第一巻 第一章 (ソクラテスへの死刑に対する反論)(ソクラテスの信心深さ)
ソクラテスの思い出
クセノフォン(著)
ヘンリー グラハム ダキンス(〜千九百十一)(英訳)
第一巻
第一巻 第一章 (ソクラテスへの死刑に対する反論)(ソクラテスの信心深さ)(神による前兆の存在)(ソクラテスから友人達への助言)(予知は神の領分)(自身以外への科学よりも自身を含む人と善への哲学の推奨)(神の全知と遍在)
どんな言い分によってソクラテスの命が正当に国に(罪の罰として)没収されたとソクラテスを訴えた者どもがアテナイ市民達を説得できたのか私クセノフォンはよく不思議に思ってきた。
ソクラテスに対する起訴状の趣旨は次のような物であった。
「ソクラテスは国が認めている神々を認める事を拒否する罪を犯している。また、ソクラテスはソクラテス独自のあやしい神々を(国に)持ち込んでいる罪を犯している。さらに、ソクラテスは若者を堕落させる罪を犯している」
第一に、ソクラテスを訴えた者どもは、ソクラテスが国が認めている神々を認める事を拒否したという、どんな証拠を提示したのか?
ソクラテスは(国が認めている)神々に捧げものを捧げなかったのか?
または、ソクラテスは(国が認めている神々の)予言無しで済ましたのか?
逆に、自宅や国の共用の祭壇でソクラテスが(国が認めている)神々に捧げものを捧げている姿が頻繁に見られた。
また、ソクラテスが(国が認めている神々の)予言を信頼しているのは、それに劣らず、明らかであった。
確かに、ソクラテスが「ある神性(、何らかの神のようなもの)が私ソクラテスに教えてくれる」と言っていた事は皆が口にしていた。
私クセノフォンが間違っていなければ、それはソクラテスが新しい神々を(国に)持ち込んだという非難の根拠に成っているほどであった。
けれども、ソクラテスの事例は、鳥達の飛び方や鳴き方(による鳥占い)、人々の発言、偶然の出会い、神に捧げた動物の内臓(の様子による占い)といった、あらゆる種類の前兆によく頼って神託の助けを信じている他の人々の事例よりも、珍しくはなかった。
一般的な大衆の考えでさえも、それは、ただの鳥ではなく、個人が遭遇した偶然ではなく、実に、人にとって何が有益かを知っている、そのような諸手段で同一の前兆を表してくれる、神々によるものなのである。
これはまたソクラテスの見解だったのである。
人々は道で鳥や他の生物に遭遇したら脇に避けたり急いだりすると普通、話すだけだが、ソクラテスの言葉はソクラテスの確信と一致していた。
「その神性は私ソクラテスに合図をくれる」とソクラテスは言っていた。
さらに、ソクラテスは常に友人達に、この同じ神的なお告げの権威によって、(正しい事を)行うように助言したり、(悪い事を)行わないように助言したりしていた。
そして、実際に、ソクラテスの諸々の忠告を聞き入れた者達は栄えたが、一方、ソクラテスの諸々の忠告に聞く耳を持たなかった者は後悔する羽目に成った。
さらに、すぐに認められるであろうが、ソクラテスは普段、自身を悪人や愚者として友人達に見せる事を望まなかった。
仮に、神が(ソクラテスに)もたらしていたお告げ(という物)が実際は虚勢を張るソクラテス独自の傾向を暴露していたのであれば、ソクラテスは悪人や愚者として見えたであろうが(、実際は、そうではない)。
(仮に、ソクラテスの誇りである、天の神からの明示が、実は、ソクラテスの判断の誤りを明らかにしていたのであれば、ソクラテスは悪人や愚者として見えたであろうが、実際は、そうではない。※別の版)
ソクラテスが占いを全く試さなかったのは明らかである。
実に、ソクラテスの確信についてソクラテスが話した諸々の言葉は実際に証明されるであろう。
ソクラテスの確信は、もし神を根源としていなかったのであれば、誰を、または、何を根源としていたというのか? (ソクラテスの確信は神を根源としていた!)
また、もしソクラテスが(国が認めている)神々を信じていたのであれば、どうしてソクラテスが(国が認めている)神々を認めない事ができたであろうか? (ソクラテスは国が認めている神々を認めていた!)
ただし、親しい友人達へのソクラテスの対応方法には別の側面が有った。
生きるのに必要な日常の事についてのソクラテスの助言は「あなたが最善であると思う通りに行いなさい」であった。
(確定的な範囲についてのソクラテスの助言は「あなたが最善であると思う通りに行いなさい」であった。※別の版)
ただし、見通せない問題、予想不能な問題の場合には、ソクラテスは「問題に取り組むべきか否か」を神託へ相談するように友人達に命じた。
「家や都市(国家)の統治の成功を望む者で、国家の統治を正しく導こうと望む者で、上の者である神からの助け無しで済ます事ができる者は誰もいないのである」とソクラテスはよく言っていた。
疑い無く、木工、建築、鍛冶、農業における技術、人の統治術の技術、並びに、それらの処理の理論と、数学、経済学、戦略学は、努力して学習する物であるし、人の知力による理解の範囲内に存在する。
しかし、人の知力による理解の範囲内に存在するものと対等な、少なからず重要な、別のもの、神々が神々の物として取って置いてあるもの、人の洞察力からは隠されているものが存在する。
そのため、とんでもなく非常に巧みに、ある人に種を畑に撒かせたり農園に植えさせたりしても、その人は誰が成果を刈り入れるのか予言できない。
別の、ある人は自身のために最高に美しく調和している家を建てるかもしれないが、その人は誰がその家に住む事に成るのか知らない。
ある将軍はある戦闘を指揮する事が自身の利益になるかどうか予見できないし、ある政治家は自身の指導が良い結果に成るか悪い結果と成るか確信する事ができない。
また、美しい妻と結婚する男性が、喜びを望んでいても、妻によって悲しまないかどうか知る事はできない。
都市国家で強い繋がりを築き上げた人がその繋がりによって自分の都市国家から国外追放されるかどうか知る事はできない。
超自然的なものを無視して、これらの全ての問題が人の判断力の範囲内にあると思う事は超自然的な愚かさである。
(神が)学習によって決断するように人に与えている、どんな問題についても神意に相談しに行く事は(その超自然的な愚かさに比べると)行き過ぎの程度がより少ない(が、愚かである)。
人が「私は私の馬車の御者として熟練した馬車の御者を選ぶべきでしょうか? それとも、馬の手綱に触れた事が無い人を選ぶべきでしょうか?」と尋ねるような物なのである。
「私は船乗りを私の船の船長に指名するべきでしょうか? それとも、陸上勤務者に指名するべきでしょうか?」(と尋ねるような物なのである。)
また、数えたり、量ったり、測ったりして知る事ができる全てのものについても、そうなのである。
そういった問題について神からの助言を求める事は一種の神への冒涜に成ってしまう。
ソクラテスは「人の義務は明らかである。人が人の自然な能力で解決する事が可能な場合は必ず人は人の自然な能力を利用しなさい。しかし、隠されている物事においては、上の者である神からの知恵を(神託という)予言によって得ようと努めなさい。なぜなら、神々は諸々の合図を神々が思いやろうとする(正しい思いやり深い)人に与えてくれる」とよく言っていた。
さらに、ソクラテスは常に大衆の見える所で暮らしていた。
早朝ソクラテスが散歩道の一つかレスリング場の一つに行っている姿が必ず見かけられた。
真昼ソクラテスは集まった友人と共に市場によく現れた。
そして、陽が傾いている間は、人が最も集まっている所に遭遇できるかもしれない所ならばどこでも、ソクラテスは見かけられて、ほとんどの場合ソクラテスは(人と)話していて、(立ち止まってソクラテスの話を聞く事を)選んだ人は皆、立ち止まって聞く事ができた。
しかし、ソクラテスが不信心な、(神に)不敬な何かを話したのを聞いた人は誰もいないし、ソクラテスが不信心な、(神に)不敬な何かを行ったのを見た人は誰もいない。
実に、他の人々とは対照的に、ソクラテスは森羅万象の性質といった高位の(神的な)問題についての全ての議論に反対した。
学者が話すような、どのようにして「コスモス」、「世界」が生じたのか(についての議論にソクラテスは反対した)。
どんな諸々の力によって天体現象が生じるのか(についての議論にソクラテスは反対した)。
「そのような問題について頭を悩ませる事は愚行を演じる事である」とソクラテスは主張した。
ソクラテスはよく最初に次のように尋ねた。
これらの研究者達は人の物事についての知識が非常に完全であると感じて、これらの高尚な推測に没頭しているのか?
または、これらの研究者達は、神の物事について推測するために、このようにして人の物事を無視して、人に相応しい義務を果たしていると主張しているのか?
どの位これらの(神の物である)諸問題が人の理解を超えているのか、これらの研究者達は理解していない事にソクラテスは驚いていた。
なぜなら、これらの(神の物である)諸問題についての議論について最も自慢している者達ですら互いの意見が合わない。狂人どもは互いの意見が合わないように。
「なぜなら、ある狂人どもは本当に恐ろしい物事への恐れが無いのと、全く同じように、別の、ある狂人どもは恐ろしくない物事を恐れる」とソクラテスは言った。
ある人達は少しも恥ずかしげも無く人前で、どんな事でも言ったり行ったりする事ができる。(良くも悪くも恐れ知らずである。)
別の、ある人達は人々の中に足を踏み入れる事すらするべきではないと思う。
ある人達は神殿も、祭壇も、その他の神聖な全てのもの、神の御名まで畏敬しない。
別の、ある人達は木や石まで畏敬するし、動物そのものも畏敬する。
森羅万象の性質についてかまけて頭を悩ませている、これらの思想家も、そうなのである。
ある学派の者は存在が唯一で不可分であると気づいた。
別の、ある学派の者は存在が数における無限であると気づいた。
ある者が万物は絶えず流動していると主張すれば、別の、ある者は何時でも動かす事ができる物は多分、何も無いだろうと応戦する。
生滅の過程としての森羅万象の理論は、何ものも生じたり滅んだりしないという反対の理論と衝突する。
ただし、これらの推測者達の長短についてのソクラテスの質問は時々別の形を取った。
「人の学問の研究者は研究者自身や他者の利益のために研究者が望んだ通りに研究から何ものかを作るつもりである」とソクラテスは言った。
これらの、神の働きの研究者達はどんな諸々の力によって色々な現象が起きるのか発見した時に風や水を思い通りに創造したり豊作な季節を創造したりしようと望んでいるのか?
研究者達は風や水や季節を操作するつもりなのか? 研究者達は風や水や季節に似たものを研究者自身の欲求に合わせるつもりなのか?
または、そのような考えが研究者達の頭には浮かんだ事はもしかして無いのか? また、研究者達はどのようにそういった物が生じるのかただ知るだけで満足するつもりなのか?
しかし、もし、これらのような問題を弄ぶ研究者達について言ったソクラテスの言い方通りであったならば、ソクラテス自身は人の問題の議論に飽きる事は決して無かった。
信心とは何か?
不信心とは何か?
美とは何か?
醜さとは何か?
高貴とは何か?
下劣とは何か?
正しさの意味、不正の意味とは何か?
冷静の意味、狂気の意味とは何か?
勇気の意味、臆病の意味とは何か?
国家とは何か?
政治家とは何者か?
人々の統治者とは何者か?
支配的な性質は何か?
また、その他の似た諸問題は、貴族の特権を(諸問題の答えの)所有者にもたらす知識であり、一方、その知識が不足している人は当然、奴隷呼ばわりされる。
(また、その他の似た諸問題は、美しさと醜悪さ、善と悪を区別する知識であり、一方、その知識が不足している人は当然、奴隷呼ばわりされる。※別の版)
さて、ソクラテスの諸々の考えが世間に広く知られていない限り、裁判官がソクラテスの諸々の考えについて誤った結論を導き出した事に驚かない。
しかし、全ての人にとって明らかな諸々の事実が無視された事は実に驚きである。
かつてソクラテスは議員であり、議員の誓いを誓って、「議員として諸々の法に従って行動する事」を誓った。
トラシュロス、エラシニデスといった九人の将軍を一回の包括的な投票で死刑にする欲求に民会がとりつかれた時にソクラテスは民会の議長に成る事ができる機会が有った。
そこで、民衆の強い怒りと数人の有力な市民の脅迫にもかかわらず、ソクラテスは、不法に民衆を喜ばせる事よりも、また、有力者の脅迫から身を守る事よりも、誓った誓いを信心深く守る事がより重要であると重んじて、その投票を求める事を拒否した。
事実、神々が人を思いやる事について、ソクラテスの確信は大衆の信仰とは大いに異なっていた。
大多数の大衆は「神々は、ある程度は知っていて、ある程度は無知である」と妄想しているように見受けられるが、ソクラテスは「神々は全てを知っている」と固く信じていた。
「神々は全知ではない」という説と「神々は全知である」という説が唱えられ、実践され、心という静かな部屋で話し合われている。
さらに、神々は全ての場所に存在していて、人の全ての物事について人に合図を与えてくれる。
そのため、私クセノフォンは私クセノフォンの先の諸々の言葉を実に他言する事ができる。
ソクラテスは神々に手を出しているので冷静さが不足していると、どうしてアテナイ市民達が説得されたのか私クセノフォンには不思議である。
我々が畏敬する神々に対して不信心な言動を決して一つもしなかった一人の人ソクラテスの神々についての全ての言動は一字一句、一挙手一投足が厳密に一致していて、我々が最も信心深い信心深さの特徴であると思う全てを備えていた。