孤独な日々
そんなある日、侯爵が一頭の大型犬を連れて帰って来た。
なんでも、狼の血をひいている元軍用犬らしい。銀色の毛並みが美しく、強くて利口そう。
一目見て気に入ってしまった。
だけど、王宮で犬に一度も接したことのないわたしは、その犬とお付き合い出来るか自信がない。
しかし、その心配は杞憂に終わった。
その犬は、やはり利口だった。自分からわたしにフレンドリーに接してくれたからである。
犬の名は「アージェント・ルプス」。銀色の狼という意味である。
名前が長いので、アージェントのアーとルプスのルをとってアールと呼ぶことにした。
わたしだけの呼び方。ちょっとだけワクワクする。
アールとわたしは、日中一緒にすごすことが多くなった。
自分の寝室の居心地がよすぎてひきこもりがちだったけれど、彼のお蔭で日中は庭やテラスですごすことが多くなった。
「アール、気持ちがいいわね」
庭の木の下で、彼にもたれて日向ぼっこをするのが気持ちよすぎる。
ときにはおやつのクッキーとジャーキーを食べながら、あるいは紅茶とお水を飲みながら、ボーッとすごすのである。
もちろん、敷地内を散歩したりもする。
王宮にいたときは、夜間人がいないときに庭園や王宮内を散歩していた。とはいえ、夜間は近衛兵たちが夜間警備をしている。彼らに見つかったら、すぐに執事長やメイド長に報告されてこっぴどく叱られてしまう。それから、折檻も。
だから、ほんのちょっとそこら辺りを侵入者のようにコソコソ歩くだけだった。
だけど、いまは違う。アールと歩くのだって追いかけっこをするのだって、なんでも自由。
彼と庭で遊ぶようになって初めて、自分の体力のなさに驚いてしまった。
とにかく、走れない。走れないだけではない。スキップをしようにも足がもつれてしまう。歩くのですら、少し歩くと疲れてしまう。
「待って、アール。もう疲れてしまったわ。休みましょう」
駆けっこしたけれど、やはりすぐに疲れてしまった。彼に提案してから、庭の大木の下に座った。地べたに座るのも、最初は抵抗があった。だけど、日中暑いくらいのこの時期は、地面のかすかなヒンヤリ感が心地いい。
「屋敷の近くに王立公園があるんですって。とっても広くて、多くの人が訪れるらしいわ」
執事のバートやメイドのケイシーから、ダウリング侯爵邸から歩いて行ける距離に王立公園があるときいた。そこは王都の人たちの憩いの場で、多くの人たちが思い思いにすごしているらしい。犬の散歩にも向いていて、平民だけでなく貴族の使用人たちが主が飼っている犬を連れてきては散歩させているとか。それとは別に、健康の為に歩いたり走ったり出来るようなコースもあるとか。
「侯爵閣下に許可をいただいて、王立公園に行ってみましょうか? あなたもここの庭だけだと物足りないでしょうし。わたしも体力増進の為に本格的に、とまでは行かなくても歩いた方がよさそうですものね」
提案すると、アールは右に左に頭を倒した。
「じゃあ、侯爵閣下に許可をもらわないとね」
それを肯定と受け取ることにした。
その夕方、さっそく侯爵にお願いするチャンスがめぐってきた。
厨房に手伝いに行こうと階段を降りていると、彼がちょうどでかけるところにでくわしたのである。
「侯爵閣下、あの、いま少しだけよろしいでしょうか?」
「急いでいる。夕食の約束があるんだ。はやくしてくれ」
執事のバートが側にいる為、彼は一応立ち止まってくれた。
夕食の約束の相手は、彼が付き合っているレディの一人であることはいうまでもない。
ズキンと胸の辺りに鈍い痛みが走った。
「お急ぎのところ申し訳ございません。じつはアールと、いえ、『アージェント・ルプス』と王立公園にお散歩に行きたいのです。よろしいでしょうか?」
「よろしいもなにも、おれはきみをこの屋敷に縛りつけているわけではない。公園でも劇場でも好きなところに行けるはずだ。そんなくだらないことで貴重な時間を費やしてもらっては困るな」
「だ、旦那様……」
なんとなく予想をしていたので、彼の鋭く厳しい返答はわたしを傷つけることはなかった。返答してくれたらよしとしなければ、と思っていた。
だけど、執事のバートはそうはとらなかった。慌てふためいている。
わたしを気遣ってのこと。気の毒になってしまう。
「それだけか? バート、今夜は遅くなる」
「旦那様」
侯爵はわたしに一瞥すらくれず、開いたままの玄関扉の向こうへとズンズンと歩いて行ってしまった。
夕食の約束をしているレディのもとへ向かう為に。
バートは、慌てふためきながら追いかけて行った。
胸の鈍い痛みは続いている。それを感じないようにする為、わざと笑顔を作ってみた。
笑顔でいると、気分が明るくなる。
それがわたしなりの気分転換。気力を維持する方法。
とりあえず、これで堂々と外出出来る。
明日、さっそくアールと一緒に王立公園に行ってみましょう。
うれしくなってきた。厨房に向いながら、自分がスキップしていることに気がついた。
もっとも、歩きたての小鹿みたいにブルブルしながらだけど。
その夜も、侯爵は深夜遅く戻って来た。
主寝室との扉の隙間から漏れる明かりを、寝台の中からボーッと眺めている内に眠りに落ちた。
彼の好きなレディは、どんな女性なのだろうと考えながら。
翌朝、朝食後にさっそくアールと王立公園に向かった。
執事のバートに道順を尋ねると、彼は日に焼けて健康そうな顔に茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。
彼は屋敷の門の前まで行くと、東の方角を指さした。
「この道をしばらくまっすぐ歩くと、目の前に現れます。絶対に見落とすことはありません」
世間知らずのわたしでも、それなら問題はない。
彼にお礼を言うと、アールのリードをしっかり握って歩き始めた。