やはり桜の木の下に
『桜の木の下には腐った死体がカウパーのようにドロドロと埋まっているというのは、かの梶井基次郎氏の作品で有名だが、果たして本当にそうなのかと検証したくなる。
それは梶井氏のあれだけ綺麗に咲くのだから…という婉曲じみたものであると決めつけるにはまだ惜しいのである。
したがって私は試してみることにした。
もうすぐこの街にソメイヨシノの大きな並木道ができるそうだ。
———だから私は、性根の腐った奴らを埋めようと思った…
それはそれは暖かい日だった。
寒い冬を超えてようやく春がやってきた。
そんな時だった。
桜並木の映えるこの道は老若男女問わずよく人が訪れる場所だった。
一枚一枚、鮮やかな色を讃えた花びらたちが新しい季節を謳歌していた。
そんな折にただならない事件が起こる。
たまたまその現場で妻と休暇を満喫していた刑事、薄羽は休みをやむなく返上しなければならなかった…』
と、私はここまでのありきたりな筋書きを思い描いては飽き飽きしてただ呆然と、窓の外を見つめてぼぉっとしている。
これぢゃぁ他の人と同じものしか書けないじゃないか。と自分の創作性のなさに絶望するのである。
何がアフロディッテだ。薄/馬鹿/下郎にもなれやしない。
アイデアが泡のように浮かべばいいのであるが、飽きたり暇を感じるたびに浮かぶのは恥ずかしながら煩悩ばかりなのである。
煩悩の魔羅をその死神のような鎌で切っては捨て切っては捨て、その泡から美しいアイデアや女性が…などという新しい煩悩が無限螺旋を描いているのである。
あー全くだ。そうだ気紛れに散歩をしよう。
どうせできないのだから、思い切って別のことをするほうがいいのだ。
実際に桜を見にでも行くとする。
適当なことをする時に限って、空は仰々しいほどに青い。
陽気が皺だらけの肌をさする。
近所の土手の桜もさることながら、少し歩いて遠出した2、3隣の町の公園はすごい。
大満開。このご時世ではなかったら、知人でも呼んで春真っ盛りの中、酒にありつくのだが…
この作品を伝う上でこの情報はいらないのかもしれないが、近2、3年程については、なるほど花見の人も少ないわけである。
それでもそんな人間の都合は無視するかの如く、今年も桜は咲いている。
私が今、見ているのはその町で一番立派な桜。ソメイヨシノ。
人の都合で作られたクローン種。
思わず見惚れるが、その木の根元に気になるもの———いや、人というべきだろうがいた。
妊婦だった。
大きな木に寄りかかって眠っている。いや?意識がないのか?
一人のようだ。旦那らしき人は見当たらず、周りには私以外居ない。
一大事になるかもしれないと思った私は眠っていることに憚らず、声をかけた。
「あの?大丈夫ですか?」
女性はゆっくり目を覚まし、落ち着いている様子で私に話しかけてきた。
「すみません、ありがとうございます。ところで…もしよろしければ私の話を聞いていただけませんか?」
「はい?」
状況が全く読み込めず、私は面食らった。
だが、それと同時に女性に対してなぜか煩悩の一部が遡上した。そしてなぜか昔から知っていたような気がするのだった。
春の陽気に包まれた二十代後半ほどの黒髪の、とても大人びた艶めかしい様に圧倒された。
私は白髪髭をたくわえた、もう枯れてもいい齢の大人だ。そんなことは考えてはいけない、鎌で樹を切断するイメージで落ち着かせようとした。が、想像に呆気にとられる間で立ち上がっていた女性に手を引っ張られ、その流れでベンチに座って話を聞くことになった。
「あの桜、夫が埋まってるんです。この子の父親」
そう言いながら彼女は自分のお腹を摩った。
私はただただ聞き続けることのみだった。
話は続く。
「本当に身勝手な人だった。彼とは大学からの付き合いで、そのまま結婚したんです。それでこの子がお腹の中にいる、これからだなぁって時に、失踪したんですよ…」
「それで、なんでこの桜にいると?」
つい口が滑った。聞くからに巻き込まれれば碌なことにならなさそうな話なのに、おしゃべり好きな老人というものは首を突っ込みだがってしまうのだろう。
「私が埋めたからと、言ったらどうしますか?」
「!」
言葉が、出なかった。
そこに狂気性を孕ませていたからだ。同時に、私の個人的な偶然(執筆中の自称三文小説)からの連鎖的な恐怖が枝のように伸びていった。
私の空想は現実に匹敵する形でその花を裂かせようとしているのだ。
「いえ、ほんの冗談ですよ」
ほっとした。空間の密度が解かれる。
瞬時に強張りが緩んだ私の顔を見て、彼女はふふっと微笑を浮かべた。
しかし、ここでさらに疑問が浮かぶ。そんな危うい冗談をするのかだとか結局事の詳細はどうなのかと。
より話に没入したい気がした。
好奇心は人を殺すのだろうが、私はいつ死んでも悲しむ者はいない故、自己満足で終わってもいいのだ。
「何故?」
老耄の嗄れた声が疑問を投げた。
「本当は、どうせなら私がそうしたかったんです。そう言う皮肉です」
…思うに、梶井氏は根の国にとても近しい人間だったのだ。
そして女は語る。自身の生い立ちから。
自分は妾の子で、時代ハズレの契約でどこかのオヤジに売り飛ばされる予定であったと。
大学卒業と同時に売り飛ばされるはずだったにも関わらず、後見人が失踪して有耶無耶になったこと。
そしてさっき語ったように付き合っていた彼氏とその後に結婚したこと。
極め付けはその彼が女が妊娠中にも関わらず、よくわからないメモを含んだ遺書を遺して消えたこと。
遺書にはメモ以外に謝罪とこの公園の桜の木下に自分が埋まっていることが書かれていたそうである。
「警察には?」
「相談して掘ってもらったら埋まってました。でも遺体の腐敗が進んでどうにもできなかったので埋葬した骨以外はそこに今も溶けているんです」
いかにも手の込んだ自殺である。そこまでして男の行動にはどんなメッセージ性があるというのか…
いや待て。自分のロジックにおかしい部分を見つけた。自分から埋まるのは実に無理がある。
つまり誰かが埋めたのか?!
メモを考える前にそこを重点的に考えるべきではないか。
「これは…自殺じゃないように思います…その線は警察の方は何と?」
「一時はその可能性が大きかったのですが、遺書は直筆でしたし、桜の下の土壌が柔らかく、中から後で固めたような形跡とスコップも埋まっていたのでやはり…」
「うーん。これまた微妙ですな…それでメモだけが謎のままと」
「そうです。これなんですけど…」
そういってスマートフォンの画像を何枚か見せてきた。
全く、便利な世の中になったものだ。情報は溢れんばかりに、かつ一瞬で入手できてしまう。恐ろしい。私が一生懸命に頭を捻って浮かび上がらせたアイデアだって電子の海には転がりまくっている可能性だってあるのだ。
そんな僻みを丸めて数秒ほどまで端末上のメモを傍観していた私だったが、思わず鳥肌がたった。
どう見ても私の過去発表した小説の中にあるトリックと仕掛けが似すぎているからだ。
なんと悪趣味な。
「突然おかしい質問をするんですが、その…旦那さんはミステリー小説がお好きで?」
「私が知る限りあまり読書をしているところは…」
そうか…ますます怪しい。これはやはり他殺なのではとの見解が強まる。それでもなお私の小説を実際の犯行に利用するなど断固として許したくはないのだが。
しばらく黙っていたが、解読はできそうだったので彼女に解説する。
「これはおそらく、一種の暗号でしょう。えーっとなになに?」
と。私は黙りこくった。一通り読むために少し考える。
「ほうほう…そう言うことですか」
「どういうことですか?」
「これは有名な推理小説の中にある暗号にそっくりなんですよ。」
「暗号?」
そうやって覗き込む女の横顔は美しくどうも霞がかかったこのように白ボケしていたような気がする。
「…どうかしましたか?」
「いや、つい春の陽気でね…」
顔を覗き込んでいたとは言えまい。
こんな年になっても好色なのは寧ろ恥ずかしいことなのかもしれない。周りには元気だからいいと肯定する人もいるが、世間体でいえばあまりいい顔はされないだろう。
「とりあえず続けましょう。おそらくですがこれはアルファベットを数字に変換するものです」
スマホを指でさして解説する。
この時、すごく早口で喋ったのを覚えている。
「ヒントの文の一行目は特に最終的にはシンプルなローマ字であるという解釈ができ、二行目はだいぶ物騒ですが、愛が飢えたときに皆殺しをするから、3、7がA、Iになります。abはそのままだからここでAは3より、Bがどこに対応するか見ましょう。サクラは39だから、これをかざす。つまり当てはめると9はBになっていますね。残るものは後から3つ飛びますからAが3なら3がかかっていくことになりますよね。だからBは9です。ただそこにランダム性を持たせるために割り算のあまりの数で4や5を絞っていきます…」
「な………なるほど…」
彼女は苦笑いをした。多分頭にハテナが浮かびまくっていることだろう。
流石にこれではただ私がオタクのように喋っただけになってしまう。それでは迷惑だろう。
結論だけ言うことにした。
「つまり暗号はこうなってると思います」
『わたしのあいするひとへ
ただきみにはあやまることしかできないがこれはしかたのないことだったんだ。
だからせめてみてくれまちでいちばんおおきなさくらのねもとにぼくのきざんだものを』
「見て…見ますか…?」
彼女は黙って頷いた。
私は恐る恐る彼女を介抱し、ゆっくりと立ち上がらせた。
彼女の体に触れたがもう何も感じない。私に色欲はもうなかった。なぜならそれすら寄せ付けない大きな愛を、私にとっては猛毒を見せつけられる気がしたから。
暗号が示す通りの、彼が埋まっている桜の木の裏の根本付近へいくと、数字の刻まれた板が隠れるようにして杭で打たれていた。
05042102
202226222220010221221422250204262206200125062022212208222504
(これからもずっと愛してる
きみがしあわせにくらせるようにいのっている
ぼくのことはわすれてほしい)と。
「それだけ…」
「それだけかもしれません。ちっぽけかもしれません。それでもきっと、彼はこのメモに在りかを遺したんですよ。それでも愛したいと思った証を。桜の木に刻んだ、あなたと生きた証を」
「生きた証…?」
「そう。生きた証」
私は彼女の胎を見た。
うまく飲み込んだように、噛み締めたように目を瞑ってから彼女は声を振るわせた。
「それでも自殺なんてすることないじゃない…!」
彼女は嗚咽を漏らして泣いた。私は震えた手で背中をさすることしかできなかった。
やがて落ち着いてから私に目をやって口を開いた。
「…ありがとうございます。落ち着きました。これで私も彼を少しは許せるかもしれません。そうだ。お礼にこの子の名付け親になっていただけませんか?」
とても忍びなかった。それは私を縛る枷にさえ感じた。
「いいのかい?こんな私で」
「はい」
「そうだな…」
さうさうと風に揺られる花片たちを見上げて半ば無意識に抽出する。
「そうだな、シンプルに『桜』なんかどうだい?少し君には因縁染みた名前になってしまうが…」
「いえ、確かにそうかもしれませんが、私にとってはとても大切な名です。ありがとうございます!」
彼女はスッキリした顔をしていた。
私にはとてもとても遠い感情だ。
「うっ痛っ…」
そして突然彼女は顔を歪めた。
お腹を痛そうにしている。
「大丈夫かい?!すぐにタクシーを呼ぼう!」
その時の己の声に7割の本気の心配と3割のわざとらしさが含まれていたに違いない。
タクシーで病院に連れて行ったあと、彼女にお礼を言われる前に私は失せた。
これ以上関わっても彼女にとって厄介なことになりかねないし、そんな資格はないからだ。これは私自身の願いでもある。理由は私の中で形になりつつあった。
そして徒歩で帰路に着く。人間は歩く時、考える。哲学をする。
例に漏れずさっきのことを整理した。
実を言えば彼女にはあのメモについて大きな嘘をついた。
今だから声を大にしてハッキリ言える。
そもそも遺書で書いてあるようなことが刻んであるはずがない!
そしてアレはあんな出鱈目かつチープな法則で解くものではない!小説のトリックには詳細があるのだ。
ところで突然だが、私の例の小説のファン界隈では読んでいる途中で琴に関連するとだけ気づくようでは三流と言われ、暗号の表すものが有名なサクラサクラという曲であり、訣別・降伏を表したものと推理するまででは二流と言われるらしい。
では一流は?
旧軍に使われた紫の名を冠した暗号のオマージュと気付き、その真のメッセージを読み取ることだと言われている。実際これがその小説の物語の核心にもなっている。
さて、答え合わせをするのならば、まずアルゴリズムを把握することにある。本来また、私の作品の作中では琴線に対応したプラグコードやスイッチの駆動モードなどちょっとした小細工があるが、作中と全く同じ規約で解読できてしまったため、小説のストーリーやどのように翻訳されるかなどの毛細な説明は極力省こう。思考が絡まってしまう。
とにかく、先ほどの2枚のメモを思い返そう。
ヒントらしき紙の一行目。
『殊におかないときローマ道はうまれる』
これは琴において半音調整することを意味するオかそれをつけないときにローマ字で表されると解釈できる。
琴の音階の一〜巾の13個をオまたはそれらをつけないの組み合わせによって2×13=26通りに表す。ちなみに余計だが、13はプラグコードの使用上都合の良い数字である。なぜなら小説中の装置の仕掛けのプラグコードは全52個あり、13の倍数であるからだ。
おっと、脱線しすぎたな。表に戻ろう。
この仕様は二行目の『愛飢えよ=皆殺しオ為』で確信に変わる。
母音のAIUEYO=三七五六四 オ為に対応する。
これに続き
『残ったのはαβそのままに順はオ巾、オ二、オ八、八、オ一、オ九、斗、四、五、十、オ六、オ斗、オ十、為、巾、九、六、オ三、オ四、オ五、オ七』
であるからAIUEYOを除いたものは別にαβ=アルファベット順に並べる。
ややこしいので整理すると以下の通りである。
このように対応すると考えられる。
そしてここからがもっとややこしい。
『サクラサクラをかざしたら』、これは琴の名曲サクラサクラをルールに適応するということである。
よって、
となり、『サクラサクラをかざしたらαβの順の数』に従い、これに残ったアルファベットを順に並べる。加えて、それ以外を『残るものは後から3つ飛び、あまりものは飛んだ場所に戻る』で2回並べ替える。
つまりこうだ。
上の8つは1回目の並び替えで終わるが、それ以下は9〜26を3つごとずらし、VXZは9,10,11に対応させているはずだ。
ということで、暗号に戻ってこれを考えると、
になる。
ここまではいい。
なんだかディスられている気もしなくはないが。
全てが、私の桜の枝のように伸びたシナプスたちが、一堂に繋がったのはここからだ。
桜の木の根元に隠れるようにくっついていた板に彫られていたものを解読すると…
間違いない。彼らだ。彼らによって私は暴かれたのだ。桜に埋もれようとするのをよしとしない彼らによって。
一人はサクラサクラからこのネタを引っこ抜き、私の記憶を抉る…そんな粋のあることができる人はだいたい小説制作時に調べものを手伝い、そして私のスキャンダルに関わった彼ぐらいしかいない。
自分の推理の途中で気がついてしまった。
少しずつ少しずつピースが確実にハマって逝く。
そのパズルの完成図は明らかに私の過去からの因縁を物語っていたから、本当のことを言うわけにはいかなかった。
途中からずっと私は凍てついて震えていた。
そして最後の木に彫ってあった一行で真相が確定してしまった。
だが、もし仮に犯人、いや、自殺を幇助した者の正体:彼女の後見人である私の元編集担当が見つかったとしても彼はこの世にいない。
なぜなら彼はついこの前ウイルスの肺炎による合併症の結核で命を落としたのだから。
そうだ。すっかり忘れていたよ。輪廻から乖離したい面持ちだった。私は花見をする人らと同じ気持ちになるつもりはなく、永遠を独り占めしたい残酷な人間だったのだよ。
そして彼女が語っていたことが有耶無耶になった原因は…
彼女の旦那はかなりの切れ者で正義感の強い男だったらしい。当時、彼女の未来の旦那に問い詰められた元編集担当は何を怖気付いたか、このことを世間にバラすと私を脅してきたのだ。
例え顔出しを一切しない作家であってもこのスキャンダルがバレてはいけないと思った私は、圧力をかけ、証拠を全て片付けてから彼を放逐した。当然彼の人生は私の手によって滅茶苦茶になった。
それがこんな形で、まさかこんな偶然みたいなもので、君たちは復讐しようとしていたのだね。
もしさっきの彼女すらグルなのだとしたら私はいい加減死んだほうがマシなのかもしれない。
後見人だけじゃなくて私と接点のない旦那すらこの計画に参加するなんて全くもって狂ってる。
かといってそんなことはないか。私はすでに屍だ。
そんな歪んだやつの目に見えるものは真っ直ぐであっても曲んでいるに決まってる。
なるほど…
淫れ咲く桜並木に身を消しながら、私は罪とも呼べる真実とこの老いに勝るとも劣らない情欲の正体を理解したのである。そしてやっと、神秘の謎から解放された後の幻光が眩しさの後退りとして影を落としたのだ。
アイデアなぞ、どおでもよかったのだ。
ただ私の老獪なドス黒く腐った屍体のようなエゴを桜のように大成せよと、心血を注ぐようにしてドロドロといっぱいに溢れさせればよかったのである。
あの女と何処かであったことがあったように感じたが、それは私が手に入れようとしてものだったからだ。
しかし、私は久しぶりにその女の顔を舐めるように見ても気づかないほどに、どおでもいい玩具としか思ってなかったのだ。
それに気付いたとき、彼らの茶番を認めるしかなかった。
君たちの勝ちだ。私が咲かせて見たかったが、君のものになったお陰で狂人のおかしな目線でもはっきりと理解できるくらい立派な桜が咲きそうだよ。と。
枯れている私のものになっていたのだったら、きっと生まれるべき桜も、死んでいただろう。
うん。出かけるまで書いていた拙い推理小説の原稿はすべて消してしまって今日の話を記そう。
私からあの女を盗った勇敢な若者への弔いに。
そして私の懺悔を聞いてくれ。
この話を贈る。
——やはり桜の木の下に、埋まってゐる君へ。
ほんとに主人公は薄馬鹿下郎にもなれやしない屑野郎でございましたなぁ。果たしてほんとに彼は埋まっているのでしょうか。お付き合い頂きありがとうございました。また何処かでお会いしましょう。