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助けてもらう側なのに、どうしてそんなに偉そうなんですか?!

とりあえず思ったことをつらつら書いてみると頭の整理になるので、何かに対して意見とまではいかなくても頭の中の整理にはなるかなと思って書いてみた次第です、完全に個人の備忘録みたいなものなので、ところどころ偉そうですみません。

 ふと気づくと助ける側ではなく助けてもらう側になっていた。


 というのは割とよくある話なのだが、助けなければと思っていたのがある日を境に助けられる側にまわった時にはたして助けようとまた出来るのだろうかというのはある。

 というよりも助ける側の人がもうすでに助けてもらわないと成り立たないくらいボロボロであることが多々ある。 元から助ける側ではなく助けてもらう側だったのを気づけずにいたというのが自分ではあった。(例を挙げると長くなるが自分が精神を病むまで、家族を助けるために我慢することが一番大事だと色んな事を我慢して自分が好きなものや趣味や興味というものをうまく作れずにただ周りに合わせることが絶対だと縛りのあるなかで切り詰めていった先、劣悪な選択肢しか残らないという体験ののちに精神疾患わずらって精神障碍者になったという具合である)

 となると人を助けようと助けになろうと助けられる人だと思いあがっていたのであるし、助ける側の人間だと思い込むことで助けてもらうことを恥だと言い聞かせ自分に無理難題をどんどんあてがって最終的に誰から褒められるでもないストレスを抱えて日々を過ごすだけの縛りプレイのようなものを行ってたというものだ。 当然、精神を病む。

 それはそうである実際問題助ける助けないの話で見返りを求めないのはまわりまわって全員が助け合っていけば助け合う社会が成立するというかなり長い目でみたものであり、のっけから一人でスパートをかけてお助けマンを買って出ていても自分が摩耗していくし誰かを助けるということは方向性を決めてしまうことでもあるのだ。

 お助けマンになってしまうとあの人を助けたのにこの人を助けない道理があるだろうかとなるし、あの人を助けられたのだからこの人も助けられて当然だとなる具合、助けることに切羽詰まって助けられない状況になった時にまわりまわってかえってくるのはそんな都合よく誰かを助けられる人なんてものはいないという答えになる。

 ただこれは身勝手に自分の行動を顧みずにお助けマンを安請け合いしてしまったからと答えは大体出ている。 ここまでの文章でも書いたが社会の枠組みで障碍者支援をしたり障碍者が努力して社会進出するというのは個人では成し遂げないことであるから公的な補助があり十分な支援があって成り立つものなのだ。


 で個人が努力してないのに偉そうに言いやがってとなるかもしれないが、努力し続けても好転しないことというのはある。 そういった努力というのは目に見えず人に伝わらずあるいは穿って見えてしまう具合になるのでアレが出来るのにこれが出来ないのはおかしいとか努力出来るなら何でも一人で出来るはずだ周りのみんなもそうやってるとなっていくのだが、人が当たり前に出来ることは、これは大事なことなので強調して言うが『人が当たり前に出来ることは社会の支えが無ければ出来ないことである』ということだ。


 人は社会性動物なので。

(現代人、公共インフラの支えが無きゃ誰が仕事なんて出来るものだろうか?)


 なので大体のことが当たり前に出来てる出来て当然のことの全部、個人じゃどうしようもないこと。


 これで分かってくれたとは思うが僕らもまた、『助けてもらう側なのに、どうしてそんなに偉そうなんですか?!』 と言われ続けるだろう。


 でもそんなときは人間は助け合う生き物なので助けられ助けて成り立ってるのだから、自分も何かの助けになってないことはないんじゃあないかと今生きてることを励まし励まし誇りをもって胸張って生きていけば良いのだ。


 さてそもそも助けてもらう側であり続けることも助ける側であり続けることも無いってな話なので、最後にはどうしてそんなに偉そうなんですかだけ残ったので書いていこうと思う。


 皆さんは人という生き物はどうしてそんなに偉そうなんだと思いますか?


 答えは割と簡単なのですが態度の話になりますね、あって当然出来て当然やれて当然努力して当然、このごく当たり前に出来てやれてるってことが偉そうなことってわけです。


 なので当然出来る人のほうが出来ない人に比べて偉そうに見えます、なのでわざわざ出来ない人を指さして偉そうだなんて言うのは不思議なことではあります。

 ですがこれもまた先に述べておりましたが出来るということはやって初めて出来たと分かることで許容量を越えてやり過ぎなほど出来てしまう人というのはもうそれ以上に誰かを助けるキャパがないので出来ない人になってしまいます、この場合は助けられない人になります。


 あれだけのことを沢山山ほどやってさらには色んな文章をつづりまくったのに出来ない人になってしまわれたキャパ限界でもう誰かを助けられない人なのかと思うとなんだか偉そうじゃなくなって見えてきた。 というか偉そうというかこれ忙しいってことでしんどいってことなのでは?


 なので割と言いやすいのは「助けるのしんどい」です。


 偉い偉くないで物事決められるほど偉いことは重要じゃないのです、しんどいって言ってる人に助けを求めようとは思わないですししんどいなあってなってる人は逆に助けてもらう時なのです。


 でと、これはまあ人がしんどい時の話ですね、社会の場合は社会のどこかに余力が残ってるのが普通なんじゃあないかなアって話になりますが案外、社会ってものもギリギリで運用されてるので社会自体がうまく回っていないと当然みんなあおりを受けます。


 社会がうまくまわるように問題が起きない起こさないあるいは問題が無ければ良いと考えたりもしますがこれはこれで無茶な話です、だって社会が機能する時というのは問題が起きた時で問題が起こった時に対応するのが個人に代わって公を取り仕切る社会の役割、問題が無いことを前提に社会をまわすのは社会自体の存在意義がある意味で薄れてしまってむしろ大問題です。


 でもいつも間違えてしまってはいけません、社会と個人は別なのです。


 個人はしんどいのと辛いのを社会に助けてもらいたいので訴えます、これは個人に対しても訴えることが出来るのですがその場合は相談や愚痴であったりカウンセリングであったりと、直接的な解決を個人に求めるというよりもまずは自分がしんどいことを知って貰えたらいいなから入ります。


 誰に助けてもらうにしても助けてもらうというのは長い目で見ていくことになるってことです。

 今すぐ助けが必要なんだってことは当然緊急のチャンネルを回してもらわないと厳しいです。

 ただ社会自体がボロボロにならないように保っていくのを個人の努力だけで賄うのは無茶ですから、皆で少しずつ出し合って社会が回るようにしていくしかない現状を見れば僕らは偉い偉くないで頑張るよりも割としんどいこととしんどくないことを判断基準にしておくと、これは後世の為になるはずです。


 人の出来る事っていうのは他の事より少ししんどくないこととはよく言ったものですから、しんどいことのリスト化で社会からしんどいをしんどくなくしていけたら、それはそれはバリアフリーだと思うので、何にしても僕らは自分が思ってる以上に助け助けられ偉そうに出来るだけ偉そうであるのは確実、でも一番欲してるのは。


 いまのしんどいことをしんどくなく出来ることです。


 無かったことにするのではなくどんどんしんどいって言っておきましょう、それは誰もが通る道としてブレイクスルーの材料になりますから、みんなの意見で動くこともある。


 さてここまでは割と当たり前のことでした。


 最後の話としてはタイトルにある言葉が少数側と大多数側で分かれた時、少数側が圧倒的に不利ではないか? という話ですね。


 障碍を持ってる人というのは少数となります。 この世界は大体は多数とされている人で回されてるらしいので仮に多数決をしたならば健常者が圧倒的に優位に立ちます。

 ですがこの世には絶対不可侵の侵されざるものがあります、それは生きる権利です。

 誰しも分け隔てなく生存の権利があるとしたら、生存が脅かされてる人ほど救済措置が無ければ命が危ぶまれます。


 そしてこれは科学的根拠に基づいてる極めて明確な答えなのですが、社会は、

「生きているもの」が動かしています、しかも生きているものが圧倒的多数なのです。


 まあこの話を掘り下げるといくらでも議論が浮かび上がってくるのですが、言える事は人が多様な状態で生存可能になることは社会の好循環につながるということは割と分かりやすいことだと思います。

 もちろん人を生かすことというのは負担につながるという意見もあり、地球という限られた資源で経済を循環させなければならないところで人間が増えれば環境が汚染されてしまうから積極的に人減らしをすることこそが地球にとって建設的な態度なのだとする人もいるでしょう。


 ですが何度でも言いますが「生きているもの」がこの世界のルールを作ります。

 多種多様なルールを生み出す可能性ある人を減らしてしまうと、世界の指針自体が脆弱になっていきますし何よりも生存をかけて生きているのに生存の権利を切り詰めなければならないというルールが作られていること自体が大きな矛盾を孕んでいるように思えてなりません。


 まあ最後の多数少数の話はオマケなのですが要するに僕らは生きることで生存の危ぶまれている人を助けて平等を追求していって生きる権利を護り最終的には生存圏の拡大によってバリアフリーを実現しましょうって話になります。


 多くの人が生きることの出来るキャパシティーが拡充されればその分だけ社会に余裕が出来るのは確実ですから、一人一人が生き生きとしていければ必ず答えにたどり着けるでしょう。


 もう少し僕が賢くなったその時に少しでも人類が豊かになってることを祈ってこの言葉を捧げましょう。


「助けてもらう側なのに、どうしてそんなに偉そうなんですか?!」


えらそうですみませんでした!

まあまとまりませんが、何にしても言葉の持ってる要素というのを考えるのが結構好きなので執筆は楽しい時間でした。

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