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ねずみたちの眠り唄

作者: 夏越象英

「ねずみたちに気をつけて」

母のこの言葉の本当の意味に気がついたとき、

少女はひとつの決断を下した。

 その日は朝から、ぱらぱらと雨が降っていた。雨はその勢いを増しながら日中も降り続き、夕方、小夜が小学校から帰る頃には、すっかり土砂降りになっていた。


「小夜。」

 母が玄関から小夜の名を呼んだ時、小夜は居間の畳の上に寝そべって、見るとも無しにテレビの画面を見つめていた。

良く通る母の声は居間に居た小夜にも良く聞こえたけれど、小夜はわざと聞こえない振りをした。母が自分に言おうとしている事を、小夜は知っていた。それに、お風呂上りに引っ張り出してきて包まったタオルケットは思いの外に気持ち良くて、動く気になど到底なれなかった。

「小夜!」

再び呼ばれた母の声の苛立った響きに、小夜は被っていた掛け物を取り払い、しぶしぶ起き上がった。そして障子戸を開け、廊下へと出た。

廊下は居間よりも幾分涼しく、床は雨の湿気のためか、小夜の裸足の足の裏に、やけにべとついた。

居間にいた時はテレビの音でよく聞こえなかったが、雨の音に混じって蛙の鳴く声が聞こえた。

庭に面したガラス戸越しに見える薄暗がりをちらりと見てから、小夜は小走りに玄関へと向かった。

「なあに?」

そう言いながら玄関へと来ると、土間でしゃがみ込んでいた母が、途方にくれた様子で小夜を振り仰いだ。

「ブーツのファスナーがまた噛んじゃって。小夜、取ってくれない?」

「ちょっと待って。」

小夜は内心溜息をつきながら、近くにあったぶかぶかのサンダルを引っ掛けて、土間に降りた。「どっちの脚?」

 小夜が訊ねると、母はほっとした様子で立ち上がり、答えた。

「小夜から見て左の方。・・取れそう?」

 小夜は母の足元にしゃがみ込み、問題のブーツに目をやった。見ると、チャックの辺りで、ブーツの皮が扇子みたいに、くしゃくしゃになっていた。

 毎度毎度、どうしたらこんなに器用な真似が出来るのだろうかと、小夜は考えた。小夜の知る限り、母が一度ですんなりとブーツを履けたためしなど、殆どなかった。

そして、その度に、小夜がそれを直す羽目になるのだ。

こんなに失敗ばかりしているなら、いっそのこと他の靴にすればいいのに。第一、こんな季節にまでロングブーツにこだわるなんて、どうかしている。小夜はそう思ったが、それを敢えて口にしようとは思わなかった。

 小夜が力任せにいじっていると、そのうちにチャックは外れた。

「取れたよ。」

 そう言って小夜が立ち上がると、母は、いつも悪いわね、と言って屈み込んだ。

 その時に、母のつけている香水の香りが小夜の鼻をかすめて、小夜は内心顔をしかめた。つんとして、嗅いでいると頭がくらくらするようなこの香りが、小夜はあまり好きではなかった。

 慎重な手付きでブーツを履き直すと、母は立ち上がり、ちらりと自分の腕時計を見た。亡くなった祖母の形見だという、骨董屋さんにでも置いてありそうな代物だった。

「それじゃ、お夕飯は台所に用意してあるし、明日の朝にはご飯が炊けるようにしてあるから。」

 今日は、母の週に一度の出張の日だ。それは決まって水曜日で、夕方には家を出る。そして、金曜の夜には帰ってくるというのが常だった。

 元来忙しい人だった、母の月に一度の出張が週に一度になったのは、三年前、小夜が九歳の時に祖母が亡くなってからのことだ。出掛けに小夜にかける言葉は、その頃から大して変わり映えしない。

「七時を過ぎる頃には家中の戸締りを確認して、カーテンもちゃんと閉めるのよ。玄関の鍵は、私が出たら直ぐにかけて。それから・・。」

 そこまで言いかけると、母ははっとした様子で、一瞬黙った。そして、何かを窺うように目だけをきょろきょろと左右に動かしてから、幾分声をひそめて言った。

「ねずみに気を付けて。」

 その一言を言うときの母にはどこか緊迫したものがあって、少なくとも、小夜には冗談を言っているようには思えなかった。

 鼠なんかよりももっと怖いものは沢山居るのに。心の中でそう呟きながら、小夜はいつも通りに答えた。

「うん。」

 小夜がそう答えると母は決まって、一瞬妙な顔をするのだ。少しほっとしたような、それでいてどこか不満そうな顔。

 母のそんな表情を見る度、小夜は困惑した。けれど、他にどう答えればいいのか分からず、結局いつも同じ返事ばかりしていた。

 側に置いていた荷物を手にとると、母は小夜の横をすり抜けて、玄関の引き戸の前に立った。

「それじゃ、行ってきます。」

すりガラスのはめ込まれた引き戸を、母が開けると、雨音と蛙の鳴き声が、大きく、はっきりと聞こえた。それと同時に流れ込んできた生暖かい空気が、小夜の頬や手足を、さあっと撫でていった。

 母の後ろ姿の向うがやけに暗く思えたのは、玄関に灯る明かりのせいだったのかもしれない。


 母の運転する車の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると、小夜は玄関の鍵をしっかりと閉めた。鍵の閉まるがちゃりという音が薄暗い玄関に嫌に響いて、なんとなく、小夜は振り返った。

 廊下はひどく静かで、雨の音とつけ放しのテレビの音しか聞こえない。

 小夜は小さく息を吐いてからサンダルを脱ぎ捨て、台所へと向かった。

 ガスレンジの上には母の言った通り、うどんの入った一人用の土鍋があった。それを暫く火にかけてから、小夜はそれを居間へと運んだ。

台所には食事用のテーブルがあり、普段はそこで食事をしていた。しかし、母がいない時には、居間で食事を取るのが小夜の習慣だった。

 食事を終えて時計を見ると、既に母の言った七時を過ぎていた。

小夜の家は、平屋の割に敷地が広く入り組んだ造りになっているので、家中のカーテンを閉めるのは、小夜にとってはひと仕事だ。

 おまけに廊下の照明は未だに所々が裸電球で、夜通るにはあまり気味のいいものではなかった。小夜は慌てて立ち上がり、廊下へと出て、カーテンを閉め始めた。

 その時ふと、小夜はガラス戸の向こう側に目を凝らした。しかし、ガラス戸の向うは真っ暗で、鏡のように自分の顔が見えるだけだ。 小夜はガラス戸とカーテンの間に入り込み、もう一度目を凝らした。 すると、真っ暗だと思っていた空は、藍色や藤色、灰色や薄い赤紫が迷彩柄のように混ざり合い、全体的に白っぽかった

 雨の日の空って、昼はいつもより暗いのに、夜はやけに明るく感じる。そんなことをふと考えながら、小夜は庭を見渡した。

 庭の方に目を移すと、空の白っぽい色を背景に、丈高いコブシの木や、その傍らに立つ梅の木が、黒い影絵のように見えた。

 梅の木には、小さな青い実がもう成っている筈だったが、暗くて小夜にはよく分からなかった。

 小夜は分厚いカーテンから抜け出して、パタパタと廊下を進んだ。

幾つかの角を曲がり、家の北側の廊下へと出たところで、小夜は一瞬足を止めた。

 家の北端にある廊下は、夏の間でもどこか冷え冷えとして、陰気な空気が漂っていた。その中でも特に異質な空気を放っているのが、北向きの壁に有る、南京錠のかかった鉄の扉だ。

 錆びもせず、耀きもせず、まるで空間そのものを切り取ったような、黒い扉。

 扉の向うには廊下が続き、庭の外れに有る、小さな離れへと繋がっていた。

 しかし、その扉を開け、小夜が実際にその中を見たことは、一度もなかった。

 この扉の南京錠を外す為の鍵は、祖母の亡くなった後に、どこかへ行ってしまったのだと、以前母が言っていた。

 たとえ鍵が見つかったとしても、自分がこの扉を開けることはないだろうな、と小夜は思っていた。

 黙り込んで、陰気にただじっとしているこの扉は、なんとなく嫌な感じがした。その姿が、近所で飼われている犬を思い起こさせるせいかも知れない。

 小夜は小走りに扉の前を通り過ぎた。

それでもなんとなく不安になって、小夜はちらりと扉の方を振り返った。

 しかし、扉は相変わらず、ただ黙々とそこにあるばかりだった。


 コックを捻ると、生ぬるい水が勢い良く流れ出した。流しにある洗い物篭の中には、母が洗わずに行ってしまった食器が山になっていた。自分が使ったものだけ洗うつもりだった小夜は、小さく溜息を吐いた。母のいない夜はあまり台所に居たくなかったけれど、この季節にこれだけの食器を放って置けば、母が帰ってきたときに何を言われるか、分かったものではない。

 その時に母が見せる形相を思い描いて、小夜は思わずうめいた。

 そうして、小夜は流しの食器を洗い始めた。始めは生温かった水も、暫く出していると、冷たくなってきて気持ちよかった。

 暫くの間、小夜は時間を忘れて洗い物に没頭した。

硝子のコップを洗剤のついたスポンジで丁寧に洗っていると、何か柔らかい物が、小夜の足にそっと触れた。

 またか、と、小夜は心の中で呟き、天を仰いだ。

 それは猫のような毛むくじゃらの塊で、陽だまりみたいに暖かかった。しかし、小夜の家では猫など飼っていないし、近所の猫が入り込めるような隙間もない筈だった。

 それがこうして現れるのは初めてではなかったし、小夜はそれが猫ではないことを知っていたので、特に気にも掛けずに洗い物を続けた。

 塊は、まるで猫のようにごろごろと喉を鳴らしながら、小夜の足にまつわりついてきた。それでも小夜が無視を決め込んでいると、やがて蛇のように、小夜の両足に絡みついた。

 小夜はとうとう我慢できなくなり、屈み込んで足元にふっと息を吹きかけた。すると、黒い、狐か狸の尻尾のような塊が、煙のように床の上に散った。

 小夜はふん、と鼻を鳴らし、最後のお皿を水切り篭に突っ込んだ。

 洗いものを終え、居間に戻ろうとしたその時、電話の呼び出し音が鳴り出した。小夜はすぐさま電話のある玄関へと向かった。

 しかし、けたたましく鳴る電話の受話器を取ろうとして、小夜は手を止めた。プラスチック製の受話器の上には、小さな白っぽい塊が、ちょこんと置かれていた。小夜の親指ぐらいのそれは、一見小さな人形のように見えた。白い着物を着た、小さな女の子の人形だ。

 しかし、注意して見ていると、水蒸気のようにうっすらと透けていて、時折瞬きをした。小夜がそっと手を伸ばすと、怯えた様子で僅かに身じろぎをし、小夜の方を見上げた。

 いつの間にか呼び出し音は止んでいた。小夜ははっとして、躊躇いながらも、その小さな塊にそっと息を吹きかけた。少女の像は、蝋燭の焔のように、一瞬激しく揺らめき、空気に溶けるようにして掻き消えてしまった。

 その後、小夜は自分の部屋から布団を一式、居間へと運びこんだ。

 母のいない夜には居間で寝るのも、小夜の習慣だった。

小夜は暫くの間テレビを見たり、明日提出の宿題を片付けたりして、時間を過ごした。

 やがて眠くなってきたので、布団を敷き、電気を消して布団に潜り込んだ。

 眠たくて仕方がなかった筈だったが、布団に入ってもなかなか寝付けず、小夜は何度も寝返りを打った。

 暗闇の中で、時計の音がやけに近くに聞こえる。

 と、廊下から、みしりみしりと、人が歩いているような音が聞こえてきて、お腹の辺りがひやりとするのを、小夜は感じた。慌てて布団を頭から被りなおし、小夜は息を潜めた。

 その音は、ゆっくりと、小夜の寝る居間へと近づいてきた。足音は居間の、廊下に面した障子戸の前で止まった。

 すると、障子戸の向うから声が聞こえてきた。歯が磨り減った老人特有のしゃべり方で、お爺さんともお婆さんともつかない声だった。

「開けてください。」

 小夜が声を押し殺し、じっとしていると、声は同じ言葉を幾度か繰り返した。

 毎度毎度、そんなに入りたいのなら、自分で開ければいいのに、と、小夜は心の中で呟いた。

 小夜のそんな思いを知ってか知らずか、声は、同じ台詞を言い続けた。

 暫くすると、声はぴたりと止んだ。その直後、障子戸が突然、がたがたと鳴り出した。

 それでも小夜が黙っていると、やがて揺れはおさまり、再び老人の嘆願する声が聞こえてきた。その声を聞きながら布団の中で丸くなっているうちに、小夜はいつしか眠りに落ちた。


 翌朝目覚めると、雨はまだ降っていた。家を出るときに、ふと小夜は、小川の底に見える小石のような、白っぽい灰色の空を見上げた。

 どこか遠くで山鳩が鳴いていた。二羽の小鳥が鳴き交わしながら飛んでいくのを目で追いながら、今日は暑くなるのだろうかと、小夜は考えた。

 学校の校舎内はじめじめとしていて、なんとなく息苦しかった。教室に行く途中で出くわした友達と挨拶を交わしたりしながら、小夜は教室へと向かった。

 窓際にある自分の席に座ると、木で出来た部分が幾らかじっとりとしていて、何か、インクかニスに似た臭いがした。

 雨は強くなったり弱くなったりしながら、延々と降り続いた。グラウンドの其処此処に大きな水溜りが出来て、幾つもの波紋が次から次へと出来ては消えていくのを、小夜は教室の窓からぼんやりと見つめた。

 小夜の身の回りで昨夜のようなことが起きるようになったのは、祖母が亡くなって、初めて一人で明かした夜からだった。

 その夜のことを小夜は良く覚えていない。ただ、その夜はとても月の綺麗な冬の日で、布団に包まりながら、夜明けをひどく待ち遠しく感じていた事だけは覚えていた。

 ふと、窓の向うに昨夜の白い少女の像が見えた気がして、小夜は窓から目を背けた。

 黒板の方に目をやると、担任の桜田先生がこちらに背を向け、チョークで黒板に何か書いていた。少しばかり背中を丸め、少し俯き加減のその姿は、夏の終わり頃のヒマワリみたいだと、小夜は思った。


 放課後、小夜は思いがけず委員会の仕事で残る事になってしまい、気が付いた時には、時計の針が五時半を指していた。

 昇降口へと向かう階段の中程まで来た時、下の方で物音がした。小夜は手摺に身を乗り出して、何の気なしに下の方を覗き込んだ。

すると毛むくじゃらの黒い塊が目に入り、小夜は思わず呟いた。

「猫だ。」

 階段の真下から姿を現した黒い猫は小夜の声に反応して、ちらりと小夜の方を振り仰いだ。

 明るい緑色の目が小夜を捕え、その冷たい眼差しに、小夜は一瞬ぎくりとした。と、その時、右手に持ったままの黄色い通学帽が、小夜の手からするりと滑り落ちた。

 小夜は思わず、あっと小さく声を上げ、落ちていくそれをつかもうとした。

しかし、帽子はそのままくるくると回転しながら小さくなって、下にいる猫の前でぱさりと着地した。

 猫は目の前に落ちてきた帽子を注意深く見つめた後、再び小夜の方をちらりと見上げた。そして一声鳴くと、帽子をくわえ、元きた方へと駆け出した。

 一部始終をただぽかんと口を開けて見ていた小夜ははっと我に返って、慌てて階段を駆け下りた。それに合わせて、背中に背負ったランドセルが、中身と一緒にごとごとと音を立てた。  

一階にたどり着いた小夜は、灯り一つ無い階段下を覗き込んだ。

 階段下には少しばかり窪んだところがあって、そこには所々白いペンキのはげた木製のドアがある。そのドアには何時も鍵がかかっていて、生徒達の間では「開かずの間」と呼ばれ、様々な噂が囁かれていた。

 昔ここに閉じ込められて、そのまま発見されずに死んでしまった女生徒の幽霊が、夜な夜な歩き回っているだとか、ドアの向うはあの世に繋がっていて、入れば二度と戻って来る事は出来ないだとか、いかにも作り話らしいものばかりで、小夜は信じていなかったけれど。

 それでも、今日のような雨の日の夕方にもなるとなんとも言えず不気味な感じがして、近寄るのは躊躇われたものだ。

 薄暗がりにじっと目を凝らしてみると、其処にはドアの他には何も無く、生き物のいるような気配も無かった。

 さっきの猫はこっちに来た筈なのにと、小夜は首を傾げた。狭い空間の床の隅から天井まで、隅々をくまなく探したが、猫も帽子も見つからなかった。

 あれは自分の思い違いだったのだろうかと、小夜は思い始めた。

小夜は階段の上の方から、猫が階段下の辺りへ姿を消したのは見たが、階段を下りる間は下の方など見ていなかった。その間に、猫はきっとどこかへ行ってしまったのだ。

 もしそうなら、帽子は諦めるしかないな。そう思い、小夜は踵を返そうとした。

 その時、微かな猫の鳴き声がして、小夜は思わず足を止めた。そしてゆっくりと振り向き、鳴き声のしてきた方を見つめた。

 鳴き声が、小夜にはドアの向うから聞こえたように思えた。それに答えるように、再び猫の声がした。それは間違いなく、「開かずの間」の、ドアの向うから聞こえてきた。

 小夜は恐る恐るドアノブを握り、そっと回した。するとノブはあっさりと回転して、小夜がゆっくりと引くと、ドアが静かに開いた。

 一瞬、ノブをつかんだ右手から右肩へと、ぞわっとした感覚が走って、小夜は手を離して逃げ出してしまいたいと、強烈に思った。

 それでもなんとか我慢して、小夜は一つ、ごくりと唾を飲み込んでから、ドアの向うを覗き込んだ。

 顔だけ出すと、カビ臭くて埃っぽい空気が小夜の鼻を突いた。家の庭にある物置の中の臭いに似ていると、小夜は思った。

 部屋の中は暗くてあまりよく見えなかったが、廊下から差し込んでくる明かりで、手前の方が少しだけ見えた。

 部屋の中には小夜の背の三倍程もありそうな、丈高い棚が幾つか並んでいた。その更に手前には、分厚くて古めかしい本が、ピサの斜塔のような格好で積み重ねてあったから、棚の中も本だったのかもしれない。

 一歩踏み出して、小夜は何かを踏んずけた。驚いて足元を見ると、そこには小夜の見慣れた黄色い帽子が落ちていた。小夜は慌ててそれを拾い、帽子の内側を指でなぞった。

 小夜の物なら、どこかに昔祖母が刺繍してくれた、小夜の名前があるはずだ。小夜の指先に、他の場所とは手触りの違うでこぼこが当たった。

小夜がそれを、入り口から差し込む灯りでよく見えるように持ち上げ目を凝らすと、そこには濃い青の刺繍糸で、はっきりと小夜の名前が刺繍されていた。

 小夜はほっと安堵の溜息をついてから、きょろきょろと部屋の中を見回したが、猫がどこにいるのか、暗いせいで小夜にはよく分からなかった。

 小夜はそっと部屋のドアを閉めてから、一目散に玄関へと駆け出した。たとえ嘘っぱちだと分かっていても、こんな変な噂のあるところ、一分だって居たくはない。

 そして玄関にたどり着き、靴を履き替えながら、あの猫は一体何だったのだろう、と小夜は考えた。

 小夜が家に帰ってきたのと、家の電話が鳴ったのとは、殆ど同時だった。小夜が慌てて出ると、それは母からのものだった。

 電話越しに、仕事が思ったよりも手間取って、もしかしたら帰るのが日曜以降になるかもしれない、と疲れきった声で母が告げた。

お それは小夜にとっては初めての事ではなく、数ヶ月に一度はこういったことがあったので、小夜は大して動じなかった。

 母の仕事がどういうものなのか、小夜は良く知らない。

 ある時、「柳沢さん」という、母の会社の人からの電話に小夜が出た時、やけに親しげにされて面食らったことがある。後で、その人は小夜にとって遠縁の親戚に当たるのだと、祖母から聞いた。

 それどころか、母の勤める会社の社員は全員が遠かれ近かれ親戚なのだとも、祖母は言っていた。

 その時の「柳沢さん」の後にも、小夜は会社からの電話に出たことがあったが、その殆どの人の名字には「柳」と言う字が入っていた。中には、「江ノ頃さん」という、変わった名前の人も何人か居たけれど。                        

 小夜は一度だけ、母の仕事について祖母に訊ねた事があった。すると、祖母はちょっとだけ笑って「ねずみ退治よ。」とだけ答えた。

 小夜も大きくなったらあの会社に入るのだと、誰か、大人の人が、小夜にそう言った時、それはこの娘が将来自分で決める事ですから、と、そう言ったのは、祖母だったような気がする。

「何か変わったことは無かった?」

 母の問いに、昨夜の事を思い出して小夜は一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに気を取り直して答えた。

「別に何にも。」


 翌日も、雨が止むことは無かった。雨水で景色の歪んだ教室の窓を、ぼんやりと見つめながら、まるで金魚にでもなったみたいだと、小夜は思った。


 家に帰ってから、小夜は真っ先に台所へと向かった。

 台所へたどりつくと、小夜は冷蔵庫の中身をくまなく調べた。堂々たる様子で聳える冷蔵庫は、小学生の小夜と留守がちな母の二人暮しには、いささか大きすぎる感が否めなかったけれど、中が広いため、容易に中身を把握する事が出来るのは良かった。

 一番上の冷蔵室から、一番下の冷凍室までを調べ終えて、小夜は誰にとも無く呟いた。

「レタスと牛乳。」

 そして、傍にある食器棚の中を、横目でちらりと見てから付け加えた。

「それと、ツナ缶。」

 それから、一目散に居間へと向かった。

 居間の北側に面した壁には、古いけれどとても立派な神棚がある。小夜は台所から持ってきた椅子をその真下まで持って来て、その上に登った。

 自分も母のように背が高かったら、こんな面倒な事をしなくてもいいのにと、小夜は自分の背の低さを呪った。

 そうして、形だけ手を合わせてから、小さなお社の、小さな観音開きの戸を開けた。中にはガラス製の綺麗な壜と、皮の財布が入っている。壜も財布も、母の物だった。母の留守中、財布の中身は小夜が必要な分だけ、使って良い、という事になっていた。

 小夜は財布を取り出し、玄関へと取って返した。そして玄関の土間にある、コート掛けに掛けられているトートバッグを手に取り、財布をその中へと放り込んだ。

 近所のスーパーまでは、小夜の足で二、三十分の所にある。

 スーパーへとたどり着く頃には、小夜の足や腕はびしょ濡れになってしまったが、その日はレタスが安かったので、小夜は幾らか報われたような気がした。

 会計を済ませた小夜は、レタスの入った袋を抱え、スーパーの出口へと向かった。

 一歩踏みしめるごとに、靴の中で水がじわりじわりと染み出してくるのを感じながら。

 明日の朝ご飯は、食器棚の中に、もう直ぐで消賞味限切れの、ホワイトソースの缶詰があった筈だから、あれを温めてパスタにかけて食べようか。ホワイトソースが残ったら、夕ご飯はグラタンでも良い。

 そんなことを小夜が思い巡らしながら自動ドアを抜けると、不意に背後から、何かが小夜の脇をかすめた。

 小夜の十数メートル手前で立ち止まったそれは、紛れも無く、先日学校で小夜の帽子を攫って行った猫だった。

 やけに賢そうな、明るい緑色の眼は、見間違えようが無かった。

 そして、猫が何かを咥えている事に、小夜は気付いた。見ると、それは艶やかな濃い茶色をした、長方形のものだった。嫌な予感がして、小夜は抱えていた買物袋の中をあさると、案の定財布はなくなっていた。

 小夜の脇をかすめたほんの一瞬の間に、どうしたらそんな芸当が出来るのだろうかと、小夜は一瞬感心してしまった。

 そんな小夜を尻目に、猫は財布を咥えたまま、人の行き交う歩道を駆け出した。

 小夜はてこずりながらも傘を広げ、急いで猫の後を追った。猫の後ろ姿を見つめながら走っているせいで、足元がよく見えず、小夜は度々水溜りに足を突っ込んでしまったり、向かい側から来た人を避けきれずにぶつかってしまったりした。靴も裾も泥はねだらけになったが、そんなことには構っていられなかった。

 そんな小夜をからかうように、猫はちらちらと後ろを振り返りながらも、一定の速さで駆けて行った。

 猫は水が苦手だと聞いていたけれど、それは嘘だ。だって、あの猫は濡れるのも構わずにどんどん歩いて行くんだから、と小夜は思った。

 暫くそんな追いかけっこが続き、小夜がうんざりし始めた頃、商店の建ち並ぶ、アーケードの入り口にたどり着いた。猫は一目散にその中へ入って行き、たちまち人ごみに掻き消えてしまった。

 アーケードの中は、雨の日特有の人いきれで、むっとするような空気が立ち込めていた。小夜は息を切らしながら、アーケードの入り口の辺りで立ち尽くした。

アーケードの中は、思った以上に人通りが激しく、猫の姿はどこにも見当たらない。

 暫くの間呆然としていた小夜は、会社帰りらしい大人の男の人が、小夜とすれ違う瞬間、さも迷惑そうに咳払いをするのを聞いた。そしてその時初めて、自分が傘を差したままだということに気が付き、慌てて傘を閉じた。

 小夜が絶望的な気持ちで、途方に暮れ佇んでいると、意外な事に、猫が再び姿を現した。そして、呆気に取られている小夜の、数メートル手前までやってくると、行儀良く座った。その間も、視線はずっと小夜の方に向けられていた。

 小夜が一歩踏み出すと、猫はまた、とことこと歩き出した。

 小夜は訳も分から無いまま、その流れに逆らうように、人の波を掻き分け掻き分け、猫の後を追った。

 猫は、小夜の歩く速さを知っているかのように、つかず離れず小夜の前を歩いたので、小夜が見失う事は無かった。

 ところが、不意に猫が角を曲がり、小夜はとっさに走り出した。そして、猫の曲がった角の向うを見て、言葉を失った。

 アスファルトで舗装された地面からは、点々と白い湯気のようなものが音も無く、立ち昇っていた。

 霧か霞のように見える水蒸気は、あるものは狼煙のようにアーケードの天井を目指し、その中程で空気に溶け消えていた。またあるものは、つかみ所のない塊になって、亀を思わせる鈍臭い動きで、地面の上をのろのろと這いまわった。

 その中を、大人も子供も、誰もが平然と通り過ぎていった。皆気付いていないのか、と小夜は訝った。もしかしたら、気付いていない振りをしているのかもしれなかったが、小夜にはどちらか判断できなかった。

 小夜はきょろきょろと辺りを見回し、通りの向うを見据えたが、猫の姿はどこにも無かった。それでも、あの猫がこの角を曲がった事は間違いないと確信していた小夜は、その通りをずんずん歩き出した。

 立ち昇る湯気を出来るだけ避けながら、小夜が通りを進んでいくと、やがて、湯気の様子に変化が現れた。

 空中に漂ったり、地面を這ったりしていた湯気が、通り過ぎる人の肩の上や足元にまとわりついてきた。

 纏わりつかれた人たちは、誰一人、湯気の存在には気付かぬまま、どこかへ行ってしまった。不思議な事に、湯気たちもまた、小夜の存在に気付いていないらしく、近くに来ても無視していた。

 更に進んでいくと、湯気は殆どの人間に、多かれ少なかれ纏わりついていた。それも、はっきりとした形を持って。

 和菓子屋の店内で品定めをしている、着物を着た小母さんの首や腕には、ネズミ花火の残骸のような塊が、ぐるぐると巻きついていた。

 背中を丸めて、見るからに疲れた様子のサラリーマンの肩の辺りには、フジツボのようなものがびっしりとくっついていた。

 制服姿の女子高生の足元には、狸か狐の尻尾のようなものが絡みついていた。

 その中には白いものも、黒いものもあって、大きさも形も、ついている場所もまちまちだった。

 そして、この湯気たちは、小夜の家に姿を現す連中の仲間なのだと、小夜はようやく気がついた。

 小夜が構わず歩き続けると、再び様子が変わった。

 先程まで、動物や、何やら訳のわからない形をとっていた湯気たちが、今度は人そっくりの姿をして、商店街をうろついていた。

 あるものはふらふらと宛ても無く、またあるものは、人の傍らに、ぴったりと寄り添う影のように。

 小夜は幾らか気分が悪くなりながら、見えてきた広場の方へと駆け出した。

 その時、何か平たい物を踏んだ感触があって、まさかと思い、小夜は足元を見た。小夜の思った通り、それは猫が持ち去ったはずの皮の財布だった。

 小夜は慌ててそれを拾い、顔を上げ、正面を見た。

 するとあの黒猫が、いかにも待ち構えていたと言う風に、ちょこんと座ってこちらを見ていた。

 と、黒い蝶がひらひらと、猫の方へと近づいてきた。その蝶は本物の蝶によく似ていたけれど、少しばかり向こう側が透けて見えた。

 猫はその蝶に狙いを定めると、小夜の見ている前で、それに飛びかかった。

 猫は獲物を捕まえると、暫くの間両方の前足で地面に押さえ付けていたが、やがて前足を離した。

 見ると、蝶の姿は無く、地面に黒い染みのようなものが残っているばかりだったが、それもやがて消えてしまった。

「何が言いたいの?」

 小夜はむっとして訊ねた。先程までの光景は、この猫が小夜に見せたものなのだと半ば確信していた。

 両端のつり上がった猫の口元が、小夜には意地の悪い微笑みのように見えた。

 しかし、猫は黙ったまま、意地の悪い眼差しを小夜に向けるばかりだった。「あの人たちがどうなろうと、あたしは知らない。」

 小夜は少し息を吐いてから、こう言い直した。

「あたしには、関係ない。」

 自分の発した言葉の、思い掛けない強い響きに、小夜は一瞬ぞっとした。

 自分以外に誰も居ない所で何気なく呟いた言葉が、予想外に大きく響いてしまった、そんな時の感じと似ていた。

 暫くの間、猫と小夜は睨み合うような格好になってしまった。そのうちに、レタスの葉の色に良く似た緑色の眼が、きらりと光るのを、小夜は見た。

 すると、それまで微動だにしなかった猫が、先程までのずる賢そうな眼差しから、仔猫のように無邪気な眼差しへと変わったのだ。

 猫は落ちつかないようすで辺りをくんくんと嗅ぎまわったかと思うと、愛らしい声で一つ鳴き、雑踏の中へと姿を消した。

 小夜はだだ呆然と立ち尽くしていたが、向かい側から歩いてきた二人連れにぶつかって、ふと我に返った。

 その途端、まるで水の中から顔を出したときのように、辺りのざわめきがはっきりと聞こえ出し、湿っぽい人間の体臭が小夜の鼻をついた。

 そして、先程まで、全ての感覚がひどく不明瞭で遠いものに感じられていたことに、小夜は気がついた。

 小夜は突然そら恐ろしくなって、家へと駆け戻った。

 

 結局、金曜日の商店街での一件以来、あの猫が小夜の前に姿を現す事は無かった。

 その翌日の土曜日も、そのまた翌日の日曜日も、雨が止む事は無く、相変わらず「あの連中」は小夜に纏わりついて来たが、それ以外に関しては、平穏無事に何事も無く過ぎ去った。

 幾重にも重なった玉簾のように見える雨を、窓の向うに見つめながら、一体あの猫は何だったのだろうと、小夜は考えた。

 事が起こったのは、その次の、やっぱり雨の降り続く月曜日だった。


 小夜が家の玄関を開けると、つんとした香りが小夜の鼻をついた。その香りが母の香水のものだと気付いて、小夜はとっさに玄関の土間に目を落し、母のブーツを見とめた。

 母が帰ってきたのだと小夜が思ったその直後、台所の方から甲高い音が聞こえてきた。

 小夜は慌てて靴を脱ぎ、下駄箱に傘を立てかけ、台所へと急いだ。玄関のサンダルが一つ無くなっていたことに小夜が気付けなかったのは、そのためだったのかもしれない。

 台所に着いて見ると、ガスコンロの上で、やかんがこれでもかという位に湯気を上げていた。小夜が直ぐさま駆けより火を止めると、やかんは騒ぐのを止めた。

 ほっとして台所の中を見回したが、そこに母の姿は無かった。そこで居間を覗いてみたが、そこにも母は居なかった。

「お母さん?」

 何となく不安になって、小夜は母を捜しながら、家の奥へ奥へと入って行った。やがて、あの黒い扉の前まで来たとき、小夜は一瞬我が目を疑った。

 扉が開いていた。小夜が生まれる前から、ずっとこの扉を縛め続けていた南京錠は外されて、扉の少し手前に打ち捨てられていた。

 それをまたいで、小夜はそっと、開いた所から中を覗き込んだ。その途端、生臭くて冷たい空気がそっと小夜の頬を撫でた。

 扉の向うには鉄格子があって、その更に向こう側には暗い廊下が続いていた。そして、その途中で左の方に折れているのが見えた。

 小夜には、廊下の奥から、洞窟に風が吹き付けた時のうなりのような音が、聞こえた気がした。

「お母さん。」

 小夜の声は暗い廊下に頼りなく響いた。自分の発した声の縋るような響きに小夜は気恥ずかしさを覚え、自分は一体何が怖いと言うのだろうと、自問した。

 しかし、結局答えは出なかった。その不安を打ち消そうと、暗い渡り廊下へと踏み出した。小夜が押すと、鉄格子は甲高い音を立てながらも、すんなりと開いた。小夜は壁に手を突きながら恐る恐る廊下を進んだ。

 廊下は小夜が思っていたより広かった。

 おおよそ窓と呼べるようなものは見当たらず明かり一つ無い廊下は、小夜が一歩踏みしめる毎に、廊下全体がぎしりぎしりといやな音を立てた。

 それでも、ここに母が居るかもしれないのだからと自分自身に言い聞かせながら、小夜は奥へ奥へと入っていった。

 初めのうちは母屋の廊下から差し込んでくる明かりで、足元だけは何とか見えていた。

 しかし、奥へ行けば行くほど暗くなり、何かが足元をかさこそと横切るのを感じた。

 小夜は殆ど手探り状態で進みながら、こんなところに果たして母は居るのだろうかと危ぶんだ。

 廊下の突き当たりらしい木戸の前まで来た時、小夜は一瞬、背中の辺りがぴりぴりするのを感じた。

 しかし、それも直ぐにおさまったので小夜は一つ息を吐き、そっと戸を開けた。

「お母さん?」

 その途端自分の目に飛び込んできた光景に、小夜は唖然とした。

 離れの中には母の代わりに、着物を着た、見知らぬ大人の女の人が立っていた。小夜は初め呆気に取られて立ち尽くしていたが、やがて、その女の人が暗闇にやけにはっきりと見え、輪郭は幾分ぼやけている事に気付いた。

 良く見ると、女の人の向こう側にある暗闇が少しだけ透けて見えた。「あの連中」の仲間だと、小夜は悟った。

 と、その時、背後に人の立つ気配を感じて小夜は振り向いた。

 小夜の背後に立っていたのは、着物を着た大人の人で、こちらは男の人だった。やっぱり後ろの暗がりが、身体越しに少し透けて見えた。

 その手元に目を落とすと、手には刃物を持っていた。時代劇なんかでよくお侍さんが腰に差しているのと良く似ていた。ただ一つ違うのは、刀が鞘に収められていないということだった。

 小夜が思わず後退ると、それに合わせて男も一歩前に出た。小夜はぎょっとして更に後ろへ引き、そのうちに部屋の中に居た女の人をすり抜けてしまった。

 そこで初めて、男の狙いが女の人であることに気付いた。小夜が部屋の奥にある角まで下がると、女の人が怯えた様子で後退った。

 自分の心臓がどくどくと早鐘を打つのを聞きながら、まるでテレビか映画のワンシーンを見ているようだと、小夜は思った。今小夜の目の前に居る二人は、小夜の存在などお構い無しに、自分達の役目を演じていた。

そこでふと、先日商店街で見た「影」達が、彼らの寄り添う人達と同じ顔をしていた事を、小夜は思い出した。

 もしかしたら、ずっと人の傍に居た影達は、姿形だけでは無く、記憶さえも自分の中に取り込んでしまうのかもしれない。

 だとしたら、これは過去に一度起こった事をただ繰り返しているのに過ぎない。何も自分が怯えることは無いのだと、小夜は自分に言い聞かせた。

 しかし、女の人の顔はひどく青ざめて恐怖に引きつっていたし、男の持つ幻のはずの刀は、暗闇の中でくっきりと冷たい光を放っていて、到底幻とは思えなかった。

 女の人のあまりに怯えた表情に、小夜は居た堪れなくなってきた小夜は、思い切って二人に息を吹きかけた。

 けれど、どちらの像も幾らか揺らめいただけで、特に効果は無かった。

 そうこうしているうちに、女の人は部屋の奥の壁にぶつかって逃げ場を無くし、その顔にありありと絶望の色を浮かべた。男はゆっくりと、刀を振り上げた。二人とも口を動かして何か言っているように見えたけれど、何と言っているのか、小夜には分からなかった。

 そして男が刀を振り下ろし、女の人が顔の前で目隠しをするように、腕を交差させた。小夜自身不思議だったのだが、その瞬間、小夜は女の人の上に覆い被さった。女の人の顔が、母の顔に良く似ていたせいだったのかもしれない。

 振り下ろされた刀が小夜の目の前まで来たところで、小夜の記憶は途絶えた。


「ネズミ退治って、ネズミさん殺しちゃうの?何で?」

 これは、祖母の「ねずみ退治よ」と言う返事に対して、小夜が思わず発した言葉だった。その時の小夜はまだ小さくて、鼠が害のある生き物だと言う事をまだ知らなかった。

 祖母はにっこりと笑ったまま小さく首を振り、小夜を抱き上げ膝に乗せた。

 小夜の祖母はいつも着物姿で、ただ

黙ってニコニコと笑っているだけでも、周りに人が寄ってくるような人だった。

 それに、人を誉めるのがとても上手だったのを、小夜は覚えている。

「殺すんじゃなくて、帰してあげるの。ねずみが地上に出てくると、いろいろと人間にとって良くないものを振り撒くし、ねずみたち自身もどんどん汚れていってしまうから。そんなんじゃ、ねずみも人も、可哀相でしょう?」

 その言葉を聞いて、ねずみが良くないものを振り撒く生き物なら、どうして十二支の一番目の動物なのだろう、と不思議に思ったのを覚えている。

 十二支はこの世で一番神聖な十二匹の動物なのだと、小夜に教えてくれたのは、他ならぬ祖母だった筈だ。

 小夜がそう言うと、祖母は、ふふ、と笑いを洩らしてこう言った。

「根っこ、って言葉には、“地下にあるもの”っていうのの他に、“この世の全てのモト”っていう意味があるでしょう?」


「小夜。」

 小夜が目を覚ますと、目の前には、真っ青になった母の顔があった。お母さん、そう言おうとして、小夜が思わず咳き込むと、母が小夜を起こして背中を擦ってくれた。

喉に変な感じがして、上手く声を出す事が出来ないことに小夜は気付いた。

 小夜は初め自分がどこに居るのか良く分からず、ぼんやりした頭で、辺りを見回した。そのうちに記憶がはっきりしてきて、小夜は一瞬頭から血の気が引いていくのを感じた。

 慌てて女の人と男の姿を探したが、何処にも姿は見当たらず、一体どこへ行ってしまったのだろうと、小夜は訝った。

 そんな小夜の気持ちを知ってか知らずか、母は傍らに置いていた懐中電灯を手に取ると小夜を促し、離れを出た。

 母の顔がやけにはっきり見えたのは懐中電灯のせいだったのだと、小夜はこの時ようやく気付いた。

 部屋を出た時、小夜はふと、振り返って部屋の中を見ようと思った。しかし、懐中電灯を持った母がさっさと行ってしまうので、そんな暇は無かった。 

 母に付いて暗い廊下を歩きながら、先程見たものを小夜は思い返してみた。

 ひょっとするとあれは、かつて「あの連中」につかれていた人間たちの記憶が、彼らと溶け合ってしまったものなのかも知れない。

 そうだとしたら、あんな事を繰り返し続けているであろう彼らが、小夜にはあまりにも不憫なものに思えた。

それから母の後姿を見つめながら、やっぱりお母さんは香水臭いと、小夜は思った。

 小夜が目を覚ました時、離れの中は母の香水の臭いがぷんぷんしたのだ。まるで香水壜の中身をそのままぶちまけたように。

 渡り廊下を母屋に向かって進む間も、あの黒い扉に、再び錠を掛けて居る時も、終始黙ったままだった。小夜自身、べらべらと喋る事が出来るような元気も無かったので、幾らか不安を感じながらも、黙々と母の後に付いて歩いた。

 母は台所へ小夜を連れて来ると、一体何処にしまっていたのか、暖かい甘酒を作ってくれた。

湯飲みの中で湯気を立てる甘酒を啜ると、喉の奥がかっかと熱くなって、訳も無くほっとした。


 翌日は、それまでの雨が嘘のような、見事な青空だった。

 放課後、小夜は例の「開かずの間」前に来ていた。

 あの猫に初めて会ったのが、このドアの前だったので、ここに行けばあの猫にまた会えるのではないか、小夜にはそんな気がした。しかし、「開かずの間」のドアは相変わらずだんまりを決め込んだまま、薄暗い階段下にうずくまっていた。

 小夜がしばらくの間ドアの前で佇んでいると、

「こんなところで何してるんだ。ええ…柳田。」

 背後から声がして、小夜は飛び上がった。

 小夜が振り返ると、そこにいたのは担任の桜田先生だった。小夜はどう答えたら良いのか分からず、ぎこちなく愛想笑いをして見せた。

 小夜はこの先生が苦手だった。その感情は、彼がこの学校に赴任して来た時から、ぼんやりと抱いていた。

 今年に入って同級生に、小夜と先生には同じ所に同じような痣があるという事をからかわれてからは、その感情は決定的なものとなった。

 それ以来、小夜は出来るだけ彼を避けるようにしていた。赤の他人の身体と自分の身体に共通点が有るなんて、考えただけでも何だか気味が悪い。

「あの、このドアの中って、どうなってるのかなって、思って。」

 しどろもどろに小夜が口から出任せを言うと、先生は、ああ、と何かを承知したような顔をして、

「気になるなら、見てみるか。どうせ今から入るから。」

 手に持っていた鍵を、小夜に見えるように掲げた。思いがけなくあっさりと言われた一言に、小夜は面食らった。

 先生が鍵を開けてドアを引くと、雨の日に入った時と同じ、カビ臭くて埃っぽい空気が漂ってきた。

 先生が薄暗い部屋の中へ姿を消して暫くすると、ぱちりという音と同時に部屋の中が明るくなった。

 小夜は恐る恐る中に入り、部屋の中を見回した。部屋の中は思っていたよりも広く、天井は小夜の背の三倍ほどもありそうな高さだった。

 天井の真ん中には裸電球が煌々と輝き、ドアのある壁を除いた全ての壁が、本のびっしり詰まった本棚に埋め尽くされていた。

 壁以外にも、部屋の真ん中辺りには、大人一人がやっと通れる程の隙間を残し、古びた木の棚が幾つも並んでいた。

 足元に目をやると、初めて入った時に見た、ピサの斜塔の出来損ないが点々と棚に沿って僅かな床を埋めているのが見えた

 近くの本棚に並べられている本の中には、小夜にも見覚えのある本が幾つかあった。

 随分前に学校の図書室で見かけて、いつの間にか姿を消した本たちだ。その他にも、皮やびろうどの表紙に金字で題を付けられた、外国のお話しでしか聞いたことがないような古めかしい本も見つけた。

 辺りをきょろきょろと見回しながら、本の墓場などという名前がぴったりの部屋だと、小夜は思った。

「この部屋って、一体何なんですか?」

 部屋のずっと奥で、本棚の本を出したりしまったりしていた先生に、小夜は尋ねた。

「古くなって図書室に置けなくなった本を、しまっておく部屋だよ。そうしないと、図書室の本棚に新しい本が入れられなくなるから。」

「ここが一杯になったら、どうするんですか?」

 小夜が続けて訊ねると、本棚から取り出した本の背表紙を睨みながら、先生は答えた。

「捨てるんだ。それか、欲しいっていう人に引き取ってもらう。」

 それじゃあ、ここは本の墓場ではなく、本達の霊安室だと、自分を取り巻く本棚を見上げて、小夜は思った。

 ずらりと並んだ本に目を走らせていた小夜は、分厚い本の間に押しつぶされるようにして収まっている、薄く小さな本の題名に惹かれた。

 小夜はぎちぎちに収まった本の間から、何とかしてその本を取り出した。

いくらか色が焼けてはいるが、白く幅の狭い背表紙に、黒字で申し訳程度に印刷されている題名を、小夜は読み上げた。

「ねずみの国。」

 表紙を見ると、小さくて可愛らしくデフォルメされた灰色の鼠が、真っ黒に塗りつぶされた穴の前でこちらを振り向いている図柄が描かれていた。

 ぱらぱらと中を捲って見ると、それは、子供の鼠が地上に飛び出して、再び自分の故郷である「ねずみの国」へと戻って行くまでを描いた、絵本だった。

「先生、これ貰ってもいいですか?」

 先生に良く見えるようその本をひらひらと振りながら小夜が訊ねると、意外なまでにあっさりと、その許しが出た。

 背負っていたランドセルを下ろし、いそいそとその本を入れた。

と、その時、何かががさりと音を立て、音のした方に振り向いた。

 見ると、崩れた本の下から小さな生き物が姿を現した。散々小夜にまとわりついてきた、あの猫だった。

 猫なんて何時の間にこんな所へ入りこんだんだ、と、どこか面白がっているような調子でそう言ったのは、先生だった。

 小夜がじっと見つめると、猫は悪意のない声で、いかにも無害そうな鳴き声を上げた。

 きっとこういうのを、「猫かぶり」って言うんだろうなと、小夜は心の中で呟いた。

 そしてふと、何やら白いものを視界の端に捉えて、小夜はそこへと目をやった。

 見ると、それは全身真っ白な蝶だった。

 蝶は裸電球の明かりを受けながらきらきらと煌めき、その翅をひらめかせながら、あちらの棚からこちらの棚へと漂うようにして飛んでいた。

 黄色がかった明かりで金色に見える燐粉を、辺りに振りまくその翅は、紙のような白ではなくて、冬の日のガラス窓のような半透明の乳色だった。

 じっと見つめる小夜と猫とを尻目に、その蝶はひらひらと舞いながら、板張りの床の上に着地した。小夜は恐る恐る蝶の傍に跪き、両手でそっと蝶を包み込んだ。

 小夜が顔を上げると、先生が不思議そうな顔で小夜の方を見ていた。 小夜は幾らか気恥ずかしくなったが、出来るだけ自然な笑顔をつくって言った。

「ちょうちょです、先生。」

 先生が何か言う前に、小夜は別れの挨拶を述べ、部屋の出口へと駆けよった。

 その時ふと、小夜は大事な事を言い忘れていた事に気付き、本を抱えて立ち上がろうとしていた先生の方を振り向いた。

「そういえば先生。私の名前、柳田じゃなくて柳川です。」

 呆気にとられた顔の先生を尻目に、小夜は開かれた「開かずの間」を後にした。

 あの黒猫も小夜に続いて部屋を出てきたらしく、小夜が歩きながら振り向くと、後ろの少し離れたところから、とことこと付いてくるのが見えた。

 小夜はそれを大して気にしていないような振りをして、内履きのまま外へと出た。

 外の地面はまだそこここに水溜りが残っていて、濃い水色の空を、その水面に映していた。

 水溜りに映るその色で薄っすらと青みがかって見える、辺りの景色を見回して、小夜はふと、夏の日の光を受けてきらきらと輝く、プールの水面を思い起こした。

 もう夏がすぐそこまで来ているのだと、小夜は不意に思った。雲間に見える日の光は、夏の日差しそのものだ

 そっと手のひらを開くと、白い花びらのような蝶が、小夜の手から飛び出した。

 蝶は暫くの間せわしげに小夜の目の前を飛び回り、やがてまた、小夜が差し出した手のひらの指先に留まった。

 蝶は嫌がって逃げ出すものと決め付けていた小夜は、自分の指先に留まった蝶を、まじまじと見つめた。蝶は翅をゆっくりと、閉じたり開いたりしながら小夜の方を向いていた。

 もしもこの蝶が本物だったら、きっと、世界で一番綺麗な蝶として博物館にでも飾られていただろうに、そんな考えが不意に浮かんで、小夜はくすりと笑った。けれど、それではこの綺麗さが台無しだと、小夜は思った。

 この蝶がこんなにも綺麗なのは、この蝶が本物の蝶ではないからだ、何故かそんな気がした。

 暫くの間その蝶を眺めてから、出来るだけ優しく、小夜は息を吹きかけた。

 すると、蝶は砂のように崩れ去り、散り散りになった細かな粒子も、やがて空気に溶け消えた。

 小夜はそれを見届けてから、小夜の後ろで事の成り行きを見守っていた猫の方へと振り向いた。

 小夜を見上げるその眼は、太陽の光をうけて、瞳孔が針のように細くなっていた。もとより縁の辺りがうっすらと黄色かった眼は、全体的に黄色っぽく見えた。

「これで気が済んだ?」

 猫にこんな風に話し掛けている自分の姿は、人の目にはさぞかし奇異なものとして映るのだろうなと、小夜は思った。

 しかし、実際には周囲に誰もいなかったので、小夜は幾らか救われた気がした。もしかしたらそうなるよう、この猫が何かしていたのかもしれない。

 猫はその問いに答えるように、その尻尾で一回だけ地面を軽く叩き、一声鳴いた。

 それを見届けてから、小夜は小さく深呼吸をしてから再び猫の眼を見据えた。そして、出来るだけはっきり聞こえるように、ゆっくりと、大きな声で言った。

「お婆ちゃん。」

 そう言った直後、猫の両耳がぴんと立つのを、小夜は見た。

 その一言は小夜が思っていたよりもすんなりと言う事が出来たので、小夜は何とも言えない気分になった。

 言ってしまえば忽ちのうちに、小夜の目に映る世界が崩れ去ってしまうような気すらしていたのだ。しかし、言い終えた後も世界はそれまでと変わらず、完全な姿のままで小夜の目の前に有った。

 小夜はほっと胸を撫で下ろして、再び口を開いた。耳を立てたままこちらを見つめる猫を、注意深く見つめながら。

「お婆ちゃんでしょう?」

 暫くの間、猫は小夜の方を向いたままじっとしていた。

 気持ちの悪い沈黙が何時までも続いて、小夜はだんだん自分の考えに自信が無くなっていった。

 やっぱり、こんな猫が死んだお婆ちゃんのはずが無い。自分は何て馬鹿な考えに囚われて居たのだろうと、小夜は唇を噛んだ。

 小夜が諦めて玄関に戻ろうとしたその時、背後から声がして、小夜はぎょっとした。

「小夜ちゃん。」

 小夜が振り返ると、其処には猫が居るばかりで、周りには人一人見当たらなかった。今のは自分の空耳だろうかと危ぶみながら、小夜は訊ねた。

「お婆ちゃん?」

 すると、猫が満足そうに目を細め、一声鳴いた。小夜は信じられない思いで猫をじっと見つめた後、猫の方へと歩み寄り、しゃがみ込んだ。

 猫が、緑がかった金色の眼で小夜を見上げた。瞳孔が細く小さくなって、何だかとても考え深げに見えると、小夜は思った。

「あたしね、分かったの。お婆ちゃんやお母さんが言ってたねずみって、“あいつら”のこと?」

 そのヒントを、祖母はずっと前に小夜に与えていたのだ。ただ、その時の小夜に、それらを繋ぎ合わせる力が無かっただけで。

 猫がその問いに答えるように、尻尾で地面を一つ、軽く叩いた。

「この間商店街であんなものを見せたのだって、それをあたしに教えたかったんでしょう?それって、“あいつら”を退治するのが、あたし達の仕事だから?」

 そう言って小夜が見つめると、猫は身を乗り出して、再び満足そうに鳴いた。

 ようやく分かってくれたんだねえ、小夜。祖母のそんな言葉が、小夜には聞こえるような気がした。

「そのことにはすごく感謝してるよ。今なら、そうしたお婆ちゃんの気持ちが分かるような気がするの。でも・・」

 猫の耳がぴくりと動き、瞳孔が幾分小さくなったのには気付かなかった振りをして、小夜は続けた。

「あたしにお婆ちゃん達と同じ仕事をさせたいっていうのは、お婆ちゃんが勝手にそう決めつけてるだけでしょう?それはあたしが自分で決めたことじゃないよ。」

 その途端、生暖かい風が横様に小夜へと吹きつけた。風に煽られて乱れる髪の毛を懸命に押さえつけながら、小夜は猫の方を見つめた。

 祖母は生前、人を誉めるのがとても上手で、小夜のこともしばしば誉めた。「人の痛みを自分の事のように感じる事の出来る子」だと。

 人が誰かを誉める時には、三通りある。

 一つは、心からの賛辞が口をついて出てしまった時。もう一つは、相手に対して遠まわしに嫌味を言いたい時。

 最後の一つは、相手を自分の思い通りに動かしたい時だ。   

 小夜の将来について訊ねてきた親戚に、選ぶのは小夜の意志だと言ったのは母だ。何故祖母だなどと思い違いをしていたのだろうと、小夜は唇を噛んだ。

 風がますます強くなっていくのを感じながら、小夜は言った。

「それがどういう事なのか解らないまま、言われたとおりにやっていくのなんて嫌なんだよ。自分のやる事は、自分で考えて決めたいんだ。お婆ちゃんの道案内はもう要らないの。」

 小夜のその言葉を掻き消すように風がひゅうひゅうと音を立てて吹き荒れた。顔を上げると、先程まで明るい青色だった空が、紫がかった灰色へと色を変え、太陽はすっかりその姿を消していた。

 猫の方へを視線を戻した小夜は、猫の眼が大きく見開かれ、顔の半分ほどが開かれた眼に占領されているのを見た。ぬいぐるみなんかでこういう顔を見るとかわいいけれど、本物の猫がすると不気味な事この上ないなと、小夜は思った。

 猫は見る間に膨れ上がり、終にはしゃがみ込んだ小夜に覆い被さるようにして、小夜を見下ろす格好になった。

 小夜が両手を広げても抱えきれないような大きな黒い顔には、お盆のような丸い大きな眼がらんらんと耀き、その真ん中に、細長いアーモンド大の黒い塊がそれぞれ浮かんで、小夜を見据えていた。

 ぱっくりと開いた真っ赤な口から、猫の生暖かい呼気が小夜の顔にかかると、小夜は一瞬気を失いそうになった。

 しかし、膝を抱える腕に力を込め、深く息を吸い込んで、何とかそれを堪えた。

 そして、ここで少しでも怯えたような素振りを見せたら自分の負けだと、小夜は自分に言い聞かせながら、ゆっくりと言った。

「怖がらせようとしたって駄目。」

 猫はますます膨れ上がり、その背後で木々が風に吹かれてざあざあと音を立てて、大きく撓るのが見えた。小夜は出来る限りの毅然とした声で、囁くように言った。

「ばいばい。」

 小夜が言い放つのと、風が渦を巻いて小夜を弄るのとは、殆ど同時だった。

 小夜は思わず頭を抱えて膝に顔を埋めた。その時小夜の耳元で、哀れなスサノオ、祖母の声がそう囁くのを小夜は聞いた気がした。

 風が止んだ後も、小夜はそのままじっとしていた。暫くして、校庭の方から運動部員達のものらしい掛け声が聞こえてきて、小夜はそっと顔を上げた。

 木々はすっかり大人しくなって、行儀良く並んでいた。その表情を変えていた空も、まるで何事も無かったように青と白の斑模様へと戻っていた。

 小夜は恐る恐る立ち上がり、自分が今見たもの、言った事を思い返した。

 その瞬間、自分が突然右も左も分からぬ暗闇へと、たった一人で放り出されてしまったのだと、小夜は悟った。

 傲慢で優しかった祖母の手は、もう無いのだ。無性に恐ろしくなって、視界がぼやけるのを、小夜は感じた。

 けれど、その手を振り解いたのは自分なのだからと、小夜は顔を上げ、鼻を啜った。

 きっと、あの猫は小夜の前に何度でも姿を現すだろう。そして、その度に小夜の大事なものを奪っていこうとするだろう。

 それは物かもしれないし、人なのかもしれない。目に見える物なのかも知れないし、触れる事すら出来ないものなのかもしれない。

 でも、その全てをみすみす手放す気など、小夜には無かった。

 巣立ちを迎えた若鳥のように大胆に、慎重に。餌を求めて地上に降り立ったヒメネズミのように、頭と勘を働かせて。あの手この手で出し抜いてやればいい。

 その先に何が有るのか、小夜には皆目見当もつかない。しかし、今度あの猫に捕まれば最後、その先は永遠に続く一本道だ。それだけは小夜にも分かっていた。

 不意に吹き付けた微風が、優しく木々を揺らすのを、小夜は見上げた。

 そして自分が未だに内履きのままであったことを思い出し、慌てて玄関へと駆け出した。


 クーラーの効いた居間の戸が開いて、生ぬるい空気が入り込んでくるのを、小夜は感じた。

「また髪の毛も乾かさずに寝転がって。畳にシミが付くでしょう。」

 母の言葉に、小夜は包まっていたタオルケットから顔だけ出して、精一杯ぶすっとした顔を、母の背中に向けた。

 母が神棚の下の辺りに掛けられている日捲りカレンダーの、火曜の日付が入った紙を剥がすのを、小夜は見た。

今日は水曜日。母の週に一度の出張の日だ。

 母は神棚の前で手を叩くと、小さな観音開きの戸を開けて、中に入っていた硝子壜を取り出した。そしてその壜の中に入っている液体をほんの少しだけ、自分の体に吹きかけた。その途端、あのつんとする匂いがうっすらと、居間の中に漂った。

 母はどうして、香水を神棚の中になんて入れて置くのだろうと、小夜は首を捻った。

 そんな事を考えていると、母が不意に振り向いたので、小夜は慌ててタオルケットで頭まですっぽりと覆った。

 母の微かな足音が小夜の側を通り過ぎ、戸口の辺りで止まった。そして暫くの間の、躊躇するような沈黙の後、母が言った。

「そんな格好でこんな所に居たら、風邪ひくわよ。」


 母が居間から出て行ってから暫くすると、いつも通りに母の小夜を呼ぶ声が聞こえてきた。

 小夜は今度こそ無視を決め込もうとしたが、やはりそれは無駄な努力だった。

 小夜はしぶしぶ起き上がり、いつものように、皮を噛んだブーツのファスナーを直した。 

母はいつもの通りに礼を言い、今日と明日の食事の事、戸締りの事を小夜に告げ、最後にこう付け加えた。

「ねずみに気を付けて。」

 その言葉に、小夜はいつものようなぼやけた返事をするつもりなど無かった。小夜はちょっとだけ笑ってから、こう答えた。

「大丈夫。」

お読み頂き、ありがとうございます!


この作品は、『夕焼け色の鵞鳥』と同じく、高校生の頃に書いた作品です。

お気づきの方も多いかと思いますが、ところどころに、神道神話のイメージやモチーフを織り込んでおります。

後から後から、謎、謎、謎…。謎だらけで終わってしまう、ハッピーエンドなのか、アンハッピーなのかもよくわからないこの物語。

その奇妙な読後感を味わって頂ければ幸いです。


初出2005年 2013年加筆修正

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