21.フジミの湯 前編
車が発進してから何分たったろうか。
運転手は立川さんから僕に交代された。
何しろ立川さんは気配が全く察知できないもので、度々モンスターの群れに飛び込んでいこうとする。その度に人力ナビである僕が慌てて方向指定するものだから、これだったら僕がはじめから運転しても同じだろうということになったのだ。
さすがに僕を囮として使っていたことに良心の呵責があったのか、これくらいの仕事はやらせてくれと珍しく控えめな態度で言ってくる立川さんはある意味恐ろしかったが、また《野犬》に追い回されるのも嫌なので、僕はハンドルを死守した。
そんなわけで立川さんは現在、助手席にて眉を八の字に下げてしょぼんとしていた。
「しかしこのへん、《野犬》が多いですね」
僕は《気配察知》のスキルを頭の片隅で意識しながら思わず呟いた。
さっきから何度もスキルの範囲内にその姿が入って来ているおかげで何度も方向転換する羽目になっていた。
立川さんほどの戦闘力があればすぐ殲滅できてしまいそうなものだが、偉く真剣な顔の立川さんに耳元で『俺が死ぬことはないだろうが、野犬の集団行動相手に守ってやれるほどの技術はない』と囁かれてしまっては黙るしかないだろう。
うん。
つまり、後部座席の彼ら――はっきり言ってしまえば足手まとい――がいる今の状態では満足には戦えないから逃げるということだ。
しかし足手まといだと暗に臭わせる会話を聞かせないようにするだなんて、立川さんに他人を気遣う心があったとは。
僕は?
普段もっと僕を労ってくれてもいいのよ? 立川さん。
「『復活点』のとき、人間に飼われていたペットが群れを作ってこっちに移動してきたそうだ」
そんな愚痴から出た小言だったが、意外なことに立川さんが返事をくれた。
思わぬ返答に僕は目を丸くした。
「それじゃあ、都会にいたペットまでこのへんに来たってことですか!?」
「ああ、神奈川南部や山梨、静岡のペットというペットがこのへんに集合したらしい。奴らはそれこそ『復活点』前から《遠吠え》ができたからな」
横目で助手席の様子を見ると立川さんが腕を組んでうんうん頷いていた。
「へぇー! 知らなかったです!」
立川さんの雑学に僕も驚きで口を半開きでうんうんと頷いた。
バックミラーにチラリとうつる後部座席の三人も同様だ。
「しかしよくそんなこと知ってましたね立川さん」
「いやぁまぁな。あ、そこ南東に進んでくれ」
「りょーかいです」
興奮する僕に苦笑した様子の立川さんに指示を出されて僕はハンドルを切った。
まあモンスターの気配を察知できるからと僕に運転手が交代されたが、元々は立川さんだけが目的地の『温泉』の場所を知っていたから運転手を担っていたのだ。
僕がモンスターナビならば、立川さんは目的地への案内ナビである。
僕はモンスターを迂回しながら、立川さんの示す方向へと車を進めていった。
◆
湯けむりがもくもくと上がる中、僕は温泉に使っていた。
無茶な冒険で身体にたまりに溜まった疲れが、お湯に溶け出していくように、するりと抜けていくようである。
「はぁふ……いい湯だなぁ……」
眼前に広がる富士山を見ながら僕は思わず呟いた。
かぽーん……
といきたいところだが、生憎とそんな擬態語はつけられそうにないのが現状であった。
だって、風呂桶を床に置いたところでその音が反響するなんてことはあり得ない。
何しろここは屋外だからである。
むしろ床すらない。土だ。
「久々に来たが変わってないな」
僕の声が聞こえたのか聞こえていないのか、立川さんが小さな声で呟いた。
ここは立川さんが案内してつれてきてくれた温泉である。マップにも載っていないのによく知っていたもんだ。
崩れかけの神社の鳥居を抜けて、もうほとんど壊れたぼろぼろの木製の建物を通り過ぎるとここがあった。
少し高台にあったようで、森と湖と富士山とが一望できた。
「そうなんですか?」
「前に来たときも鳥居はあんな感じだったし、神社もあのふすまだけ残ってる感じとか、まんまだな。このへんだけ時が止まってるみたいだ」
「こんなボロボロな状態でよく保つもんですね……というか、立川さんここらへんに来たことがあったんですね」
「ああ」
会話が途切れた。立川さんはまっすぐ富士山を見つめている。その視線につられて僕の富士山を眺めた。
白い雪がかぶった山頂と、深い青の峰の色のギャップが綺麗だ。
そして、広がる裾が壮大さを感じさせた。
温泉に入って心底泥のようにぬったりとリラックスしまくっていたちょっと前の自分を忘れて、僕は背筋をピンと伸ばしたくなるようなそんな気分になった。
『復活点』より前の江戸時代には富士山を神のようにあがめる『富士山信仰』などがあったらしいが、その気持ちもわからなくはない眺めだった。
それからしばらく二人して黙って、じっと富士山を見つめていた。
「なぁ、お前も不思議に思っていたろう」
唐突に話しかけられたので、一瞬間が空いて黙り込んだようになってしまった。
大した反応もできずに訝しげな顔を向けるだけの僕にかぶせるように立川さんが言葉を紡いだ。
「今日もだ、白鳥だって野犬だって全部殺せたのにそうしなかった。――俺はよくモンスターを逃がす」
「……え? それは、めんどくさかったからじゃ……」
驚きとともに思わず立川さんがしていた言い訳を返してしまうと、立川さんは苦笑した。
「新聞記者の洋がそんな見え透いた嘘を信じていてどうするんだ」
「元、ですよ立川さん」
咄嗟に口答えすると立川さんは目を細めて笑った。そして温泉の湯気で湿った顔をゆっくりと拭った。
「気付いていたはずだ、洋」
「ぼ、……くは……」
そうだった。いつだったか、僕は不思議に思ったことがあった。
立川さんは強いのに、積極的に狩りに行かないのは不思議だなって。
でもそれは僕に合わせてくれているのかなって。
ああ、そうだ。《野犬》が迫ったときも、やけに立川さんが追い詰められたようにえらく真剣な顔をしていて違和感を覚えたんだ。《野犬》くらいの雑魚、立川さんが気にするほどのモンスターじゃないはずだろうって。
それに、僕を敵の陣地に投げ込むのだって。
ちょっと不思議だったんだ。だって、こう見えて立川さんは結構優しいって、僕はもう知っていたから。
僕みたいにドン臭い、元新聞記者の最弱冒険者が足をひっぱったってミスしたって、表面上では怒っていても本気で切れたこともないし。それどころか、いつもからかって笑ってくれるんだ。
「洋、俺はな。モンスターを殺したくないんだよ」
「……え?」
立川さんが顔をその手で覆いながら、くぐもった声でそう言った。




