表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

【短編024】 お礼回り:お礼の旅の終わりに残るもの

作者: macchao
掲載日:2026/06/26

この物語は、七十八年分の住所録を手にした富子が、かつて関わった人々へ「お礼」を伝えて回る小さな旅の記録です。

消えてしまった住所、変わってしまった記憶、それでも残り続ける関係の痕跡を辿りながら、十二人を訪ね歩きます。

静かな短編ですが、読んでくださる方の中に、ふと誰かの顔が浮かぶような時間になれば幸いです。

 七十八年分の住所録は、ずいぶん薄くなっていた。


 富子は老眼鏡をかけ直し、黄ばんだページをめくった。ボールペンで引いた横線が、あちこちに散らばっている。亡くなった人には線を引くと、若い頃に誰かに教わった。誰だったか、もう思い出せない。


 この住所録は、結婚した年に買った。夫の名前が、一番最初のページにある。そこにも、線が引いてある。


 先月、階段で転んだ。大事には至らなかったが、起き上がるのに時間がかかった。


 残った名前を指でなぞる。十二人。職場の人間が半分、あとは近所の人や、子育ての頃に助けてもらった人、遠い親戚が一人。


 最初に訪ねたのは、四十年前に世話になった元上司、村瀬だった。怒鳴る代わりに、いつも質問する人だった。「なぜそう思う」「次はどうする」。富子はその問いの立て方を、今も使っている。


 品川の住所を頼りに歩いたが、表札はなかった。インターホンを押すと、見知らぬ若い女が出てきた。


「村瀬さんのお宅でしょうか」


「三年前に引っ越しました。ここは関係ありません」


 ドアが閉まった。富子はしばらくその場に立っていた。どこへ行ったのだろう。あるいは——。


 住所録に細い線を引いた。


 次は、同期だった島田。


 葛飾の一軒家は、記憶よりずっと古びていた。出てきた男は、確かに島田の顔をしていた。だが、目が違った。


「島田さん、覚えていますか? 富子です。富子。一緒に残業して、終電逃したこと——」


 男は玄関口でじっと富子を見た。


「どちら様ですか」


 笑顔も、声の張りも、なにもかも消えていた。男は静かにドアを閉めた。


 富子は表に出て、深呼吸した。消えることもある。人は、少しずつ。


 住所録を取り出した。ペンを持つ指が、少し冷えていた。細い線を引いた。


 三人目は、職場結婚した同僚の千鶴。


 区役所に問い合わせるつもりだったが、共通の知人から先に連絡が届いた。「千鶴さん、カナダに行ったんですって。お孫さんのそばにいたいって」


 富子は電話を切り、台所でお茶を沸かした。以前この台所にはいつも猫がいた。ハルという名前だった。悪くない話だと思った。


 四人目は、難しかった。


 守という男で、三十代の頃に富子の財布を拾って届けてくれた、赤の他人だった。住所まで覚えていたのは、お礼の手紙を送ったからだ。


 調べると、今は川越の拘置施設にいた。


 富子は一週間考えた。夜中に目が覚めるたび、あの財布のことが浮かんだ。それから面会の申請書を書いた。


 面会室のアクリル板越しに現れた守は、老いていたが、目だけは若い頃のままだった。


 椅子が金属製で、座るとすぐ冷たさが伝わった。


「覚えていますか? 財布を届けてくれたこと」


 守はしばらく黙っていた。


「覚えてますよ」


「ありがとうございました。ずっと言いたかったんです」


 守は何も言わなかった。ただ、口の端が少し動いた。


 その夜、富子は帰宅してから膝をさすった。お茶を沸かして、飲んだ。


 七人目に訪ねた元同僚の浜田は、玄関先で富子の顔を見るなり目を細めた。何も言わないうちに「来てくれたんですか」と言い、富子の手を両手で包んだ。乾いた、軽い手だった。お礼を伝えると、浜田はただうなずいた。言葉はそれだけだったが、帰り道、富子は一度も住所録を開かなかった。


 十二人を回り終えるのに、四ヶ月かかった。


 残った名前に線が引かれ、住所録は最初よりずっと寂しくなった。亡くなった人が三人、連絡が取れなかった人が二人、会いに行っても会えなかった人が一人。


 それでも、直接顔を見てお礼を言えたのは六人。


 最後の夜、富子は縁側に出た。


 どこからか猫が来ていた。白地に薄茶の、小さな猫だった。


「ハル?」


 呼んだわけではなかった。ただ、そういう名前に見えた。


 ハルはしばらく富子の膝の上にいて、それから静かに暗闇へ消えた。


 富子は夜空を見た。よく歩いた四ヶ月だった。膝が痛かった。電車で迷ったこともあった。雨に降られたこともあった。


 それでも来た。


 住所録の最後のページを開く。名前は一つだけ残っていた。


 富子、と書いてある。


 線を引かずに、そっと閉じた。

読んでいただきありがとうございます。

七十八年分の住所録を辿るという、とても静かな旅を書きました。派手な出来事はほとんどありませんが、人と人のあいだに残る「お礼」や「記憶」が、時間の中でどう変わっていくのかを描きたかった作品です。

書きながら、会わなくなった人や、もう連絡の取れない人のことを少しずつ思い出していました。そういう記憶の積み重ねが、この物語の土台になっています。

最後までお付き合いいただけたなら、とても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ