とある救世主の夢
ああ、私を讃えるたくさんの声が聞こえる。豪華な法衣を着せられ、群衆の中心に放り出された私は、一体どんな顔をしているんだろう。無数の期待に満ちた視線が、まるで凶器のように身体を貫く。
彼らの希望を背負って、私は明日死ぬ。
***
気が付くと、私は見たこともない場所で倒れていた。
ここはどこだろう?
ゆっくりと身体を起こすと、きょろきょろと辺りを見渡してみる。荘厳って言うのかな。石造りの太い柱が何本も立っていて、まるで神殿の大広間みたい。だけど私が倒れていた床だけが明らかにおかしい。どこまでも先を見通せる水晶のように、きらきらと輝いている。
「どうやら気付いたようじゃな」
え、誰!?
突然上から降ってきた声に、私は驚いて顔を上げた。
「おや、なんじゃその顔は?折角わらわが直々に出迎えたというのに」
あなたのせいです。――とは言えず、私は中途半端な笑顔を頭上に向けた。目の前には石の階段があり、赤い絨毯が引かれている。まるで王様の謁見室みたいに、階段の上には豪華な装飾の椅子が置かれ、そこに小さな女の子が座っていた。六歳か七歳くらいかな。毎日お手入れされているような、綺麗な長い緋色の髪。蝶々の銀細工を右サイドに差している。黒と赤のひらひらドレスはまるでお姫様みたい。
そしてその隣には、玉座に寄り添うようにして立つ眼鏡をかけた大人の男性。黒髪で私よりずっと背が高い。服装も全身真っ黒。あまり男の人に慣れていないんだよね。だから正直ちょっと怖い。
お姫様と執事。それが二人の第一印象。
「まぁよい。よくぞ参った『迷い人』よ。わらわはそなたを歓迎しよう」
大人用の玉座はその子には大き過ぎるみたいで、組んだ足が床に届いいない。
それにしても迷い人ってなんだろう。たぶん私の事だと思うけど、道に迷った覚えはないし。そもそもどうしてこんな場所にいるのかな。確か教会のベッドで眠っていたはずだよね。窓には格子がはめられていたし、部屋の外には見張りの人が居たから、抜け出すことなんて出来なかったはずなのに。
「迷い人って何ですか?どうして私はここに居るんですか?あなたも教会の関係者の方ですか?」
今自分の身に起きていることが全くわからない。そして周りには、この怪しい二人組しかいない。あの場で私を連れ出せるのは教会関係者しかいないけれど、何故か手足は拘束されていない。
「なんじゃ質問の多い奴じゃのぅ……」
女の子が面倒くさそうな顔で私を見下ろしてくる。ついさっき歓迎するって言ってくれたのに……。それを取り成すように、まぁまぁと男の人が割って入った。
「仕方がありませんよ、お嬢様。彼女は偶然ここへ迷い込んでしまっただけなんですから。ねぇ、シルヴィアさん?」
「え、どうして私の名前を?」
突然話を振られ、しかも見ず知らずの相手に名前を呼ばれ驚いてしまった。だって教会の人達は私の名前を知らない。知ろうともしなかった。
「動揺はお察ししますが、どうか落ち着いてください。我々はあなたに危害を加えるつもりも、何かを強要するつもりもございません」
まるで子供に言い聞かせるようにゆっくりと、男の人が言った。もうそんなに子供じゃないのに……。なんだか恥ずかしくなって、私は小さな声で「はい」と呟いた。それを満足そうに頷いて、男の人は微笑んだ。
「ありがとうございます。いろいろ聞きたい事はあるでしょうが……そうですね。まずは我々が今いるこの場所から説明致しましょう」
私が今いる場所。神殿風の大広間。私が今いる地点にだけ広がる、水晶のように先の見通せる床。見たこともない不思議な空間。
「驚かれるかもしれませんが、ここはいわゆる次元の狭間。そしてこちらにいらっしゃるのが、その管理人です」
次元の狭間?管理人?まるでおとぎ話みたい。あ、もしかしてこれって夢?辛い現実の前の、ひとときの夢。もしここが夢の世界なら、これは私にとって最後の夢物語。どうせなら白馬の王子様が迎えに来てくれる方が良かったけれどね。
「次元の狭間の管理人ですか?」
「ええ――この世界には幾百幾千もの次元が存在します。その次元が時折、何らかの影響で歪みが生じてしまうケースがあるんです。そのまま放っておけば、歪みは大きくなり、やがて世界を食い潰すでしょう。そこで無数の次元を見守り、問題が起きれば調和を取るのが管理人の役目。管理人は様々な次元に干渉する事が出来る崇高な存在なのです」
なんだか途方もない話だな……。これでもきっとわかりやすく説明してくれているんだろうけど、壮大過ぎて私にはついていけない。
「難しくてよくわかりませんが、まるで神様みたいですね」
「そのように思ってくださっても大きな差異はないでしょう」
神様か……。
私は玉座の女の子――管理人さんを見上げた。確かに変わった格好や口調をしているけれど、そんな凄い存在には見えないなんて言ったら怒られちゃうかな?でも私が教えられてきた神様はもっと気高く独裁的。神の代行者たる教皇様は、もっと怖い人だった。
「どうかされましたか?顔色が優れないようですが」
「ひゃっ」
突然顔を覗きこまれ、変な声が出てしまった。
よく見ると、男の人なのに綺麗な顔してるんだな。遠目だと怖そうに見えたけれど、目元が優しい。悪い人ではないのかも。
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
「そうですか?ご無理はなさらないでくださいね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
慌てて返事をすると、男の人は手を差し出してきた。その意味が理解出来なくて、つい凝視してしまう。
「えっと……?」
「いつまでもそのままでは、折角のお召し物が台無しですよ。どうぞ」
指摘を受けて、ようやく私は床に座りっぱなしだった事を思い出した。申し訳ない気持ちになりながら手を貸りて、身体を引っ張り起こしてもらう。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
男の人は満足そうに元の場所へ戻っていった。それにしてもびっくりした……まるで瞬間移動したみたいに急に現れたような気がしたけれど、気のせいなのかな。
「では話を戻しまょう。管理人は次元の狭間から無数の次元を見守る役目をもっています。ここまでは理解していただけましたか?」
「なんとなくは」
「それは良かったです。では次にあなた――『迷い人』についてお話しましょう」
そう言って玉座の傍らに立った男の人が微笑む。その隣では管理人さんが退屈そうに頬杖をついていた。
「管理人が歪みを修復している間、時折その隙間を縫って魂が迷い込んでくる事があるんです。我々はその魂を『迷い人』と呼んでいます」
「迷い込んだ魂……」
一度、ここまでの話を自分なりに整理してみよう。
ここはたくさんの次元を管理する狭間の空間。今回次元に歪みが生まれたのは私が住んでいた世界だった。そこで管理人さんは大事になる前にその歪みを修正してくれていたけれど、偶然にもその隙間を縫って私の魂がこっちに迷い込んでしまった、と。大体こんなところかな。でも魂なんて言われてもどうすれば良いんだろう。魂の操作方法なんてわからないし。
「もちろん修復を終えるまでの間でしたら、管理人の力でいつでも送り返して差し上げることは可能です。ご安心ください」
私が質問するよりも早く、男の人が疑問の答えをくれた。私ってそんなにわかりやすいのかな。でも、ちゃんと元の世界に戻れるみたい。それなら――。
「……良かったです」
そう言って私は笑った――つもりだった。頬の筋肉がぷるぷる震えて、うまく笑顔を作ることが出来ない。きっと今、私は相当変な顔をしているだろうな。
「おぬし、元の世界に戻りたくはないのか?」
それまで退屈そうに様子を見守っていた管理人さんが、私の気持ちを代弁するように呟いた。その言葉を聞いた瞬間、心臓がドクンと跳ねる。元の世界に戻りたくないなんて、そんなことあるはずがない。だって私は救世主だもの。私がやらなければ、世界は滅んでしまう。
管理人さんは最初、黙って私を見下ろしてきた。やがてその視線が身体をすり抜け、何処か遠くを見るように焦点が合わなくなる。全てを見透かされているようで、背筋がゾクッとした。
「やだな、そんなわけないじゃないですか。おかしな事言わないでくださいよ」
居心地が悪くて、つい早口になってしまう。けれど管理人さんは私の言葉に全く耳を傾ける気配がない。焦点がこちらに戻ってくると、管理人さんは不思議そうに眉を寄せた。
「おぬしは何故、そこまでして世界を救いたいのじゃ?」
「どうしてそれを……」
「わらわは次元の管理者。おぬしの世界を見ればわかる」
ああ、そうだよね。色んな世界を見守る神様みたいな存在なんだから、私の世界、そして私自身が今どういう状況に置かれているのか、知っていてもおかしくはない。
「そんなの当たり前じゃないですか。私がやらなかったら、世界は滅んでしまうんですよ?」
「それの何が悪い。今まで迫害しておきながら、必要になったら手の平を返すような連中、放っておけばよいのじゃ」
そんなことまでわかっちゃうんだ。無意識に目を背けていた疑問。考えてしまえば、きっと救世主としての運命を受け入れられなくなるから。だから今まで、ずっと見えないフリをしてきたのに。
そんな私の意志を砕くように、管理人さんは続けた。
「おぬしさえ望めば、その魂はこの狭間に留まることができる。おぬしは本当に世界を救いたいと思っておるのか?」
なんて魅力的な言葉なんだろう。私が望めば、大ッ嫌いな人達の為に命を捧げなくて済む。あんな人達のために、私は死にたくない。けれど、私がやらなければたくさんの命が消えてしまう。
――私の返事一つで、世界の明暗は分かれる。
「少し、考えさせてください」
管理人さんの赤い瞳から逃れたくて、私は顔を背けると絞り出すように呟いた。
***
「少し息抜きをされてはいかがですか?」
そう言って連れてこられたのは、さっきまでいた神殿風の空間とは打って変わった、暖炉付きのおしゃれな談話室だった。暖炉の前には柔らかそうな革張りのソファ。テーブルには見たこともない美味しそうなお菓子にティーセット。私にはもったいないくらい豪華な空間。案内役の執事さんは、部屋の簡単な説明をするとすぐ立ち去ってしまった。気持ちを整理したかったから、その気配りは素直に嬉しかった。
手近なソファに座ってみる。やっぱり想像通り柔らかい。こんな場所に座っていたら、うっかりうたた寝しちゃいそう。好きにしていいと言われていたので、テーブルのお菓子も食べてみた。甘くてしっとりとして、頬がとろけちゃう。
幸せを噛み締めながら、私はソファに寄りかかった。長い息をつく。いくら目先の幸せに心を弾ませてみても、底に眠る問題は解決しない。時間をもらった以上、私は考え、決断しなくちゃいけない。
さらり。
滑り落ちた髪の房を手で掬う。生まれつきの真っ白な髪。異形の証。私の運命を狂わせた原因。
物心ついた時、すでに私は化物と呼ばれていた。実の両親でさえ私のことを疎ましく思い、その存在を世間から必死に隠そうとしていた。許可なく部屋を出る事を許されず、木の打ち付けられた窓に出来た細い隙間だけが、私が知る唯一の外の世界だった。
両親の愛情を受けることは出来なかった私にも、たった一人だけ味方がいた。同じ村に住む男の子で名前はラット。彼との出会いも、この細い隙間だった。
どんなに存在を隠そうとしても、そこに在るものを完全に消すことは出来ない。あの家には化物が住んでいる。それは村の中では周知の事実だったみたい。けれども私の家が地主の家系だったから、それを表面だって言う人はいなかった。
ならどうしてその事実を知っているかと言うと、どこの世界でも子供は正直だってこと。両親が留守の間を狙って、家の近くで子供たちが大声で叫んでいた。化物、化物と。両親からもそう呼ばれていた私にとっては慣れっ子だったけれど、だからって傷つかない訳じゃない。頭から布団を被り両耳を塞いで、子供たちが飽きて帰るのをひたすら待った。
そんなある日、子供たちの言い争う声が聞こえた。最初は騒がしかったけれど、暫く時間が経って静かになった頃に外の様子を覗いたら、一人の男の子がこちらを見ていた。それがラット。私の部屋は二階にあったし、本当に細い隙間だったから、ラットにはこちらの様子は見えていなかったはず。だけどラットはずっとこちらを見つめながら言ってくれた。「あんな奴らの言う事気にすんなよ」って。
ラットは初めて私を『化物』ではなく『人間』として扱ってくれた。それが嬉しくて、私は初めて家族以外の人と話をした。狭い隙間から見える世界しか知らない私に、ラットは色んな話を聞かせてくれた。気付けば彼と話をする時間だけが、唯一の私の楽しみであり生き甲斐になっていた。
そんなある日、彼との事が両親にバレた。留守中を狙ってラットは訪れてくれていたんだけれど、最悪な事に、両親が予定を早めて帰ってきてしまったのが原因だった。
二人は激怒した。二度と家に近づかないようラットに厳しく言い、外扉は鎖と南京錠で閉鎖され、私という化物の存在の隠蔽は以前にも増して徹底された。以来彼とは会っていない。外界との繋がりを完全に断たれた私は、家にある本を繰り返し読みながら、永遠にも感じられる時間を過ごした。
それから数年が経ったあの日、教会からの使者が家を訪れた。彼ら曰く、この世界随一の予言者が言ったらしい。
「コナの村に住む異形の娘。その身に宿りし異端の力を用い、その血肉を捧げ世界を救わん」と。
外の世界を知らない私は、この時初めて世界が滅びの道を辿っていた事を知った。日照り続きで植物が育たず、全国的な食糧不足による大飢饉。原因不明の病。人の命が簡単に失われていく世界。
両親は喜んで私を教会に引き渡した。彼らにしてみたら厄介払いが出来るうえ、世界最高峰の権力を持つ教会に恩を売れる訳だから、まさに一石二鳥。私の命を捧げると知っての態度なのだから、微塵も愛情が残っていないのだと、改めて実感させられた。
教会に着いてから、時間はあっという間に過ぎていった。常に監視役に見張られながら身を清める修行を行い、修道女のような振る舞いを覚えさせられた。救世の予言日が近づくと豪華な法衣を着せられて、民衆の前に放り出された。教会の存在価値を知らしめるように、救世主とか教会のおかげで世界は救われるとか、散々宣伝をして。修道女の振る舞いをさせられたのは、『教会の人間が世界を救う』という印象を人々に植え付けたかったからだろう。
そして明日、私は世界の為に命を捧げる。
「嫌になっちゃうな……」
私は何のために今まで生きてきたんだろう。幼い頃は化物と蔑まれ、今は救世主と崇められ。自分勝手な他人達に振り回されてきた人生。そんな世界に救う価値なんてあるの?
「気持ちは固まりましたか?」
「あ……」
いけない、すっかり寛いでた。ふらりと部屋に入ってきた執事さんを見て、私は慌てて姿勢を正した。
「ああ、どうぞわたくしには構わず、ごゆっくりなさってください」
「そういうわけには……」
「シルヴィアさんは真面目な方なんですね」
おかしそうに笑われてしまった。でもさすがに勝手知らない家の人の前で堂々とはできないよね。でもこれ以上この話題を続けると堂々巡りになりそう。
「わからないんです」
私は最初の質問に答えた。執事さんは扉のすぐ横に控えるようにして立つ。立ってる姿勢も無駄がなくて綺麗。
「わからないと言いますと?」
「私がやらなくちゃいけないっていうのは、ちゃんとわかっているんです。でも無いんです、命を掛けてまで救いたいと思える理由が」
誰かの為に、何かの為に、大切なものの為なら命をかけれるって人はそんなに珍しくないと思う。けれど私にはそれが無い。最低限の物しか与えられずに育ち、家族にまで見放されたのだから。
執事さんは黙って私を見つめてきた。見つめられるって居心地悪いんだよね。私の場合は特に。
「あなたにはもう一人、大切に思う方がいらっしゃったのではありませんか?」
「……ラットのことでしょうか」
私の世界は管理人さんだけでなく、執事さんにも見えるみたい。自分の秘密を覗かれるのはいい気分じゃ無いけど、今更だよね。
「そうですね。ラットの事は大切に思っていましたし……たぶん好きでした。でもあの日両親に見つかって以降、彼は一度も会いに来てくれることはありませんでした。……わがままですよね、叱られてでも会いに来て欲しいなんて」
わがままだとわかった上で、私は彼に期待していた。もしかしたら彼も私のことを好きでいてくれるんじゃないか。おとぎ話の王子様のように、囚われの姫を迎えに来てくれるんじゃないかって。化物の癖に、本当に身の程知らず。勝手に期待したうえ、勝手に裏切られたと思っているなんて。
当時の事を思い出して、胸が締め付けられる。それを誤魔化すように唇を噛み、無理矢理笑顔をつくった。けれども執事さんは笑ってはくれなかった。まるで憐れんでいるように、眉尻を下げた少し困った顔をしている。
「あなたは何も知らないようですね」
「知らない?一体何をですか?」
突然の言葉に思わず息を飲む。その言い方だと、まるで私の知らない事実を執事さんが知っているみたい。そしてその予想は外れてはいなかった。
「彼の家はあなたの家から土地を借りる農民でした。しかしあなたの両親の逆鱗に触れて以降、彼の家は無理矢理土地を取り上げられたんです。仕事を奪われ、地主に睨まれてはもうその村で暮らすことはできない。彼の家は間もなく別の土地へ移住しました」
「そんな……」
なんと言っていいかわからない。私のせいで、ラットだけでなく彼の両親にまで迷惑をかけてしまったということ?
「彼は最後に一度あなたに挨拶をしようとしていたみたいですけどね。あなたの両親は許しませんでした。結局彼は何も告げる事が出来ず、村を出たんです」
「……そうだったんですか」
そんな事初めて知った。ラットは最後まで私のことを気にかけてくれ、会おうとしてくれていたなんて。それなのに私は自分の殻に閉じこもり、――きっと彼のことすら憎んでいた。なんて醜くて、愚かなんだろう。
「なんて言っていいかわかりませんが、ありがとうございました。なんだか吹っ切れたような気がします」
「少しでもあなたのお役に立てたのなら光栄です」
「はい!」
気持ちがすっきりした。今度こそ私はちゃんと笑うことが出来た。
***
「気持ちは定まったのか?」
最初の部屋に戻ると、さっきと変わらず玉座に座った管理人さんが出迎えてくれた。執事さんの半歩後ろを歩いていた私は、最初に倒れていた水晶の上で足を止め頷いて見せる。
「はい、おかげさまで。私元の世界に帰ります。帰って、自分に与えられた役目をまっとうしようと思います」
「ほう。自ら命を捨てに行くと申すのか?」
「んー、それはちょっと違います」
確かに元の世界に戻ればこの命を散らすことのになる。怖くないと言ったら嘘になる。それでも私は世界を救いたい。救いたいものがある。
「だって私は絶望しながら死ぬ訳じゃありませんから」
「面白いことを言いおる。おぬしが今救いたいと思うておる奴が、今も生存しておる確証は無いのじゃぞ」
まるで試すような口調。もちろんその可能性も考えた。現在の私の世界は人口を急激に減らしている。何処にいるかどころか、生きているかどうかすら怪しい。でもそれはそこまで重要ではない。
「たとえ今彼の命がすでに途絶えていたとして、彼がいた場所、彼の生きた世界を救うことは出来ます」
もちろんラットが生きていてくれるのなら、それに越したことは無いけどね。
その言葉を聞いた管理人さんの顔が、ほんの少しだけ柔らかいものに変わった気がする。頬杖をといたその姿は凛とした佇まいで、とても幻想的に映った。ああ、やっぱりこの人は私達とは違う存在なのだと、本能的に悟ってしまうくらいに。
「おめでたい奴じゃな。――じゃが、おぬしのような人間は嫌いではない」
「ありがとうございます。お世話になりました」
神様に平伏す民のそれと同じように、私は深々と頭を下げた。
コツン。靴の踵の音が聞こえる。ゆっくりと顔を上げると、管理人さんが椅子から降り、段々の床を降りてこちらに近づいてくる所だった。
「最後に言い残した事はないか?」
私の前で足を止め、こちらを見上げながら問いかけてくる。改めて間近で見ると本当にお人形さんみたいだな、なんて頭の片隅で考えながら、私は少しの間目を閉じた。
最後に言いたい事。これから死にゆく私にとって、唯一心残りがあるとするならば。
「私がいなくなった後、世界は救われていますか?」
きっとこの人達には、私の世界の全てが視えている。過去も現在も、そして未来でさえも。なんとなくだけど、そんな気がした。
「――おぬしの願いは、かの地の女神が聞き入れるじゃろう」
「良かった」
その答えは遠回しな表現だったけれど、ある種の確証のようなものを抱いた。だって管理人さん、その瞬間私を見ていなかった。私よりもずっと遠く、最初に会った時と同じように、私の先にある世界を見る目と同じものだった気がする。
「お二人に出会えて良かったです。本当にありがとうございました!」
それが最後の言葉だった。
管理人さんは頷くと、右手を私の眼前にかざした。次の瞬間、世界がぐにゃりと歪む。まるで夢に落ちる寸前のように意識が遠くなり、やがて何も考えられなくなった。
次に意識を取り戻した時、私は教会のベッドに横たわっていた。見慣れた景色。高い位置にある天窓からは白い光が射し込んでいる。どうやら夜が明けたみたい。とうとう運命の日がやって来た。
あの世界、次元の狭間での出来事は夢だったのかな。普通に考えれば現実逃避という名の夢物語。けれど私の中で、あの世界での出来事がつい先程のことのように、はっきりと記憶に残っている。
「どっちでもいっか」
思わず笑ってしまった。だって夢だろうが何だろうが私の運命は変わらない。なら胸に抱いた決意を否定しても仕方ないよね。
運命の時までまだ少し時間がある。私はベッドから起き上がると身支度を整え始めた。慣れないお化粧を時間をかけて施し、法衣の皺を丁寧に伸ばす。もうすぐ一世一代の晴れ舞台。せめて悔いが残らないようにしたい。
準備を終えて暫くして、迎えの使者が部屋を訪れた。逃げ出さないように警戒しているのか、いつもより警備兵が多い。私の落ち着いた様子に少し面食らっているみたいだったけれど、「行きましょう」と気にせずに皆を促した。
そして今、私は群衆を見下ろしながら運命の舞台に立った。期待に満ちた顔、不安そうな顔、諦めの顔。たくさんの顔が私を見ている。これが今から私が救う人達。多種多様なそれを一つ一つ見つめ、やがて私は高らかに宣言した。教会に予め覚えさせられた文章ではない。今私自身の中にある気持ちを正直に。予定にない行動に慌てる教会の人達の様子が横目に見えたけれど気にしない。だって今ここで彼らは私に手を出せないもの。最期くらい好き勝手したっていいでしょう?
ねえ、ラット見てる?
今から私はあなたに恩返しをします。あなたは何気無い行動だったかも知れないけれど、確かにあの時私は救われていました。自分勝手な勘違いでその機会が遅くなってしまったけど、どこからでもいいから私を見守っていてください。
やがてその時が訪れた。
ゆっくりと深呼吸をすると、私は胸の前で両手を組み合わせ、この地を司る女神様に祈りを捧げた。
***
「それにしても、お嬢様もお人が悪いですね」
シルヴィアさんがいなくなって暫くして、彼女がいた場所を見つめたまま動かないお嬢様に声をかけました。わたくしの言葉に振り返ったお嬢様の顔は憮然としています。そんな顔も素敵なんですけどね。
「何が言いたいのじゃ、メガネ?」
ちなみにメガネというのはお嬢様のわたくしの呼び名。眼鏡を掛けているからという単純な理由で付けられた愛称。本当はちゃんとした名前もあるのですが、とてつもなく長い上に永い間呼ばれていませんから、わたくし自身も覚えているか怪しいレベル。実際問題名前をいちいち言っていたらなかなか本題に入れないので丁度いいんですけどね。
「彼女にあのように迷いを与える必要があったのですか?」
迷い、正確には死の決意とでも言うべきでしょうか。他に選択肢が無かったのなら、どっちみち彼女は運命を受け入れていたはずです。それなのにこの世界に残るという新たな選択肢を与え、あえて悩まさせたお嬢様の真意がわたくしには把握し損ねていました。
「別に迷いを与えたつもりはない。事実としてわらわは言っただけじゃ」
「しかし、彼女はあちらの世界に戻っても命は落としません。いえ、いずれはその時が訪れるでしょうが、少なくともそれはもっと先の話です」
そう、彼女は世界を救う見返りに命を捧げると思い込んでいた。彼女だけでなく、かの地の人々は予言者の言葉に勘違いをしていました。
血肉を捧げるというのは、その身にかの地の創世主たる女神を宿すという意味。彼女に与えられた運命は、その身を犠牲に世界を活性化させる究極魔法のようなものではなく、永い眠りについていた女神を呼び起こし、止まっていた世界のエネルギーの巡りを再び動かす事でした。
そもそも、彼女のあの容姿が何故化物扱いされていたのかが疑問です。あのお美しいお顔立ちも、透き通るように真っ白なお御髪も、かの地の女神に瓜二つだと言うのに。寿命の短い人間だからこそ、事実が捻じ曲がって伝承されてしまったのでしょうか。
本題に戻りましょう。シルヴィアさんの運命はそこでは終わりません。
女神降臨の後、かの地は動乱の時代を迎えます。神の代行者たる教皇を差し置いて、ただの村娘に女神が宿ってしまうのだから、彼にしてみれば面白くないでしょう。彼女をまやかしを用いて人々を惑わし神を愚弄する反逆者としてその場で死罪に処そうとしますが、うまい具合にそこに彼女の王子様が駆け付ける訳です。
彼女の王子様は村を出た後、とある方にその腕を見込まれ教会を守る騎士になっていました。彼女の言葉も想いもすぐ側でちゃんと見ていました。彼は彼女を守る騎士になる事を誓い、教皇に反旗を翻します。彼女の宣言を聞いていた群衆も同じでした。独裁的な教会のやり方に不満をお持ちだったようですね。
やがて、かの地に新しい国家が誕生する。
それが彼女に与えられた人生。永久の時を望んでいた訳ではない彼女に、ここに残る理由など最初からありませんでした。それをあえてこの方は死と、現実に向き合わせた。
「他人を憎んだままの指導者に、人々は着いて行かぬ。すぐに滅びを招くじゃろう」
お嬢様はどこまでも先の見通せる水晶の中心――次元を繋ぐ狭間の境目に立つと、どこか虚空を見上げるように虚ろな瞳で呟かれました。それはどこか儚げで、故に美しい。まるで絵画の一場面のようにわたくしには映りました。
やがてこちらを振り向かれたお嬢様の表情は先程とは打って変わって大胆不敵。にやりと笑った口からは八重歯が覗いております。
「……というのは建前で、ただの暇潰しじゃ。永久の時、無数の次元をわらわは見守っておるのじゃぞ?たまには手心を加えても良かろう」
どちらが本物のお嬢様なのかと言えば、その両方がとお答えしましょう。
「つくづく面白い御方ですね」
「なんじゃ、不満でもあるのか?」
「滅相もございません。それでこそ、わたくしがこの身を捧げた方でございます」
だからこそ、わたくしは『次元の狭間』に留まっているのですから。
***