春の中
◇
両親が離婚して、僕は母親に引き取られた。
母一人では都会で僕を養うのは厳しかったのか、僕は母と二人で母の地元に引っ越すことになった。
ここは東京のいくつも建てられた高層ビルや数えきれないほどある飲食店や商業施設、電車の中や道端には常に人の波でごった返していた風景とは無縁の世界だった。
高層ビルなんかある訳もなく、あるのは等間隔に建てられた古い家、小さな商店、商店街もあるけど辺りには田畑が広がっていた。
遠くの景色には山や川が見える。
僕の家の辺りには子ども自体があまり居なかった。
なので歩いて30分ほどかけて中学校まで通うことになるらしい。
でも僕は元々休みの日でも家から出ないことが多い生活を送っていたのであまり不便さは感じなかった。
でも近くに本屋がないと知った時はショックだった。田舎といえども本屋くらいはあるとたかを括っていたのがよくなかった。
本屋は車で30分のところにあるため、母にお願いしないといけないのも心苦しい。
なので自分で行く手段を見つけるまでは学校の図書館を利用することにした。
一昨日ここに来た時は荷物の整理や部屋の片付けで慌ただしかったけど、ようやく余裕ができた。
まだ夏休みの最中だった。
残り1週間もある。
始業式の日に僕は転校生として登校することになっている。
といっても前日に手続きをしに学校へ行かないといけないのだけど。
「冬夜、暇なら買い物行ってきてちょうだい」
母が下から2階にいる僕に呼びかけた。
「わかった」
僕は1階へ降りた。
母にお金を貰って歩いて20分ほどの所にある商店街へ向かった。商店街には個人商店や薬局や喫茶店、スナックが何軒かあった。
車でいけばすぐなのにと独りごちたが、今は母も大変そうなので仕方がないと納得した。
歩いていると妙な違和感を感じた。
お店に着いたので入った。
田舎の個人商店なので都会のスーパーほど広くはないが生鮮食品や野菜や食料、お菓子やアイス、日用雑貨など品揃えは十分だった。
商品をカゴに入れ、レジへ持っていった。
店員さんが作業しながら話しかけてきた。
「あんた、花宮さんとこのお孫さんやろ?」
ニヤニヤと笑いながら女性が言った。
「はい、そうです。これからよろしくお願いします」
当たり障りのない返事をした。
「うん。よろしくねぇ」
そう言い女性との会話は終わった。
商品を購入してお店を出た。
僕は田舎の情報伝達の早さに驚いた。
おそらく、祖母か祖父から漏れたのだろう。
先ほど感じていた違和感も何人かの視線だということに気づいた。
僕を見てくる人もあの女性店員も悪意はなかったのだろうが、都会の人間関係に慣れきった自分にはまだ違和感が拭えない。
この地にも慣れる日が訪れるのだろうか。
そんなことを考えながら帰路についた。
◇
9月1日を迎えた。
僕は今日から新しい学校に転校生として通うことになる。
なるべく在校生と被らないように始業の5分前に登校するようにした。
登校したら職員室にいる担任の先生のところまで行くように言われている。
担任の先生は後藤という男性教諭だ。昨日に教頭先生に紹介して貰って顔合わせもしている。
「すいません。本日から2年のクラスに転校した花宮です。後藤先生はいらっしゃいますか?」
職員室の前でできるだけ大きな声で発言した。
正直こういうのは苦手な方だ。
幸い、先生がすぐにこちらに気づいてくれた。
「おぉっ!おはよう、花宮」
「後藤先生、おはようございます」
「昨日はよく眠れたんか?」
「はい、眠れました」
「そりゃ良かった」
後藤先生は気を遣ってなのか体調を気にかけてくれた。
それから僕は後藤先生について行き、転入するクラスの前まで来ていた。
見上げると2年1組のプレートが見えた。
2年生は4クラスあり1クラス20〜25人いるらしい。
この辺りにはこの中学校しかないので必然的に生徒数は多くなる。
後藤先生が先に教室に入り、ホームルームを始めた。そしていよいよ先生が僕の名前を読んだ。
「花宮、入ってきなさい」
ガラッとドアを開けた。
教壇に上がってクラス全体を見渡した。
フゥッと心の中で一呼吸置いて自己紹介をした。
「花宮 冬夜です。東京から転校してきました。
皆さんとは短い期間しか一緒にいませんが、仲良くしてください。よろしくお願いします」
自分の中ではうまく言えたと思いひと安心した。
直後、「ワァーーーーッ」と歓声があがった。
後藤先生が「こらっ、落ち着きなさい」と言っているのも掻き消されるくらいに騒がしかった。
「東京のどこからきたん?」
「ねぇ有名人に会ったことあるん?」
「ディズニーランドってどうなっとんの?」
「渋谷って人住んどるん?」
そんな質問がちらほら聞こえた。
再度、後藤先生が注意した。
ようやく静かになった。
「とりあえず質問はホームルームの後にしてな。
花宮は後ろの空いてる席に座って」
僕は言われた席に座った。
窓側の列の最後尾だった。
隣には女子生徒が座っていた。
「花宮です。これからよろしくお願いします」
念のため挨拶をした。
女子生徒は小さな声で反応してくれた。
「百瀬 秋子です。よろしくお願いします」
第一印象は大人しそうな子だった。
眼鏡をかけていた。
「ふふっ。お互い敬語なのなんか面白いね」
言いながら百瀬さんは可笑しそうにしていた。
「それもそうだね。それじゃ改めてよろしく。百瀬さん」
「うん。よろしくね。花宮くん」
なんとなく百瀬さんとは仲良くなれそうな気がした。
ホームルームが終わると、僕はクラスメイトから取り囲まれた。
僕は普段から頻繁に誰かと会話することは無かったから中々に辛い時間だった。
クラスメイトも転校生に興味津々なのか授業が終わる休憩の度に東京のことや僕についての質問をしてきた。
今日は放課後になるまでずっと質問攻めにあった。
流石に疲れたからなのか今夜はすぐに眠れた。
◇
転校してから1週間が過ぎた。
学校生活にも慣れてきた。
クラスメイトたちは転校生という存在に関心がなくなってきたのか、僕は元来のクラスではあまり目立たない存在に落ち着きつつあった。
僕は昼休みはいつも図書室で過ごしている。
書籍の数は東京で通っていた中学校程ではないが、品揃えは悪くなかった。司書の先生のセンスがいいのだろう。
図書室で過ごすうちに顔馴染みができた。
同じクラスで席が隣の百瀬さんだ。
僕たちは教室では挨拶程度のやり取りしかしないが、図書室で鉢合うようになってからは図書室から教室までの移動時間で色んな会話をするようになった。
百瀬さんも小説を読むのが好きだったので共通の趣味があったのだ。
「百瀬さんがこの前言ってたあのシリーズ今読んでるけど、とても面白いよ」
「そんな好評なら紹介して良かったわぁ」
「まさか最後にあんな裏切りがあるなんてね」
「ふふっ。私もあのシーンはびっくりしたわぁ」
といったほとんど小説を読んだ感想ばかりだったけど。
僕が学校で1番会話をしてるのが百瀬さんだった。
というか百瀬さんしか話す人がいなかった。
今日までは。
◇
放課後、僕は母に頼まれて商店街へ買い物に訪れていた。
まだ時間があったので、商店街をぶらぶら歩いてみることにした。
歩いていたら人が走ってるのに気づかずにぶつかった。
勢いあまって僕は尻餅をついてしまった。
「ごめんなさいっ!!大丈夫?」
頭上から声がした。
顔を上げると僕と同じ中学校の制服を着た女の子だった。
見た目は少し小柄で幼さが残るが凛とした顔つきが大人びて見え、正しく容姿端麗という印象だった。
「大丈夫」
そう言って女の子の手を借りて立ち上がった。
「大丈夫なら良かったわぁ」
と女の子が僕の顔をマジマジと見ていた。
女の子はハッと思い出したかの様に叫んだ。
「あぁっ!!そうやわ、あんた確か東京から来たっていう転校生やろっ!!」
僕は彼女のことを知らなかった。
「私、姫野 春香。あんたと同級生なんよ。あんた1組やろ?私は3組なんよっ!」
姫野春香と名乗った少女は嬉しそうに話していた。
「そうなんだ。それより、僕の方こそ、うまく、避けれなくて、ごめんね」
急な出来事に焦ってしまい言葉が詰まってしまった。
「ううん。全然気にしとらんよ。お互い何ともなさそうで良かったわぁ」
姫野さんはフフッと微笑みながら答えた。
まだ手を握ったままだった。
「その、手を離して貰ってもいいかな?」
僕は早口で捲し立てた。
「えっ?あっ!!ごめんっ!!」
パッと姫野さんが手を離した。
「つい夢中になってしまったわぁ。
そうやっ!!なぁまだ時間あるなら東京のこと色々聞かせてくれん?でも急にそんなこと言われても困るよな。えーっと……」
コロコロと表情を変えていく姫野さんが面白おかしくて思わず笑ってしまった。
「なんで笑っとるん?
私、何か笑わせるようなこと言っとる?」
今度はプクッと頬を膨らませていた。
「ごめんね。でも、こんなに表情が豊かになる人を始めて見たんだ。つい笑っちゃった。姫野さんを見てるとなんだか心が和むね」
「心が和むなんて、初めて言われたわぁ」
そう言った彼女の純粋な眼差しは真っ直ぐ突き刺すように僕の目を捉えた。
そしてまたフフッと微笑んだ。
その笑顔は開花する前の桜の蕾のようにあどけなかった。
それが僕と姫野春香の出会いだった。
◇
翌日。
昼休みの終わりが近づき、図書室から教室までの移動のなかで、僕は百瀬さんに姫野春香のことを聞いてみた。
「私は小学校も別やったし、クラスも一緒になったことないけん、あんまり知らんのよなぁ。でも男子の間では美人って有名やなぁ」
確かに姫野さんを見た時は本当に綺麗だと思った。
「あと前になんかあったって噂をされとるのを聞いたことある。でもごめんな。私も学校であんまり話す人おらんから、噂の内容までは知らんのよ」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「もしかして姫野さんと何かあったん?」
「うん。実は昨日たまたま話す機会があって。
それで何となく気になって」
「そうなんや〜。仲良くなれるといいなぁ」
百瀬さんは揶揄うように僕に言った。
◇
放課後。
昨日、姫野さんからまた会いたいと言われたので
僕はまた放課後に姫野さんと会うことになった。
商店街だと目立つので、商店街を抜けた先にある川沿いに集まることになった。
「おーい」
姫野さんが手を振り走りながら近づいてくる。
彼女の容姿も相まってまるで映画のワンシーンのようだった。
「待った?」
急いで来たのか息を切らしていた。
顔にも汗が滲んでいた。
「ううん、今来たところだよ。
それより、大丈夫?もう少し休める所に移動する?」
9月中旬でもまだ気温は高めだ。
本当に大丈夫なのか念のため確認しようと思った。
「フフッ。やっぱり東京の子は違うわぁ。
そんな心配なんて初めてされたわぁ」
揶揄うように姫野さんは言った。
「いや、本当に心配だったから」
僕は他意はないと言った。
「大丈夫よ。転校生くんに会うの楽しみにしとったけぇ、急いで来たんよ」
姫野さんは本当よと念を押していた。
「そうやっ!!私まだあんたの名前聞いとらんかったわっ!!」
姫野さんがハッと勢いよく言った。
「そういえば、昨日は名前を言ってなかった気がする。改めまして、花宮冬夜です。よろしく」
姫野さんがパッと目を見開いて、質問した。
「とうやってどんな字書くん?」
「春夏秋冬の冬に夜だよ。小学生の時名前の由来を聞く宿題があって、母親に聞いたら父親が冬の夜に生まれたからって安直な理由でつけたって言われたよ」
当時ちょっと落ち込んだのを思い出した。
「冬の夜か〜。凄いかっこいいやん。私、冬夜って響きが好きやわぁ」
姫野さんはうんうんと頷いていた。
「そう言われると、自分の名前もいいなって思えるよ」
「私は、春夏秋冬の春に香りって書いて、春香っていうんよ。私3月生まれなんよ。やけん春ってつけたんかな〜。なんか似とるね。それに春と冬って近い感じするわぁ」
「春香って名前も素敵だと思う。
春の陽気みたいに穏やかで、いつも笑顔で朗らかな姫野さんにピッタリだよ」
僕がそう言うと姫野さんはとても嬉しそうにしていた。
「もう、そんなに褒めても何もないよぉ」
そう言いながら彼女はこれまで見た中で一番とろけきった笑顔をしていた。
僕は東京について色んな話を姫野さんにした。
僕が住んでいた街のこと、渋谷や原宿のこと、有名人にあったかどうか、ディズニーランドについてなどを話した。
姫野さんはどれも興味深そうに聞いてくれた。
それだけで僕も嬉しくなった。
「冬夜くんは、なんでこっちに引っ越すことになったん?だってこんな何もない田舎より絶対東京の方が楽しいことばっかりやん?」
一通り話しを終えて、僕たちはお互いを下の名前で呼び合うようになっていた。
春香がなんでという顔をして聞いてきた。
「うちの両親が7月に離婚したんだ。それで僕は母親の方に着いて行くことになったんだ。母はこの町出身で向こうで母と二人で暮らすのは大変だろうってことで引っ越すことになった」
「それじゃあ、お父さんはまだ東京におるん?」
「多分そうだと思う。でも離婚の原因は父親の浮気だったんだ。だからもう会うことは出来ないと思う。それにこの街は狭いから母親が実家に戻ってきた理由も筒抜けになってるからね。近所の人には、あんまりいい印象を持たれてないかも」
「そうなんや。答えづらいこと聞いてしまって、ごめんな」
春香は落ち込んでいた。
僕は大丈夫と言って春香を宥めた。
「私も、お父さんがおらんのよ。それでか知らんけど、この町ではあんまり良くは思われとらんのよ。
やけん、一緒やね」
春香がニコッと微笑んだ。
けどその微笑みにはいつもの眩しさはなく、淀んでみえた。
「やけん、これからは会うのはあんまりせん方がいいかもしれん」
春香はさらに落ち込んだ表情をした。
僕は春香のそんな顔を見たくないと思い言った。
「僕はもっと春香ちゃんと話したいし会いたいっ!!」
僕がそういうと春香の顔は紅く染まっていた。
多分僕の顔も火傷してるほど赤くなっていたと思う。
「私もよっ!!冬夜くんともっといっぱいお話ししたいっ!!」
春香はまたいつものキラキラと眩しい笑顔を見せてくれた。
「ならこれからは、ここで会わん?たまにお互いの家に行ったりするのもいいかもしれん。二人で会っとることは他の人には秘密にしようや。私たち二人だけの秘密やけんっ!!学校では他人のフリすれば誰にも怪しまれんし」
春香の言った二人だけの秘密という言葉に僕は胸を躍らせた。
「それいいね。また明日ここで会おうっ!!」
僕は笑っていた。
「うんっ!!また明日会おうっ!!」
春香も一緒に笑ってくれた。
気づいたら17時のチャイムが鳴っていた。
「もうこんな時間っ!?ごめん私、もう帰らんと。
今日は楽しかった。ありがとう。
またね、冬夜くん」
春香は慌てて帰る準備を始めた。
そして駆け出した。
「こちらこそありがとう。僕も楽しかったよ。
またね、春香ちゃん」
僕は春香の背中に向かって声をかけた。
春香がこちらに振り返り手を大げさに振った。
二人はお互いの帰路についた。
それから僕と春香との秘密の関係が始まった。
◇
僕と春香が出会って3ヶ月が過ぎた。
僕もこの町に慣れてきたのか、方言を話すようになっていた。
秘密に二人だけで会うようになって、僕たちは週に3回は会っていた。
「冬夜くん。お待たせ」
いつもと同じように春香が走って近づいてきた。
「僕も今来たところよ」
「なぁ冬夜くん。今日はうちに来ん?」
珍しく春香が家に誘ってきた。
春香が家に僕を誘うのは初めてだった。
「本当にいいん?」
「うん。今日はお母さんがおらんけん、大丈夫な日なんよ」
僕はなるべく無理はさせたくないと思ったが、春香がどうしても家に来て欲しいと懇願したので行くことにした。
僕たちは春香の家に向かった。
「ただいまー」
春香が玄関を開けて家に入った。
「お邪魔します」
僕も後ろからついて行った。
そして春香の部屋に案内された。
「さぁ入って入って」
春香は早く入ってと促したが僕は緊張していた。
「失礼します」
僕は初めて女子の部屋にあがった。
「ちょっと部屋の中で待っとって。色々持ってくるけん」
春香が台所に向かうと言った。
僕は部屋で待つことにした。
部屋の中は思ったより簡素だった。
年相応の女子に似合う可愛らしい部屋を想像していたが、特に着飾ったものは何もなかった。
あったのは勉強机と、ローテーブル、ベッド、本棚くらいだった。
本棚にいくつかの本やCDが並んでいた。
勉強机にはラジオが置かれていた。
床はフローリングでカーペットが敷かれていた。カーペットの色は淡いピンクだった。
カーテンも同じ色だった。
この色は春香の好みなのだろう。
それ以外は女子らしい物は何もなかった。
「ごめん。ちょっと扉開けてもらっていい?」
春香が部屋の前でドタバタしていた。
僕は部屋の扉を開けた。
僕はその理由に納得した。
春香の両手はお盆を持っていたため塞がっていたのだ。
お盆にはケーキやジュースやお菓子を乗せていた。
お盆をテーブルに置いた春香は僕の正面に座った。
「冬夜くん、誕生日おめでとう」
同時にパンッとクラッカーを鳴らした。
僕は一瞬だがビクッと驚いた。
そして今日は12月21日で僕の誕生日だということに気づいた。春香は前に言ったのを覚えてくれていたのだ。
「時期的にクリスマスと一緒にされることが多いから忘れてたよ」
僕は戯けて言った。
「せっかくなら当日をお祝いしたかったけん。やけん今日は家に来てもらったんよ」
春香は僕の誕生日会をするために今日家に招いてくれたみたいだ。
「ケーキ美味しそうだね」
「うん、早く食べようや」
僕たちはケーキを食べた。
「ケーキ美味しい?」
「うん、とても美味しいよ」
それを聞いた春香はとても嬉しそうに笑っていた。
「もしかして、春香ちゃんが作ったの?」
僕は春香の喜びようをみて聞いてみた。
「そうなんよ。冬夜くんのために作ったんよ!!
こんなに美味しそう食べて貰えるなら作って良かったわぁ!!」
春香は何度も「良かった、本当に良かったわぁ」と繰り返していた。
「来年も、一緒にお祝いしようねっ!!」
そう言った春香の笑顔は満開の桜のように可憐だった。
春香のこの笑顔を今独り占めしてるんだと思うと胸がドキッと高鳴った。
その時僕は、春香に惹かれているんだと気づいた。
初恋だった。
◇
季節が巡り、僕たちは中学3年生になった。
3年生はクラス替えがなかったため去年と同じだった。
何の偶然か転校して以来また百瀬さんと席が隣になった。
「また隣同士やね。席替えの間までよろしく」
「ずっとこのままでいいんやけどなぁ」
百瀬さんがチラッと悪戯に微笑んだ。
僕たちは教室でも会話するようになっていた。
半年も経てば僕がクラスの誰と話そうが誰も何も思わなくなっていた。
「今日も昼休み図書室行くんやろ?」
百瀬さんが僕にいつとのように聞いた。
「うん。こうなったら小説だけでも図書室にあるものは卒業までに全部読もうと思ってね」
「花宮くんなら、本当に全部読んでしまいそうやね」
百瀬さんも僕も昼休みに図書室に行くのは相変わらずだった。
昼休み。
僕は図書室に向かっていた。
春香とすれ違った。
この3ヶ月で春香は一気に子どもの姿から成長して大人っぽくなっていた。
身長が10センチほど伸び、体つきも女性らしくなった。
凛とした顔も以前はあどけなさが残っていたが、今は美人と形容する他ないくらい周囲の目を引く存在となっていた。
そのため春香の周りには目立つ男子や女子が並ぶようになっていた。
今みたいにすれ違っても、僕たちは学校では他人のフリをしている。
それでも僕たちの秘密の関係はまだ続いていた。
それはきっと僕が春香のことを好きで、春香も僕のことを意識してくれているからだと思った。
放課後。
僕たちはいつもの川沿いで落ち合った。
「冬夜くんー」
春香が大声で僕の名前を呼びながら走ってきた。
見た目は大人びて見えても中身はまだ出会ったあの頃のままだった。
「待った?」
「今来たところよ」
この文言もいつもの流れだった。
僕はまだ成長期の途中なのか春香より5センチ身長が低かった。
春香の容姿もあって、自分には釣り合っていないんじゃないかと思う時が増えた。
でも春香は自分や他人の見た目なんて気にしていなかった。
「今日はどうしようか?」
「なら今日は僕の家でいい?」
「うん、なら早く行こうや」
僕たちはお互いの家を行き来するようになっていた。
その方が人目につきにくいし、何より僕は一緒にいれる時間を特別に感じることができた。
といっても家でやることはいつも変わらない。
勉強をして飽きたら音楽を聴いたり、雑談をしていた。
春香は僕の家に来た時は僕が紹介した小説を読んでいる。借りて家で読んできてくれることもあった。
「冬夜くん、この本ちょっと難しかったわ」
春香はあまり小説を読まないらしく中々読むのに時間がかかっていた。
「ならもっとわかりやすいのにするわ」
「ごめんね」
「別に無理して読まんでもいいのに」
「それは嫌!!私、冬夜くんがいいって思うものもっと知りたいもんっ!!」
僕はその言葉を聞いた瞬間に自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
純粋な嬉しさと好きな人からの自分を知りたいという思いに僕の心音は爆音となって胸に響いていた。
「それじゃあ、これなんてどうかな?」
「ありがとう」
僕たちはいつものように二人の時間を楽しんだ。
「ごめん。私、そろそろ帰るわぁ」
「送っていくよ」
春香が僕の家に来る時は、途中まで送るようにしている。
僕は春香と別れる橋の近くまで来ていた。
「それじゃあ、また明後日」
「うん。明後日までには絶対、小説を読みあげるな」
「やから無理せんでいいって」
「無理なんてしとらんっ!!絶対読みあげるけんっ!!感想楽しみにしとってっ!!」
春香は満開の桜のように可憐に微笑んだ。
夕方なのにまるで暖かい春の陽射しに包み込まれているようだった。
◇
今日は春香と会う約束をした日だった。
けど30分待っても春香が来ることはなかった。
1時間、2時間待っても春香がくることは無かった。
流石に不安になってきたため、僕は春香の家に行くことにした。
こんなこと初めてだった。
春香の身に何かあったのだろうか。
そんなことを考えながら全速力で走った。
春香の家についた。
チャイムを鳴らす。
何度も鳴らす。
春香の名前を叫ぶ
「春香ちゃん。春香ちゃんいるの?いるなら返事をしてほしい。春香ちゃんっ!!」
いくら叫んでも何の反応もなかった。
埒があかないので玄関扉を開けた。
鍵は空いていたので家の中へ入る。
「春香ちゃんっ!!春香ちゃんっ!!」
リビングにもトイレにもお風呂場にも春香はいない。他の部屋も覗いたが見あたらない。
いよいよ春香の部屋の前にたどり着いた。
もうこの部屋にいるしか考えられない。
扉を開けた。
春香はいなかった。
「春香ちゃん……」
僕は明かりのない長いトンネルに連れ出されたかのように目の前が真っ暗になった。
でも僕にはどうすることもできない。
明日学校に行けば会える。
そこに縋るしかなかった。
僕は今日は諦めて家に帰ることにした。
帰り道、もしかしてと思い、川沿いに行った。
すると春香がいた。
僕は急いで駆け寄った。
「春香ちゃんっ!!どこにいっとったの?心配したんよっ!!」
春香は何も言わなかった。
黙ったままだった。
ただ僕を見つめていただけだった。
いつもの春香と様子が違いすぎる。
「本当に何があったん?なんか言ってくれんと、僕には何もわからんよっ!!」
僕は春香が喋ってくれるまで待ち続けた。
30分くらい経って春香が口を開いた。
もう空は暗くなっていた。
「私もう、冬夜くんに会えんくなるかも」
「なんで、急にそんなこと言うん!?
なんで会えんくなるん!?」
僕は理解ができなかった。
でも春香の顔は真剣そのものだった。
「私と冬夜くんが会っとるのが、あの人に知られたけん……。迂闊やった。バレてないと思っとったのに、バレてしまったわ……」
春香は呆然とした表情のまま続けた。
「あの人に見つかった……。そのせいで私はもう……」
春香はずっとあの人がと繰り返していた。
腕を抱え込んで怯えているようだった。
「春香ちゃん、あの人って誰のことなん?」
その瞬間。
「春香、どこにおるんや?ここか?あぁっ?」
近くで男の声が聞こえた。
春香ちゃんはビクッと震えた。
僕は春香ちゃんの手をとって走った。
走り続けた。
息が切れても、横腹が痛くなっても。
ずっと無我夢中で走り続けた。
僕たちは川の上流の方まで来ていた。
「「ハァッハァッハァッ……」」
二人とも息を切らしていた。
「春香ちゃん、大丈夫!?」
「何とか。大丈夫」
僕たちはぐったりと地べたに座り込んだ。
深呼吸をして息を整えた。
「さっきの男の人はいったい誰なん?
あんな追いかけ回すなんて、どう見たっておかしいやろ」
僕は春香にあの男は一体何者なのかを聞いた。
「あの人は……。私のお母さんのお客さん。ここ最近、お母さんのお店に行っててそれで何かと私にも構ってくるんよ。たまたま冬夜くんと一緒におったところを見とったらしくて、お母さんにも言ったみたいなんよ」
「でも、なんでお母さんに知られたら会えないの?」
「私のお母さんっていうか、あの人は、私が男の子と仲良くなるのが許せんのよ。やけん……」
僕は春香に父親がいないということを思い出していた。
「お母さんは、昔にお父さんに捨てられたらしいけん。それから女手一つで私を育てたけん、娘にも同じ目にあってほしくないみたい。過保護なのかエゴなんかはわからんけど。
男なんて碌な人いないって信じさせたいんやろうね」
「やからって、娘にも同じことさせんでもいいのに」
春香がボソッと小声で呟いた。
「同じこと?」
僕は思わず声に出してしまった。
「春香ちゃん、もしかしてあの男に何かされたん?」
きっと僕は震えてたと思う。
「うん……。されたんよ……。無理矢理……。初めてやったのに……。怖くて声も出せんかった……。気づいたらもう終わっとった……」
春香の絶望した表情を見て僕は悟った。
あぁ、そういう事かと。
僕は自惚れていた。
このまま春香と本当に恋人になって、お互い初体験をして、一緒に大人になっていく、そんな妄想をいつもしていた。
でも現実は、僕の想像なんて及ばない、穢らわしく、残酷で、醜い結末だった。
その時僕は、春香への心配よりも自分の喪失感の方が大きかったことに驚いた。
僕はなんて、最低なんだろう。
同時に自分の過去が脳裏に浮かんできた。
東京にいる時、友達もおらず、家に帰れば冷え切ったご飯を食べて、両親は毎晩言い争っていた。読書だけが濁りきった心を保つ唯一の術だった。
でもそんな毎日を繰り返していて心は荒んでいった。死んだ方がマシなんじゃないか、そう思う方が楽だった。
でもこの町で春香に出会って、生きていて楽しいと思えた。
だから満開の桜のような春香の笑顔を見た時、生きる意味を貰った気がした。
でもその生きる意味が今はもう失われた。
僕の心の闇が叫んでいた。
もう生きたくない。
こんな世界亡くなればいい。
死んでしまいたい。
そういえば、昔の作家で心中した人がいたなと思い出した。
気づけば僕は春香に言っていた。
「春香ちゃん……。こんな世界もう生きてても辛いだけやん。やけん、僕と心中してくれん?」
「心中って、二人で死ぬってこと?」
「そう。僕、春香ちゃんとなら一緒に死ねる気がするんよ」
「冬夜くん……」
春香はしばらく黙ったままだった。
「あんな……」と語った。
「私も初めては、冬夜くんとがよかったんよ。やけん、無理矢理された時は、私ももう死にたいって思った。
でも、その後、冬夜くんに会ったら、なんか安心したんよ」
僕は信じられなかった。
さっきまで絶望していたと思っていた春香は微笑んでいた。
その笑顔はかつての桜のような可憐な笑顔ではなく、僕には真っ暗な闇夜の中で燃える炎のような妖艶さを纏った微笑みに見えた。
「春香ちゃんっ!!」
僕は叫んでいた。
春香は僕を見つめていた。
彼女の瞳の中に吸い込まれてしまいそうだった。
「一緒に死のうっ!!」
僕はまた叫んだ。
春香は僕の目の前に近づいた。
◇
春香は僕にキスをした。
僕のファーストキスだった。
「私もファーストキスなんよ。
キスだけは絶対させんかった」
春香が嬉しそうに言った。
僕は春香を抱きしめた。
また僕は春香にキスをした。
僕たちは何度も何度もキスをした。
そして僕たちは、手を繋いだ。
僕は君と出会えて幸せだった。
春香にそう伝えた。
春香は私もと微笑んでくれた。
もう桜は散っていた。
僕たちは川に向かって落ちていった。