婚約破棄
「ただいま」
「お帰りなさい。遅かったのね。飲んでるの」
「ああ」
「どうしたの。思いつめた顔をして」
「転勤が決まったんだ」
「何ですって。いつ、何処へ」
「明日の朝、仙台だ。君が眠っているうちに出ていく」
「急すぎる」
「本当は一週間前に告げられていた。でも君の悲しむ顔を見るのがつらくて言いだせなかった。くそ、課長の奴、何かと目の敵にしやがって。婚約の報告をしたとたんにこうだ。こんな嫌がらせまでするなんて……」
「私もいきたい」
「それじゃ、ルール違反だ」
「ルールなんてどうでもいい。私はあなたのことが……」
「駄目だ。僕の都合に君までつきあう必要はない」
「でも」
「僕だってつらい。君なしの生活なんて考えられない。でも、仕方がないんだ。君はここに残るべきだ」
「そうだったわね。ごめんなさい」
「謝らなければいけないのは、こっちの方だ」
「あなたは悪くないわ。謝らないで」
「すまない」
「いつかまた会えるかしら」
「僕のことは忘れて、早く新しい恋人を見つけてくれ」
「そんなこと言わないで」
「君には幸せになってほしいんだ。僕にはもう何もしてやれないからな。本当は今にも心が張り裂けそうだ」
「まあ。これから淋しくなるわね」
「ああ。淋しくてたまらないよ」
「元気でね」
「君も」
「馬鹿ね、私は関係ないでしょ」
「そうだったね」
「心配しないで。次の人とうまくやるわ」
「ああ。君のことは一生忘れないよ」
それから彼女は音もたてずに部屋から出ていった。
彼は部屋に一人残って、いつまでも彼女のことを考えていた。
もう二度と彼女のような女性には出会えないだろうと思った。
しかし何だって、急に転勤なんかになったのだろう。会社に逆らって、この社員寮に無理やり残ることもできない。
ふう、と煙草の煙を吐き出す。
そもそも今回の転勤とは、彼と彼女を引き離すために、彼の上司がわざと仕組んだものだった。
ただし、決して嫌がらせなどではなく、あくまでも彼の身を案じて。
お察しの通り、彼女とはこの部屋に居着いた地縛霊である。
了
かなり前に書いたものの手直しです。ありふれたオチですみません。