出てくる僅かな間に、ふうと息を吐いた表情が色っぽすぎて倒れそうになっているシュカの耳に、悪意ある言葉が飛び込んできた。
「なんだよ、誰も倒せねぇのかよ。つまんねぇ。チッ、血筋だけの王子のくせによ」
「その血筋も半分は平民なんだろ? 偉そうにしやがってムカつくっての」
羽が生えたかのように訓練場を飛び回っていた心が、スッとシュカの胸に帰ってきたような感覚がした。
誰が話しているのか。
冷静に耳を研ぎ澄ませると、すりむいた肘にヴォルクが持ってきただろう傷薬を塗った騎士が仲間たちと悪口大会を開催しているようだ。
「王族のくせに出世もできねぇ騎士団に居座んなっての。結婚したから別荘のある田舎にでも引っ込むかと思ってたのによ」
「暴れるしか能がねぇんだよ。あの魔物王子には」
身体の裏側をざらりと撫でられるような嫌な感じがする。
ヴォルクに向けていた視線をシュカは悪口大会の会場へと向ける。
人間の耳に彼らの囁き声は聞き取れなかったのだろう。
「シュカ様?」と不思議そうにするリエルを置いて、シュカは大股で悪口大会会場へと土足で踏み入った。
「ヴォルク様は魔物王子なんかではありません!」
悪口を言い合っていた連中は突然現れたシュカに、間抜けに口を開いている。
騎士団は基本的には男所帯だ。
訓練場に女の声が響けば当然目立つ。
次なる騎士の木剣をかわしながらヴォルクが「はァ!?」と叫ぶ声が聞こえた。
ヴォルクには後で怒られるかもしれないが、シュカは言わなければ気が済まなかった。
「ヴォルク様は優しい方です! 血筋がなにか関係ありますか? ヴォルク様は半分王族の血が流れているから偉そうにしているんじゃありません。ここで一番強いんですから、当然偉いんです。偉いから偉い人間の態度をとっているんです!」
「なんだお嬢さん。ヴォルク様のファンか?」
「ファンであり、妻です!」
からかうような調子で聞いてきた騎士がギョッとする。
『妻』と名乗ったのは初めてのことだ。
くすぐったいような気もしたが、今はそれよりも怒りが勝った。
「さきほどの発言をみなさん訂正してください。ヴォルク様に失礼です」
「いや、でもあなたはヴォルク様と無理矢理結婚させられたんじゃ……」
「今の発言も訂正してください。私はヴォルク様が大好きで結婚しました!」
「じゃあ、ヴォルク様はレオンハルト様から無理矢理あなたを奪って……」
あらぬ方向に妄想が進んでいる騎士たちに、シュカの頭に血がのぼっていく。
どうしてこの人たちはどうしてもヴォルクを悪者にしなければ気が済まないのか。
ヴォルクが「おい! 何してる!」と対峙していた騎士を倒しながら声をかけてきていることに、シュカは気がつかなかった。
「ヴォルク様はお優しい方です! あなたが塗っている傷薬はむぐうう」
「何してんだって聞いてんだよ!」
まくしたてようとしていた口は突然背後から現れた大きな手に覆われる。
カッとなってヴォルクの秘密を明かそうとしてしまっていたことに気がついたシュカは気まずい思いで上を見上げる。
見下ろしているヴォルクの青い目は完全に据わっていた。
「ヴォ、ヴォルク様……俺たちは、その」
「悪口くらい好きに言え。負け犬はよく鳴くって決まってんだ。ただ鳴いてる内は負け犬のまんまだな」
ヴォルクの冷ややかな声に悪口大会参加者たちは居心地悪そうに肩を縮める。
シュカも同じように肩を縮めていると、いきなり手を握られた。
キュンッと思わずときめいたのも束の間、ヴォルクに絶対零度のまなざしで射貫かれた。