序章
あの方が私を抱き上げて下さった。
あの方が私を抱き上げて下さった。
力強い腕を、間近にあった凛々しい顔を、立ちのぼる香水の香りを、私は一生忘れないでしょう。
そう、この後、どんな苦難が待ち受けていようとも。
クランプトン家の懐事情が悪くなったのは三年前の秋。
普通なら容易く打ち払うことのできる魔物、暗蝗が例年に比べて多く発生したから。
暗蝗は昼ではなく夜に活動して作物を食べる。
領民は夜を徹して暗蝗を駆除した。
皆が頑張ってくれたから、被害は例年の二割減に止まった。
父は領民のことを慮り、税も二割免除することにした。
しかし、私達は知らなかった。打ち払った暗蝗の死骸が作物を枯らす毒となることを。
その次の年、通常の五割しかない収穫に領主領民とも大きく落胆する。
「フロランタンの加護はどこかへ行ってしまったのか」
誰かがそうこぼしたのも無理はなかった。
竜王フロランタンが玉座とするオーランジェトならばいざしらず、オーランジェットの衛星国であるカロリングでは魔物の被害などほとんどないのだから。
魔物の発生率はその国の持つ魔力量に比例するというのが通説だった。
盟主国であるオーランジェットは魔物が発生する割合が高く、周辺国は低い。
そのかわり、竜を筆頭とする幻獣達も少なく、力も弱い。
それは。
古き代、魔物が跋扈する時代に、一人の悪しき魔法使いを、竜の中でも最強の内であったフロランタンと共に一人の英雄とその臣下たちが倒した。
そして、魔法使いの王国であり、その影響が残るオーランジェットに、フロランタンと英雄が新しい王朝を建てる。
英雄はフロタンタンを真の王と呼び、自らはその代理人と名乗る。
悪しき魔法使いに半ば支配されていた他の国はオーランジェットに臣従したが、フロランタンと英雄は、魔物の被害を少なくすると約束した上に、友愛を基礎とする盟約を彼らと取り交わした。
これが世にいう「竜翼の誓い」である。
その誓いもむなしく、暗蝗はカロリングのクランプトン家の領地に災いをもたらした。
漂泊の竜王、フロランタンとて全能ではない。
何か不幸があったとき、言い交わされる言葉をミリエル達も口にした。
父は税を軽減すると共に、領民のために備蓄庫を解放した。
領民を思う父の決断を私は誇りに思う。
それでも考えてしまう。
備蓄庫をああまで気前良く開かなければ、来年の王立女学院の学費も覚束ないとう事態にはならなかったかもしれない。
けれど、そんなことにならなければ、ミリエルが憧れていた彼に近づくことさえできなかっただろう。