第一巻 第五章 (節制、自制は善行の基礎)
第一巻 第五章 (節制、自制は善行の基礎)
人にとって(自分の欲望に勝利する)節制、自制、克己は気高い(獲得できた)学識である、と多分、公認されている、と私クセノフォンは思っている。
もし、そうなら(、節制、自制、克己が気高い学識であるなら)、次のような(ソクラテスの)言葉によって、ソクラテスの言葉を聞く耳を持つ人達が、この節制、自制、克己という善行の到達へ前進するように、ソクラテスは導く事ができそうに思われるかどうか、向き合って考えてみよう。
「諸君、」とソクラテスは話し始めた。
「もし我々が、戦争に襲われて、我々を救い、敵を圧倒するのに役立つ最善の人を選ぶ事を望んだら、腹の(食欲の)奴隷であると知っている人、ワイン(といった酒)の奴隷(である酔っぱらい)であると知っている人、性欲の奴隷であると知っている人、労苦に負け(て怠け)やすいと知っている人、眠気に負け(て怠けて眠り込み)やすいと知っている人を選ぶ事は、きっと無い、と私ソクラテスは思う」
「我々は、そのような(欲望の奴隷である)人に、我々を救う事や、敵を克服する事を期待できるだろうか? いいえ! 期待できない!」
「また、もし我々の一人が人生の終わりに近づいて行って、教師として息子達を任せる事ができて、保護者として処女の娘達を任せる事ができて、保護者として全財産を任せる事ができる誰かを見つけたいと望んだら、放蕩者は、そのような(教師と保護者という)務めに相応しい、と思うだろうか? いいえ! 放蕩者は相応しくない!」
「自分の羊と牛、自分の倉庫、倉、自分の作業への指導を、節制、自制心の無い(欲望の)奴隷である人に思い通りにされてしまうのを夢見て望む人などいる訳が無いだろう」
「もし、そのような(節制、自制心の無い欲望の奴隷である)性格の執事や使いの少年を提案されても、無料でも受け入れたくは無いだろう」
「また、もし節制、自制心の無い(欲望の)奴隷である人を受け入れなくても、自らが、このような(、節制、自制心の無い欲望の奴隷であるという)非難から免れるために、どれほど労苦しなくてはいけない事だろうか」
(「また、もし節制、自制心の無い欲望の奴隷である人を受け入れなくても、自らが、節制、自制心の無い欲望の奴隷であると分類される羽目に陥らないように、どれほど用心しなくてはいけない事だろうか」※別の版)
「節制、自制心の無い人は、利己的な人や貪欲な人とは異なる」
「いずれにしても、これらの(、節制、自制心が無かったり、利己的であったり貪欲であったりする)人を、『他人から奪って自分を富ませている』と見なすかもしれない」
「しかし、節制、自制心の無い人は、『隣人を苦しめてでも、自分は恩恵にあずかる』というように主張する事はできないのである」
「いやむしろ、節制、自制心の無い人が自業自得で自分にもたらす害と比べると、節制、自制心の無い人が他人にもたらすかもしれない害は大した事は無いのである」
「なぜなら、節制、自制心の無い人が自業自得で自分にもたらす害は、家や財産を損失するかは断言できないが、実に、自分の肉体と魂を悪化させるからである」
「また、社会的な交際から実例を取り上げると、隣の友人よりもワインといった酒と料理に明らかに喜びを感じている客人や、愛人を溺愛するために友人への当然の思いやりを削る客人を、誰も思いやらない物なのである」
「全ての誠実な人は節制、自制、克己をまさに善行の基礎ときっと見なすので、このように(思いやりの対象外の人物と)は成らないのである」
「全ての誠実な人は自分の魂の基礎として、(節制、自制、克己と、欲望の奴隷の、)どちらをすえようと探求するべきなのか? 自分の魂の基礎として節制、自制、克己をすえようと探求するべきである!」
「節制、自制無しでは、克己無しでは、誰が、全ての善い教訓を留意したり、話すに値するくらい少しでも学んだ善い教訓を実践したりする事ができるのか? いいえ! できない!」
「また、逆に言えば、どんな快楽の奴隷であれば、魂や肉体の堕落によって苦しまないだろうか? どの快楽の奴隷も、魂や肉体の堕落によって苦しむ羽目に成る!」
「(家の女主人である、女神の女王である、)女神ヘラにかけて、」
「全ての(欲望から)自由な人が、このような(欲望の)奴隷としての務めから解放されて救われる事を当然の事として祈ってくれますように」
「また、このような快楽の奴隷である人も、(欲望から)自由な善い人を自分の所へ派遣してくれる事を当然の事として天の神に祈ってくれますように」
「なぜなら、これ(、神が、欲望から自由な人を派遣してくれる事)が、快楽の奴隷である人に残された(欲望からの)解放による救いの唯一の希望だからです」
このように、ソクラテスは温厚に話した。
しかし、ソクラテスの節制、自制、克己は、ソクラテスの言葉の中で、よりも、ソクラテスの行動の中で、さらに、より多く、明らかであった。
ソクラテスは肉体によって生じる快楽の克服者であった、だけではなく、富によって膨張する快楽の克服者でもあった。
「あちこちの人から金銭を受け取る人は、思いがけず、金銭の贈り主を自分の支配者にしてしまうし、自分を憎むべき奴隷にしてしまう」というのがソクラテスの確信であった。