どうせ政略結婚でしょう?
ノーマンと出会って季節が変わった。そんなある日のこと、彼が自分の自宅兼ジムに来ませんか、と誘ってくれた。なんでも、自宅の一部を改築してトレーニングやマッサージが出来るようにしているとか。彼の顧客の中には、設備の整っている彼のジムを訪れてトレーニングの指導やマッサージを受ける人も少なくないらしい。
「そうですね。夫に許可を得る必要がありますし、また機会がありましたら」
さすがに男性の自宅を訪れるのはいただけない。
侯爵とわたしの関係に愛や絆や信頼、それどころかほんのわずかな接点すらない、ないない尽くしである。とはいえ、一応わたしはダウリング侯爵の妻。そのわたしが、大きなお屋敷を公式に訪問するならともかく、若い男性の住む家を訪れるなんてあり得ない。
いくら世間知らずとはいえ、それくらいの良識は持ち合わせている。
「夫の許可? ずっと妻をほったらかしにしている夫のですか?」
ノーマンは大げさに溜息をついた。
若くて美しくてやさしい、侯爵とはまったく違う種族であるかのような青年。
当然ながら、ノーマンには侯爵とわたしの関係についていっさい話をしていない。
そんな個人的な内容まで話す必要などない。
それなのに、どうやら彼はわたしとの雑談から寄り合わせ、侯爵との関係を推測しているみたい。
その推測は間違ってはいないけれど、関係のない彼にそんなことを言われる筋合いはないと感じた。
正直、いまのノーマンの言葉は不愉快だった。
「そんなことはありません。夫は、激務なのです。ですから、なかなかいっしょにすごせる時間がないのです。わたしは、それでも充分満足しています」
「はんっ、どうだか。どうせどこかで浮気でもしているんだろう? 強面で粗暴でデリカシーのない獣みたいな男が、まあまあの器量で若さと明るさだけが取り柄みたいなレディをほったらかしにしているなんてどうかしている。ほんとうに夫婦なんだかね? 政略結婚じゃないのか? 夫婦のふりってやつだ。世間体を整えているだけなんじゃないの?」
一瞬、「まあまあの器量で若さと明るいだけが取り柄のレディ」、というところが気になった。
そこはふつう、美しいとか可愛いとかやさしいとか気遣い抜群とかではないの?
ダメダメ。そこではない。そこではないわ。
わずかに頭を振り、どうでもいいことを振り払った。その瞬間、カッと頭に血が上った。
彼は、知らないのである。それなのに、まるで見ているかのように言った。
彼の美貌には、自信からくる勝ち誇った表情が浮かんでいる。
より腹が立つのは、わたしへの褒め言葉以外はすべて正しいということ。
「まっ、おれも性急すぎたかな? だが、冷静に考えた方がいい。きみのようなレディを蔑ろにするおっさんに尽くす必要なんてない。人生は一度きりだ。まだ若いんだし、もっと楽しまないと。これ、おれの住所。気が変わったら、いつでも来てくれていいよ。気長に待っているから」
拳を握りしめ、ワナワナと震えてしまった。ノーマンは、そのわたしの拳をこじ開けて無理矢理紙片を握らせてきた。それから、「じゃあ」と軽い調子で去ってしまった。
「クーン」
彼に渡された紙片を握りしめ、怒りに身を委ねたままアールに近づいた。
アールは、狼面をわたしの太腿にこすりつけて慰めてくれる。
怒っているのは、もちろんノーマンに対して。
だけど、自分自身にもである。
ノーマンになにも言い返せなかった自分に対して。
彼に「侯爵はそういう人ではない」、と言い返せなかった自分に対してである。
アールのリードを握り、トボトボとダウリング侯爵邸へ帰った。
もう王立公園には行かないようにしよう。
翌日、目覚めたときにそう決意した。
しかし、体はジョギングすることに慣れきってしまっている。頭と体は、ほんの少しでも走ることを欲している。
王立公園には行かず、街を散策するのはどうかしら。
寝台からおり、昨日ノーマンに無理矢理渡された紙片を取りに机に行った。
その住所を地図で調べ、その辺りとその辺りから王立公園までのルートを避ければ、ノーマンにバッタリ出会うという偶然を避けられるかもしれない。
われながら浅知恵だと思う。だけど、歩くだけでもいい。なにかしら体を動かしたい。とはいえ、この辺りをウロウロすれば、噂好きの貴族たちにどのような噂を流されるかわからない。
それこそ、侯爵に恥をかかせてしまう。
メイドのケイシーがやって来ると、さっそく地図を貸してもらうようお願いした。
メモと地図を照らし合わせ、散歩するコースを決めた。
ほんとうに街中だから、走ることは出来ない。だけど、そこそこの距離は歩けるかもしれない。
朝食後、動きやすいあっさりしたスカートとシャツに着替え、さっそく散歩に出かけることにした。
裏庭の犬舎にいるアールを連れに行き、エントランスの前までやって来た。
すると、今朝もまた侯爵がどこかのレディと約束があるのか、ダウリング侯爵家の馬車が準備万端で待っている。
「奥様、おはようございます」
「おはようございます」
「今朝は、天気があまりよくありませんね。いまから散歩ですか?」
「ええ」
ダウリング侯爵家で雑用と馬の世話と馭者をしているブルーノが声をかけてきた。
天気のことを言われ、空を見上げてみた。
たしかに、どんより曇っている。それに肌寒いわね。
「なにか羽織った方がいいかもしれないわね。ブルーノ、アールをお願い出来るかしら? すぐに戻ってきます」
「もちろんですとも。旦那様もまだのようですし、二人で待っています」
ブルーノは、体はいかついし侯爵ほどではないけれど強面である。だけど、彼は馬やアールにとってもやさしくしている。もちろん、わたしに対してもだけど。
奥さんに先立たれたらしく、屋敷に住み込んで働いてくれている。
そのブルーノの側で待つようアールに言いつけ、屋敷内に入って自分の部屋に羽織るものを取りに行った。
ちょうど椅子の背にカーディガンをかけていたので、それを羽織って部屋を出た。
すると、主寝室の扉が開いて侯爵が出てきた。
おもいっきり目と目が合ってしまった。
おたがいにハッとした表情になった。
痛いほどの沈黙。
どうするの、わたし?
焦ってしまう。
すると、意外にも侯爵が喋りかけてきた。というよりか、詰問してきた。