短編:謀反(別話)
男は、茶室の狭い畳にごろりと寝転がって天井を見上げていた。
足元にある、一目で名物と分かる茶釜に目もくれず、惚けたように木目を見つめている。
静かな場所であった。
小姓も含め、部屋には誰もいない。 腕の良い草(忍び)であれば、大の字に寝転がる彼はさぞ狙い甲斐のある獲物であろう。
だが、そんな自らの状況も、男の思考の雲の中には水滴ひとつほども浮かんではいなかった。
「治部大輔殿よ」
それだけを呟き、再び黙る。
元より呼びかけに応える声などなく、また、男も答えなどを求めてはいなかった。
呼ばわった男は今より三十年近く前、男が率いる軍勢によって、討ち取られたのだから。
◇
織田三郎平信長。
男の名前だ。
正二位右大臣、右近衛大将、あるいは上総介、内大臣、権大納言、参議。
かつて彼の名前を彩った、顕官たる官職も官位も、今の彼にはない。
正式な除目で任じられた官だけでも百人は超えるであろう、多くの朝臣と無位無官の将兵を率いる、一大名。
彼は今、誰にも立ち入らせぬよう厳命を下し、自らの居城、近江安土城の天主閣に設えられた茶室で、静かな時間を過ごしているのだった。
瞑目する常装の彼を見て、天下第一の出頭人と思う者はいないであろう。
何の変哲もない麻織の素袍を、裾を室町の頃の武士のように外へと垂らし、枕もなく寝ているせいで結っていた髷は無残に折れ曲がっている。
これで服に接でも当たっていれば、牢人と指を指されても文句は言えぬ。
ただ、瞑目する彼の、わずかに見える眼光だけが、男が外見どおりの人物ではないことを示していた。
◇
「上様」
「うむ」
不意に声が聞こえた。 辺りをはばかるような、小さな声で小姓は来客の到来を一言で告げる。
信長もまた、一言でのみ応じ、寝転がる彼の目の端で、にじり口が静かに開いた。
窓のない、薄暗い茶室に、ほんの僅か光が差す。
影になった人物は、にじり口から身を起こすと、微かにたじろいだようであった。
「……何処なりとも」
「……では」
僧体の来客が、端に座る。 とはいえ狭い茶室でのことだ。男の剥き出しの足裏が客の膝に僅かに当たった。
「……此度は招きに預かり」
「わしは間もなく死ぬる」
絶句した来客に対し、片目を開けた信長はにやりと、唇を歪めた。
「……嬉しいか? 法主殿よ」
薄暗がりの中、炯々と――まるで鬼のように――熾る目が、法主―今は紀伊国、鷺森に庵を構えるかつての石山の主、本願寺門主、顕如を見つめた。
◇
(なぜ、今更わしが)
これが今回、安土に来るように命じた信長の――かつて呪詛を向け、調伏を祈り、兵に殺すよう命じた相手の召喚状を受けての、顕如の偽らざる思いだった。
信長の率いる織田家と、顕如が導いた本願寺―― 一向宗との戦いを、今更くだくだしく述べるには及ぶまい。
元亀元年(1570年)から、この天正十年(1582年)の僅か一年半ほど前まで、十年に渡り干戈を交えた石山合戦。
その戦いは、朝廷を仲立ちとした和睦によって、顕如が門徒衆に解散を命じ、自らが紀伊に退去することによって終わりを告げた。
織田は家老を含む多くの将兵を失い、一向宗は根切に遭った加賀、伊勢長島を始め、多くの寺院と門徒将兵を灰燼の底に沈めての和睦だった。
戦は憎悪を生み、元より既存の寺社が伸びるのを好まぬ信長の目論見もあって、いまや門徒は各地で迫害の憂き目にあっている。
そんな中、紀伊に届けられた信長からの書状。
顕如は、安土に入る前に殺されることも半ば覚悟の上で、自らを降した覇王の召喚に応じたのだった。
「……これは異なことを。 上様ともあろう方が、お気を弱くなさるとは」
「法主殿よ。 ここに我が家来は居らぬ。 小姓も下がらせておる。 虚礼無用ぞ」
「……御仏は、それでも悪心を戒めておられまする。 ……過ぎしことは、無用に」
「法主殿はさすがに坊主よ」
くっく、と笑う宿敵に、顕如の中のどす黒い部分が頭を擡げようとする。
それを自制心で押し殺し、彼はあくまで慇懃に、目の前の臭い足に頭を下げた。
「……して、何ゆえ拙僧をお呼び立てなされた。 拙僧は一向門徒の門主、安土はおろか、大和より北へは行けぬ身にござります」
「死者に問うのは飽きたゆえ」
謎めいた言葉に、顕如が考え込む前に、覇王の口は再び開かれた。
「わしは死ぬ。 ……後々のことを聞きとうてな」
「いかなる人も、往ねば極楽が待ってござれば」
「さにあらず」
「は?」
「……御坊の説法が聞きたいわけではない。 信玄坊主に聞くも、謙信坊主に聞くも、今川治部大輔に聞くも飽きたゆえ、御坊に聞くのじゃ」
一瞬、顕如は僧侶らしからぬ心を抱いた。
目の前の男が名を挙げた、今は死者の列に居る男たちが、この狭い茶室に集まっているような、
自分とこの男をじっと見つめているような、そんな気がしたのだった。
◇
「他言は、無用ぞ」
「……は」
信長は身を起こし、顕如に向き直ると、しばらくして静かに話し始めた。
「わしは齢五十になる。 ……次を考えねばならぬ。汝ら門徒衆も含めた、次を」
黙って聞く姿勢を続ける顕如に、信長は普段家来が聞くよりもややゆっくりとした口調で続けた。
「我が息子、近衛中将をなんと見る。 ……御坊が知らぬとは言わせぬぞ」
「良き総領にござりましょう。 帝の信厚く、大小名の敬する心もまた厚いとうかがっておりまする」
信長に釘を刺され、顕如も腹を決めた。
どうやら目の前の男は、かつて宿敵だった自分と、余人を交えず話したいらしい。
そうであれば、もはや遠慮は要らぬ。
この場で彼の脇差に貫かれるも、またやむなしと思い極めた顕如は、背筋を伸ばし堂々と、近衛中将――織田信忠を内偵していることを明言した。
だが信長は、そうした事実を一顧だにせず、言葉尻を遮る。
「足らぬ」
「なんと。先の甲州攻めにも武功比類なしと聞いてござるに」
「足らぬ。 ……中将は御坊ではない」
その言葉に、顕如は眉をひそめた。
「愚僧ごときが、中将様に何の比肩ができましょうや。 我が師父、証如とくらぶるべくもなき父君を持ち、天下の権を切り回すべき方でござろうに」
「御坊は、祖母君が居られたであろう。 父を早く失い、門徒衆を率い、本願寺を天下の堅城とし、軍勢を整えた。 いかがか」
「……確かに。 ……まさか」
ようやく覇王の言わんとする中身を察した顕如が、小さく息を吸い込んだ。
「信玄坊主は戦に強かった父を逐った。謙信坊主は兄じゃ。今川治部大輔もまた、兄を討って家を成した。
……大名が家をまとめるためには、どのような形であっても前の主、その威を追い払わねばならぬ」
あまりに壮絶な信長の考えに顕如が絶句する間にも、信長は口調だけは淡々と続ける。
「我が織田は、元は尾張の田舎小名、守護代の更に家来、元をただせばさらにその家来。
しかもわしは我が手で父を討つことはなかったが、家中騒乱を自ら収め、国を取った。
……その後はわし自らが知行した家来を用い、わし自らが家を率いてきた。
……じゃが、それでは足らぬ」
「中将様に、上様を――前右府たる方を弑せよと仰せあるのでござりまするか!」
「然り。 さほどでなくば、我が家、治めるに能うまい。
……じゃから汝を呼んだのじゃ。 わしを討つべく考え抜いた御坊であれば、
あの者がどうやってわしを討つべきか、共に考えてくれるであろうからの」
◇
何度も夢に見た。
「織田殿、討ち取ってござりまする! 首実検を!」
「上総殿、御討死!」
だが、目の前でその当人から、自分を息子に殺させる方法を考えてくれとは。
顕如は、慎重に言葉を選びながら、言った。
「まず、上様を討つ道理がござりませぬ。 中将様とて子にございます。
子が親を討つは武家の習いなれど、道理なくして討ち取っても家来は従いませぬ」
「道理ならばあるではないか。 父は帝の輔弼たる右府の職を投げ打ち、理なくして朝臣を従えておる。
参内もせず、帝とは疎遠である。
しかも叡山を討ち、南山を攻め、自ら天魔と号して南蛮の教えにかぶれておる」
「……確かに。 されど南蛮は」
「南蛮人どもは遠からず本朝から追い払うことになるであろう。 筑後、豊後で為しておること、耳に入っておる。
……あるいは堺・博多の町衆に聞いてみよ。あの者どもは遠く呂宋まで行くのだ」
それは顕如も聞いたことのある話であった。
南蛮寺、そして南蛮商人による人攫い、あるいは南蛮寺への寄進だ。
遠く異国では、そうして国全体が南蛮の奴隷と化した場所もあるという。
顕如にとっても、決して討ち捨てて置けない話題でもある。 門徒は九州にも多いのだ。
「……確かに南蛮人どもが事は聞こえており申す。 上様はまさか」
「南蛮人を庇いだてし、本朝の帝を蔑ろにし、おのれを天魔と称し、帝を見下ろす城を作って恥じぬ。
そのような父親なれば、討ち果たすのが近衛中将たる信忠の役目よ。
……じゃが、あれには出来ぬであろう」
つまりは信長は、自らが敢えて作った悪名を用い、討ち取られようというのだった。
だが、それで家臣たちはついてくるのか。
「……宿老衆は納得されますまい。いかようになられても主は主。
柴田修理殿、羽柴筑前殿、惟任日向殿、いずれも上様がお引き立てあそばした方々なれば」
「確かにの。 滝川、前田、佐々、いずれもわしの所に来ずば、部屋住みで終わっておった奴輩よ。
じゃが、あ奴らも老いた」
「と、申されると」
「家よ。 あれらは家を作った。次は家を守らねばならぬ。 ……修理は違うかもしれぬがな。
羽柴は中将の守役じゃ。我が子を与えておる。
明智は分からぬ。 子が幼いゆえに。
滝川も家を守らねばならぬ。 丹羽もしかり。
……わしは佐久間、林を改易したのじゃ。 このような主にあっては、家は保てぬ」
何年か前の、重臣、佐久間信盛、林通勝の突然の追放。
誰もがいぶかしみ、そして織田の家臣の多くが戦慄したそれを、信長は何でもないことのように言った。
「林、佐久間に罪はあれど、家を滅ぼすほどではない。
……あれで宿老どもの目の色が変わったことを除けばな。
あれで明智あたりは、わしを見限ったであろう」
父親が仕えるに値せぬ。
であれば。 普通ならば息子、あるいは兄弟を担ぐのが普通だ。
実際武田はそうやって信玄が家を継いだし、謙信もまた、戦に弱い兄を見限った家臣に担がれて当主となった。
顕如自身はそこまで苛烈ではないものの、幼いながら英明な彼を廃し、より動かしやすい門主に挿げ替えようという陰謀を幾度も叩き潰している。
織田であれば、兄弟はまずない。
信忠の武功が際立っているからだ。
信貴山攻め、武田攻めでも信忠は戦陣で手ずから兵を率いて血戦している。
だが、と顕如は考える。
武田、上杉の事例は、いわば家来衆が譜代であったからだ。
彼らにとっては主家は主家であり、その中から主を選ぶほかなかったからこそ、信玄・謙信は選ばれた。
だが、先ほど信長自身が言ったように、織田のほとんどの家来は外様――信長の代に召抱えられたものたちだ。
柴田のようにかつて背いたもの、稲葉や蒲生のように仕える主を捨てたもの。
細川に至っては、かつては幕府の最高位の重臣として、天下の一方を率いていた者だ。
彼らにとって、信長が死んだからといって、別の織田は仕えるに値するであろうか……?
そんな顕如の疑問に、うっすらと笑って信長が答える。
「御坊よ。……それでもよいのだ」
考えを読まれた顕如が内心で驚愕するのも構わず、信長はあっさりと告げた。
「我が家来、そのいくらかが裏切っても構わぬ。 それらがわしを殺しても構わぬ。
……自ら討つより道は遠くなろうが、その中で従えるべき者と寝首を掻く者がはっきりと分かる。
中将自身にも、目を養う場となるであろう」
今の巨大な織田が割れ、天下は再び戦国へと戻る。
その中で、もし信忠が父親の才覚を受け継いでいれば、再び天下をまとめるであろう。
今度は、父親が得られなかった、譜代の家臣たちとともに。
顕如も思わず頷いた。
うまくいけば、信忠は父親より短い時間で、天下を再びまとめられるかもしれない。
敵が乱立しても、その多くはもともと父親の家臣だったものたちだ。
重臣の中でも、数少ない譜代である丹羽五郎左衛門長秀や、池田紀伊守恒興といった者たちは裏切るまい。
信長が事あるごとに一門衆を引き立ててきたのも、信長が死んだ後、一人でも多く信忠の元に参じさせるためであろう。
例えば今は堺にあって、反りの合わぬ従兄弟、三七信孝を補佐している津田信澄などが差し詰め、その代表格であろうか。
「そして、いざという時に助けになる者どもが、他にもいる」
「それは」
長い同盟を結ぶ徳川か。だが、彼らは武田、今川への抑えとしてだけで存続を許された家だ。
その何れもが滅び、北条が降りつつある今、彼らを生かしておく必要はない。
寧ろ、織田の本拠地である尾張に隣接する三河を根城とする徳川家は、織田にとっては代々の敵であると言える。
では、遠方の大名、北条、佐竹、毛利、長宗我部らか。
(違う)
彼らは織田の内乱に介入するには遠すぎる。
そもそも降ってもいない相手だ。
信忠にとっては、味方よりもむしろ敵であろう。
「何方と仰せあるか。愚僧にはとんと見当がつきませぬ」
「くく」
信長がうっそりと笑い、秘密を明かすような顔で囁いた。
「御坊よ。……本願寺が、味方となる」
本日何度目かの驚愕に、顕如は、自分の思考が半ば麻痺したように感じていた。
斎藤、今川、武田、上杉、朝倉、三好、浅井、六角、波多野。
織田家が滅ぼしてきた家の中でも、本願寺は最大級だと、顕如自身思っている。
精強さでは武田や上杉に劣っていたかもしれないが、長く戦い抜いたのは紛れもなく顕如と、その門徒たちだ。
そんな彼らが、信忠の味方だと言う。
立場も忘れ、顕如は思わず言い返した。
「これは存外の事を仰せある。
我ら本願寺、恐れ多くも上様を仏敵と罵り、戦を重ねた敵でございます。
愚僧自身、武田信濃守さまの縁者。
なにゆえ一度は滅ぼした我らを頼りになさるのです」
「汝ら門徒が生きるゆえよ」
「!!」
「わしがいる限り、門徒は教えのままに生きられぬ。
御坊が城を出、坊主の本務に立ち返ったとしても、苦しむ門徒はいずれ御坊を担いで一揆を起こすであろう。
あるいは御坊の子か、孫か。
そうなればもはや帝の力も及ばぬ」
それは、顕如が内心で心から恐れていた事態であった。
南蛮の教えを禁じたとて、南蛮人は本朝を出ていけばよい。
だが、一向宗は本朝の教えだ。
行くあてはない。
しかし、飢え、苦しむ門徒たちはいずれ一揆を起こすだろう。
その後に起こるのは、虐殺だ。
法然上人にはじまり、親鸞上人が伝え残した浄土の教えは、今度こそ絶える。
だからこそ、と信長は言う。
「中将に合力せよ。門徒を率い、今一度将となせ。
雑賀の鉄砲衆、各地の門徒であやつを助け、本朝で生きる道を見出せ。
その後に、改めて槍を捨て、坊主に戻ればよい」
「確かに拙僧は紀伊、織田の内乱に割り込めまする。
ですが、中将様がお許しくださるかどうか」
「許さざるを得ぬ。いや、許さぬようであれば汝と、あやつ自身の罪。
そうなれば負けて死ねばよいだけのこと」
嗚呼、この男は。
顕如は内心で呻いた。
自らが半生をかけて築いた家、育てた家来。
父の巨大な名を背負おうと、二十をいくつも超えぬ年で大将として奮戦する息子。
その子に、力及ばずば死ねばよいと言い切るこの男こそ、まさしく天魔に他ならぬ。
そんな顕如の内心をわかっているのかいないのか、天魔の王は嗤う。
「ゆえにこそ、御坊を呼んだのだ。
わしの死を見て、わしを討ち取った男を討て。
そうせずば本願寺に先は無い」
◇
顕如が去って暫くして。
信長は一人、考える。
武田は滅び、上杉は乱に入った。
毛利、北条は動けず、長宗我部は只管恭順を求めている。
息子の敵となる者のうち、最も強いのはやはり。
「三州か」
若い頃、生駒の屋敷で出会った幼い人質。
東海を守り抜いた、忠実な同盟者。
三河武士を率いる駿遠三の太守、『海道一の弓取り』。
彼は恐らくは背くだろう。
いや、三河を捨て、一家臣ともなれば命は助かるかもしれない。
彼自身は、それを選ぶかもしれない。だが。
(家来どもは従うまい)
三河には、三河武士代々の血と誇りが染み込んでいる。
時に今川に、時に織田に従ってなお、離れなかった父祖の地だ。
戦わず明け渡す事は、彼らの家名が許すまい。
「ならば」
天魔と呼ばれようとやはり親か、と内心で苦笑しながら、信長は漸く手を叩いて小姓を呼んだ。
「誰ぞある! 中将と日向を呼べい!」
手を叩く彼の後ろ、茶室の掛軸のそばで、黒いものが蟠っている。
それは、鎧を纏い、頭巾を着けた人影のようであったが、信長はついに気づく事はなかった。