01.プロローグ:生えないもんだな
カシャカシャカシャ
シュー!
静かな朝の洗面所に響き渡る、スプレー缶を振る音と、それを吹き付ける音。
半袖短パンにスリッパ姿の若い男が、洗面台の鏡の前で、スプレーを頭に吹き付けていた。
「この育毛剤、使いやすいな。液だれしにくい」
そう呟きながら、両手の指先で丁寧に頭皮を揉んでいるのは、工藤蓮。
職業は、メーカーの営業。
とある一点を除けば、ごくごく普通の若者である。
ちなみに、とある一点とは、
「やっぱ、そう簡単には生えないか……」
年齢の割に、頭がかなり慎ましいことであった。
慎ましさ(薄毛)には、大きく分けて3つの種類がある。
前髪が剃りこまれたように後退する、『M字型』。
M字型の進化系で、剃りこみが後退し、前髪部分が全滅する、『U字型』。
そして、キリスト教伝来でお馴染みのザビエルで知名度を上げた、つむじが拡大する、『O型』。
蓮は、頭頂部分が全体的に薄くなっている、『M字型』。
横から髪の毛をググーっと持ってきて固め、デコがちょっと広めな人くらいに見せている。
実を言うと、つい最近まで、彼は割と開き直っていた。
「確かに年齢のわりに薄いが、この頭も悪いことばかりじゃない!」
トラブル時、謝罪のため深々と頭を下げたお辞儀は、相手の怒りを半減するパワーがある。
デコが広いことをアピールすると、すぐに顔を覚えてもらえる。
営業ツールとして見れば、なかなかの攻撃力だ。
彼は前向きな男であった。
しかし、事件が発生した。
好きな子ができたのだ。
早川七瀬。
同じ営業部の後輩で、ショートカットの似合う運動好きの明るい子だ。
「ぜひ彼女とお付き合いしたい」
彼女に一目惚れした蓮は、三カ月かけて、会社で地道にアプローチ。
とうとう休日デートに誘うことに成功した。
「や、やった!」
思わずガッツポーズを決める蓮。
しかし、悲劇が襲った。
行きたい場所を尋ねた蓮に、彼女が輝くような笑顔で、こう答えたのだ。
「もうすぐ夏ですし、海かプールに行きたいです。それか、絶叫マシンとかもいいですね!」
彼は凍りついた。
全て、ハゲの天敵のような場所じゃないか!
そして、絶望した。
自分は、好きな女の子を行きたい場所にも連れていけない男なんだ、と。
今まで「ハゲは悪いことばかりじゃない、良いところもある」と言い続けてきた彼が、はじめてハゲと向き合った瞬間だった。
「俺みたいなハゲと彼女は不釣り合いだ」
絶望した蓮は、彼女のことは諦めようと思った。
しかし、彼女の笑顔が脳裏をチラついて、どうしても諦められない。
それで、今更ながら、高額な育毛トニックを大量に買ってきて、毎朝マッサージしている訳だが……。
「生えないもんだな……」
頭皮を指先で軽くトントン叩きながら、彼は深いため息をついた。
まあ、まだ初めて一週間ちょっと。
それで生えたら誰も悩んでいないとは思う。
でも、一本くらい生えたっていいじゃないか。
変化なしはあまりにも辛い。
増毛法(※1)も考えなくはないが、カツラや人工毛にはどうも抵抗がある。
「塗ったらすぐにフサフサなる薬とかあったら、借金してでも買うんだけどな~」
多少ヤバくてもいいから、そういう薬はないだろうか、と、やや真剣に考え始める蓮。
――と、その時。
いきなりスリッパを履いた足元が光りだした。
ブワッ、と、魔法陣のようなものが浮かび上がり、洗面所が一気に明るくなっていく。
「な、なんだこれ! 一体何が!?」
慌てふためいているうちに、光がどんどん強くなっていく。
目を開けていられなくなり、思わず目をつぶる蓮。
なにが起きているか分からず、パニック状態だ。
――そして、ふっ、と、光は消え。
カランカラン
静まり返った洗面所の床に、高級育毛剤のスプレー缶が落ちる音がする。
そこにあるのは、マッサージ用のブラシや育毛剤ばかり。
蓮の姿はどこにもなかった。
(※1)増毛法:自毛に人口毛を結び付けて多く見せる技術。
本日1話目。
夕方以降、あと2話ほど投稿します。