第一巻 第二章 (ソクラテスへの死刑に対する反論)(ソクラテスの節制、自制)
第一巻 第二章 (ソクラテスへの死刑に対する反論)(ソクラテスの節制、自制)(暴力と説得の違い)(悪人クリティアスと悪人アルキビアデス)(交流する相手からの影響)
(ソクラテスが神々を認めていないと信じられてしまったという、)それに劣らず、ソクラテスが若者を堕落させたと信じられてしまったのは私クセノフォンには驚きである。
この人ソクラテスは、(私クセノフォンが)既に話してきた事を超越していて、自分の食欲と性欲を厳しく抑制した。
ソクラテスは群を抜いて冬の寒さ、夏の暑さ、全ての種類の労苦を忍耐できた。
ソクラテスは、自分の欲求を少なくするように自身にとても教え込んでいたので、最少の財産で満足しない事が決して無かった。
このような独りの人ソクラテスが他人を無礼者にしたり無法者にしたり放蕩者にしたり戦いを前にしても軟弱な者にしたりできたと信じられるであろうか? (信じられない!)
ソクラテスは、(他人を堕落させたのではなく、)むしろ、ソクラテスが多数の人達の中に呼び起こしている徳(、善行)への情熱によって、また、「自身を用心して営んでいく事によって真の美しい善い人に成れるかもしれない」というソクラテスが多数の人達に吹き込んでいる希望によって、多数の人達を救っているのではないか? (はい!)
実に、ソクラテスは善行についての教師に成る事をかつて引き受けたのではなく、明らかにソクラテス自身が徳に適うようにしていく事で、ソクラテスは「(ソクラテスの善行を)模倣していく事で最終的にソクラテスに似る事ができるかもしれない」という希望をソクラテスと交際が有った人達に抱かせた。
しかし、(誤って)「ソクラテスはソクラテス自身の肉体について怠慢であった」とか「ソクラテスは、自身の肉体について怠慢であった人達に賛成した」と推測するなかれ。
食べ過ぎたら余分に労働して相殺する事はソクラテスが賛成しなかった食事の規定量である。
精神の育成を妨害しないで肉体の健康な状態へ向かうように、適度な運動と連動している食欲の自然な要求を満足させる事がソクラテスが賛成した方法である。
また、ソクラテスは身を飾ったり見栄を張ったりしなかった。
ソクラテスは肩掛けや靴で身を飾るといった軟弱な生き方に身を任せなかった。
特にソクラテスには友人達を金銭に貪欲にさせる傾向が無かった。
ソクラテスは、性欲を多くの場合、抑制しつつ、自身に他人の責任を伴わせる性欲を利用しなかった。
そして、ソクラテスは「性欲の禁欲によって最もよく自身の自由に助言を求めている」と信じていた。
それで、ソクラテスは社会に対して恩着せがましく給料を受け取る者どもに「自身を売る者ども」という烙印を押した。
なぜなら、社会に対して恩着せがましく給料を受け取る者どもは自分の給料を支払う人達が(給料を支払う事で)得る利益について論じざるを得ないからである。
ソクラテスを驚かせた事は、徳を有している誰もが、真の友人を獲得した報いへ率直に到達せずに、まるで新たに自立した名誉の人が最大の恩人への感謝の恩義を忘れる事ができるように(するためであるかのように)、誇りを捨てて金銭を求めなければいけない事である。
自身のために、そのような明言をしなくても、ソクラテスは「ソクラテスの考えを受け入れた人達は、お互いにとって、また、ソクラテスにとって、一生、善い真の友人の役割を果たしてくれる」と信じるだけで満足した。
再び尋ねるが、このような性格の独りの人ソクラテスが一体どのように若者を堕落させるというのか? (ソクラテスは若者を堕落させなかった!)
徳の丁寧な育成が他人を堕落させる事でない限り。(ソクラテスは若者を堕落させなかった。)
ソクラテスを訴えた者どもは「しかし、全ての神聖であるものにかけて!」と主張し始めた。
「ソクラテスは、くじ引きによって国家の役人を任命する愚行を長々と話した時に友人達に確立されている法律を軽蔑させたのではないか?」
「ソクラテスは『(くじ引きとは、)案内人やフルート奏者を選ぶ場合といった、政治的な問題よりも失策が災害を引き起こす事が遥かに少ない同様の全ての場合でも、誰も適用を望まない原理である』と言った」
ソクラテスを訴えた者どもによると、「これらのような言葉は、若者を暴力的にして、また、若者を頑固にして、若者が確立されている法律を軽蔑するように扇動する傾向が有る」。
しかし、私クセノフォンは「知恵を育成して自身が同じ都市(国家)の市民に利害について教える事ができると信じている人達は暴力の支持者に最も成りそうに無い」と考えている。
知恵を育成して自身が同じ都市(国家)の市民に利害について教える事ができると信じている人達は、恨みと危険が暴力には伴う一方、安全な平和的な説得は良い結果を得る可能性が有る事にとても良く通じている。
なぜなら、暴力の被害者は大事な何かを盗まれた者であるかのように復讐心で恨みを抱くが、説得されて自発的に成った者は説得してくれた人の手に喜んで口づけする。
このため、強制は、知恵を学んでいる人の方法ではなく、熟考によって手加減無しの権力を行使する人の方法なのである。
再び言うが、暴力を敢行する人は戦うために多数の人達の支持を必要とするが、説得に頼る人は単独で勝利する。
なぜなら、説得に頼る人は(説得が)単独で同意させる巧妙さに気づいている。
このような説得に頼る人は流血とどんな関係が有るというのか? (説得に頼る人は流血と無関係である!)
なぜなら、生者の頼りに成る貢献を利用しないで人々を殺す事は何とも馬鹿な事だからである。
しかし、ソクラテスを訴えた者どもは二人の人、すなわち、クリティアスとアルキビアデスが「どんな時でも国家にとって最大の害悪」であったと言い、「両方共ソクラテスの友人達であった」と応じた。
クリティアスは寡頭政治の支配者であった。
また、アルキビアデスは(衆愚政治の時代の)民主主義者であった。
一方のクリティアスよりも大泥棒、野蛮人、殺人犯がどこにいるのか? (いない!)
他方のアルキビアデスのように傲慢な、性欲を節制、自制できない、高圧的な兆候の者がどこにいるのか? (いない!)
私クセノフォンとしても、「国家にとって害悪」であったと言われているクリティアスとアルキビアデスの二人に限っては、私クセノフォンはクリティアスとアルキビアデスのどちらの弁護者としても出廷する事を望まない。
私クセノフォンはクリティアスとアルキビアデスが本当はどんな理由でソクラテスに親しんだのかを説明するだけにとどめる。
アテナイでクリティアスとアルキビアデスの二人よりも野心的な市民はいなかった。
野心がクリティアスとアルキビアデスの気質に有った。
クリティアスとアルキビアデスに決断力があれば、全ての権力がクリティアスとアルキビアデスに掌握されていたはずである。
クリティアスとアルキビアデスの評判は他の全ての人々を凌駕していた。
クリティアスとアルキビアデスがソクラテスについて知っていた事は次のような物でした。
最初に、ソクラテスは最少の財産で絶対的に自立した独立した生活をしていた。
次に、ソクラテスは快楽に関して極限にまで節制、自制していた。
最後に、ソクラテスは議論ではソクラテスを手玉にとる事ができる相手がいないほど恐るべき者であった。
このような物がクリティアスとアルキビアデスの意見であった。
また、より有り得るのは、このような物がソクラテスの評判であった。
クリティアスとアルキビアデスがソクラテスとの交際を求めたのは、クリティアスとアルキビアデスがソクラテスの生き方に魅力を感じたからか? (いいえ!) また、クリティアスとアルキビアデスがこの人ソクラテスの忍耐に魅了されたからか? (いいえ!)
または、クリティアスとアルキビアデスは「自分達がソクラテスと同盟を結べば、自分達は国政と外交の達人に成るし、言動のわざにおいて無敵に成る」と考えたからか? (いいえ!)
私クセノフォンは「仮に、神が、クリティアスとアルキビアデスが見たソクラテスの人生の終わりのような人生を生きるか、死ぬか、を選択する権利をクリティアスとアルキビアデスに与えたら、クリティアスとアルキビアデスは両方とも死を選ぶだろう」と信じている。
クリティアスとアルキビアデスの行動はクリティアスとアルキビアデスの性格の決定的な証拠である。
クリティアスとアルキビアデスは自分達が接近した人々の支配者に成れると感じるとすぐにソクラテスと別れ、政治のあの混乱の中に飛び込み、ソクラテスとの交際を決して求めなかった。
次のような異議が有るかもしれない。
「ソクラテスは友人達に政治について教える前に、クリティアスとアルキビアデスに冷静さについて教えたほうが良かった」
そのような考え方については議論せずに、私クセノフォンは「教師は教え子のために教えを実践する方法を必ず教え、それと共に、議論を促す」と指摘しておく。
さて、私クセノフォンは「ソクラテスは自身を友人達に美しい高貴な存在として見せた」と知っている。
ソクラテスはよく友人達と徳(、善行、善)や、その他の、人にとって利益に成る事について最も高貴な方法で論理的に考えて議論した。
私クセノフォンがクリティアスとアルキビアデスの二人について知っている事は、クリティアスとアルキビアデスがソクラテスと交流していた限りにおいてはクリティアスとアルキビアデスは節度を保っていたが、ソクラテスに罰されたり叩かれたりされる恐怖からでは間違い無くなく、そのような節度を保ったふるまいの当座の長所によって説得されたからである。
ここで、多分、哲学者を自認する人達は次のように応じるかもしれない。
「いいえ。本当に正しい人は正しくない人に成る事が決してできない。節制、自制している人は不節制に成る事が決してできない。どんなテーマの知識でも学んだ人はまるでそのテーマの知識を学んだ事が無いかのように成る事が決してできない」
しかし、クリティアスとアルキビアデスがソクラテスと交際していた時は節度を保っていた事は私クセノフォンだけの結論ではないのである。
クリティアスとアルキビアデスがソクラテスと交際していた時は節度を保っていた事は、肉体的な機能と関係が有るように、精神的な機能とも関係が有る。
器官(、人という機関)の鍛錬不足はあれこれの肉体的な機能や精神的な機能の不能に至る。そう成ると、人はするべきである事をする事もできないし、するべきではない事を控える事もできない。
そして、善人との交際が徳(、善行、善)の鍛錬に成るのであれば、同様に、また、悪人との交際は徳(、善行、善)の喪失に成るのを考えれば、このために、息子がどんなに節度を保っていても、父は悪人どもの手が息子に届かないようにするのである。
ある詩人はこの事についての証人である。その詩人は次のような詩を歌っている。
「高貴な者から高貴さについて教えられるべきなのである。もし下劣な人と交際したら、今、持っている賢明さを損なってしまうであろう」
また、次のような詩を歌っている詩人がいる。
「ただし、善人には下劣な時も善良な時も有るのである」
その詩人の証言に私クセノフォンの証言を加える。
なぜなら、私クセノフォンは「くり返しと実践無しには長い詩を覚える事は不可能である」と知っている。
そして、心の中で、教わった諸々の言葉を大事にしなく成ってしまうと、教わった諸々の言葉を忘れてしまう。
諸々の忠告の言葉の記憶が薄れてしまうと共に、心が神聖さ、高貴さを望んだ当時の精神状態の記憶も薄れてしまう。
一度でも徳(、善)についての言葉や精神状態を忘れてしまうと、その人から徳自体(、善自体)についての記憶も消え去ってしまうのは何か不思議であろうか!? いいえ!
また、私クセノフォンは「人が酩酊の習慣に陥ってしまったり淫らな性欲に真っ逆さまに陥ってしまったりすると、正しい事を実践していたり悪い事を節制、自制していたりした以前の力を失ってしまう」と知っている。
肉欲に燃えていない間は楽に節約する事を知っている多数の人々は肉欲に陥るとすぐに(節約する)能力を失ってしまう。
そして、富を浪費して、以前は下劣過ぎて手を出さなかった利益をもはや節制、自制しなく成ってしまう。
それでは、「人が今日は節度を保っても明日には翻って節度を保たないかもしれない」と仮定し難い理由は、どんな点に有るのか?
また、「以前は徳(、善)に適った行いをする力を支配下に置いていた人が徳(、善)に適った行いをする力を完全に失ってしまうかもしれない」と仮定し難い理由は、どんな点に有るのか?
私クセノフォンには、いずれにしても、「全ての美しい高貴なものは絶え間無い実践や鍛錬の結果である」と思われる。
そして、節制、自制という徳(、善行、善)は、唯一の他ならぬ肉体という枠に満足を植えつけて魂と共に芽吹かせて「節制、自制を済ませて、急いで魂と肉体を満足させなさい」と魂の耳にささやき続けるので、群を抜いているのである。
しかし、クリティアスとアルキビアデスの話に戻ると、「クリティアスとアルキビアデスはソクラテスと共に過ごしていた限りにおいてはソクラテスの助けによって下劣な欲望を屈服させる事ができていた」と私クセノフォンはくり返し話す。
しかし、ソクラテスと絶縁すると、クリティアスはテッサリアに逃げなくてはならなく成ってしまい、テッサリアでクリティアスは正義よりも不正に慣れている者どもと交際してしまった。
また、アルキビアデスもクリティアスと大して変わらない生き方をしてしまった。
一方ではアルキビアデスの肉体の美しさは身分の高い女どもを刺激してアルキビアデスを美しい獲物として追い求めさせたし、他方ではアルキビアデスの(都市)国家や同盟諸国での影響力によってアルキビアデスは多数の甘言の手管の達人により堕落させられた。
民主主義によって敬われて上位に簡単に上がれたアルキビアデスは、競技場の試合で勝利を確信しているので鍛錬を怠っている競技選手のようにふるまった。
このため、アルキビアデスはすぐに負っている義務を忘れてしまった。
これがクリティアスとアルキビアデスの不幸と成った。
その結果は驚くべきであろうか? (いいえ!)
(クリティアスとアルキビアデスは)家柄を誇って増長し、財産によって増長し、権力によって増長し、多数の誘惑者によって骨の髄まで心を軟弱にし、さらに長い間ソクラテスから離れた。(クリティアスとアルキビアデスは傲慢に成り、財産によって増長し、権力によって増長し、多数の誘惑者によって骨の髄まで心を軟弱にし、さらに長い間ソクラテスから離れた。※別の版)
クリティアスとアルキビアデスが完全な成長度合いの傲慢さに至ったのは何か不思議であろうか!? いいえ!
そして、クリティアスとアルキビアデスの二人の罪の責任をソクラテスは負わされてしまう羽目に成ってしまった!
ソクラテスを訴えた者どもはクリティアスとアルキビアデスの二人の罪の責任をソクラテスに負わせた。
初期の、クリティアスとアルキビアデスが若かった時も、(ソクラテスとの)友好関係と節制、自制を放棄したと予想される時も、同じく、ソクラテスはクリティアスとアルキビアデスを謙虚にさせていたし身持ちを良くさせていたという事実について全くソクラテスを訴えた者どもは一言もほめなかった。
これは他では与えられている公正な裁きの基準に反している。
竪琴やフルートの教師も、どんな分野でも達人の教え子を輩出した事が有る教師も、教え子の一人が別の教師の所へ去って落伍者に成ってしまったからといって、責任を問われるであろうか? (いいえ!)
または、ある(善い教師である)友人と交際していると正直な少年だが、別の友人と交際してしまうと碌でもない少年に成ってしまう息子がいる、どの父が前者の(善い)教師(である友人)を非難するであろうか? (いいえ!)
その父はむしろ(息子である)少年が後者(の悪友ども)と交際してしまって悪く成ってしまうにつれて、より心からの称賛を前者(の善い教師である善友)に与えるのではないか? (はい!)
子達と交際を共有している、どの父が、父の善良さだけは確証されていても、子達の罪の責任を負わされるべきであろうか? (いいえ!)
ここで、仮に、ソクラテスに公正な調査が適用されていたら、
ソクラテスはどんな下劣な行動で有罪に成ったのか?
もしソクラテスが下劣な行動で有罪に成ったのであれば、ソクラテスを下劣な人と見なしてもよいが、逆に、もしソクラテスが冷静で終始つまずいた事が決して無かったのであれば、正義の御名によってソクラテスには無かった下劣さを説明する責任をどうしてソクラテスに負わせるべきであるのか?
私クセノフォンは話を更に進めると、
もし、ソクラテス自身の何らかの過失を除いて、ソクラテスが他人の悪行に賛成して黙認したのであれば、非難に値するとソクラテスに判決を下す理由が有ったであろう。
それでは、聴きなさい。
「クリティアスはエウテュデモスに執着している」とソクラテスはよく知っていたし、「クリティアスは愛着が肉欲、性欲である淫らな女のようにエウテュデモスを扱おうと試みている」ともソクラテスは知っていた。
ソクラテスは、クリティアスのエウテュデモスへの試みがどんなに下劣な事であるか指摘して、愛している快く大事に見える人の前で下劣な何かを与える事や下劣な何かを得る事を常に嘆願する乞食のような姿を見せる事は立派な人にはどんなに不相応であるか指摘して、クリティアスにエウテュデモスへの試みをやめさせようと試みた。
しかし、この論理的思考が聞き入れられずクリティアスが矯正を拒否すると、ソクラテスは、伝えられている話によると、全ての友人達とエウテュデモスがいた時に「クリティアスは下劣な愛着で苦しんでいるように見受けられる」と言った。または、「このクリティアス自身をエウテュデモスにこすりつけようとする性欲は何と自身を石にこすりつけている子豚の群れのようである事か!」と言った。
クリティアスのソクラテスへの憎しみは疑い無く、この(ソクラテスがクリティアスを非難した)出来事に遡るのである。
クリティアスはソクラテスに対する憎しみを記憶し続けて、後に、クリティアスは「三十人僭主」の一人に成った時に(同じく「三十人僭主」の一人である)公式の立法者であるカリクレスと結託して、ソクラテスを非難したいという望みだけから(ソクラテスが)言論の技術を(若者に)教える事を禁止する(悪)法を作った。
クリティアスはソクラテスに大衆の哲学者への非難を向ける以外にソクラテスを逮捕する方法を知らなくて困った。ソクラテスに大衆の哲学者への非難を向けてクリティアスは大衆によってソクラテスを害そうと望んだ。
もし私クセノフォンがかつてソクラテス自身の口から漏れ落ちたのを聞いた言葉や他人から伝え聞いたソクラテスの言葉から判決を下して良いのであれば、クリティアスによるソクラテスへの非難は全く事実無根であった。
クリティアスの憎しみは明らかであった。
「三十人僭主」が市民達、高徳な市民達を大量に処刑していた時、「三十人僭主」が市民を扇動して市民に相互に罪を犯させていた時、ソクラテスは次のような意見を述べるに至った。
「もし絶え間無く自分の牛を減少させたり劣化させたりしている牛の群れの管理者が自分で『役に立たない種類の牛の群れの管理者である』と認めなければ、十分に驚くべきである。実に、絶え間無く市民を減少させたり劣化させたりしている都市国家の統治者が恥じ入らなかったり、自分で『役に立たない種類の統治者である』と認めなかったりする事は、より更に驚くべきである」
このソクラテスの意見は「三十人僭主」に報告されて、ソクラテスはクリティアスとカリクレスに呼び出された。
クリティアスとカリクレスは法として示してソクラテスに若者と会話する事を禁止した。
ソクラテスは「若者が(私ソクラテスとの会話禁止)命令を全く知らなかった場合は、その若者は説明を(私ソクラテスに)求める事が可能でしょうか? (私ソクラテスが私ソクラテスと若者の会話禁止命令を説明するために若者と会話する事は禁止されていませんよね?)」とクリティアスとカリクレスに尋ねた。
「もちろん(、ソクラテスがソクラテスと若者の会話禁止命令を説明するために若者と会話する事は許す)」とクリティアスとカリクレスは譲歩した。
すると、ソクラテスは次のように話した。
「私ソクラテスは(ソクラテスと若者の会話禁止命令という)法に従う用意が有りますが、無知による(ソクラテスと若者の会話禁止命令という)法への違反を避けるために私ソクラテスは次の事を説明してもらいたいです」
「私ソクラテスと若者達に会話を禁止するように命じるのは『言葉のわざは言葉の正しさへ進ませる傾向が有る』という仮定に基づいているのか? または、『言葉のわざは言葉の誤りへ陥らせてしまう傾向が有る』という仮定に基づいているのか?」
「なぜなら、もし『言葉のわざは言葉の正しさへ進ませる傾向が有る』のであれば、私ソクラテスと若者達は正しく話す事を控えなければならなく成ってしまう事は明らかです」
「しかし、もし『言葉のわざは言葉の誤りへ陥らせてしまう傾向が有る』のであれば、私ソクラテスと若者達は自分の言葉を改善するように努力するべきです」
このソクラテスの言葉に、カリクレスは、怒りを激発して、言い返した。
「お前ソクラテスの無知を考慮して、私カリクレスとクリティアスは、お前ソクラテスの無知に、より適した言葉で(ソクラテスと若者の)会話禁止命令を次のように作ろう」
「私カリクレスとクリティアスは、お前ソクラテスにどんな会話であれ若者と会話する事を禁止する」
すると、ソクラテスは次のように話した。
「それでは、全ての曖昧さを避けるために、または、あなたカリクレスが命令してくださる以外の事を私ソクラテスがしてしまう可能性を避けるために、何歳までの人が若いと見なされるか、あなたカリクレスが定義するように御願いしても良いですか?」
(カリクレスは次のように答えた。)「議員として(議会の席に)座る事が禁止されている間、成熟した知恵に到達していない間(は若いの)である」
「従って、あなたソクラテスは三十歳未満の者と会話するなかれ」
ソクラテスは次のように話した。
「公正に買い物する際、もし販売者が三十歳未満の場合、私ソクラテスは『これの価格はいくらですか?』と質問するべきではないのですか?」
カリクレスは次のように話した。
「チッ!(舌打ち) そのようなたぐいの事では、実に、ソクラテスよ、お前は現状がどのようであるか知っている時は常に、お前には質問を尋ねる方法が有ると知っている」
「そのようなたぐいの質問はするなかれ」
ソクラテスは次のように話した。
「どうせ何も答えないのでしょう。質問が私ソクラテスが知っている事に関係している場合は。例えば、『カリクレスはどこに住んでいるのか?』のように。また、『カリクレスはどこにいるのか?』のように」
(カリクレスは次のように答えた。)「おお、そうだ。もちろん。そのようなたぐいの事はな」
一方、クリティアスは次のように言い足した。
「実に、同時に、あなたソクラテスは、あなたソクラテスの『靴屋』(による例え話)、『大工』(による例え話)、『銅細工師』(による例え話)で(若者と)会話してきたのでしょうね」
「あなたソクラテスが、それら、『靴屋』(による例え話)、『大工』(による例え話)、『銅細工師』(による例え話)にもたらした通用を考慮すると、それら、『靴屋』(による例え話)、『大工』(による例え話)、『銅細工師』(による例え話)は、もう、かかとで踏みつけられなければいけない」
ソクラテスは次のように話した。
「それでは、私ソクラテスは、それら、『靴屋』(による例え話)、『大工』(による例え話)、『銅細工師』(による例え話)に付随している話題、正しさ(、善)、神的なもの、なども控えるべきですか?」
(カリクレスは次のように答えた。)「最も確実に(控えなさい)。また、特に、(『三十人僭主』を非難する)『牛の群れの管理者』(の例え話)を控えなさい」
「さもないと、牛の群れの数を自分で減少させないように気をつける羽目に成るぞ(。アテナイ市民の数から、お前ソクラテスを減少させないように気をつける羽目に成るぞ。お前ソクラテスを処刑するかもしれないぞ)」
このようにして、その秘密は明らかに成りました。
「牛」(の例え話)についてのソクラテスの言葉は「三十人僭主」どもの耳に届きました。
そして、「三十人僭主」どもは牛の例え話の作者ソクラテスを許す事ができませんでした。
多分、クリティアスとソクラテスの間に存在していた親しさの種類と、クリティアスとソクラテスの相互関係を説明するのに十分な事を(私クセノフォンは)言いました。
実に、私クセノフォンは「教師が教え子を満足させていなければ、そこに教育は無いのである(。教え子を満足させていなければ、実は教師と教え子の関係ではないのである)」と大胆に主張したいです。
さて、クリティアスとアルキビアデスについて、「クリティアスとアルキビアデスはソクラテスに満足していたので、クリティアスとアルキビアデスはソクラテスと交際していた」と言う事はできません。
そして、これは全期間に当てはまります。
最初からクリティアスとアルキビアデスの目は最終目標として国家の指導者の地位にくぎづけでした。
ソクラテスに親しんでいた時の間もクリティアスとアルキビアデスは議論が得意な人よりも自称政治家に会う事を望んだ。
アルキビアデスについて、次のような話が語られている。
二十歳未満でアルキビアデスは、法についての議論で、アルキビアデスの保護者であり、当時の国家の最高権力者である、ペリクレスと関わる事が有った。
アルキビアデスは次のように話した。
「ペリクレスよ、『法とは何か?』を私アルキビアデスに教える事ができますか?」
ペリクレスは次のように話した。
「もちろん、できます」
アルキビアデスは次のように話した。
「あなたペリクレスが『法とは何か?』を教えてくれるならば、とてもありがたいです」
「称賛の意味で適用される『法を遵守している』という形容語句をとてもよく聞きます」
「けれども、私アルキビアデスは『もし、ある人が、法とは何か? を知らなければ、その人は、法を遵守している、という称賛の言葉に全くふさわしくない』と思います」
ペリクレスは次のように話した。
「幸運にも、あなたアルキビアデスの問題への答えは用意されています」
「あなたアルキビアデスは『法とは何か?』を知りたいですか?」
「ええと、秘密の会議に集まっている、多数派が、『何をする事が正しいか?』、『何をしない事が正しいか?』について、承認して制定するものが法です」
アルキビアデスは次のように話した。
「『正しい事をする事は正しい』という前提で(法を)制定しますか?」
「それとも、『悪い事をする事は正しい』という前提で(法を)制定しますか?」
ペリクレスは次のように話した。
「『正しい事をする事は正しい』という前提です。もちろん。若い貴方よ。『悪い事をする事は正しい』という前提ではありません」
アルキビアデスは次のように話した。
「もし多数派ではなく寡頭政治の場合のように少数派でも、少数派は、集まって、そのような行動の規則を制定しますか?」
ペリクレスは次のように話した。
「熟考の末に(都市)国家を統治している権力者が我々(市民)が義務としてするべき事として制定した物は何であれ、『法』という名前で通用します」
アルキビアデスは次のように話した。
「それでは、(都市)国家で最高権力を握っている専制君主が市民の行動の規則を制定したら、それらの法令は法でしょうか?」
ペリクレスは次のように話した。
「ええ。国家の最高権力者として専制君主が制定した物も『法』という名前で通用します」
アルキビアデスは次のように話した。
「しかし、ペリクレスよ、暴力と不法をどのように定義しますか?」
「説得によってではなく強制によって、強者が強者にとって正しいと思われる事を弱者に行うように強制する場合は法ではないのでは?」
ペリクレスは次のように話した。
「もちろん、そうです」
アルキビアデスは次のように話した。
「そうすると、もし専制君主が、市民を説得せずに、法令によって、ある事を行うようにさせる場合は、不法という事に成るのではないでしょうか?」
ペリクレスは次のように話した。
「その通りですね」
「それでは、私ペリクレスは『専制君主が市民への説得無しに可決した法令でも法である』という発言を撤回します」
アルキビアデスは次のように話した。
「また、多数派の説得によってではなく、権力の行使のみで、少数派が可決した法令についてはどうでしょうか?」
「『暴力』という言葉をこのような場合に適用するべきでしょうか? それとも、適用するべきではないでしょうか?」
ペリクレスは次のように話した。
「私ペリクレスは、法令によってであろうとなかろうと、誰かが説得無しで他者に行うように強制する事は全て、法ではなく暴力である、と思います」
アルキビアデスは次のように話した。
「多数派が、富の所有者へ権力を行使して、富の所有者を説得しないで、制定しようと決める事は全て、法の性質ではなく暴力の性質を帯びているように思われますが?」
(ペリクレスは次のように答えた。)「確かに。それに言い足すと、」
「あなたアルキビアデスの年齢(、二十歳未満)の時には、私ペリクレスたち自身も、そのような屁理屈の巧妙な技量の持ち主でした」
「私達ペリクレスとアルキビアデスが機知を働かせるのに使用した物は丁度そのような巧妙さでした」
「私ペリクレスが誤っていなければ、あなたアルキビアデスが今、機知を働かせているように」
アルキビアデスは、それに次のように答えた。
「ああっ、ペリクレスよ、そのような問題について最も巧妙であった時に私達ペリクレスとアルキビアデスは会う事ができていたら、と私アルキビアデスは思いました」
さて、当時の政治家に対する望んでいた優位性へ到達したと思うとすぐに、クリティアスとアルキビアデスはソクラテスに背を向けた。
クリティアスとアルキビアデス自身の欠点について詰問される苛立たしさは言うまでも無く、クリティアスとアルキビアデスはソクラテスとの交際が魅力的ではないと考えた。
すぐに、クリティアスとアルキビアデスは、国政に専念したが、国政のためにソクラテスへ近づいた事は全く決して無かった。
ええ。
もしソクラテスの真の友人を知る事を求めるのであれば、クリトン、カイレフォン、カイレクラテス、ヘルモゲネス、シミアス、ケベス、パイドンデスなどを見る必要が有る。
クリトン、カイレフォン、カイレクラテス、ヘルモゲネス、シミアス、ケベス、パイドンデスなどは、議会や法廷での弁論に優れるように成るためではなく、家庭や家族への義務、血縁者達や友人達への義務、同胞の市民達への義務、国家全体への義務といった人生における多様な義務を果たしたかったので、実にソクラテスのような美しい良質な精神へ到達したいという気高い大志によって、ソクラテスに付いてまわった。
クリトン、カイレフォン、カイレクラテス、ヘルモゲネス、シミアス、ケベス、パイドンデスなどの(ソクラテスの)真の弟子達のうち、若者の時も老人の時も、悪行を犯して有罪に成ったり有罪であると思われたりした者はかつて誰もいない。
ソクラテスを訴えた者どもは「しかし、ソクラテスは、『あなた達をあなた達の父よりも賢くする事ができる』と若者の友人達を説得して、または、『子が自分の父を精神錯乱で訴えて自分の父を投獄する事を法は許している』と指摘して、若者に自分の父へ侮辱を浴びせるよう教えた。ソクラテスは、『賢者が賢者よりも無知な者を投獄する事は良いかもしれない』事を証明するために、『子が自分の父を精神錯乱で訴えて自分の父を投獄する事を法は許している』法令を証拠として提出した」と主張した。
だが、ソクラテスの考えた事とは「もし、ある人が一種の愚かさや無知よりも正しい理由のためではなく(、つまり、愚かさや無知という理由で)他者を裁判によって投獄できるのであれば、その、ある人は、知恵において自分よりも上の者に自身が投獄された場合、当然、抗議できない」という事であった。
そして、このような問題の根底に到達する事、狂気と無知の違いを発見する事が、ソクラテスが絶え間無く取り組んでいた問題でした。
ソクラテスの意見は次のように成りました。
もし狂人自身や狂人の身内に好都合であるとして狂人を投獄しても良いのであれば、確実に、正しさ(、善悪)の問題として、知るべき事を知らない人は、知るべき事を知っている人の足下で甘んじて耐えるべきであるし、知るべき事を教わるべきである。
しかし、(ソクラテスを訴えた者どもによると、)ソクラテスが「病人や訴訟人は、自分の親族からではなく、病人の場合は自分の医者から、訴訟人の場合は法律顧問から、援助を得る」と話した時、「ソクラテスの弟子達の目の前でソクラテスが侮辱した人は(若者の)父だけではなく残りの(若者の)親族もであった」(とソクラテスを訴えた者どもは主張した)。
ソクラテスを訴えた者どもは次のように話した。「さらに、ソクラテスが友人達と話した言葉を聴いてください」
「『親族が、あなた達にとって何か現実的に役に立つ事ができないのであれば、親族が親切な気質であっても何の役に立つのか? 単なる気質の良さは役に立たない。何が正しいか? という知恵と、何が正しいか? を解説する能力を合わせ持つ者だけが称賛に値するのである』。そして、若者にソクラテスを『他者をも賢くする驚くべき能力を(神から)与えられた最高の賢者』と見なさせて、ソクラテスは、ソクラテスと交際した人の気質に働きかけて、ソクラテスと交際した人に(ソクラテスを)尊敬させて、残りの人々を『ソクラテスと比較して役に立たない』と見なさせた」
さて、私クセノフォンは若者の父や残りの親族についての(ソクラテスの)言葉を認めます。
私クセノフォンは更に進めて、ソクラテスのいくつかの他の言葉を言い足す事ができます。
「(知性の中心に独りで宿っている)魂が人(の肉体)から去ったら、仮に、その人が私達の最も近しい最愛の友人でも、私達は、その人の死体を運んで見えない場所に埋葬します」
ソクラテスはよく次のように話していました。「生前でも、私達の各々は、自分の最高の所有物の全部、つまり、自分の肉体の全部を、もし自分の肉体が使い物に成らなく成ったり不採算に成ったりしたら、手放す覚悟をしている」
「私達の各々は自分で自分の肉体(の一部)を除去するか、自分の代わりに他人が自分の肉体(の一部)を除去する事を容認する」
「このため、人は自分の爪、髪、たこを切り落とす」
「人は、痛くても、外科医が自分の肉体の一部を切ったり焼いたりする事を許す。そして、人は、医者が役に立ってくれた事を医者に感謝して、その上、謝礼金を医者に払う」
「また、ある人は可能な限り口から唾を吐き出す」
「なぜか?」
「なぜなら、唾は、(体)組織内に留まっていると、役に立たないか、むしろ有害だからである」
さて、ソクラテスの(言葉の)目的とは、これらの例によって、父を生きたまま埋葬する義務を教える事ではなく、また、自身をバラバラに切る義務を教える事ではなく、「知性の欠如は(人の)価値の欠如を意味する」と教える事であった。
そうして、ソクラテスは聴衆に可能な限り賢明であるように、役に立つように求めたのである。
そのため、仮に、父でも、兄弟でも、尊敬させたい他の誰でも、人は、ただの親族を頼って自己の利益を不注意に喜ぶべきではなく、尊敬させたいと望んでいる人々にとって役に立つ人であるように努めるべきなのである。
しかし、(ソクラテスを訴えた者どもは次のように追求しました。)「有名な詩人による最も不道徳な節々を用心して選び集めて証拠として利用して、ソクラテスは友人達に悪行を犯す人に成るように、暴君に成るように非道に成るように教えた」
「例えば、次のようなヘシオドスによる一節である」
「『恥と成る仕事など無い。仕事への怠慢が恥と成る』」
ソクラテスを訴えた者どもは次のように話した。
「ソクラテスは、詩人ヘシオドスが人々に『(暗殺などのように)邪悪な仕事や下劣な仕事を控えないように』言っているかのように、詩人ヘシオドスが人々に『利益のためならばどんな事でも行うように』言っているかのように、例として挙げたヘシオドスによる一節を(ねじ曲げて)説明した」
さて、ソクラテスは「人にとって労働者である事はありがたいし有益である」という考えを完全に認めたであろう。
また、ソクラテスは「怠惰で何もしないのは有害で邪悪である」という考えを認めたであろう。
また、ソクラテスは「仕事は善である。そして、怠惰は災いの元である」という考えを認めたであろう。
(さて、)「ソクラテスが『労働者』(という言葉)で示していたのは、どんな者か?」という疑問が生じます。
ソクラテスの用語では、善い務めに取り組んでいる者だけが「善い労働者」なのです。
サイコロなどで賭け事をしている者どもといった、全ての下劣で破滅的な事に取り組んでいる者どもに、ソクラテスは「怠け者」という烙印を押した。
そして、このような観点からの、ヘシオドスからの引用は非の打ち所が無いのです。
「恥と成る仕事など無い。仕事への怠慢が恥と成る」
実に、ソクラテスを訴えた者どもが言ったように、ソクラテスはホメロスからの一節をひっきりなしに口にしていた。
そのホメロスからの一節とはオデュッセウスについて話している一節である。
何という王や高名な人物を、オデュッセウスは、既知の逃亡に気づいて、最も優しい非難の言葉で引き止めたであろうか!
「よろしい、貴方達には、逃げないか、恐れているかのようにふるまうのが、ふさわしいのです。貴方達は、自身を留めるだけではなく、人々が留まっているのを見届けるべきなのです」
このように、オデュッセウスは最善の物(、最善の言葉)を使った。
オデュッセウスが最悪の言葉を使っていたら、その言葉で王や高名な人物の士気は崩壊していたであろう。
オデュッセウスは王笏で打ち、叱り、次のように言った。
「留まりなさい、哀れな人達よ、黙りなさい。そして、貴方達よりも賢明な人(である私オデュッセウス)の話を聴きなさい。貴方達は下劣であるし、力や技に乏しいし、話し合いや戦いにおける名声が無い」
私達は、これらの王達のように成ってはいけない。
ソクラテスを訴えた者どもは「ソクラテスは、これらのホメロスの詩の節々を、まるで詩人ホメロスが庶民や貧民に打撃を与える事を認めているかのように、(ねじ曲げて)説明した」と訴えた。
だが、ソクラテスが、そんな発言をした事は決して無い。
(仮に、ソクラテスが、そんな発言をしたのであれば、)実に、そんな発言はソクラテス自身がソクラテス自身を叩くべきであると主張するのに等しく成ったであろう。(なぜなら、ソクラテスは庶民であったし、自ら貧民であったからである。)
ソクラテスの言葉(の真意)は、「言葉でも行動でも役に立たない者、必要な時に軍や国家や国民自体に援助を与える事ができない者は、それほど裕福ではなくても、制限されるべきである。無能な上に厚顔無恥である場合は特に」という事でした。
ソクラテスについて言うと、ソクラテスは、これらとは全くまさに正反対でした。
ソクラテスは国民を明らかに愛していたし、実に、全ての人を明らかに愛していた。
ソクラテスには(都市国家の)市民の中に多数の熱心な崇拝者がいましたし、外国人の中にも同様に(多数の熱心な崇拝者が)いましたが、ソクラテスはソクラテスと交際するための、どのような料金も誰にも決して要求しなかった。
実に、ソクラテスはソクラテスの精神という富を全ての人々に分け隔て無く豊かに与えた。
実に、ソクラテスのようではない、(都市国家の)国民を愛していない一部の人は、ソクラテスの精神の諸部分という善い諸物をソクラテスの手によって無料で受け取り、奪い、残りの市民に高い代価と引き換えに売った。
なぜなら、ソクラテスのようではない、(都市国家の)国民を愛していない一部の人は、見返りとして与えるお金が無い人達と話す事を拒否したからである。
実に、ソクラテスについて話すと、ソクラテスは、全世界の目に見える更なる栄光を国家にもたらしたし、名声が評判に成っていて(スパルタとも呼ばれる)ラケダイモン(という都市国家)にまで及んでいるリカスよりも更に豊かな栄光を国家にもたらした。
リカスは、(スパルタの祭りである)ジムノペディアで、(スパルタとも呼ばれる)ラケダイモン(という都市国家)に住んでいた外国人を最も見事にもてなして楽しませた。
ソクラテスは、ソクラテスの本質を受け入れたいと思う全ての人に最も偉大な利益を与えるという形で、ソクラテスの本質を流出する事に一生を捧げた。
言い換えると、ソクラテスは、ソクラテスと交際していた人をより善い人にして、相手に応じた方法で喜ばせて満足させた。
そのため、私クセノフォンは、実に、「善良な人なので、ソクラテスは国家から死よりも名誉を受け取るのがふさわしかった」という結論に至る事ができた。
また、私クセノフォンは、このような結論が、ソクラテスへの訴訟事件への厳密な法的な見解であると理解している。
(さて、)法は何と命じているのか?
「もし人が盗人、衣服の盗人、スリをした盗人、住居への押し込み強盗、奴隷として人を誘拐した犯人、神殿への強盗犯であると証明されたら、その刑罰は死刑である」
たとえ、そうであっても、全ての人のうちで、ソクラテスは、そのような犯罪行為から最も離れていました。
国家にとって、ソクラテスは、あらゆる悪の原因には決して成らなかった。
ソクラテスは、戦争における災害、内紛、国家への反逆、その他の、何であれ、全ての損害の原因には決して成らなかった。
また、ソクラテスの公人としての人生では全ての罪が無かったのであれば、ソクラテスの私人としての人生も、そうだったのである。
ソクラテスは、善行を奪ったり、悪行を加えたりして、一人も傷つける事が決して無かった。
また、ソクラテスは悪行を誰かに責任転嫁する嘘をついた事が決して無かった。
さて、ソクラテスへの訴訟へのソクラテスの法的責任はどこに有るというのか?
ソクラテスへの訴訟で述べられているように(国家が認めている)神々を信じないどころか、ソクラテスは、抜群に全ての人を超越して、(国家が認めている)神々に奉仕していた。
ソクラテスを訴えた者どもが強く主張した非難である「若者を堕落させた」どころか、ソクラテスは、友人達の邪悪な欲望を抑える事だけではなく、国家や家庭を崩壊させる事無しに、最も美しい女王のような徳、善行への情熱を友人達に抱かせる事に努める事に熱心で有名であった。
このようなソクラテスの行動では、ソクラテスは都市国家アテナイからの高い名誉にふさわしくなかったというのか?
(ソクラテスの最も気高く高貴な徳、善行は国家と家庭を繁栄に導いた。※別の版)