前編
「別れよう」 服部颯一は、長年苦楽を共にしてきた相手から別れを切り出された。といっても、恋愛とか離婚とかそんなのではない。むしろ、颯一にとってはそっちの方がマシだったかもしれない。別れ話をしてきた相手は、高校生の頃からかれこれ十年以上相方をしている竹中だった。
颯一の住む安アパートの一室で、
「颯一、お前はたしかに面白い奴だ。それは誰よりも知っているつもりだ。だが、お前からは『売れよう』という覇気を感じない」
「お前と一緒にいて、売れるビジョンが見えない」
「お前はお前の道を歩むべきだ」
と竹中に言われた。安っぽい歌詞のような、あるいはお笑いドラマの台本のような。とにかく、フィクションでしか聞いたことのない台詞を次々にかけられた。
これに、颯一は反論できなかった。竹中には大学を中退してまで付き合ってもらった恩がある。
そして、竹中の言う通り颯一にはあまり野心がない。以前、地方局の正月ロケで神社を訪れた際に竹中は「M-1優勝」と絵馬に書いていた。それに対して、颯一は「この日々がいつまでも続きますように」と記した。テレビ画面には、
「草食系?」
というテロップとともに颯一の絵馬が映された。東京に帰る新幹線の車内で、竹中は一言も口をきいてくれなかった。
だが、竹中の言葉から出た「売れる」「覇気」などという言葉を聞いて、颯一は一抹の寂しさを感じてもいた。颯一は、ただ二人だけの漫才をしたかった。トリオとかの意味ではない。颯一のお笑いの原点は、高校の教室の片隅での竹中とかけあいだった。そこに、客とかいう概念はなかった。
時は流れ、竹中は売れることを念頭においてネタを作っていた。キャラ付け、ダブルボケ、エンドレス系。ひとたび「流行っている」と噂されたネタのスタイルを、竹中はよく言えば積極的、悪く言えば闇雲に取り入れていた。
それが、颯一には気に食わなかった。色々かじるのは売れるために必要な過程だ。それは颯一も分かっていた。それでも颯一の中には腑に落ちない部分があった。颯一のお笑いに対する意欲が低下していったのもこの頃だった。「方向性の違い」とでも言えばかっこいいかもしれないが、要は颯一のわがままだ。
「とにかく、俺はお前と縁を切りたいわけじゃない。ただ、お笑いをやめたいだけだ」
竹中の伊達メガネ越しの瞳が、颯一に問いかけているような気がした。「お前はどうしたい?」と。竹中はそこまで踏み込んでは言わなかったが、少なくともその意図は颯一にも読み取れた。
「じゃあ、友達から再スタートしよう」
竹中に尋ねられる前に、颯一はお笑いコンビとしての別れを告げた。竹中より先に言わないと、颯一は全てに負ける気がした。
「わかった。俺はピンでこの世界に残る。お前は一人で道を見つけてくれ」
竹中はそう言って颯一の部屋を出た。クーラーのゴウンゴウンという音だけが、部屋に響いていた。
解散を決め、引退ライブの日取りを一ヶ月後に設定した。「服部竹中、解散」の記事のコメント数は、後輩芸人のラジオでの発言に対するそれよりはるかに少なかった。
翌日から挨拶回りが始まった。お世話になった先輩やテレビ局スタッフに解散することを伝えた。竹中が芸能界に残ることも同時に話した。この時、相手方の反応は大きく二つに分かれた。一つは、寂しがり型。彼らの言いたいことを一文にまとめると、
「やめちゃうの?なんで?もったいないよ!」
となる。
正直、このタイプはあまり好きではない。例えば、東尋坊から飛び降りようとしている人に松岡修造が「諦めんなよ‼︎」と言ったところで自殺をやめる人はいるのだろうか。そこまで深刻ではないにせよ、暑苦しいことには変わりない。
もう一つは、突き放し型。解散を報告しても
「そうか。頑張りや」
の一言で済ませてくれる人たちだった。竹中がどう思っていたかまではわからないが、少なくとも颯一からしたら突き放されるほうが有難かった。固い解散の意志を無理矢理壊して欲しくなかった。
ちなみに、まだ颯一の行く先は決まっていなかった。それを伝えたときに就職の話を持ちかけてくれたのも後者の人たちだった。三十路を迎えかけている高卒の男にも働き口はあるのか。颯一は他人事のように妙に感心していた。
「『イタリアン漫才』とかやりだした頃からおかしいと思ってた」
飲みの席で、芸人養成所の同期で今はそこそこ売れているピン芸人の藤谷からはそう言われた。
「あれは大分スベったな」
「個人的には面白かったけどな。ネタ番組のプロデューサーさんに見せたら大笑いしてた」
「じゃあなんで俺は『爆笑ゴールデン』に出てないんだ」
「それは知らん」藤谷が、二本目のタバコに火をつけながら面倒臭そうに言う。
「颯一、お前はどうするんだ?」煙を穏やかに吐き出しつつ、藤谷は颯一に問いかけた。チューハイをちびちびと飲んでいた颯一が顔を上げた時、藤谷の顔は真剣そのものだった。
「とりあえず働き先を見つける。お笑いはやめるつもり」
「親に連絡はしたのか?」
「そういえばまだ。っていうかそもそも勘当されてる」
「直接家に行け。土下座しろ。靴でも何でも舐めろ」
そう語る藤谷の口角はやや上がっていた。だが、眼は本気そのものだった。そういえば、コイツは売れる前に母が死んだと聞いたことがある。つくづく「誰が言うか」は大事だと思った。
「本気で話し合え」
そう言って颯一を実家に行くように説得する藤谷の目元には、三十を迎えるまでの努力の結晶ともとれるシワが刻まれていた。
続きます。