四 助けるお話
ここ最近、俺の生活には決まったリズムがある。
毎朝日が昇る時間に起きて、顔を洗い歯を磨いたら愛用の木刀を握り、外に出る。朝ご飯の時間まで一番基本の真正面の振り下ろしの素振り。朝ご飯が終わると、さっきまでやっていた真正面の振り下ろし(唐竹割り)を含め、右袈裟、右逆袈裟、左袈裟、左逆袈裟、右薙、左薙、逆風(切り上げ、逆唐竹)突きという、刀の基本の型九つの素振りを数時間ほど、父さんが居るときは見て貰いながら、父さんが居ないときは一人でやり続ける。その後は元の世界で刀を習っていたときに教えられた演舞のような動きを模倣してやり続ける。ただひたすらに動き続けることで、刀を振ることに対する違和感の削除、そして狭い場所でも出来る体力作りが目的だ。そして大体お昼となり、お昼ご飯を食べた後は少し昼寝をして、家の書斎にある本を読みふける。その後夕飯を食べ、お風呂に入り、父さんと母さんと一緒に寝る。まだ若いからか、両親ともにソーッと起き出し、別の部屋に行くこともあるが、それはまぁしょうがないことだろう。
これが俺の一日だ。この世界にはスマホもゲームも無いので誘惑が殆ど無く、ついでに友達もいないので集中しやすかった。こう考えると少々悲しいがヒーローになるためだ、少しは仕方無いだろう。ちなみに時々ステータスを見て成長度を確認しているが、基本的に1ヶ月で数値が1増えるかどうかと言ったところだった。
と、そんな感じに生活を毎日送っていたわけだが、今日は少し違った。
お昼ご飯を食べたあと、本来なら心安らぐお昼寝タイムだったのだが、寝付きが良くない。
仕方なく、体を動かせば眠くなるだろうと期待して、傍らの木刀を腰に佩いて、庭に出る。
ここまでなら珍しいことではない。5歳児とはいえ寝付けないことくらいある。
問題なのはこの先だった。
「あれ、確かフィンさん、だよな?」
少し前の村周りの時に顔を合わせたフィンさんがこちらに向けて走っていた。何も道具はもっておらず、肩を大きく上下させながら走っている。その様子だけでただごとでは無いことがはっきりとわかった。
「ネメシア君ッ!! アイリスを見ていないかいッ!?」
フィンさんは辿り着くなり、荒い呼吸をそのままに話しかけてくる。
「いえ、見ていないですけど……。どうかしたんですか?」
「アイリスが居ないんだッ!! 何処にも!!」
相当焦っているようだ。ああクソッと頭をかきむしり、相当取り乱している。
「ちょっと落ち着いてください。何か心当たりは無いんですか?」
「ああ、ありがとう。そうだな、一旦落ち着いて……ッ!?」
そこで、フィンさんは何かを思い出したように顔を上げた。と思うとまた頭を抱えて蹲る。
「そうか……。私のせいだ、私のせいで……!!」
「何かわかったんですか?」
「森だ……。薬になるものが森にある、と口を滑らせてしまったんだ……」
フィンさんはあぁぁ、と頭を抱え、一つ思いついたように顔を上げた。
「そうだマックさんが何処にいるか――ネメシア君?」
そう呟くフィンの周囲には、既に誰の影も無かった。
―☆―☆―☆―
『森には魔物が出る。いいかネメシア。絶対に森には入っちゃ駄目だぞ』
そう父さんには口酸っぱく言われていた。だけど、ごめん父さん。その言いつけ護れないや。
オプファーの森、そう名付けられた森の入り口に立ちながらそう思う。時間がない。急がないと。
『英雄たれ』
さっきからそんな言葉が頭を過ぎる。だが、それは決して嫌な物では無く、逆に体にまるで力を与えてくれているような、そんな心強い感じだった。心なしかさっきから体が軽い。いや、恐らく本当に軽くなっているのだろう。
さっき以上に軽くなったように感じる体で走り出す。瞬く間に森の入り口を突っ切る。幸いなことに昨日は雨だった。ぬかるんだ道が、彼女の進んだと思わしい道を教えてくれる。その道を全力疾走でたどりながら自分のステータスを開く。
『Status
《Str: 80》
《Vet: 61》
《Agi: 121》
《Int: 72》
《Ive: 68》
《Luk: 10》
Curse
《英雄願望》《英雄たれ》《無限の才覚》
Ability
《鑑定Lv,3》《隠蔽Lv,6》《剣術Lv,1》《刀術Lv,3》』
……ん? え、何これ。いくら何でも伸びすぎじゃなかろうか。
幻覚でも見たのか、と眼を一度擦り再度見るもその数値は一切変らない。どうやら本当にこれが今の俺のステータスの様だ。速力などを考えると死ぬ直前の俺とは比べものにならない。陸上競技で十分世界上位……いやそれどころか世界記録を出せるだろう。
5歳児にして既に破格のステータス。チートも夢じゃない。
まぁ、実際問題考えるとどうやらカース欄だけで無くステータスも隠さなきゃならないようだ。うーん……かなり不安が残る。
が、今はそんなことは置いておこう。結構考えといて何だが、今は救出に専念しよう。高いステータスは正直とてもありがたいわけだし。
『英雄たれ』
そう考えた瞬間、頭にさっきと同じ声のようなものがよぎる。その瞬間さらに足が軽くなる。
ぬかるんだ足下に残る小さな足跡を必死に追いかける。きっと間に合うはずだ。絶対に助けてみせる。前世では何も出来ないただの子供だったけど、ここでは違う。違うんだ。
『英雄たれ』
―☆―☆―☆―
おくすりどこかな?
そう思いながらだろうか、アイリスは草木の藪や木々の隙間を注意深く観察しながら森の中を歩いていた。
一人で心細いのと、何度か転んだりしたのだろう作った擦り傷の痛みで眼に一杯の涙を浮かべ、それでも泣かないように堪えながら頻りに探している。
そこから数分ほど歩いただろうか。アイリスは一本の木の前でその表情を輝かせた。少ししてぬか喜びは出来ないと気を引き締めたのか、緩く弧を描いていた口元を真一文字に引き締め、肩から提げたバッグを開ける。
ちなみに、その場にフィンを筆頭とする子煩悩な大人達がいたら全員が全員口元を緩めるほど微笑ましい表情の変化だったことは一先ず置いておくとしよう。
「えっと……このおっきい本の……このページ……あった」
独り言を呟きながらバッグから取り出した図鑑のような分厚い本を苦労しながらめくり、やっとお目当てのページを見つけたのかそのページに書いてある挿絵を自分の指で指し、確認して顔を上げる。その視線には、目の前の一本の木についている果実を見ていた。
「……。うん!! これだ!! やったやった!! これでママを助けられる!!」
その場でアイリスは律儀に本を一回仕舞い、バンザーイ、と両手を挙げながら喜ぶ。本来、こういう森で大声を上げるのは非常に危険なのだが……このアイリスにその知識は無かった。例えあったとしても、その歓喜を抑えることは出来なかっただろう。良い意味でも悪い意味でも子供、と言うべきだろうか。
だが、その数秒後、アイリスは残酷な事実に気付いてしまった。
「……あ。でも届かないぃ……」
ぴょんぴょんと跳んでみても、思いっきり背伸びして手を伸ばしてもその果実には手が届かない。
うー……と悲しそうに唸ると、アイリスは良いことを思いだしたと言わんばかりに表情を明るくし、次いでそろーっと辺りを見渡した。
「……パパから使うなって言われたけど……。誰も見てないしいいよね」
そう呟いてアイリスは一回深呼吸してなにやら果実に集中し始める。そのまま数秒ほど立ったところで、アイリスは果実に指を指し、「えいっ!!」と可愛らしい声を上げる。
すると、どうしたことか果実のついた枝がひとりでに折れた。本来ならそのまま落下し、グシャッとつぶれてしまうであろうそれは、しかしながら重力に逆らって少しの間浮いてから、ふわふわとまるで綿のように漂い、アイリスの手に収まった。得意げに一つ頷き、アイリスはそれをバッグにしまい込む。
さぁ帰ろう、とアイリスがくるっと反転した瞬間。
ガサガサ、ガサガサ……。
瞬間的に音がした茂みの方へ振り向く。
「な、なに……?」
バッグをぎゅっと、それでいて中の果実を潰さないように抱きしめながら、アイリスは音の発信源の方を観たまま、少しずつ、その場から離れようとする。
だが、茂みの中に隠れていた存在もそれを許してはくれない。
見つかったことを察したのだろう。隠れているだけ無駄だとばかりに、その茂みから2匹の生き物が飛び出てくる。飢餓状態の子供の様に四肢は細く、しかし腹部が膨らんだその生物は、全身が緑色に染まっていて、顔は醜く、耳はとんがっている。大きさは120cmくらいだろうか、少女よりも20cmほど高い。腰布以外に衣服と思しき物は身につけて居らず、右手には錆びたナイフを握りしめている。
その姿を何かの生物に例えるのならば、きっとそれはゴブリンと呼ばれる架空生物だろう。
ここにアイリスと同い年の、何処か他の男の子と違う印象を受けたあの少年がいたら、その本から学んだ知識でゴブリンと特定するのだろうが、アイリスにはその知識は無い。
そんな中でアイリスにも分かるたった一つの事実は、その生物は自分と間違っても友好的では無い、ということだった。
ゴブリン二体は、アイリスを見ながら何かを話すように何やら声を上げ始める。が、それも直ぐに終わり、1匹がアイリスに向かって歩みを進める。
その歩みは実にゆっくりと、だが確かに間を詰めていく。一歩一歩間が詰められていくごとに、アイリスは恐怖を覚え、段々体が震え出し、下がろうとする足の歩幅すらも段々小さくなっていく。
そんなアイリスの姿を見て、目の前の醜悪な生物はゲッゲッと嗤うように音を出し、その口は弧を描く。
楽しんでいるのだ。目の前の生物は自分を追い込んで楽しんでいる。幼心にそれが理解できたのは、純粋にこの少女が賢かったからだろう。同時に少女は背中を向けたら飛びかかられることも理解している。
泣きたくなるが、それは目の前の生物を喜ばせるだけなので涙は目の縁に浮かんでもぐっと堪える。
だがそんな健気な姿が目の前の生物には逆にそそる物があったのだろうか。その生物は下舐めずりを一回すると、おもむろに錆びたナイフを掲げる。
脅かしている。そうは分かっても、恐怖を押さえ込むことは出来なかった。
「ひっ!! ぅ……うええええ……」
小さく悲鳴を出し、この場にいない誰かを探し始める。すなわち、両親を。
それが周囲にいなく、この窮地にいるのは自分だけ。
そう分かると、少女は最早理性も何も吹き飛んだ。
「お、おかあさーーーーん!! おとうさぁぁぁああああああん!!」
そう叫びながら、ついに化け物に後ろを見せて走り出してしまう。
「ゲ、ゲゲ!!」
それを化け物達は嗤いながらつかず離れずの距離でついてくる。後ろを振り返った少女はその事実に気付いて一呼吸漏らし、更に足の回転を速めようとするが、それが仇となった。
……前提として、ここがどこだか明記する必要があるだろう。今、少女と化け物が命がけの追いかけっこをしているのは、人の手が入っていない森の深部。当然、道は舗装は勿論、整えられてすら居ない。でこぼこな上に所々木の根っこが飛び出ている状況だ。そんな状況になれていない少女が、足下も見ずに全力疾走すれば勿論……。
「キャッ!!」
少女は足下の木の根に気付かず、そのまま転んでしまう。少し賢いといえどまだ5才。受け身の取り方など知るはずも無い。結果、その勢いのまま転び、腕や足に擦過傷を作る。
「うぅ……」
泣きべそをかきながら、泥だらけになりながら、痛みに耐えながら、少女は這う。立ち上がるためか、少しでも遠ざかろうとしているのか。しかしそれは、僅かな延命措置にすらならなかった。
少女の頭上に影が差す。それに気付いた少女が倒れたまま振り返ると、そこにはニタニタと嗤っている先ほどの化け物二体。すでにもう真後ろに立っているのだ。その手に持つナイフを振り下ろせば少女の命を散らせる位置に。
化け物は口角を引き上げたまま、ナイフを振り上げた。今度はさっきの脅しとは違う、捕らえた獲物を殺すためのもの。
「助けて……お父さん……」
少女は呟く。自分にとって一番頼りになる存在に助けを求める。だがその声は恐怖で掠れ、その言葉はもはや、目の前の化け物にしか届かない。化け物はそれが助けを乞うモノだと知っているのか、ひときわ大きく嗤った。
「助けて……」
誰も助けてくれない。父も誰も来てくれない。そんな絶望が幼い少女の心を満たす。
『希望の花……うん、良い名前だ』
唐突にそんな父の言葉が脳裏に過ぎった。希望という言葉を冠する花の名前のあの男の子。子供なのに木で出来た棒を腰に吊るしていた子。
『初めまして!! アイリス、だったよね!! 』
隠れていた私に手を差し出した子。凄く明るかったのを覚えてる。
『アイリス、あのおじさんはね、マックさんと言って恐い人や魔物がこの村に入ってこないようにしてくれてるとっても強い人なんだ 』
『へー……。じゃああの子もつよいの?』
『そうだね。きっと他の子より強いから、アイリスももし、何かあったらあの子にお願いしてみるといいかもね。といっても、勿論パパを頼って欲しいけどね!!』
あの親子とすれ違った後、父と交わした会話が頭を過ぎる。勿論、フェイは他の子に虐められたりしたら、と言う意味で言ったのだが。
そうだ、まだ助けてくれるかも知れない人がいる。少女の心に一筋、希望が指す。確か、あの子の名前は――
『――俺はネメシア。よろしく!!』
ネメシア君だ。
目の前の化け物は一頻り嗤って満足したのか、その笑みを引っ込める。
嗤っていた事で下がっていたその手を再度振り上げ、ナイフの切っ先を少女の胸に向ける。
それでも、不思議とさっきまでの恐怖は薄れていた。希望が一筋とは言え指したからか。それとも一周回って冷静になっただけか。
だから少女は上体を起こし、そのナイフが振り下ろされ少女の体に食い込む前に、深く息を吸い込み、そして――
「助けてッッ!! ネメシア君!!!!」
大きく、大きく叫んだ。
刹那、彼女の耳に届くのは金属製のナイフが自分の身に食い込む音――などではなく。
「ギギィッ!?」
ゴシャッ!! という肉がつぶれる音、ズダッと地面に重い何かが降り立った音、そして少し遅れてあの化け物の悲鳴だった。
恐る恐る、少女は声を振り絞ったことで丸まった体を正し、視線を上げる。
そこにはあの時腰に下げていた棒を振りきった姿勢の少年の姿があった。
その少年はゆっくりとその姿勢を戻し、真っ直ぐと立つ。その立ち姿は幼いながらも力強く、悠然としていて、まるで母から聞いた物語の中の英雄のようだった。
少年はゆっくりと振り返る。その顔は、あの時と同じ、見ていると何処か落ち着く、花の様な笑顔だった。
「呼んだ? アイリスちゃん」
「うんっ」
「あはは」
少年は少しだけ、声を上げて笑った。それはやっぱり、あの化け物の嘲りのようなソレでは無く、本当に安心するもので。
気がついたら、少女は嗚咽を漏らして泣いていた。その少女の姿を見て、少年は改めて前の化け物を見据える。
「もう、大丈夫だよ。――助け《・》に来たから」