病院の話
懐かしい臭いがする。
少し鼻にツンとくる消毒液の臭い。
わたしが長い時間を過ごした、白い部屋の臭い。
天井も、壁も、ベッドも、真っ白の中でわたしは寝ていて。
真っ白な服を着た先生や看護師さんが動けないわたしの顔を見に来てくれる。
わたしがその場所で見る顔は、会える人達はそれだけで。
わたしが見たい顔は、会いたい人達は、もういない。いなくなってしまった。
それだけだ。
それだけだ。
わたしには。
―――ただ、それだけだった。
「………っ」
目を開けると、見慣れぬ天井があった。
わたしが住んでいた家のモノでもなく、あの白い部屋のモノでもなく、少し薄汚れた知らない天井。
わたしは知らないベッドに寝かされていて、そのベッドの周りは間仕切り用の乳白色のカーテンがかけられていた。
体を起こしたいのに、とても重たい。鉛の様だ。仕方がないのでゆっくりと首の動きだけで周囲を確認する。
「ここ、は……」
懐かし臭いがする。消毒液のツンとする臭い。
知らない場所なのに、ただそれだけで懐かしいと感じてしまう。
今わたしが寝ているベッドもそうだ。使い古されているが、シーツ等は清潔に保たれていた。あの白い部屋と酷似している。
それにこの腕の違和感―――視界を巡らせれば、わたしの腕へと繋がれた点滴の袋が見えた。
だから、ここは――。
「あぁ、起きたか?」
仕切られたカーテンの外から声がする。低いけれど艶のある女性の声。わたしの知らないヒトの声。
咄嗟の事でその声に答えられないでいると、シャッと音を立ててカーテンが動いた。そこから見えたのは、やはり女の人で。
真っ黒でぼさぼさの髪を後ろで無造作に一括りにしていて、草臥れているけれどお医者様の様な白衣を着ているその人は。
不健康そうな青白い肌をした顔にノンフレームの眼鏡をかけて、クマが目立つ神経質そうな目元を最大限緩ませてわたしを見つめていた。
「ん、目ぇ覚めてるな。色々混乱してると思うが、とりあえず軽く確認だけさせてくれな。話はそれからだ」
口調自体はぶっきらぼうだけれど、その声には優しさがあった。聞いているだけで安心できる様な、そんな響きを持っていた。
だからだろうか、その人がゆっくりと歩み寄ってきて、わたしへと手を伸ばされても恐ろしいと思う事もなかった。
抵抗することなく、素直に手首を触れられる。温かい手だった。どうやら脈を測っているらしい。そのあと、目を覗きこまれ、最後は額に手を当てられて、にこりと微笑まれた。
「よし、大丈夫そうだな」
「は、はい…その、貴女は…?」
「ご覧のとおりの医者だよ、そしてここは私の病院。んでもって、あんたは運び込まれた私の患者ってわけだ」
「病院…」
「ま、『普通』の病院ではないけどな。『ワケアリ』連中御用達ってやつさ」
わたしの問いにそのお医者様――先生は微笑みながら答えてくれて、それに言葉を返す間もなく「少し待ってろ」とまたカーテンの外へと消えてしまった。
どうやらわたしは気が失った後、此処に――病院に運び込まれたらしい。真紀さん達の血で塗れた家は、今どうなっているんだろう。そしてあの人は―――。
思考がぐるぐると巡る中、そのカーテン越しに。
「おらクソ犬!てめーの姫が目ぇ覚めたぞ、さっさと起きろ呆けた頭んなか解剖されてぇか!!!!!」
―――確かに先生の声だった気がする。気がするのだけど、響きが違い過ぎて判断がつかない。怒気を含んだその声は色々と衝撃的だった。
それと何かを蹴ったり物が落ちたりする音。ガチャンとかドタドタとか、色々な音が響いてとにかく忙しない。
それでも。
「ドクちゃん、頭蹴らないでよぉ馬鹿になるでしょぉ?」
その声が聞こえた瞬間、トクリと心臓が高鳴った。
「てめーは既に手遅れだろうが。いいからさっさと顔見に行けわんころ」
「はいはぁい」
トットットッと軽やかな足音。わたしが寝ているベッドに近づいて、カーテン越に人の輪郭が浮かび上がって。
「宙ちゃん?」
カーテンが開く音と共に、その人は―――わたしの愛しい人は、いつも通りの緩んだ笑顔でわたしの前に現れた。
どくり、どくりと何度も胸を強く打って、打つ度に何かが込み上げて、溢れて。
「おはよぉ、宙ちゃん。良く寝てたねぇ」
「紅さん……」
「え、ちょ、宙ちゃん?!」
ポロポロと、何かが頬を伝っている。濡れた感触。冷たいのに、頬も体も、胸の中まで熱い。
涙が込み上げて、止まらなくて、溢れてしまう。きっと困らせてしまうのに。いやなのに。
白い部屋。ずっと待っていた。きてくれるのを、ずっと待っていた。
白衣を着た先生が言う。もういないのだと。それでもわたしは待っていた。ずっと待っていた。
良い子でずっと待っていたのに。
お父さんとお母さんは、きてくれなかった。いなくなってしまった。
わたしを置いて行ってしまった。
―――でも、今度は。
彼女は、来てくれた。わたしは置いて行かれなかった。
今度はひとりにならなかった。それが、わたしの心の中を強く、強く、突き動かした。
「ちょっと宙ちゃぁん、いきなり何で泣いてんの?なに?こーちゃんに会いたくなかった??きらいになった???」
紅さんが驚いた顔をして、その後緩んだ顔を歪ませて、わたしの頬に手を伸ばした。
ぴとりと彼女の指の温度を頬に感じる。その温度をもっと感じたくて、触れてきた指に擦り寄るとその手が微かに震えたような気がした。
「嫌いになんかなってません。紅さんの事、だいすきですよ」
「んん、じゃあなんで泣くのさぁ?」
「………何ででしょうね、わたしにもわかりません」
何ソレ余計わかんない、と歪んだ顔のまま首を傾げた紅さんに笑いかける。ますます紅さんの顔が歪んでしまった。分からなくてもいいと思う。こんな気持ちはわたしらしくない。
そんな歪んだ顔の紅さんの首に、いきなり後ろから手が回って―――ぴたりと、その手に持っていたメスが紅さんの首に押し当てられて。
「おい、私の患者を泣かせてるのは何処の馬鹿犬だ?とりあえず首でも掻っ捌いとくか?」
「ドクちゃんこわぁい」
先程優しげに声をかけてきてくれた先生が剣呑な目をして紅さんを睨みつけていた。先程の様なわたしに微笑みかけてくれた優しい面影は全くない。本当に同一人物だろうか。
紅さんといえば先程浮かんでいた歪んだ顔は今は消え、いつもの緩んだ笑顔だ。自身に刃物を突き付けられても平然と笑っているのを見ると二人の間ではよくやられている事なのだろうか。
何だか仲が良さそうで少し妬けてしまう。
「こーちゃん何もしてませぇん、宙ちゃんが勝手に泣いただけでぇす」
「あ゛あ゛ん?」
「あ、あの、ほんとにわたしが勝手に泣いちゃっただけで、紅さんのせいじゃないですよ」
ますます剣呑になって、呪い殺すかのような眼つきになった先生に慌ててわたしからもフォローを入れる。
紅さんは嘘を言っているわけではない、誰が悪いかと言われたらわたしが悪いのだ。
それに紅さんを殺されてしまうととても困る。悲しい。寂しい。やっと見つけたわたしの『存在価値』がなくなってしまう。
「子供に庇われる殺人鬼ってなんだおい。何かしたのか」
「えーっとぉ、食べようと思ったら惚れられた」
「……嘘つくと舌引っこ抜くぞ?」
「あの、紅さんが言った通りなんですけど……」
わたしの言葉に先生の顔が何とも言えない感じになってしまった。何だか先生との心の距離が開いた気がする。そもそも先生とは初対面なので距離も何もないのだけれど。
どうしたものかと思っていると、紅さんがひょいと顔を覗き込んできた。近い。とても近い。
涙はもう止まったけれど、目元は赤くなっているだろう。こんな顔を至近距離で見られるのは少し恥ずかしい。思わず視線を逸らしてしまう。
その隙を狙うように、彼女は。
べろり、とわたしの目元を舐めてきて。
「……っ!?」
「しょっぱ」
「おいこら私の患者を味見すんな」
紅さんが笑って、先生が怒って、わたしは―――。
「宙ちゃん顔真っ赤」
「紅さんのせいですけどね!」
頬が熱い。目元に残った湿った感触が涙のモノではないと考えると鼓動が乱れて仕方がない。
耳も赤いと遠慮なしに触ってくる紅さんの指が辛い。耳を触れられることのくすぐったさと照れくささが混ざって、暴れて、心臓が苦しい。
「……おーい、ここ病院なんだけど。いちゃつくんなら帰れよ?」
呆れたような先生の言葉で、浮かれていた思考が一気に現実が返ってくる。
そうだ、帰る場所――あの家は、どうなったのだろう。あんな惨状では結構な騒ぎになりそうなものだけれど。
「……紅さん。あの家は」
「え?燃やした」
あっさりとそう言った。さも当然と言う様に、あっさりと、簡潔に。
「……燃やしましたか」
「こーちゃんが燃やしたんじゃないけどぉ。そういうお片付け専門の奴らがちょちょいと掃除して偽装してファイヤー!ってねぇ」
「そう、ですか」
燃やした場合、証拠が残り難い。しかも専門の人がやってるなら証拠を消した上で偽装も上手くしてくれているだろう。
それならば、もうどうでもいいことだ。叔父さん達は既に死んでしまったから住む者のいない家など残しておいても大変だろう。
「怒った?悲しい?」
「いえ、特に。着替えや移動手段をどうしようかと思っているだけで」
「あっは!宙ちゃんドライー」
「そうでしょうか、普段から意識していない人達だったので…」
「あっははは!!!」
カワイソーと紅さんが笑って、笑って―――その隣にいた先生が、渋い顔をしていた。
何故そんな顔をしているんだろう。何かおかしい事を言っただろうか。問いかける様に見つめれば、軽いため息。何だかまた心の距離が遠くなった気がする。
「狂人には狂人かよ」
ぽつりと呟かれた言葉に、なるほど、と頷いた。少しは身内の事で取り乱した方が『一般人』らしいかもしれない。
でもあの人達はわたしにとって『身内』とは言えなかった。ただの血の繋がりが少しだけあった『他人』だ。どうでもいい。
あの白い部屋から――病院から迎えに来たのだってあの人達じゃなかった。だから、あの人達は最初からどうでもいい『他人』だ。他人に心を動かされる理由はない。
「まぁいい。えっと――宙ちゃん、だっけか?」
「はい、白河・宙です」
「そうか、私は毒島・縁だ。大抵はドクターか先生って呼ばれてるけどな」
「ドクちゃんでもいいよ!!」
「うるせぇ、そんな呼び方するのはてめぇだけだ」
忌々しそうに顔を歪めた先生が紅さんを軽く小突いた。紅さんはケラケラと笑っている。やっぱり仲が良さそうだ、なんだかずるい。
「え、なんか嫉妬の視線感じる」
「お?ドクちゃんとラブラブって思った?宙ちゃんやきもち?じぇらしー?」
「やめろほんとやめろそんなんじゃないからほんとまじやめろ」
全力で拒否する様に自らの体を抱きしめながらわたし達から距離を取ってしまった。そこまで拒否しなくてもとは思った。紅さんは相変わらず笑っていたからいいけれど。
「ひどいよねぇドクちゃん」
「お前な、この病院っつーか私が居る所はほぼ盗聴されてるの知ってるだろ、変な事言えばてめぇも『ヒナ』に殺されるぞ」
「ヒナちゃん容赦ないからなーこないだドクちゃんの病院きてたチンピラ、バラバラにされてたのヒナちゃんのせいでしょぉ?」
「この後暇かと聞いてきただけでアレだからな…」
どうやら恐ろしい人もいたようで。それならばこの先生の慌てっぷりも分かる気がする。そのヒナという人は独占欲というモノが強いのだろう。わたしにはよく分からないけれど。
別に誰と仲よくしようが良いのに。わたしも見てくれれば問題は無い。紅さんがわたしを欲してくれていれば後はどうでもいい。
それよりも、盗聴されているのも分かっているのにそのままなのはなぜだろう。先生はその独占欲さえ受け入れているのだろうか、そんな雰囲気もする。
「ああもう、とりあえず、だ。宙ちゃんは此処に担ぎ込まれて、今まで寝てたってとこまでは理解してるか?」
「はい、そこまでは大丈夫です」
「うん、それで……その、な、本来なら最初に言わなきゃいけなかったんだが、何か言い難くてな……わんころも言おうとしねーし」
「はい?」
先生が言い淀む。少しだけ唇を噛みしめて、ただでさえ神経質そうな目を細めて、悩む様に。紅さんは―――ただ笑っていた。何も言わずに、緩んだ笑顔を浮かべていた。
もう見て貰った方が早いと、先生がわたしの体を支え起こした。視点が変わり、わたしの体がちゃんと見えるようになる。
そこには。
「宙ちゃんの足を『売った』。コイツの依頼でだ。私は医者だが、人身、臓器売買も行っていてね……恨まれても仕方ないし、何を言ってくれても良いよ」
わたしの、足の部分。本来なら足の形に膨らんでいなければならない布団は、ぺたりとしたままで。それはつまり、そこにはもう何もないという事で。
元々何の感覚もなかったから気付かなかった。それでも見てしまえば、喪失感が胸を突く。ある筈のモノが無い、無い筈なのに疼く、そんな不思議な違和感。
「足、は……」
「宙ちゃんが気を失っているうちに、2本ともな。流石に体の負担が大きかったからか3日ぐらい寝ていたが……依頼とはいえ、本当にすまない事をした」
「いえ、わたしの事はどうでもいいんです。それよりも、わたしの両足を『全部』紅さんに渡してくれましたか」
ぐっと息を呑む気配。苦々しい、苦虫を押し潰したよう先生の顔。でも、わたしは至って真面目だ。だって、わたしの全ては紅さんのものだと彼女に言ったのだ。
例え一部でも、欠片であっても、他人には渡されたくない。売ってほしくない。逆を言えば、紅さんなら幾らでも構わない。
「あぁ、切ったそのままを渡したよ。そういう依頼だったからな」
「そうですか、ありがとうございます」
「礼なんて――」
先生が耐えきれなくなった様に目を逸らした。わたしはそれを追うような真似はしない。責めていると思われては困る。わたしは感謝しているのだ。
あのままではわたしは死んでいたかもしれない。それを助けてもらったばかりか、足を切ってもらった後もちゃんと治療してもらった。ありがたいという言葉しかない。
しかも、3日も寝ていたと先生は言った。そんなにも迷惑をかけてしまったのに文句など言うはずもない。お世話になりすぎている。
だからもう一度だけ、深々と頭を下げた。
先生は何とも言えないような顔をして、背中を向けて部屋を出て行ってしまった。わたしはそれで構わなかった。
「紅さん」
「んー?」
先生が出て行った扉から紅さんへと視線を移した。紅さんはやはり緩んだ笑顔を浮かべたままで。
緩んだ笑顔、なのに目だけは笑っていない。観察されているんだと思う。何を言うのか、何をするのか、彼女はわたしを観察している。
いや、監視しているのか。逃げない様に、逃がさない様に。少しでも自分から遠ざかれば殺せるように。
―――そんな無用な心配を彼女はしているようだ。
「わたしの足は、美味しかったですか?」
だから、わたしは聞く。ちゃんと貴女がわたしにした事を受け入れているのだと示す様に。
彼女の笑っていない目が、少し緩んだ。
「うん、とっても」
その返答にわたしは喜びを感じる。わたしの足が貴女の糧になれたのなら幸せだ。それを楽しんでくれたのなら満足だ。わたしにとってそれが彼女から与えられるご褒美だ。
だから、もっともっともっともっと喜んでもらいたくて、わたしを見てほしくて、求めてほしくて。
「大きくなったら、今度は全部食べて下さいね」
「えー、やっぱりそれまで待たないと駄目?」
「駄目です」
「ざぁんねん」
軽い口調で、肩を竦めて。それでも残念そうな顔をしない。緩んだ顔でわたしの顔へと近づけて、誘うように舌なめずりをする姿が艶めかしくて。
「味見ぐらいなら良い?」
そう聞いてくるものだから、迷わず頷く。
頬を撫でられて顔を固定されて、そっと唇を重ねられる。舐められる。彼女の匂いを感じて心臓が暴れだし、彼女の柔らかさを感じて心が高鳴る。
すぐ離れて行ってしまったけれど、その目はギラギラと獣のようにわたしを求めていて。
あぁ。だから。
「忘れられない位に、もっとわたしを見ていて下さいね。―――そうしたら、きっと、もっと、美味しく食べられますよ」
とろりと蕩けた彼女の顔が、わたしにとって一番のご褒美だった。
静かに狂い続けている話。
毎度アクセスありがとうございます!お陰様で500PV超えました、励みになります。
ブックマークや感想、評価もどしどし募集しております。次回もよろしくお願いします!




