松葉の不満
「今日は60分間ジョグを行う。 これは基礎体力の向上と走ることに足を慣らすためのトレーニングだ。 昨日のインターバルで疲れた筋肉をリラックスさせる目的もある。 各自、無理をせずにゆったりと走るように」
俺がそう告げると松葉は退屈そうに唇を尖らせていた。
単純なトラックでの練習ということと今更基礎トレ、というような空気を放っていたが中学時代までの速度が陸特で通用しきるとは思わない。
彼を含め陸特には優秀な生徒が多いだけに基礎となる体力をじっくりと養っていかねば後々のトレーニングでも足を引くことは分っていた。
「松葉、君は走ることは慣れてるだろうが体力は中・長距離の基本だ。 これから陸特で訓練していく以上、今までよりも体力をつけていく必要があるだろう」
「はあ、つまんねーの。 せんせって皆、そういうことしか言わねえのな」
「はやて! すみません、教官……。 それじゃあ、走ってきます」
反抗的な態度を取る松葉に対して田井中はいさめるように声をあげ、トラックへと向かっていった。
既に寄木と沢口も移動しており、小川、田井中、松間と続く形でトラックへと向かった。
皆、流石に走り慣れている。
昨日の1000メートル走では疲れを見せていた沢口もジョグであればさして息を乱す様子もなく、冷静にトラックを走っていた。
時計を確認してから走る生徒たちに視線を移す。
それぞれのペースを守ったジョグを行っており、無理に速度を上げようとしたりするものもいない。
全員、ある程度は走り慣れているという印象だ。
しかし、30分もしたところから明らかに沢口のペースが落ちていた。
他の四人に比較して沢口には圧倒的に体力がないことは分っていたが、流石にこれでは今後のトレーニングにも問題が出てくるだろう。
「沢口は体力からだな……。 後の四人は体力面は問題なさそうだが、松葉は精神性だな。 寄木は小柄さからくるスピード不足に注意が必要、と」
スマート端末にそれぞれの動きのメモを残していくと、不意に松葉が体を深く沈めて走り始めた。
「松葉! 何をしている!」
声をあげても松葉は止まらない。
ジョグをつまらない、と言った通り、練習の内容が不満だったのだろうが、これでは他の生徒にも悪影響になりかねない。
驚いた表情でジョグを続けている田井中の前を走って松葉を止めようとするが、速度が上がる松葉に追いつけず思わず俺は拳を握った。
そんな様子を見てか、小川は松葉の走るレーンの真横で一気に加速していった。
上下に激しく揺れる松葉の動きに対し、体を沈めるようにしながら走る小川。
そんな2人の走りように唖然としながらジョグを続ける三人を見ている内に、小川は松葉を抜き去ってそのまま、すれ違っていった。
すれ違う間際、僅かに小川の唇が動いた。
何かを言われた、そう思った瞬間、松葉は目を見開いて怒鳴り声を上げていた。
「ふざけんな!」
松葉の突然の怒号に田井中まで足を止めてしまっていた。
小川の方は平然としながら少し走ってから立ち止まり、そのまま振り返った。
「お前はつまらない。 走っていて楽しくない」
今度ははっきりと小川の声が聞こえていた。
つまらない、そういわれたことに対して起こったのか、松葉は苛立ったような表情をしながら止まっていた。
「松葉だと聞いていたから、楽しいかと思ったが。 俺の地元の人間の方がもっといい走りをしていた」
「うるせえよ! 松葉を持ち出すんじゃねえ、俺ははやてだ!」
「そういうなら、お前の走りをすればいい。 中途半端に逆らって面白くない走りをするのが好きなのか?」
「てめえ!」
「松葉、小川! よせ! 今日はジョグ練習だと言っただろう!」
今にも掴みかかりそうな松葉に駆け寄って俺は彼を止めた。
小川の方は既に興味を失ったように顔を背け、再びジョグに戻っていく。
田井中は案じてこちらに来ようとしていたが、俺は彼にも練習に戻るように告げて松葉へと視線を向けた。
「どうしていきなり走り出したんだ?」
「……別に、つまんねえ練習に飽きた」
「中距離では集中力も重要な素養だ。 特に試合中には」
「だから! そういうのがつまんねえんだよ! 俺は走りたいのに、なんで走るのにルールが必要なんだよ! こんな基礎トレつまんねえだけだし、俺は一時間でも二時間でも走れるのに、なんでやらなきゃなんねえんだよ!」
松葉は食って掛かるように怒鳴っていた。
持って生まれた才能、恵まれた体格、それらに裏付けされた自分の走りへの自信がこういった基本的なトレーニングをつまらないと思わせているのかもしれない。
しかし、だからといって基礎をおざなりにさせる訳にもいかなかった。
「……松葉、少しこっちに来なさい」
そういって松葉をトラックから離れさせた。
松葉は終始不満げな表情をしていて、まだ小川の言葉への怒りが抑えられていないのか歩き方も荒っぽかった。
「俺は、基礎トレをまともにしないまま特陸に入った。 体力も筋力も、地元では通用したものが陸特では通じなかった」
「そんなん、先生がしょぼかっただけでしょ。 俺までおんなじくくりにしないでよ」
「そうかもしれない。 だが、俺はそこで無茶をした。 本当なら基礎トレをすればよかったのに、他の連中に追いつこうとして無理なトレーニングばかりした」
「それで? 骨でもおった? 筋を切った?」
松葉は侮るような笑みを浮かべていた。
実際、地方から来た当時の俺よりも陸特付属中学にいた彼の方が陸特の生徒の実力は理解できているだろう。
しかし、慢心がどういった結果につながるか示すため、俺はジャージの裾のファスナーを持ち上げた。
そこに会ったのは金属のフレームとワイヤーで繋がれた骨格に似た義足だった。
「俺は陸特選抜予選前に深夜までロードワークをしていて、そこで事故にあった。 結果は左足切断。 そんな時間までロードワークをしてたのは、予選が近づいてやっと自分の能力不足に気付いたからだ。 本当ならもっと早くからやっていれば、無理なスケジュールで訓練をしなくてよかったのに、当時の担当教官の言葉を無視した」
基礎能力を無視した結果、帳尻合わせをしようとした馬鹿な結末を聞かせながら、俺はジャージを下ろした。
別段、今となってはこの足を嫌っても隠してもいないが、怪我をした当時の絶望感は今も生々しく覚えている。
自分の左足がなくなった事実に納得できず、病院のベッドから立ち上がろうとして転がり落ちたこともあった。
そして、その全てが自分の馬鹿さに由来していると思うといたたまれない気持ちになったことも覚えている。
「……俺は、体力あるし」
「そうだな。 だが、これから先、越えられない相手が出たら? 今のままで世界の誰より早く走れると思うか?」
「それは思わねえけど」
まだ不服そうにしている松葉を見ながら俺は苦笑していた。
松葉は何も競技そのものを嫌い、馬鹿にしているわけではないのだ。
ただ、基礎トレの重要性は理解しながらも単調な練習というのが嫌いなのだろう。
「そうだな、練習を面白くするということなら俺も色々と考えてみるよ。 陸特は変わった設備も多いし、それなら松葉が楽しめるようなものもあるかもしれないだろ?」
「……ほんと?」
「ああ。 それに、メンバーごとの特性や体力に合わせたトレーニングはいずれ考えるつもりだったしな。 松葉の実力に合わせてトレーニングをやっていこう」
俺がそういうと松葉は少し困惑したような表情をしてから、自分の頭に手をおいていくらか気まずそうな表情を浮かべていた。
「……先生、ごめんな。 練習戻るわ」
そう言い残してトラックに戻っていく松葉を見ながら俺は少し息をついていた。
松葉の反抗的な態度はこれからも注意が必要だろうが、案外話が分からない生徒というわけではないのだろう。
それ以上に心配なのは小川と松葉が今回の一件で対立してしまわないか、ということだ。
それぞれに違う課題を持っているかもしれないが、チームとして訓練を受けていくことになればギスギスした関係にならなければいいが、と俺は小さく溜め息をついていた。